第38話 オスカーの火
北門が閉じた。
閂が落ちる音は、思ったより軽かった。
それは、逃げる者たちの背を守るための音であり、残る者たちにとっては、もう戻れないという音でもあった。
オスカーは門の内側に立っていた。
正確には、立っているふりをしていた。
撃たれた足は熱を持ち、包帯の下で血が広がっている。剣を杖のようにしていなければ、体はすぐにでも膝から崩れただろう。
だが、崩れるわけにはいかなかった。
門の内側には、残った者たちがいた。
北部公爵軍の兵。
帝国軍の敗残兵。
灰鷹隊の負傷者。
商業都市の警備兵。
名も知らぬ槍持ち。
火薬筒を抱えた若い兵。
その多くは、歩けなかった。
足を失った者がいる。
腹を裂かれ、布で押さえている者がいる。
肩を撃たれ、片腕で槍を抱く者がいる。
顔の半分を包帯で覆われた者がいる。
座り込んだまま、槍の柄を両手で握る者がいる。
立てる者は、立てない者を支えた。
立てない者は、せめて槍の穂先を前へ向けた。
これは軍ではなかった。
残った命の寄せ集めだった。
それでも、彼らは門の前にいた。
「騎士団長」
若い兵が言った。
帝国軍の兵だった。
まだ十代に見える。火薬筒を抱えているが、両手が震えていた。
「怖いです」
周囲の何人かが、彼を咎めるように見た。
だが、オスカーは笑わなかった。
叱りもしなかった。
「そうか」
彼は言った。
「私もだ」
若い兵は目を見開いた。
オスカーは門の向こうを見た。
南の方角から、チェシー軍の太鼓が聞こえる。
彼らはまだ気づいていない。
北門から主力が抜けたことに、すぐには気づかないだろう。
だが、長くはもたない。
「怖くない者などおらん」
オスカーは続けた。
「怖くないなら、それは勇気ではなく鈍さだ」
「では、勇気とは」
「怖くても、まだ槍を離さぬことだ」
若い兵は、自分の火薬筒を見た。
それから、ぎこちなく頷いた。
別の兵が笑った。
腹の傷を押さえた老兵だった。
「俺は槍を離さねえが、立てねえぞ」
「なら座って構えろ」
オスカーは言った。
「敵が足元を通る時、脛を突け」
老兵は声を出して笑った。
笑った拍子に傷が痛んだのか、顔を歪める。
「そいつはいい。騎士団長殿、座ったままでも戦になるか」
「なる。戦とは、相手が嫌がることをするものだ」
「騎士らしくないな」
「今さらだ」
そのやり取りで、わずかに空気が緩んだ。
死が近いことは、誰もがわかっている。
だが、笑いが一つあるだけで、人は少しだけ呼吸できる。
オスカーは周囲を見渡した。
「聞け」
声を張る。
足が痛んだ。
だが、声は揺らさなかった。
「ここで死ねとは言わん。死にたい者などおらん。私も死にたくはない」
兵たちは黙って聞いた。
「だが、ここで少しでも長く敵を止めれば、北へ向かった者たちが遠くへ行ける。公爵が行く。若い者が行く。負傷者が行く。灰鷹の隊長も行く」
灰鷹隊の負傷兵が、かすれた声で言った。
「隊長は、行きましたか」
「行った」
オスカーは答えた。
「なら、いいです」
その兵は笑った。
「旗も?」
「旗も行った」
「なら、もっといい」
彼は座ったまま槍を握り直した。
オスカーはその顔を覚えようとした。
名を知らなかった。
聞く時間もなかった。
それが悔しかった。
戦場では、名を知らぬ者が死ぬ。
だが、名を知らぬから軽いわけではない。
誰もが、誰かにとっての名だった。
◇
火薬は、倉庫の影から運び出されていた。
ありったけだった。
旧式火薬筒用の火薬。
城門補修用に残っていた爆薬。
工兵が持っていた破城用の小樽。
灰鷹隊の銃兵が抱えていた予備。
それらを樽に詰め、荷車の下へ押し込み、門の内側と路地の角に隠す。
火薬の量は多い。
だが、適切に使うには技術がいる。
残った工兵は二人だけだった。
一人は片耳を失っていた。
もう一人は、左手の指が三本なかった。
それでも彼らは、導火線を作っていた。
「湿ってる」
片耳の工兵が言った。
「短くするか」
「短くしたら、火をつけた奴が逃げられない」
指のない工兵が笑った。
「逃げるつもりか?」
「ないな」
「なら短くしろ」
そばにいた灰鷹隊の若い銃兵が、火縄を懐から出した。
小石を詰めた火薬筒で戦っていた男だった。
煤だらけの顔で、目だけが妙に明るい。
「俺が火を見ます」
「お前、歩けるだろう」
工兵が言った。
「北へ行け」
「足は動きます」
若い銃兵は、自分の腹を押さえた。
指の間から血が滲んでいる。
「でも、長くはないです」
工兵たちは黙った。
若い銃兵は火縄を握りしめた。
「なら、ここで役に立ちます」
オスカーはその言葉を聞いていた。
止めるべきか。
行かせるべきか。
どちらも残酷だった。
「名は」
オスカーは尋ねた。
若い銃兵は少し驚いた顔をした。
「バドーです。灰鷹隊、銃兵組」
「そうか、バドー」
オスカーは頷いた。
「火を見る役は、お前に任せる」
「はい」
「ただし、早まるな。できるだけ近づけてからだ」
バドーは笑った。
「怖いですね」
「怖いとも」
「でも、やります」
「ああ」
オスカーは彼の肩に手を置いた。
「頼む」
バドーは、泣きそうな顔で笑った。
頼む。
その一言は、命令より重かった。
◇
夜明け前、チェシー軍が北門へ近づいた。
彼らは最初、攻撃してこなかった。
松明を掲げ、銃剣を構え、慎重に進む。
北門の前に並ぶ槍衾を見て、足を止めた。
それは整った陣形ではなかった。
負傷兵たちが、互いに寄りかかって作った歪な壁だった。
座った者が下から槍を出す。
立てる者がその上に槍を重ねる。
片腕の者が友の肩を借りる。
片目の兵が火縄を守る。
腹を押さえた者が、歯を食いしばって穂先を前へ向ける。
中央にオスカーがいた。
剣を杖にし、負傷した足を半歩後ろへ引いている。
彼は、できるだけ大きく見えるように立っていた。
チェシー軍の指揮官が前へ出た。
若い男だった。
疲れた顔をしている。
この数日、市街戦で多くの兵を失ったのだろう。
彼は通訳を連れていた。
「降伏せよ」
通訳が叫んだ。
「負傷者は治療する。戦争は終わった。無駄に死ぬな」
その言葉は、侮辱ではなかった。
本当にそう思っている声だった。
オスカーはそれを聞き、少しだけ目を細めた。
彼らも疲れている。
彼らも死にたくない。
彼らもまた、誰かの息子であり、父であり、友である。
だからこそ、戦争は救いがたい。
オスカーは剣を持ち直した。
「我らは、まだ終わっておらん」
通訳が戸惑ったように言葉を訳す。
チェシー指揮官が眉を寄せた。
再び、降伏を勧める声が上がる。
「武器を捨てよ。命は保証する」
北部の老兵が笑った。
「命の保証だとよ」
座ったまま槍を構える彼は、腹の傷から血を流している。
「俺の命、まだ残ってたか」
別の兵が笑った。
笑いは小さかった。
すぐに咳へ変わった。
オスカーは前を向いたまま言った。
「通したい者がいる」
それだけだった。
皇帝の名は出さなかった。
帝国の栄光も語らなかった。
誇りも、忠義も、正統性も、すべて言葉にすれば軽くなる気がした。
通したい者がいる。
だから降れない。
それで十分だった。
チェシー指揮官はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと手を上げた。
火薬筒兵が構える。
銃剣兵が前へ出る。
降伏勧告は終わった。
オスカーは槍衾の中の兵たちに言った。
「来るぞ」
誰かが祈った。
誰かが母の名を呼んだ。
誰かが笑った。
誰かが、ただ震えた。
オスカーも震えていた。
剣を握る手が、少し震えている。
だが、彼は前を見ていた。
「構え」
その声は、よく通った。
◇
最初の斉射で、槍衾の前列が崩れた。
座ったまま槍を構えていた老兵の肩が弾け、彼は後ろへ倒れた。
隣の兵が、倒れた彼の槍を拾う。
片腕の兵が胸を撃たれ、友の肩から滑り落ちる。
友は泣きながら、その体を支えた。
槍は下がらなかった。
二度目の斉射。
火薬の煙が門前を包む。
血が石畳を濡らす。
痛い、という声がした。
母を呼ぶ声がした。
まだだ、と誰かが言った。
オスカーは前へ一歩出た。
足の痛みで視界が白くなる。
それでも剣を上げる。
「まだだ!」
彼は叫んだ。
「まだ槍はある!」
チェシー軍が突撃した。
銃剣の列が押し寄せる。
負傷兵たちの槍衾は歪だった。
だが、通りは狭い。
正面から来る敵には、まだ槍が届く。
最初のチェシー兵が槍に突き刺さった。
次の兵がそれを押しのける。
銃剣が老兵の胸を貫く。
別の兵が、座ったまま敵の足を突いた。
倒れた敵が叫ぶ。
味方も敵も、もつれ合う。
それは戦列ではなかった。
死にかけた者たちの最後の押し合いだった。
オスカーは剣を振った。
一人を斬る。
二人目の銃剣を受ける。
足が崩れる。
それでも、近くの兵が彼の肩を支えた。
「団長、立って」
「立っている」
「嘘です」
「なら、支えろ」
「はい」
兵は笑った。
泣きながら笑った。
その後ろで、バドーが火縄を握っていた。
導火線は、荷車の下へ続いている。
火薬樽は槍衾の後ろ、門の両脇、崩れた倉庫の陰に隠されている。
敵は近づいた。
近づきすぎるほどに。
バドーの手は震えていた。
火縄の火が小さく揺れる。
彼は一度、空を見た。
夜明け前の空は暗い。
その先に、北へ逃げる仲間たちがいるはずだった。
灰鷹隊の隊旗も。
ロビンも。
レイバーも。
リッカも。
ローレンスも。
彼は笑った。
それから、叫んだ。
「同志よ!!」
その叫びが誰へ向けられたものだったのか、誰にもわからなかった。
味方へか。
敵へか。
死んでいく兵士たちへか。
あるいは、まだ名も知らぬ未来へか。
バドーは火を落とした。
◇
爆発は、ヴァーレンハーフェンの北門を白く染めた。
音が街を裂いた。
石壁が崩れ、荷車が吹き飛び、火薬樽が連鎖して燃えた。
炎と煙が一つになり、門の上へ噴き上がる。
敵も味方も、槍も銃剣も、声も命令も、すべてが一瞬で光の中へ消えた。
オスカーが最後に何を見たのかは、誰も知らない。
弟の背か。
姪の笑顔か。
少年の頃、妾腹の兄として本館の廊下を歩いた日の冷たさか。
剣を初めて握った時の重さか。
あるいは、ただ火だったのか。
誰も知らない。
◇
北へ向かう撤退列は、まだヴァーレンハーフェンから遠く離れていなかった。
爆音が夜明け前の空を震わせた。
馬が怯え、荷車が止まりかける。
ロビンは振り返った。
遠く、南の空に赤い光が上がっている。
煙が柱のように伸びる。
ヴァーレンハーフェンの方角だった。
北門。
オスカー。
ロビンは何か言おうとした。
声が出なかった。
隣でレイバーが低く言った。
「止まるな」
ロビンは拳を握った。
「わかっている」
「わかってねえ顔してる」
「……わかっている」
同じやり取りだった。
だが、もう笑えなかった。
アルブレヒトは前を向いていた。
振り返らなかった。
ただ、一度だけ目を閉じた。
それだけだった。
弟として泣くこともできず、公爵として止まることもできず、彼は前へ進んだ。
ロビンも進んだ。
灰鷹隊も、北部公爵軍も、負傷者を乗せた荷車も、火薬と食料を積んだ馬車も、進んだ。
背後の火は、しばらく夜明け前の空を赤く照らしていた。
誰も、何も言わなかった。
ただ進むしかなかった。
◇
【オスカー・フォン・ヴァルト】
オスカー・フォン・ヴァルトは、トゥーゲンフルス帝国末期の北部公爵家騎士団長である。フォンヴァルト公爵家に生まれたが、妾腹であったため公爵位の継承権からは事実上遠ざけられ、嫡流である弟アルブレヒトが後に公爵位を継いだ。
若年期のオスカーについて残された記録は多くない。後年の北部地方に残る伝承や、ローレンス・ミュラーによる回想録断片によれば、彼は自らの生まれによって将来を閉ざされたことに強い悔しさを抱き、その感情を武道へぶつけたとされる。剣、馬術、槍、兵の指揮において早くから頭角を現し、やがてフォンヴァルト公爵家の武闘派騎士団長として知られるようになった。
一方で、同時代証言は彼を単なる豪胆な武人としては描いていない。幼少期のアルブレヒトは内向的で気が弱く、兄であるオスカーがしばしば彼を庇ったという伝承が残る。オスカー自身は公爵になれなかったが、弟を守ることを自らの役目と定めた。この兄弟関係は、後のヴァーレンハーフェン撤退戦における彼の行動を理解する上で重要視されている。
オスカーは生涯独身であった。理由は不明である。政治的事情、妾腹という立場、あるいは本人の意思など諸説ある。ただし、甥や姪たちに対しては深い愛情を注いだとされ、特に公爵家三女エレオノーラに対しては、実子のように接していたことが複数の証言に見える。エレオノーラとロビン・フォン・バーゼルの婚姻に際しても、彼は政治的判断以上に、姪の幸福を願う立場からこれを支持したと考えられている。
ヴァーレンハーフェン撤退戦において、オスカーは負傷した足を抱えながら北門の殿を務めた。北部公爵アルブレヒト、灰鷹隊、負傷者および残存兵を北方へ逃がすためである。
その最期については諸説ある。
革命政府側の初期記録では、オスカーは「降伏勧告を拒否し、市民軍兵士を巻き込む自爆を行った旧帝国軍人」と記録されている。一方、北部地方の伝承では、彼は「火の門を閉じた騎士」と呼ばれ、公爵と若者たちを逃がすため自ら北門に残った英雄として語られる。
また、民間伝承には、銃撃を浴びながらも門前に立ち続けたという「立ち往生説」も残る。ただし、ヴァーレンハーフェン北門付近で大規模な爆発があったことは複数の記録で一致しており、現在では北門爆破説が最も有力とされる。爆薬に火をつけたのがオスカー本人であったのか、残存工兵であったのか、あるいは灰鷹隊の名もなき銃兵であったのかは定かでない。
近年の研究では、オスカーを旧帝国の忠臣としてのみ見る評価は修正されつつある。彼は皇帝のためだけに死んだのではなく、弟を、公爵家を、甥や姪を、そして自分より若い兵たちを逃がすために死地へ残った人物であったとする見方が広がっている。
彼自身が恐怖を感じなかったかどうかは、記録にない。
ただ、ローレンス・ミュラーの回想録には、ヴァーレンハーフェンで生き残った兵士の証言として、次の言葉が残されている。
「「怖いか」と騎士団長は聞いた。「怖いです」と若い兵が答えた。すると騎士団長は「私もだ」と言った。それで皆、槍を離さなかった」




