第39話 帝都炎上
終盤になってきました。キャラクターにはそれなりに思い入れがあるもので、書くのも辛いです。
最終話まで一日2投稿(20時、21時)で駆け抜けたいと思います
リオンは、紋章を捨てた。
正確には、ヴァーレンハーフェンの北市場の裏手で、胸につけていた小さな徽章を外し、壊れた石畳の隙間へ落とした。
アルトベルク家の紋章だった。
没落した家の、もう誰も重んじないはずの紋章。
それでも、彼にとっては最後の拠り所だった。
灰鷹隊に入ってからも、リオンはそれを外さなかった。ロビンやレイバーは何も言わなかった。リッカは一度だけ「邪魔じゃないの」と聞き、ローレンスは磨く布を貸してくれた。
その程度のものだった。
けれど、その程度のものを捨てる時、指は少し震えた。
捨てなければならなかった。
帝都へ戻るためには。
貴族としてではなく、逃げ出した兵としてでもなく、ただ一人の民間人として、混乱の中へ紛れるためには。
徽章は石畳の隙間に落ち、煤と泥にまみれて見えなくなった。
リオンは、それを拾い直さなかった。
背後では、チェシー軍の喧伝がまだ響いていた。
帝都は落ちた。
市民が立ち上がった。
皇帝は捕らえられた。
戦争は終わった。
その言葉を聞いた時、リオンの胸に最初に浮かんだのは、勝敗でも、皇帝でも、帝国の未来でもなかった。
エレオノーラだった。
公爵家三女。
ロビンの妻。
身重の女。
今、帝都のフォンヴァルト邸にいるはずの人。
ロビンは北へ行く。
公爵も北へ行く。
ローレンスは、きっと最後まで人を助ける。
レイバーは怒るだろう。
リッカは何も言わずに睨むだろう。
ロビンは、裏切られたと思うだろう。
それでいい。
そう思わなければ、足が動かなかった。
リオンは軍服を脱ぎ、汚れた外套を羽織った。帯剣は隠せる短剣だけにした。灰青色の首布も外した。
灰鷹隊の色まで身につけて帝都へ入れば、死にに行くようなものだった。
だから、それも外した。
だが、捨てなかった。
首布は畳み、内衣の奥へしまった。
紋章は捨てた。
灰鷹は、捨てられなかった。
◇
帝都へ入った時、リオンは一瞬、道を間違えたのかと思った。
門は開いていた。
いや、破られていた。
片側の扉が斜めに傾き、火で黒く焦げている。門衛の詰所は荒らされ、壁には赤い文字で何かが書き殴られていた。
市民万歳。
暴君を倒せ。
貴族に死を。
その下に、帝国兵の死体が二つ転がっていた。
一人は胸甲を剥がされていた。
もう一人は、まだ若かった。口元に血を垂らし、目を開けたまま空を見ている。首に巻かれていたはずの部隊色の布は引き裂かれ、泥の中に踏まれていた。
リオンは足を止めなかった。
止めれば、見てしまう。
見れば、考えてしまう。
考えれば、動けなくなる。
下町は、以前の下町ではなかった。
屋台は倒され、石畳には割れた瓶と血が混じっている。パン屋の窓は破られ、酒場の扉は外され、路地には家具が積まれて簡易のバリケードになっていた。
その横で、男たちが笑っていた。
彼らは武器を持っている。
火薬筒。
斧。
棍棒。
どこかの屋敷から奪ったらしい飾り剣。
服装はばらばらだった。職人の前掛けをした者もいれば、商会の上着を着た者もいる。大学通りの学生らしい若者もいた。かつて貴族街に出入りしていた下級官吏の顔も混じっている。
ただの暴徒ではない。
ただの市民軍でもない。
怒りと理想と恐怖と欲が、一つの鍋で煮詰まっている。
リオンは顔を伏せ、背を少し丸めて歩いた。
貴族らしく歩かない。
騎士らしく見ない。
灰鷹らしく人を助けない。
今は、ただの臆病な男のふりをする。
そうでなければ、たどり着けない。
「おい、そこのお前」
声をかけられた。
リオンは足を止めた。
振り返ると、赤い腕章をつけた男が火薬筒を肩に担いでいた。年は三十ほど。顔に見覚えはないが、身なりから見て商会の用心棒崩れだろう。
「どこへ行く」
「叔母を探しています」
リオンは声を変えた。
少し低く、少し怯えたように。
「南区に住んでいたのですが、家が焼けたと聞いて」
「貴族街へ行く気じゃないだろうな」
「まさか」
リオンは笑って見せた。
卑屈に。
「貴族なんぞに近づいたら、巻き添えを食います」
男は鼻を鳴らした。
「賢いな。今夜は貴族街から出る奴を見つけたら捕まえろって話だ。特に女だ。金になる」
リオンの奥歯が鳴りそうになった。
笑みは崩さなかった。
「そんなものですか」
「そんなものだ。新しい世の中には金が要る」
男は笑った。
市民の権利。
自由。
圧政からの解放。
そういう言葉は、きっと本物だったのだろう。
だが、本物の言葉の下にも、盗みをする手はある。
正義の旗の影にも、女を値踏みする目はある。
リオンは頭を下げ、男の横を通り過ぎた。
少し進んだところで、路地の隅に灰青色を見つけた。
首布だった。
泥と血に汚れている。
そのそばに、若い男が倒れていた。
灰鷹隊の隊士だった。
名前は、たしかノイマン。
帝都残留組の一人。
人懐こい笑い方をする、まだ十七か十八の若者だった。詰め所で馬の世話をしていた時、レイバーに怒鳴られ、ローレンスに庇われていた。
彼は壁にもたれて死んでいた。
手には槍が握られている。
刃は折れていた。
周囲には、赤い腕章をつけた男の死体も二つあった。
逃げなかったのだ。
ここで、誰かを守ろうとしたのだ。
リオンは膝をつきかけた。
だが、やめた。
今、彼に祈ってやる時間はない。
死者に許しを乞う時間もない。
「すまない」
口の中だけで言った。
リオンは歩き出した。
急がねばならない。
死体は増えている。
火は広がっている。
そして、貴族街はまだ燃えていない。
まだ、間に合うかもしれない。
◇
フォンヴァルト邸の空気は、息をひそめていた。
エレオノーラは、窓のない内側の部屋にいた。
外の様子は見えない。
けれど、音は聞こえる。
遠くで鳴る銃声。
誰かの怒号。
石を打つ音。
馬の悲鳴。
そして時折、貴族街のどこかから響く、女の叫び声。
エレオノーラは腹に手を添えた。
まだ大きく目立つほどではない。
けれど、そこに命があることを、彼女はもう知っていた。
ロビンの子。
ロビンは生きているだろうか。
ヴァーレンハーフェンで何が起きたのか。
父は。
叔父は。
灰鷹隊は。
誰も答えを持っていない。
帝都に残っていた灰鷹隊の隊士たちは、詰め所と公爵邸の間を固めていた。数は多くない。主力はロビンと共に出陣している。残ったのは、怪我明けの者、若い者、帝都での連絡役、厩舎番、そしてエレオノーラの護衛を命じられていた者たちだった。
彼らはよくやっていた。
門を閉じ、裏口を塞ぎ、使用人たちを奥へ下げ、武器を持てる者に持たせた。
だが、外の世界が崩れていく音は、壁の内側にも入り込んでくる。
「奥様」
侍女が震える声で言った。
「少し、お休みになられては」
「眠れると思う?」
エレオノーラは苦笑した。
侍女は答えられなかった。
部屋の扉が開き、灰鷹隊の年長の隊士が入ってきた。名はヘルマン。ロビンが正式部隊化した後に入った者で、下町の警邏経験が長い男だった。
「貴族街の外門は完全に押さえられました」
「攻撃は」
「今のところ、宮城周辺が中心です。ただ……」
ヘルマンは言葉を濁した。
「言って」
「一部の連中が、貴族街の屋敷へ入り始めています。革命派の正規の委員なのか、ただの略奪か、区別がつきません」
エレオノーラは目を閉じた。
貴族街には、男が少ない。
多くは出陣している。
残っているのは老人、女、子供、使用人。
守り手のいない屋敷から、順に破られているのだろう。
悲鳴の理由を、考えたくなかった。
「公爵邸は持つ?」
「短時間なら」
「長くは?」
ヘルマンは沈黙した。
それが答えだった。
「ロビンから連絡は」
「ありません」
「父からは」
「ありません」
「叔父からは」
「……ありません」
エレオノーラは腹に置いた手に力を込めた。
泣いてはいけない。
今泣けば、侍女たちが崩れる。
隊士たちが不安になる。
自分は公爵家の娘で、灰鷹隊長の妻だ。
そう言い聞かせる。
けれど、心の奥では、ただ一人の女が叫んでいた。
ロビン。
帰ってきて。
生きていて。
私を置いていかないで。
その時、廊下の向こうが騒がしくなった。
金属の触れ合う音。
低い怒声。
何かが倒れる音。
ヘルマンが剣に手をかけた。
「奥へ」
「何が」
「侵入者かもしれません」
エレオノーラは立ち上がった。
侍女が止めようとしたが、彼女は首を振った。
「ここにいても同じよ」
廊下へ出ると、灰鷹隊士たちが槍を構えていた。
その先に、一人の男が立っている。
外套は汚れ、髪には煤がつき、頬には乾いた血がこびりついていた。貧しい下町の男のような格好をしている。
だが、立ち方だけは隠せていなかった。
背筋。
目線。
剣を抜いていないのに、抜いた時の間合いを知っている立ち姿。
隊士の一人が叫んだ。
「名を言え!」
男は少し顔を上げた。
「声を落とせ」
その声を聞いた瞬間、エレオノーラは息を呑んだ。
「リオン……?」
男は彼女を見た。
一瞬だけ、いつもの皮肉げな目に戻った。
「ご無事で何よりです、奥様」
ヘルマンが目を見開いた。
「リオン殿、あなたは出陣していたはずでは」
「戻った」
「どうやって」
「歩いて」
「そういう意味ではありません」
「説明は後だ」
リオンは廊下の奥を見た。
「ここは長く持たない」
「我々は奥様を守るために」
「守りながら死ぬ気か」
ヘルマンが言葉を詰まらせた。
リオンの声は冷たかった。
だが、怒鳴ってはいない。
いつものように、最短で必要なことだけを言っていた。
「貴族街は囲まれている。明日には各屋敷の捜索が始まる。いや、略奪が先かもしれない。どちらにせよ、ここにいれば奥様は捕まる」
エレオノーラは、腹に手を添えた。
リオンの目がそこへ一瞬だけ落ちた。
何かを察したのだろう。
彼の表情が、ごくわずかに変わった。
「……急ぐ理由が増えましたね」
「ロビンは」
エレオノーラは尋ねた。
声が震えないようにするのが精一杯だった。
「生きていますか」
リオンはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、心臓が冷たくなる。
「私が最後に見た時は、生きていました」
「最後に」
「ヴァーレンハーフェンで、北へ退く直前です」
「父は」
「公爵閣下もご健在でした」
「叔父は」
リオンは、ほんの少しだけ目を伏せた。
その仕草で、エレオノーラは悟りかけた。
だが、リオンは言わなかった。
「今は、奥様を連れ出すことが先です」
それは優しさではなかった。
たぶん、優しさよりも残酷な判断だった。
今泣かせないための。
今動かすための。
エレオノーラは唇を噛み、頷いた。
「どこへ」
「下町へ」
ヘルマンが驚いた。
「下町ですと」
「灰鷹隊が守ってきた町だ」
リオンは言った。
「全員が味方ではない。だが、助けてくれる者はいる。すでに連絡はつけてある」
「いつの間に」
「ここへ来る前に」
彼は短く答えた。
「貴族街の壁には、古い通用口がある。使用人と水運びが使っていた道だ。そこを抜ける」
「見張りは」
「増えている。だから今夜しかない」
ヘルマンは周囲の隊士を見た。
皆、疲れていた。
けれど、目はまだ死んでいない。
「奥様」
ヘルマンはエレオノーラへ向き直った。
「ご命令を」
エレオノーラは一瞬、父のことを思った。
ロビンのことを思った。
叔父の笑顔を思った。
そして、腹の中の小さな命を思った。
「行きます」
彼女は言った。
「生きて、ロビンに会います」
リオンが小さく頷いた。
「では、準備を。音を立てず、荷は少なく。貴金属は持たないでください。身なりはできるだけ落とす」
「公爵家の娘らしくなく?」
「今夜だけは」
リオンは少しだけ皮肉に笑った。
「私も、貴族らしくない格好をしています」
「似合わないわ」
「でしょうね」
ほんの短いやり取りだった。
それだけで、エレオノーラは少しだけ呼吸できた。
◇
準備は早かった。
残っていた灰鷹隊士は十四名。
負傷して歩けない者が二名。
使用人と侍女を含め、連れて行ける者は限られていた。
残ると決めた者もいた。
老執事は静かに頭を下げた。
「私はここに残ります。誰かが問いに答えねばなりません」
「殺されるかもしれないわ」
エレオノーラが言うと、老執事は困ったように微笑んだ。
「長く仕えました。最後に留守番くらいは務めさせてください」
エレオノーラは何も言えなかった。
侍女の一人が泣き出しそうになり、別の侍女が口を押さえる。
灰鷹隊士たちは、音を立てずに武器を確かめた。
槍は長すぎる。
短槍と剣、短い火薬筒だけを持つ。
エレオノーラは灰色の外套を羽織った。
かつて帝都の屋台でマヨネーズサンドを買った時と同じ色だった。
あの時は、ただの遊びだった。
お忍び。
少しの自由。
偶然ぶつかった青年。
落ちたサンドイッチ。
今、その灰色は身を隠すための色になっていた。
リオンが彼女を見た。
「歩けますか」
「歩きます」
「走ることになるかもしれません」
「走ります」
「転ばないでください」
「努力するわ」
「努力では困ります」
「では命令して」
リオンは一瞬だけ黙った。
それから、言った。
「転ばないでください。ロビンが泣きます」
エレオノーラは目を伏せた。
「……わかったわ」
ヘルマンが隊士たちへ合図した。
邸の灯りが一つずつ落とされる。
裏廊下。
使用人階段。
厨房の横。
水汲み場の扉。
その先に、貴族街の裏路地があった。
夜気は煙の匂いがした。
遠くで、何かが燃えている。
リオンが先頭に立つ。
ヘルマンがその後ろ。
エレオノーラと侍女たち。
灰鷹隊士が左右と後方を固める。
彼らは、音を立てずに進み始めた。
貴族街の石壁は高い。
昼間なら白く美しかったその壁も、今は灰色に沈んでいる。壁の向こうから、人の声が聞こえた。
笑い声。
怒鳴り声。
泣き声。
どこかの屋敷で、扉が破られる音がした。
エレオノーラは振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。
腹の中の命が、彼女を前へ押していた。
リオンは時折、角で立ち止まり、音を聞いた。
彼の横顔は、以前と同じように冷静だった。
だが、エレオノーラにはわかった。
彼も怖いのだ。
怖くない人など、もうどこにもいない。
それでも進む人だけが、今ここにいる。
古い城壁の内側に着いた時、ヘルマンが小さく言った。
「ここです」
蔦に隠れた低い扉があった。
かつて水運びや庭師が使っていた通用口だという。今ではほとんど使われず、図面にも残っていない。
灰鷹隊士が錆びた鍵を差し込む。
うまく回らない。
リオンが舌打ちした。
「静かに」
「わかっています」
隊士の手が震えている。
鍵が軋んだ。
開いた。
扉の向こうは、人一人がやっと通れるほどの狭い通路だった。
石壁の中を抜け、下町側の古い排水路へ続いているらしい。
湿った空気が流れてきた。
「奥様から」
ヘルマンが言った。
エレオノーラは頷き、身を屈めて通路へ入った。
暗い。
狭い。
石の壁が肩に触れる。
腹を庇いながら進む。
侍女の息遣いが後ろから聞こえる。
誰かが小さく祈っている。
通路の中ほどで、背後から声がした。
「誰だ!」
全員の足が止まりかけた。
リオンの声が飛んだ。
「止まるな!」
鋭い声だった。
「進め!」
後方で剣が抜かれる音がした。
男たちの怒号。
火薬筒を構える金属音。
ヘルマンが振り返ろうとした。
リオンが怒鳴った。
「前を見ろ、ヘルマン! 奥様を出せ!」
エレオノーラは歯を食いしばって進んだ。
通路は狭く、走ることもできない。
それでも、できる限り早く足を運ぶ。
背後で短い銃声がした。
誰かが呻いた。
それが味方か敵か、わからない。
出口が見えた。
下町側の低い戸。
先頭の隊士が体当たりするように開けた。
冷たい夜風が流れ込む。
エレオノーラは外へ出た。
下町の裏路地だった。
汚れた石畳。
水路の匂い。
遠くの火の明かり。
生きて、壁の外へ出た。
侍女たちが続く。
ヘルマンが続く。
灰鷹隊士たちが続く。
最後にリオンが来るはずだった。
だが、背後で重い音がした。
扉が閉まる音。
エレオノーラは振り返った。
通用口の扉が、内側から閉じられていた。
「リオン?」
返事はない。
扉の向こうで、閂が落ちる音がした。
ヘルマンが扉へ駆け寄る。
「リオン殿!」
内側から、くぐもった声が聞こえた。
「行け」
「開けてください!」
「無理だ。こちら側から塞ぐ」
「何を」
「追手を止める」
エレオノーラの喉が詰まった。
「リオン、開けなさい」
扉の向こうで、少しだけ笑う気配がした。
「申し訳ありません、奥様。私はあなたの命令を聞く立場ではありません」
「リオン!」
「ロビンに伝えてください」
声は静かだった。
「いや、伝えなくていい。きっと怒るだけです」
背後で、男たちの怒号が近づいている。
リオンは一度だけ、声を強くした。
「行け!」
その声に、ヘルマンが歯を食いしばった。
彼はエレオノーラの前に膝をつき、頭を下げた。
「奥様、行きます」
「でも」
「行かなければ、リオン殿が残った意味がなくなります」
エレオノーラは扉を見つめた。
薄い木板と鉄の向こうに、リオンがいる。
ロビンの仲間が。
灰鷹隊の一人が。
長く皮肉を言い続け、誰よりも冷静で、いつも少し遠くに立っていた男が。
彼は、自分で門を閉じた。
エレオノーラは腹に手を添えた。
涙がこぼれそうだった。
だが、泣かなかった。
「……生きて」
届くかどうかわからない声で言った。
扉の向こうから、返事はなかった。
代わりに、剣が抜かれる音がした。
ヘルマンがエレオノーラの腕を支えた。
灰鷹隊士たちは、歯を食いしばって彼女を囲む。
下町の奥から、誰かが小さく合図をした。
灰鷹隊がかつて助けた、屋台の主人だった。
その隣に、洗濯女がいる。
さらに奥に、職人らしい男たちがいる。
彼らは何も言わず、裏路地の闇を指した。
行け、という合図だった。
エレオノーラは、もう一度だけ扉を見た。
そして、歩き出した。
帝都は燃えていた。
宮城も、貴族街も、灰鷹隊の詰め所も、彼女の知る道も、もう以前の姿ではなかった。
それでも、下町の闇の中には、まだ誰かの手があった。
リオンが閉じた扉の向こうで、怒号が弾けた。
エレオノーラは振り返らなかった。
振り返れば、彼の選択を無駄にしてしまう。
だから彼女は、腹の子を守るように外套を握り、灰鷹隊士たちと共に夜の下町へ消えていった。




