第37話 帝都陥落の報
チェシー軍の声は、夕暮れのヴァーレンハーフェンに何度も響いた。
「帝国兵諸君、聞け!」
太鼓が鳴る。
銃声は、不気味なほど少なくなっていた。
戦場に静けさがある時、それは休息ではない。次の何かを待っている時間だ。ロビンは南門の内側で、槍を握ったままその声を聞いていた。
市街戦で煤けた壁。
崩れた荷車。
血のついた石畳。
その上に、敵の声だけがやけにはっきり落ちてくる。
「帝都にて市民は立ち上がった! 宮城は包囲された! 皇帝とその一族は捕らえられた!」
ざわめきが、帝国軍の列を走った。
「嘘だ!」
誰かが叫ぶ。
「敵の虚報だ!」
帝国軍将校が兵の前へ出た。
「耳を貸すな! これは卑劣な謀略である! 隊列を保て!」
だが、兵たちの目は将校を見ていなかった。
彼らは互いの顔を見ていた。
帝都に家族を残す者。
給金を帝都へ送っている者。
宮城勤めの親戚がいる者。
下町に恋人がいる者。
革命という言葉を、酒場や大学通りで聞いたことがある者。
彼らの中で、疑いが膨らんでいくのが見えた。
敵の嘘か。
それとも、ようやく声に出された真実か。
チェシー兵の声は続いた。
「皇帝の名で戦う兵士諸君! その皇帝はもはや諸君を守れない! 帝都の市民は新たな政府を立てた! 戦争は終わった! 武器を捨てよ! 投降せよ!」
ロビンの耳に、帝都という言葉だけが何度も残った。
エレオノーラ。
まだ生まれていない子。
灰色の外套。
腹に添えた手。
帰ってきて、と言った声。
今すぐ馬を走らせたい衝動が、全身を貫いた。
だが、南門の外にはチェシー軍がいる。
都市は包囲されかけている。
ここから帝都へ向かう道は、敵と混乱と敗残兵で塞がっている。
走れば死ぬ。
それでも、走りたい。
「ロビン」
レイバーの声がした。
低く、硬い声だった。
「今、帝都へ走っても途中で死ぬだけだ」
ロビンは振り返った。
レイバーは、いつものようにロビンの心を読んでいた。
「わかっている」
「わかってねえ顔してる」
「……わかっている」
「なら、今は隊を見ろ」
レイバーは灰鷹隊の列を顎で示した。
若い隊士たちも揺れていた。
帝都に家族がいる者もいる。
出陣式で見送られた者もいる。
下町に戻ればいつもの店があり、詰め所があり、厩舎があり、灰鷹隊の旗があると信じていた者たちだ。
その帝都が、もう帰る場所ではないかもしれない。
ロビンは深く息を吸った。
喉に煙の味がした。
「灰鷹隊」
彼は声を出した。
思ったより、しっかりした声が出た。
「隊列を保て。敵の声に耳を貸すなとは言わない。だが、武器を落とすな。隣の者を見ろ。今、我々が崩れれば、負傷者も民も置き去りになる」
隊士たちがロビンを見る。
「帝都のことは、まだ確かめられていない。だが、ここにいる者の命は確かめられる。まず、それを守る」
誰かが頷いた。
リッカは無言で槍を立てた。
ローレンスは負傷者の側から顔を上げ、震える手で胸元の灰青色の布を握った。
レイバーは小さく息を吐いた。
「それでいい」
◇
だが、灰鷹隊の列が保たれても、帝国軍全体はそうではなかった。
最初に武器を置いたのは、帝国軍の若い歩兵だった。
彼は火薬筒を石畳へ置き、両手を上げた。
「俺は……俺は帝都に母がいるんだ」
近くの将校が怒鳴った。
「拾え! 命令違反だ!」
「何の命令ですか!」
若い兵は泣きそうな顔で叫んだ。
「皇帝陛下は捕まったって言ってる! 宮城が落ちたって! 俺たちは誰の命令で戦ってるんですか!」
「敵の虚報だ!」
「虚報なら、なぜ帝都から伝令が来ないんです!」
その言葉は、周囲の兵たちにも刺さった。
将校は兵を殴ろうとした。
別の兵がそれを止めた。
揉み合いになった。
火薬筒が倒れ、剣が抜かれ、誰かが叫ぶ。
それは戦闘ではなかった。
軍が内側から裂ける音だった。
東部公爵軍の一部も動揺していた。
「東へ戻るべきだ」
「本領が危ない」
「帝都が落ちたなら、命令系統はどうなる」
彼らは皇帝の兵である前に、東部公爵家の兵だった。
北部公爵軍も無傷ではない。
ヴァルトハイムに家族を残す者。
グラウフェルトの名を知る者。
帝都より北へ帰るべきだと考える者。
忠誠は残っている。
だが、忠誠が向かう先が変わり始めていた。
皇帝から、領主へ。
帝国から、故郷へ。
アルブレヒトは、その崩れ方を黙って見ていた。
顔色は悪い。
だが、取り乱してはいない。
彼はすでに、帝国が言葉で保っていた形を失ったことを理解しているようだった。
「公爵閣下」
帝国軍将校が詰め寄った。
「兵をまとめてください! 敵の虚報に惑わされているだけです!」
「虚報かもしれぬ」
アルブレヒトは言った。
「だが、兵はもう信じていない」
「信じさせるのが指揮官の役目です!」
「信じるに足るものがなければ、信じさせることはできぬ」
将校は言葉を失った。
アルブレヒトは静かに続けた。
「今、我らに必要なのは、大路で聞かせる演説ではない。動ける者をどこへ逃がすかだ」
「逃がす、ですと」
「そうだ」
公爵は南門の外を見た。
「この街を保てる時間は尽きた」
◇
夜に入る前、アルブレヒトは北部公爵軍の家臣と灰鷹隊の主だった者を集めた。
場所は、河港近くの商会倉庫だった。
かつて高価な布や香辛料が積まれていた場所に、今は地図と血のついた包帯と、煤けた槍が置かれている。
集まった者たちの顔は暗かった。
ロビン。
レイバー。
リッカ。
ローレンス。
オスカーは足を負傷しているため、椅子に座っていた。だが、剣は手放していない。
そこにいるはずの者が、一人いなかった。
「リオンは」
ロビンが尋ねた。
誰もすぐには答えなかった。
やがて、若い隊士が一歩前へ出た。
顔が青い。
「見ました」
「どこで」
「北市場の裏手です。夕刻、喧伝が始まる少し前に」
「何をしていた」
隊士は唇を噛んだ。
「紋章を……外していました」
部屋の空気が凍った。
「紋章?」
ローレンスが聞き返す。
「はい。胸の、アルトベルク家の小さな紋章です。それを外して、捨てて」
「どこへ行った」
ロビンの声は、自分でも驚くほど低かった。
「帝都の方角へ」
沈黙。
レイバーが机を叩いた。
「ふざけんな」
その声は怒りに震えていた。
「あいつ、この状況で逃げたのか」
「違う」
ローレンスが言った。
小さいが、はっきりした声だった。
「何か理由があるはずだ」
「理由?」
レイバーが振り返る。
「紋章を捨てて帝都へ消える理由があるってのか」
「あるかもしれない」
「お前はいつもそうだ。人を信じすぎる」
「信じたいんだ」
ローレンスは言った。
「今信じなかったら、何も残らない」
レイバーは口を閉じた。
リッカは黙っていた。
槍の柄を握る手が、白くなるほど力んでいる。
ロビンは目を閉じた。
リオン。
冷静で、皮肉で、どこか眩しいものを見るように灰鷹隊を見ていた男。
君は上へ行くのが早いな、と言った男。
今日の市街戦でも、彼はいた。
確かにいた。
それが、紋章を捨て、帝都へ。
裏切り。
その言葉が胸を刺した。
だが、ロビンは口にしなかった。
口にすれば、本当になる気がした。
「リオンだけではない」
アルブレヒトが言った。
皆が公爵を見る。
「帝国軍ではすでに多数が離脱している。東部公爵軍も、本領へ戻る準備を始めた。北部の兵にも消えた者がいる」
その声は責めるものではなかった。
事実を告げる声だった。
「この期に及んで抵抗を続ける方が、もはや少数だ」
誰も反論しなかった。
外では、まだチェシー軍の声が時折響いている。
投降せよ。
戦争は終わった。
皇帝はもういない。
その声は、刃より深く兵たちを裂いていた。
「我らは北へ退く」
アルブレヒトは言った。
静かな声だった。
だが、決断の声だった。
「ヴァルトハイムへ。グラウフェルトへ。北部要塞へ」
ロビンの胸が震えた。
グラウフェルト。
故郷。
シーベルト火山。
少年時代の灰の野。
手書きの旗。
そこへ戻る。
だが、凱旋ではない。
撤退だ。
「帝都へは」
ロビンは、言わずにはいられなかった。
アルブレヒトは彼を見た。
「今の帝都へ戻れば、我らは挟まれる。チェシー軍と革命派の間でな」
「エレオノーラが」
声が少し揺れた。
「私の妻が、帝都にいます」
アルブレヒトの顔が痛むように歪んだ。
父の顔だった。
「私の娘でもある」
その一言で、ロビンは言葉を失った。
アルブレヒトは続ける。
「だが、今ここで北部公爵軍を失えば、エレオノーラを助ける力も、北を守る力も失う」
「……はい」
「生きている者で、生き延びる道を選ぶ。それが今の私の責務だ」
ロビンは拳を握った。
血が滲むほどに。
それでも、頷いた。
「承知しました」
◇
撤退は夜に行われることになった。
動ける者は北門へ集まる。
負傷者は、連れて行ける者だけを連れて行く。
言葉にすれば簡単だった。
だが、それは残す者を決めるということだった。
ローレンスは市場の屋根下で、負傷者の名を一人ずつ確認していた。
「この人は荷車へ。この人も。歩ける? なら肩を借りて。あなたは……」
彼は言葉を止めた。
重傷の兵が、彼を見上げている。
足を失い、腹にも傷がある。
動かせば、途中で死ぬ。
動かさなければ、ここで死ぬか、捕まる。
「俺はいい」
兵は言った。
「連れていけません」
ローレンスは絞り出すように言った。
「ごめんなさい」
「謝るな。あんた、ずっと見てくれただろ」
兵は薄く笑った。
「水を一つ置いてってくれ」
ローレンスは頷いた。
泣かなかった。
泣く時間もなかった。
水筒を置き、包帯を替え、次の負傷者へ向かう。
その背中を、ロビンは見ていた。
ローレンスは優しい。
だが、優しい者ほど、この戦場では深く傷つく。
レイバーは荷車の列を整えていた。
「重い荷は捨てろ! 食料と火薬と薬、あとは水だ! 金貨? 馬鹿野郎、金貨で銃弾は止まらねえ!」
リッカは北門の外を偵察して戻ってきた。
「道はまだ空いてる。でも長くない」
「追手は」
「南側に多い。北は少ない。でも気づかれたら来る」
ロビンは頷いた。
その時、オスカーが立ち上がった。
足に巻かれた包帯は赤く染まっている。
それでも彼は剣を持ち、笑った。
「では、私は門を押さえる」
「オスカー卿」
ロビンは反射的に言った。
「足が」
「動く者は北へ行く。動きにくい者は、門に残る。簡単な話だ」
「簡単ではありません」
「簡単にせねば、決められん」
オスカーはロビンを見た。
「姪を泣かせるなと言ったな」
「はい」
「なら、ここで私と一緒に死ぬな」
ロビンは言葉を失った。
「お前は北へ行け。公爵を連れて行け。灰鷹隊を連れて行け。生きている者を、行けるところまで連れて行け」
「しかし」
「足をやられた騎士に、ようやく似合いの仕事が来たのだ」
オスカーは笑った。
豪快に。
いつものように。
だが、その笑いの奥に、別れがあった。
「門を守る。お前たちは抜けろ」
アルブレヒトがゆっくりと歩み寄った。
兄弟はしばらく何も言わなかった。
やがて、アルブレヒトが低く言った。
「兄上」
「何だ、弟よ」
「すまない」
「謝るな。公爵が謝ると、部下が困る」
「弟として言っている」
オスカーは少しだけ目を細めた。
「なら、兄として聞いておく」
アルブレヒトは拳を握った。
だが、抱きしめることはしなかった。
公爵として。
弟として。
どちらの立場でも、今それをすれば崩れるとわかっていたのだろう。
「北で待つ」
アルブレヒトは言った。
「待つな」
オスカーは即答した。
「進め」
そして、ロビンへ視線を移す。
「行け」
◇
夜が深くなる頃、北門が開いた。
音を立てぬよう、ゆっくりと。
動ける者が外へ出る。
北部公爵軍。
灰鷹隊。
わずかな帝国軍の残兵。
荷車。
負傷者。
馬。
火薬と食料。
そして、灰鷹隊の隊旗。
ロビンは門をくぐる前に、一度だけ振り返った。
ヴァーレンハーフェンの街は、黒い影になっていた。
その中に、火の明かりが点々と揺れている。
南ではチェシー軍の太鼓。
北門の内側には、オスカーと、残ることを選んだ者たちの影。
リオンの姿はない。
帝都も見えない。
エレオノーラの安否もわからない。
それでも、ロビンは北へ歩き出した。
逃げるためではない。
まだ守るものが残っていると信じるために。
帝都は、ロビンの背後にあった。
だがその夜から、帝都は帰る場所ではなくなった。




