第35話 ヴァーレンハーフェン市街戦
南門が閉じられた。
重い木の扉が軋み、鉄の閂が落ちる音が、ヴァーレンハーフェンの石畳に響いた。
門の外では、まだ銃声が続いている。
平原から退いた兵たちが、息を切らして市内へ流れ込む。血を流す者、肩を借りる者、槍を失った者、兜を脱ぎ捨てた者。馬が嘶き、荷車が倒れ、怒号と悲鳴が倉庫街に反響した。
市民たちは戸口で震えていた。
商人は帳簿を抱え、荷役は行き場を失った荷車の横に立ち尽くし、子どもは母親のスカートを握って泣いている。
ここは、商業都市だった。
朝には穀物袋が運ばれ、昼には塩樽が積まれ、夕方には船曳きたちが酒場で歌う街だった。
それが今、戦場になろうとしている。
「門の前を空けろ!」
レイバーの声が飛んだ。
「荷車を倒せ! そこの樽、中身は何だ!」
「魚油です!」
「後ろへ下げろ! 火がついたら終わりだ! 砂の樽は前へ! 木箱は横に積め! 通りを真っ直ぐにするな、曲げろ!」
彼は血のついた袖を気にする様子もなく、次々に指示を出していた。
ロビンは南門内側の広場を見渡す。
敗れた兵たちは混乱している。
帝国軍の将校が怒鳴っているが、声は空回りしていた。東部公爵軍の騎士たちは自軍の隊列を立て直そうとしている。北部公爵軍はまだ比較的秩序を保っていたが、平原で受けた損害は軽くない。
灰鷹隊だけが、奇妙なほど早く街に馴染んでいた。
門。
路地。
倉庫。
屋根。
窓。
狭い通り。
袋小路。
帝都の下町と違う街ではある。だが、街であることに変わりはない。
灰鷹隊は、街を知っていた。
「ロビン!」
レイバーが地図を広げた。
地図には、前夜のうちに赤い印がいくつも付けられている。
水場。
井戸。
厚い壁の倉庫。
屋根へ上がれる階段。
火を避けるべき油倉庫。
橋へ抜ける裏道。
北門へ続く避難路。
「南門から中央市場まで、真っ直ぐ抜かせたら終わりだ。通りを三つに割る。ここ、ここ、ここに荷車。横道は開けておくが、見た目は塞げ」
「偽のバリケードか」
「そうだ。敵を曲げる。撃ちやすい場所じゃなく、こっちが刺しやすい場所へ誘う」
レイバーは倉庫街を指す。
「この倉庫には昨夜のうちに干し肉と水を入れてある。あっちの二階には銃兵。屋根には弓。路地の奥に槍。土嚢は低く積め。高く積むな、上から撃たれる」
「用意していたのか」
「最悪の場合としてな」
背後からアルブレヒトの声がした。
公爵は泥に汚れた外套のまま立っていた。
顔には疲労がある。
だが、目は沈んでいなかった。
「平原で止められれば、それでよかった。だが止められぬ時の準備を恥じるつもりはない」
ロビンは頭を下げた。
「市街戦になります」
「もうなっている」
アルブレヒトは南門を見た。
「街を壊すことになる」
「はい」
「だが、ここで軍を失えば、街だけでなく帝都への道を失う。民には避難を。倉庫の使用は公爵家が後に補償する」
ローレンスがその言葉に顔を上げた。
ブレン村の橋を思い出したのだろう。
アルブレヒトも、それをわかっている顔だった。
「約束する。紙だけにはせぬ」
「……はい」
ローレンスは頷き、負傷者の誘導へ走った。
ロビンは槍を握る。
「灰鷹隊、配置につけ!」
隊士たちが動き出した。
ヴァーレンハーフェンの通りが、戦場へ変わっていく。
◇
最初の突入は、昼過ぎだった。
南門の外から、チェシー軍が前進してくる。
平原で帝国軍を押し返した市民軍の列は、都市の門前でも整然としていた。火薬筒の先には銃剣。後方には工兵。荷車には梯子と工具、さらに小型の土嚢が積まれている。
彼らもまた、都市を攻める準備をしていた。
無能な敵ではない。
だからこそ厄介だった。
南門は完全には守れない。
門そのものは閉じたが、城塞都市ではないヴァーレンハーフェンの外壁は低く、倉庫街の南側には荷の搬入口や古い通用門がいくつもある。
チェシー軍はそれを見逃さなかった。
小隊ごとに分かれ、通用門を破り、外壁を越え、倉庫の間へ入り込んでくる。
銃声。
白煙。
石壁に鉛玉が跳ねる。
だが、平原とは違った。
横列は広がれない。
射線は建物に切られる。
銃剣は長すぎる場所もある。
路地の角から槍が突き出た。
屋根の上から矢が落ちた。
二階の窓から旧式火薬筒が火を噴く。
チェシー兵が倒れ、後続が足を止める。
「撃ったら下がれ! 同じ窓から二度撃つな!」
レイバーの声が通りを走った。
「屋根の連中、移れ! 煙で場所が割れるぞ!」
灰鷹隊の銃兵たちは、旧式の火薬筒を抱えて建物の中を走る。
平原では劣る武器でも、窓から十歩、二十歩の距離で撃てば十分だった。
リッカは細い路地で戦っていた。
長く槍を振れない場所では、彼女は槍を短く持つ。石突きで膝を打ち、穂先で喉元を突き、銃剣を絡めて払う。
「遅い」
彼女の声が路地に響く。
チェシー兵の一人が銃剣を突き出す。
リッカは半歩だけ横へずれ、槍の柄で銃身を叩き落とした。
「長いだけ」
そのまま相手の胸当ての隙間を突く。
彼女の背後で、若い灰鷹隊士が震えながら火薬筒を構えていた。
「撃てる?」
リッカが短く聞く。
「撃てます!」
「じゃあ撃って。外したら私が突く」
隊士は引き金を引いた。
火薬筒が吠える。
弾は敵の肩をかすめただけだった。
リッカが即座に踏み込み、敵を倒した。
「次は当てて」
「はい!」
その返事は泣きそうだった。
だが、逃げてはいなかった。
◇
中央市場へ続く広い通りでは、荷車が押し出された。
荷や土嚢を満載した重い荷車である。
本来なら穀物袋を運ぶためのものだ。
今は、弾除けになっていた。
「押せ!」
レイバーが叫ぶ。
灰鷹隊と北部公爵軍の兵が、荷車の後ろに肩を当てる。
チェシー兵が通りの向こうで火薬筒を構えた。
「撃て!」
銃声。
鉛玉が荷車の木板にめり込み、土嚢を裂き、穀物袋を破る。
だが、荷車は止まらない。
重い。
遅い。
だが、一度動けば慣性がつく。
「もっと押せ! 馬がなくても突撃はできる!」
レイバーが叫ぶ。
兵たちは歯を食いしばり、荷車を押した。
石畳の上で車輪が跳ねる。
荷車がチェシー兵の前列へぶつかった。
銃剣の列が乱れる。
「今だ!」
ロビンが飛び出した。
雷槍ではない。
狭い通りで馬上の雷槍を使えば味方も巻き込む。
彼は徒歩で槍を構え、荷車の脇から敵列へ入った。
リッカが別の路地から出る。
オスカーの騎士の一部も、馬を降りて剣を抜いた。
そこに騎士らしさはなかった。
泥と血と粉塵。
破れた穀物袋。
倒れた荷車。
銃を奪い、銃剣を踏みつけ、樽の陰から飛び出して喉を突く。
白兵戦は短かった。
チェシー兵もよく戦った。
だが、通りを知っているのは灰鷹隊だった。
ロビンは敵の小隊長らしき男と槍を交えた。
相手は銃剣を槍のように使う。
短い。
だが、扱いは悪くない。
ロビンは銃剣を槍の柄で押さえ、体を沈め、石突きで相手の足を払った。
倒れたところを、首元へ穂先を突きつける。
「降れ」
男は歯を食いしばった。
一瞬、引き金に指をかける。
ロビンは槍を引かなかった。
その目を見て、男は銃を離した。
「縛れ!」
ロビンが叫ぶ。
隊士が駆け寄る。
その時、通りの奥で爆ぜるような音がした。
旧式火薬筒の音だ。
だが、一発ではない。
近距離で、何かが散った。
チェシー兵が数人、同時に倒れた。
レイバーが振り返る。
「何だ今の!」
灰鷹隊の銃兵の一人が、煤だらけの顔で叫んだ。
「弾が足りなくて、小石を入れました!」
「小石?」
「釘も少し!」
レイバーは一瞬、呆れた顔をした。
次の瞬間、笑った。
「いい! 路地じゃそれでいい! ただし詰めすぎるな、銃が破裂する!」
「はい!」
「あと俺に見せろ! 後で真似する!」
ロビンはそのやり取りを聞きながら、息を吐いた。
騎士道はない。
整列した名誉もない。
だが、生きるための工夫があった。
灰鷹隊は、まだ戦っていた。
◇
チェシー軍の最初の突入は、夕刻までに押し返された。
完全な勝利ではない。
南門周辺の外倉庫はいくつか奪われ、通用門の一つは破られたままだ。帝国軍も北部公爵軍も損害を受け、灰鷹隊にも戻らない者が出た。
だが、中央市場までは抜かせなかった。
河港も橋も守った。
倉庫街の奥には、まだ帝国側の旗が立っていた。
チェシー軍は平原のようには進めなかった。
夕陽が倉庫の壁を赤く染める頃、ロビンは南門近くの広場に立っていた。
石畳には血と穀物が混ざっている。
倒れた荷車の車輪が軋み、どこかで馬が悲しげに鳴いている。
ローレンスは市場の屋根下で負傷者を診ていた。
リッカは槍を拭いている。
レイバーは地図に新しい印を付けていた。
「初日は止めたな」
ロビンが言うと、レイバーは頷いた。
「初日はな」
「明日は」
「向こうも学ぶ」
レイバーは南門の外を見た。
チェシー軍の野営の煙が上がっている。
「あいつらは馬鹿じゃねえ。今日やられた路地には、明日は別の入り方をしてくる。屋根を撃つ。火を使う。家ごと潰すかもしれねえ」
「こちらも変える」
「ああ」
レイバーは地図を折った。
「変えなきゃ死ぬ」
ロビンは街を見た。
ヴァーレンハーフェンは、もはや朝の商業都市ではなかった。
荷車は壁になり、倉庫は砦になり、市場は治療所になり、屋根は狙撃場になった。
人が物を運ぶために作った街が、人を殺すための迷路へ変わっていた。
それを変えたのは、灰鷹隊だった。
守るために。
生き延びるために。
そして、時間を稼ぐために。
遠く、チェシー軍の陣から太鼓が鳴った。
明日の準備を告げる音だった。
ヴァーレンハーフェンは、もう商業都市ではなかった。
灰鷹隊の手で、迷路になっていた。




