表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/47

第39話 帝都炎上

終盤になってきました。キャラクターにはそれなりに思い入れがあるもので、書くのも辛いです。

最終話まで一日2投稿(20時、21時)で駆け抜けたいと思います


リオンは、紋章を捨てた。


 正確には、ヴァーレンハーフェンの北市場の裏手で、胸につけていた小さな徽章を外し、壊れた石畳の隙間へ落とした。


 アルトベルク家の紋章だった。


 没落した家の、もう誰も重んじないはずの紋章。


 それでも、彼にとっては最後の拠り所だった。


 灰鷹隊に入ってからも、リオンはそれを外さなかった。ロビンやレイバーは何も言わなかった。リッカは一度だけ「邪魔じゃないの」と聞き、ローレンスは磨く布を貸してくれた。


 その程度のものだった。


 けれど、その程度のものを捨てる時、指は少し震えた。


 捨てなければならなかった。


 帝都へ戻るためには。


 貴族としてではなく、逃げ出した兵としてでもなく、ただ一人の民間人として、混乱の中へ紛れるためには。


 徽章は石畳の隙間に落ち、煤と泥にまみれて見えなくなった。


 リオンは、それを拾い直さなかった。


 背後では、チェシー軍の喧伝がまだ響いていた。


 帝都は落ちた。


 市民が立ち上がった。


 皇帝は捕らえられた。


 戦争は終わった。


 その言葉を聞いた時、リオンの胸に最初に浮かんだのは、勝敗でも、皇帝でも、帝国の未来でもなかった。


 エレオノーラだった。


 公爵家三女。


 ロビンの妻。


 身重の女。


 今、帝都のフォンヴァルト邸にいるはずの人。


 ロビンは北へ行く。


 公爵も北へ行く。


 ローレンスは、きっと最後まで人を助ける。


 レイバーは怒るだろう。


 リッカは何も言わずに睨むだろう。


 ロビンは、裏切られたと思うだろう。


 それでいい。


 そう思わなければ、足が動かなかった。


 リオンは軍服を脱ぎ、汚れた外套を羽織った。帯剣は隠せる短剣だけにした。灰青色の首布も外した。


 灰鷹隊の色まで身につけて帝都へ入れば、死にに行くようなものだった。


 だから、それも外した。


 だが、捨てなかった。


 首布は畳み、内衣の奥へしまった。


 紋章は捨てた。


 灰鷹は、捨てられなかった。





   ◇





 帝都へ入った時、リオンは一瞬、道を間違えたのかと思った。


 門は開いていた。


 いや、破られていた。


 片側の扉が斜めに傾き、火で黒く焦げている。門衛の詰所は荒らされ、壁には赤い文字で何かが書き殴られていた。


 市民万歳。


 暴君を倒せ。


 貴族に死を。


 その下に、帝国兵の死体が二つ転がっていた。


 一人は胸甲を剥がされていた。


 もう一人は、まだ若かった。口元に血を垂らし、目を開けたまま空を見ている。首に巻かれていたはずの部隊色の布は引き裂かれ、泥の中に踏まれていた。


 リオンは足を止めなかった。


 止めれば、見てしまう。


 見れば、考えてしまう。


 考えれば、動けなくなる。


 下町は、以前の下町ではなかった。


 屋台は倒され、石畳には割れた瓶と血が混じっている。パン屋の窓は破られ、酒場の扉は外され、路地には家具が積まれて簡易のバリケードになっていた。


 その横で、男たちが笑っていた。


 彼らは武器を持っている。


 火薬筒。


 斧。


 棍棒。


 どこかの屋敷から奪ったらしい飾り剣。


 服装はばらばらだった。職人の前掛けをした者もいれば、商会の上着を着た者もいる。大学通りの学生らしい若者もいた。かつて貴族街に出入りしていた下級官吏の顔も混じっている。


 ただの暴徒ではない。


 ただの市民軍でもない。


 怒りと理想と恐怖と欲が、一つの鍋で煮詰まっている。


 リオンは顔を伏せ、背を少し丸めて歩いた。


 貴族らしく歩かない。


 騎士らしく見ない。


 灰鷹らしく人を助けない。


 今は、ただの臆病な男のふりをする。


 そうでなければ、たどり着けない。


「おい、そこのお前」


 声をかけられた。


 リオンは足を止めた。


 振り返ると、赤い腕章をつけた男が火薬筒を肩に担いでいた。年は三十ほど。顔に見覚えはないが、身なりから見て商会の用心棒崩れだろう。


「どこへ行く」


「叔母を探しています」


 リオンは声を変えた。


 少し低く、少し怯えたように。


「南区に住んでいたのですが、家が焼けたと聞いて」


「貴族街へ行く気じゃないだろうな」


「まさか」


 リオンは笑って見せた。


 卑屈に。


「貴族なんぞに近づいたら、巻き添えを食います」


 男は鼻を鳴らした。


「賢いな。今夜は貴族街から出る奴を見つけたら捕まえろって話だ。特に女だ。金になる」


 リオンの奥歯が鳴りそうになった。


 笑みは崩さなかった。


「そんなものですか」


「そんなものだ。新しい世の中には金が要る」


 男は笑った。


 市民の権利。


 自由。


 圧政からの解放。


 そういう言葉は、きっと本物だったのだろう。


 だが、本物の言葉の下にも、盗みをする手はある。


 正義の旗の影にも、女を値踏みする目はある。


 リオンは頭を下げ、男の横を通り過ぎた。


 少し進んだところで、路地の隅に灰青色を見つけた。


 首布だった。


 泥と血に汚れている。


 そのそばに、若い男が倒れていた。


 灰鷹隊の隊士だった。


 名前は、たしかノイマン。


 帝都残留組の一人。


 人懐こい笑い方をする、まだ十七か十八の若者だった。詰め所で馬の世話をしていた時、レイバーに怒鳴られ、ローレンスに庇われていた。


 彼は壁にもたれて死んでいた。


 手には槍が握られている。


 刃は折れていた。


 周囲には、赤い腕章をつけた男の死体も二つあった。


 逃げなかったのだ。


 ここで、誰かを守ろうとしたのだ。


 リオンは膝をつきかけた。


 だが、やめた。


 今、彼に祈ってやる時間はない。


 死者に許しを乞う時間もない。


「すまない」


 口の中だけで言った。


 リオンは歩き出した。


 急がねばならない。


 死体は増えている。


 火は広がっている。


 そして、貴族街はまだ燃えていない。


 まだ、間に合うかもしれない。





   ◇





 フォンヴァルト邸の空気は、息をひそめていた。


 エレオノーラは、窓のない内側の部屋にいた。


 外の様子は見えない。


 けれど、音は聞こえる。


 遠くで鳴る銃声。


 誰かの怒号。


 石を打つ音。


 馬の悲鳴。


 そして時折、貴族街のどこかから響く、女の叫び声。


 エレオノーラは腹に手を添えた。


 まだ大きく目立つほどではない。


 けれど、そこに命があることを、彼女はもう知っていた。


 ロビンの子。


 ロビンは生きているだろうか。


 ヴァーレンハーフェンで何が起きたのか。


 父は。


 叔父は。


 灰鷹隊は。


 誰も答えを持っていない。


 帝都に残っていた灰鷹隊の隊士たちは、詰め所と公爵邸の間を固めていた。数は多くない。主力はロビンと共に出陣している。残ったのは、怪我明けの者、若い者、帝都での連絡役、厩舎番、そしてエレオノーラの護衛を命じられていた者たちだった。


 彼らはよくやっていた。


 門を閉じ、裏口を塞ぎ、使用人たちを奥へ下げ、武器を持てる者に持たせた。


 だが、外の世界が崩れていく音は、壁の内側にも入り込んでくる。


「奥様」


 侍女が震える声で言った。


「少し、お休みになられては」


「眠れると思う?」


 エレオノーラは苦笑した。


 侍女は答えられなかった。


 部屋の扉が開き、灰鷹隊の年長の隊士が入ってきた。名はヘルマン。ロビンが正式部隊化した後に入った者で、下町の警邏経験が長い男だった。


「貴族街の外門は完全に押さえられました」


「攻撃は」


「今のところ、宮城周辺が中心です。ただ……」


 ヘルマンは言葉を濁した。


「言って」


「一部の連中が、貴族街の屋敷へ入り始めています。革命派の正規の委員なのか、ただの略奪か、区別がつきません」


 エレオノーラは目を閉じた。


 貴族街には、男が少ない。


 多くは出陣している。


 残っているのは老人、女、子供、使用人。


 守り手のいない屋敷から、順に破られているのだろう。


 悲鳴の理由を、考えたくなかった。


「公爵邸は持つ?」


「短時間なら」


「長くは?」


 ヘルマンは沈黙した。


 それが答えだった。


「ロビンから連絡は」


「ありません」


「父からは」


「ありません」


「叔父からは」


「……ありません」


 エレオノーラは腹に置いた手に力を込めた。


 泣いてはいけない。


 今泣けば、侍女たちが崩れる。


 隊士たちが不安になる。


 自分は公爵家の娘で、灰鷹隊長の妻だ。


 そう言い聞かせる。


 けれど、心の奥では、ただ一人の女が叫んでいた。


 ロビン。


 帰ってきて。


 生きていて。


 私を置いていかないで。


 その時、廊下の向こうが騒がしくなった。


 金属の触れ合う音。


 低い怒声。


 何かが倒れる音。


 ヘルマンが剣に手をかけた。


「奥へ」


「何が」


「侵入者かもしれません」


 エレオノーラは立ち上がった。


 侍女が止めようとしたが、彼女は首を振った。


「ここにいても同じよ」


 廊下へ出ると、灰鷹隊士たちが槍を構えていた。


 その先に、一人の男が立っている。


 外套は汚れ、髪には煤がつき、頬には乾いた血がこびりついていた。貧しい下町の男のような格好をしている。


 だが、立ち方だけは隠せていなかった。


 背筋。


 目線。


 剣を抜いていないのに、抜いた時の間合いを知っている立ち姿。


 隊士の一人が叫んだ。


「名を言え!」


 男は少し顔を上げた。


「声を落とせ」


 その声を聞いた瞬間、エレオノーラは息を呑んだ。


「リオン……?」


 男は彼女を見た。


 一瞬だけ、いつもの皮肉げな目に戻った。


「ご無事で何よりです、奥様」


 ヘルマンが目を見開いた。


「リオン殿、あなたは出陣していたはずでは」


「戻った」


「どうやって」


「歩いて」


「そういう意味ではありません」


「説明は後だ」


 リオンは廊下の奥を見た。


「ここは長く持たない」


「我々は奥様を守るために」


「守りながら死ぬ気か」


 ヘルマンが言葉を詰まらせた。


 リオンの声は冷たかった。


 だが、怒鳴ってはいない。


 いつものように、最短で必要なことだけを言っていた。


「貴族街は囲まれている。明日には各屋敷の捜索が始まる。いや、略奪が先かもしれない。どちらにせよ、ここにいれば奥様は捕まる」


 エレオノーラは、腹に手を添えた。


 リオンの目がそこへ一瞬だけ落ちた。


 何かを察したのだろう。


 彼の表情が、ごくわずかに変わった。


「……急ぐ理由が増えましたね」


「ロビンは」


 エレオノーラは尋ねた。


 声が震えないようにするのが精一杯だった。


「生きていますか」


 リオンはすぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、心臓が冷たくなる。


「私が最後に見た時は、生きていました」


「最後に」


「ヴァーレンハーフェンで、北へ退く直前です」


「父は」


「公爵閣下もご健在でした」


「叔父は」


 リオンは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 その仕草で、エレオノーラは悟りかけた。


 だが、リオンは言わなかった。


「今は、奥様を連れ出すことが先です」


 それは優しさではなかった。


 たぶん、優しさよりも残酷な判断だった。


 今泣かせないための。


 今動かすための。


 エレオノーラは唇を噛み、頷いた。


「どこへ」


「下町へ」


 ヘルマンが驚いた。


「下町ですと」


「灰鷹隊が守ってきた町だ」


 リオンは言った。


「全員が味方ではない。だが、助けてくれる者はいる。すでに連絡はつけてある」


「いつの間に」


「ここへ来る前に」


 彼は短く答えた。


「貴族街の壁には、古い通用口がある。使用人と水運びが使っていた道だ。そこを抜ける」


「見張りは」


「増えている。だから今夜しかない」


 ヘルマンは周囲の隊士を見た。


 皆、疲れていた。


 けれど、目はまだ死んでいない。


「奥様」


 ヘルマンはエレオノーラへ向き直った。


「ご命令を」


 エレオノーラは一瞬、父のことを思った。


 ロビンのことを思った。


 叔父の笑顔を思った。


 そして、腹の中の小さな命を思った。


「行きます」


 彼女は言った。


「生きて、ロビンに会います」


 リオンが小さく頷いた。


「では、準備を。音を立てず、荷は少なく。貴金属は持たないでください。身なりはできるだけ落とす」


「公爵家の娘らしくなく?」


「今夜だけは」


 リオンは少しだけ皮肉に笑った。


「私も、貴族らしくない格好をしています」


「似合わないわ」


「でしょうね」


 ほんの短いやり取りだった。


 それだけで、エレオノーラは少しだけ呼吸できた。





   ◇





 準備は早かった。


 残っていた灰鷹隊士は十四名。


 負傷して歩けない者が二名。


 使用人と侍女を含め、連れて行ける者は限られていた。


 残ると決めた者もいた。


 老執事は静かに頭を下げた。


「私はここに残ります。誰かが問いに答えねばなりません」


「殺されるかもしれないわ」


 エレオノーラが言うと、老執事は困ったように微笑んだ。


「長く仕えました。最後に留守番くらいは務めさせてください」


 エレオノーラは何も言えなかった。


 侍女の一人が泣き出しそうになり、別の侍女が口を押さえる。


 灰鷹隊士たちは、音を立てずに武器を確かめた。


 槍は長すぎる。


 短槍と剣、短い火薬筒だけを持つ。


 エレオノーラは灰色の外套を羽織った。


 かつて帝都の屋台でマヨネーズサンドを買った時と同じ色だった。


 あの時は、ただの遊びだった。


 お忍び。


 少しの自由。


 偶然ぶつかった青年。


 落ちたサンドイッチ。


 今、その灰色は身を隠すための色になっていた。


 リオンが彼女を見た。


「歩けますか」


「歩きます」


「走ることになるかもしれません」


「走ります」


「転ばないでください」


「努力するわ」


「努力では困ります」


「では命令して」


 リオンは一瞬だけ黙った。


 それから、言った。


「転ばないでください。ロビンが泣きます」


 エレオノーラは目を伏せた。


「……わかったわ」


 ヘルマンが隊士たちへ合図した。


 邸の灯りが一つずつ落とされる。


 裏廊下。


 使用人階段。


 厨房の横。


 水汲み場の扉。


 その先に、貴族街の裏路地があった。


 夜気は煙の匂いがした。


 遠くで、何かが燃えている。


 リオンが先頭に立つ。


 ヘルマンがその後ろ。


 エレオノーラと侍女たち。


 灰鷹隊士が左右と後方を固める。


 彼らは、音を立てずに進み始めた。


 貴族街の石壁は高い。


 昼間なら白く美しかったその壁も、今は灰色に沈んでいる。壁の向こうから、人の声が聞こえた。


 笑い声。


 怒鳴り声。


 泣き声。


 どこかの屋敷で、扉が破られる音がした。


 エレオノーラは振り返らなかった。


 振り返れば、足が止まる。


 腹の中の命が、彼女を前へ押していた。


 リオンは時折、角で立ち止まり、音を聞いた。


 彼の横顔は、以前と同じように冷静だった。


 だが、エレオノーラにはわかった。


 彼も怖いのだ。


 怖くない人など、もうどこにもいない。


 それでも進む人だけが、今ここにいる。


 古い城壁の内側に着いた時、ヘルマンが小さく言った。


「ここです」


 蔦に隠れた低い扉があった。


 かつて水運びや庭師が使っていた通用口だという。今ではほとんど使われず、図面にも残っていない。


 灰鷹隊士が錆びた鍵を差し込む。


 うまく回らない。


 リオンが舌打ちした。


「静かに」


「わかっています」


 隊士の手が震えている。


 鍵が軋んだ。


 開いた。


 扉の向こうは、人一人がやっと通れるほどの狭い通路だった。


 石壁の中を抜け、下町側の古い排水路へ続いているらしい。


 湿った空気が流れてきた。


「奥様から」


 ヘルマンが言った。


 エレオノーラは頷き、身を屈めて通路へ入った。


 暗い。


 狭い。


 石の壁が肩に触れる。


 腹を庇いながら進む。


 侍女の息遣いが後ろから聞こえる。


 誰かが小さく祈っている。


 通路の中ほどで、背後から声がした。


「誰だ!」


 全員の足が止まりかけた。


 リオンの声が飛んだ。


「止まるな!」


 鋭い声だった。


「進め!」


 後方で剣が抜かれる音がした。


 男たちの怒号。


 火薬筒を構える金属音。


 ヘルマンが振り返ろうとした。


 リオンが怒鳴った。


「前を見ろ、ヘルマン! 奥様を出せ!」


 エレオノーラは歯を食いしばって進んだ。


 通路は狭く、走ることもできない。


 それでも、できる限り早く足を運ぶ。


 背後で短い銃声がした。


 誰かが呻いた。


 それが味方か敵か、わからない。


 出口が見えた。


 下町側の低い戸。


 先頭の隊士が体当たりするように開けた。


 冷たい夜風が流れ込む。


 エレオノーラは外へ出た。


 下町の裏路地だった。


 汚れた石畳。


 水路の匂い。


 遠くの火の明かり。


 生きて、壁の外へ出た。


 侍女たちが続く。


 ヘルマンが続く。


 灰鷹隊士たちが続く。


 最後にリオンが来るはずだった。


 だが、背後で重い音がした。


 扉が閉まる音。


 エレオノーラは振り返った。


 通用口の扉が、内側から閉じられていた。


「リオン?」


 返事はない。


 扉の向こうで、閂が落ちる音がした。


 ヘルマンが扉へ駆け寄る。


「リオン殿!」


 内側から、くぐもった声が聞こえた。


「行け」


「開けてください!」


「無理だ。こちら側から塞ぐ」


「何を」


「追手を止める」


 エレオノーラの喉が詰まった。


「リオン、開けなさい」


 扉の向こうで、少しだけ笑う気配がした。


「申し訳ありません、奥様。私はあなたの命令を聞く立場ではありません」


「リオン!」


「ロビンに伝えてください」


 声は静かだった。


「いや、伝えなくていい。きっと怒るだけです」


 背後で、男たちの怒号が近づいている。


 リオンは一度だけ、声を強くした。


「行け!」


 その声に、ヘルマンが歯を食いしばった。


 彼はエレオノーラの前に膝をつき、頭を下げた。


「奥様、行きます」


「でも」


「行かなければ、リオン殿が残った意味がなくなります」


 エレオノーラは扉を見つめた。


 薄い木板と鉄の向こうに、リオンがいる。


 ロビンの仲間が。


 灰鷹隊の一人が。


 長く皮肉を言い続け、誰よりも冷静で、いつも少し遠くに立っていた男が。


 彼は、自分で門を閉じた。


 エレオノーラは腹に手を添えた。


 涙がこぼれそうだった。


 だが、泣かなかった。


「……生きて」


 届くかどうかわからない声で言った。


 扉の向こうから、返事はなかった。


 代わりに、剣が抜かれる音がした。


 ヘルマンがエレオノーラの腕を支えた。


 灰鷹隊士たちは、歯を食いしばって彼女を囲む。


 下町の奥から、誰かが小さく合図をした。


 灰鷹隊がかつて助けた、屋台の主人だった。


 その隣に、洗濯女がいる。


 さらに奥に、職人らしい男たちがいる。


 彼らは何も言わず、裏路地の闇を指した。


 行け、という合図だった。


 エレオノーラは、もう一度だけ扉を見た。


 そして、歩き出した。


 帝都は燃えていた。


 宮城も、貴族街も、灰鷹隊の詰め所も、彼女の知る道も、もう以前の姿ではなかった。


 それでも、下町の闇の中には、まだ誰かの手があった。


 リオンが閉じた扉の向こうで、怒号が弾けた。


 エレオノーラは振り返らなかった。


 振り返れば、彼の選択を無駄にしてしまう。


 だから彼女は、腹の子を守るように外套を握り、灰鷹隊士たちと共に夜の下町へ消えていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ