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第36話 迷路の街



 市街戦は、三日目に入っていた。


 ヴァーレンハーフェンは、もう商業都市の顔をしていなかった。


 倉庫街の石壁は黒く煤け、窓には板が打ちつけられ、通りには横倒しの荷車と土嚢と壊れた樽が積まれている。市場の屋根の下には、野菜や魚ではなく負傷者が並んでいた。


 港には避難民が集まり、船に乗せろと叫ぶ者と、補給の荷を下ろせと怒鳴る兵站役人が押し合っている。船曳きたちは綱を握ったまま、どちらの命令を聞くべきか迷っていた。


 街はまだ落ちていない。


 だが、街はすでに壊れていた。


 ロビンは中央市場の二階窓から、南側の通りを見下ろしていた。


 朝の霧は薄く、煙の方が濃い。


 焼けた倉庫の匂い。


 血と薬草の匂い。


 粉塵と魚油の匂い。


 そのすべてが混ざり、喉に張りつく。


「来る」


 隣の銃兵が言った。


 通りの向こう、倒した荷車の影からチェシー兵が進んでくる。


 初日のように、ただ列を作って突っ込んでくるわけではない。


 盾を持った工兵が先頭にいる。


 その後ろに銃剣兵。


 さらに後ろには、屋根を狙う火薬筒兵。


 彼らも学んでいた。


「撃つな」


 ロビンは言った。


 若い銃兵は唇を噛む。


「まだですか」


「まだだ」


 チェシー兵が近づく。


 三十歩。


 二十歩。


 工兵の盾が、こちらの窓へ向けられる。


 十歩。


「今だ」


 火薬筒が吠えた。


 窓の内側で白煙が弾ける。


 銃兵が撃ったのは、鉛玉ではなかった。


 小石と釘だ。


 近距離で散ったそれは、盾の隙間を抜け、工兵の顔と腕を裂いた。


 チェシー兵が崩れる。


 だが、すぐに後ろが前へ出た。


 怯んだのは一瞬だけだった。


「下がれ!」


 ロビンは銃兵の襟を掴み、窓から離れさせた。


 次の瞬間、向かいの通りから銃声が連なり、窓枠が砕けた。


 木片が頬を掠める。


「同じ窓は二度使うなと言っただろう」


「すみません!」


「謝るな、移れ」


 二人は部屋を出て、廊下を走った。


 隣の建物へ渡した板を越え、屋根裏へ入る。


 灰鷹隊の銃兵たちは、こうして建物から建物へ移りながら撃っていた。


 それは騎士の戦ではない。


 だが、灰鷹隊の戦だった。




   ◇




 レイバーの声は、もう嗄れていた。


「その道は塞ぐな! 塞いだら負傷者が戻れねえ!」


 彼は倉庫街の交差点で、地図を片手に怒鳴っていた。


 初日に作った迷路は、二日目にはもう古くなった。


 チェシー軍は、昨日通れなかった路地を今日は迂回した。屋根の狙撃手を見つけると、隣の建物へ火を放とうとした。工兵は壁に穴を開け、閉ざしたはずの通りの横腹から入ってきた。


 だから灰鷹隊も、迷路を変える。


 荷車を動かす。


 樽を移す。


 偽の抜け道を塞ぎ、本当の抜け道を別の場所へ移す。


 街は毎日、形を変えた。


「レイバー」


 ロビンが交差点へ降りると、レイバーは顔を上げた。


 目の下には隈があり、額には煤がついている。


「南倉庫は」


「半分取られた。取り返すなら夜だ」


「東の屋根は」


「向こうが掃射してきた。二人落ちた。もう同じ場所は使えねえ」


「港は」


「まだ持ってる。だが避難民が多すぎる。船を出すなら今夜までだ」


 レイバーは地図に線を引いた。


「やっぱり来た」


「何が」


「あいつら、昨日の街じゃなく、今日の街を攻めてやがる」


 その言葉は、悔しさよりも警戒だった。


「こっちが変えたら、向こうも変える。こっちが屋根を使えば、向こうは屋根を撃つ。路地で刺せば、壁を抜く。荷車で止めれば、火を使う」


「火はまずい」


「ああ。魚油倉庫に入ったら街ごと燃える」


 レイバーは唇を舐めた。


「だから、魚油倉庫は絶対に渡すな。水場もだ。井戸を取られたら終わる」


「わかった」


「あと、中央市場の商人どもが騒いでる」


「何を」


「倉庫を壊すな、だと」


 ロビンは目を閉じた。


 わかっている。


 あの倉庫は彼らの財産だ。


 穀物袋一つ、塩樽一つが、誰かの暮らしそのものだ。


 だが、倉庫を使わなければ道は塞げない。


 壁を抜かなければ退路が作れない。


 屋根を使わなければ撃てない。


「私が行く」


「行ってどうする」


「説明する」


「納得はしねえぞ」


「それでもだ」


 レイバーは肩をすくめた。


「隊長の仕事だな」


「そうだ」


「じゃあ行け。俺は嫌われる方の仕事をする」


「いつもすまない」


「謝るな。似合わねえ」


 レイバーはまた怒鳴り始めた。


「おい、そこの樽! 転がすな、持ち上げろ! 転がすと音で場所が割れる!」




   ◇




 中央市場の商人たちは、怒っていた。


 恐れてもいた。


 疲れてもいた。


 その全部が混じり、声は荒くなっていた。


「この倉庫には南部から届いた小麦が入っているんだ!」


「それを壁にするとはどういうことだ!」


「火がついたらどうする!」


「補償すると言ったって、誰が払う! 帝都は本当に金を出すのか!」


 ロビンは彼らの前で頭を下げた。


「申し訳ありません」


「謝れば済むのか!」


「済みません」


 ロビンは顔を上げた。


「ですが、ここを抜かれれば倉庫だけでは済みません。港も橋も、市場も、皆さんの家も失います」


「もう失っている!」


 商人の一人が叫んだ。


 その言葉に、ロビンは返せなかった。


 確かに、彼らはもう失っている。


 商売の日常を。


 安全な街を。


 明日の値段を考えるだけで済んだ朝を。


 守るために戦っている。


 だが、守るために壊してもいる。


 ブレン村の橋と同じだった。


 ロビンは静かに言った。


「それでも、命を先に守らせてください」


 商人たちは黙った。


 納得したわけではない。


 ただ、怒鳴る言葉を一瞬失っただけだった。


 その時、市場の奥からローレンスの声がした。


「水をください! 布でもいい! 使える布を!」


 市場の屋根下では、負傷者が増え続けていた。


 ローレンスの手は血と薬草で黒ずんでいる。目は赤く、髪は乱れ、声は枯れていた。


 それでも、彼は一人ずつ見ていた。


 兵も、市民も、敵も。


 チェシー兵の若者に包帯を巻いている姿を見て、商人の一人が顔をしかめた。


「敵まで助けるのか」


 ローレンスは手を止めなかった。


「今は動けない人です」


「敵だぞ」


「動けない人です」


 その声は穏やかだった。


 しかし、譲らなかった。


 商人は何も言えなくなった。


 やがて、年老いた女が家から布を持ってきた。


「これを」


 ローレンスは顔を上げた。


「ありがとうございます」


 それをきっかけに、何人かが布や水を運び始めた。


 怒りが消えたわけではない。


 恨みが消えたわけでもない。


 それでも、人は目の前で血を流す者を完全には見捨てられない。


 ロビンはその光景を見て、胸の奥が痛んだ。


 この街を守りたい。


 だが、そのためにこの街を壊している。


 その矛盾ごと、背負うしかなかった。




   ◇




 午後、東倉庫で激しい戦闘が起きた。


 チェシー軍の工兵が壁を破り、内側から倉庫へ入ったのだ。


 彼らは初日のように路地を進まなかった。


 壁を抜いた。


 灰鷹隊の待ち伏せを避け、倉庫の腹へ食い込んできた。


「リッカ!」


 ロビンが叫ぶより早く、リッカは動いていた。


 彼女は狭い倉庫の中を走る。


 積まれた木箱の間、吊るされた麻袋の下、こぼれた穀物の上。


 銃剣兵が三人、横に並ぼうとする。


 だが、倉庫の中では広がれない。


 リッカの槍が一人目の銃身を叩き上げ、二人目の膝を払う。三人目が撃とうとした瞬間、上から木箱が落ちた。


 屋根裏にいた灰鷹隊士が落としたのだ。


 リッカはその隙に踏み込み、敵を押し返す。


「狭い」


 彼女は言った。


「でも、悪くない」


 ロビンも倉庫へ入った。


 雷槍は使わない。


 ここで雷を走らせれば、味方も荷も巻き込む。


 彼はただの槍使いとして戦った。


 穂先で銃剣を払い、柄で銃床を受け、石突きで足を打つ。


 オスカーもいた。


 馬を降り、剣を片手に、倉庫の入口で敵を押し返している。


「まだ若い連中に任せるには早いわ!」


 彼は笑っていた。


 笑いながら、敵を斬った。


 その時、倉庫の外から銃声が重なった。


 オスカーの足が跳ねた。


 彼は一瞬だけ膝をついた。


「オスカー卿!」


 ロビンが駆け寄る。


 太腿を撃たれていた。


 血が流れ、鎧の隙間から赤く染み出している。


 オスカーは顔をしかめた。


「騒ぐな」


「足を」


「足一本で済んだ。安い」


「安くありません」


「動く」


 オスカーは立ち上がろうとした。


 だが、足が震える。


 ロビンと騎士の一人が支えた。


「下がってください」


「断る」


「オスカー卿」


「断ると言った」


 彼は剣を杖のようにして立った。


「まだ死んでおらん。なら前にいる」


 ロビンは言葉を失った。


 その無茶を止めるべきだ。


 だが、オスカーがそこに立っているだけで、兵たちが踏みとどまるのも事実だった。


 オスカーはロビンを見た。


「お前は別の場所を見ろ。ここは私が持つ」


「ですが」


「隊長が一つの入口に張りつくな」


 その言葉は正しかった。


 ロビンは歯を食いしばり、頷いた。


「ご無理は」


「する」


 即答だった。


「だからお前は、無駄にするな」


 ロビンは深く頭を下げ、倉庫を出た。


 背後で、オスカーの声が響く。


「押し返せ! ここは倉庫だ、棺桶ではないぞ!」


 兵たちが叫ぶ。


 その声に、ロビンは救われ、同時に胸を締めつけられた。




   ◇




 夕刻、戦場が不自然に静まった。


 チェシー軍の攻撃が止んだわけではない。


 ただ、ある一帯で銃声が減り、太鼓の音が鳴り始めた。


 南門の外。


 破られた通用門の向こう。


 チェシー軍の陣から、拡声のための筒を持った兵たちが前へ出てきた。


 白い布を掲げている。


 降伏ではない。


 告知だ。


 レイバーが眉をひそめた。


「何を始める気だ」


 ロビンも南門の内側へ向かった。


 アルブレヒト、帝国軍将校、東部公爵軍の騎士たちも集まってくる。


 チェシー兵の声が、夕暮れの街に響いた。


「帝国兵諸君!」


 その声は、思ったよりよく通った。


「聞け! 帝都にて、市民による蜂起が起きた!」


 ざわめきが広がる。


 ロビンの背筋が冷たくなった。


 帝都。


 エレオノーラ。


 まだ生まれていない子。


 その言葉だけで、心臓が跳ねる。


 チェシー兵は続けた。


「皇帝の宮城は包囲された! 帝都の市民は立ち上がった! 戦争は終わりつつある!」


「嘘だ!」


 帝国軍の兵が叫んだ。


「嘘だ、黙れ!」


 チェシー兵の声は止まらない。


「兵士諸君! もはや権力に脅され戦う必要はない! 武器を捨てよ! 投降せよ! 市民は諸君を迎える!」


 街の中に、動揺が走った。


 誰かが笑った。


 誰かが怒鳴った。


 誰かが祈った。


 誰かが、剣を取り落とした。


 ロビンはアルブレヒトを見た。


 公爵の顔は、石のように固かった。


 レイバーが低く言う。


「本当か、嘘か」


 ロビンは答えられなかった。


 リオンがいないことに、その時ロビンは気づいた。


 少し前まで、彼は南門近くにいたはずだった。


 だが今、見えない。


 夕陽が、煤けた倉庫の壁を赤く染めている。


 ヴァーレンハーフェンは、三日目の夜を迎えようとしていた。


 迷路になった街の上に、帝都陥落の声が降ってきた。


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