第34話 新しい銃声
夜明け前、ヴァーレンハーフェンの南に広がる平原は、白い霧に覆われていた。
草の先には露がつき、馬の鼻息が薄く白くなる。遠くに見える河港都市の屋根は、まだ眠っているように静かだった。
だが、街は眠っていない。
倉庫では兵糧が積み直され、橋には警備兵が立ち、市場の屋根の下には負傷者用の寝台が並べられている。灰鷹隊の銃兵たちは、旧式の火薬筒を布で拭き、火皿を確かめ、火縄を湿らせぬよう懐に入れていた。
平原では、帝国軍が布陣していた。
中央に帝国軍。
左翼に東部公爵軍。
右翼に北部公爵軍。
その前面に、オスカー率いる公爵騎士団と、灰鷹隊の遊撃部隊。
さらに前には、生木を束ねた枝束盾と土籠が並んでいた。
前回の戦より、厚い。
前回の戦より、低く構えられる。
前回の戦より、隙間が少ない。
レイバーは、夜のうちにそれを作らせた。
ただの枝束ではない。湿った土を詰めた籠を組み合わせ、盾の後ろには旧式火薬筒を持つ灰鷹隊の銃兵を置いた。敵の初弾を受け、煙が広がったところでこちらも撃つ。敵が装填に移る間に、槍兵と騎馬が距離を詰める。
前と同じではない。
こちらも学んでいる。
こちらも強くなっている。
ロビンはそう思おうとした。
しかし、隣に立つレイバーの顔は硬かった。
「風は?」
ロビンが尋ねる。
「こっちへ少し流れる」
レイバーは草を摘み、指から離した。
細い草は北へ流れた。
「煙がこっちへ来るな」
「不利か」
「不利でもあり、有利でもある。向こうの射線も乱れる。こっちが走る時の目隠しにもなる」
「なら使える」
「使えればな」
レイバーは南を見た。
霧の向こうに、チェシー軍の影が見え始めている。
横列。
旗。
火薬筒。
そして、銃口の先に並ぶ短い刃。
銃剣。
遠目にも、それが朝の光を受けて冷たく光っていた。
リッカは馬上で槍を握っていた。
パンが落ち着かない様子で蹄を鳴らす。
「馬が嫌がってる」
「銃剣か」
「たぶん。光るから」
「お前は」
「嫌い」
リッカは即答した。
「でも、行く」
「無理はするな」
「ロビンも」
「わかっている」
「わかってない時の返事」
ロビンは苦笑しかけた。
だが、笑みは途中で消えた。
南から太鼓が鳴った。
チェシー軍が動いた。
◇
最初の射撃は、百歩より少し遠い距離で始まった。
乾いた音が、平原を横に裂いた。
前回と似ている。
だが違う。
音が揃いすぎていた。
白煙が広がる。
鉛玉が枝束盾へ叩き込まれた。
枝が裂け、湿った土が跳ね、縄が軋む。
それでも、盾は耐えた。
倒れた者もいる。
隙間を抜けた弾が腕を裂き、頬を抉り、盾を支える隊士を後ろへ弾いた。
だが、多くは止まった。
「耐えた!」
若い隊士が叫んだ。
レイバーは叫び返さなかった。
彼は煙の向こうを見ていた。
白煙の中で、チェシー兵たちが動いている。
銃口を下げる。
棒を抜くのではない。
銃の後ろを開く。
紙包みを差し込む。
閉じる。
構える。
レイバーの顔色が変わった。
「早い」
小さな声だった。
だが、ロビンには聞こえた。
「レイバー?」
「早い。早すぎる」
次の音が来た。
まだこちらの銃兵が構え直す前だった。
二度目の銃声。
枝束盾が再び揺れる。
今度は、前より近い。
裂けた枝の隙間へ弾が入り、土籠の端を砕き、盾の裏にいた銃兵が倒れた。
ローレンスが後方から駆け寄ろうとして、別の隊士に止められる。
「まだです!」
「でも!」
「今出たら撃たれます!」
ローレンスは拳を握り、歯を食いしばった。
三度目の銃声。
間隔が短い。
短すぎる。
前回なら、この間に走れた。
煙の中へ入り、敵が火薬を込め、棒で突き、火皿を整える間に、五十歩を詰められた。
だが今は違う。
二発目が来る。
三発目が来る。
走り出す前に、盾が削られる。
盾を捨てれば、平原で撃たれる。
盾に隠れれば、次の弾が来る。
「一発目は止まる」
レイバーが低く言った。
「二発目が来る前に走る。そういう戦だった」
彼の声が震えていた。
怒りか、恐怖か、悔しさか。
「なのに、二発目がもう来てやがる」
ロビンは槍を握った。
このままでは削られる。
敵は進みながら撃っている。
こちらが止まれば、ただ砕かれる。
「レイバー」
「ああ」
レイバーは一瞬だけ目を閉じた。
そして叫んだ。
「走れ! 止まるな! 盾を捨てろ! 走れ!」
灰鷹隊の槍兵が前へ出た。
枝束盾の後ろから飛び出し、煙の中へ走る。
リッカが真っ先に駆けた。
馬ではない。
馬を後ろへ残し、徒歩で槍を低く構えて走る。
彼女は速い。
誰よりも速い。
それでも、今日は遠かった。
「遅くない」
リッカが呟いた。
自分に言い聞かせるように。
「でも、遠い」
銃声。
彼女の横を走っていた隊士が倒れた。
リッカは止まらない。
ロビンは馬を蹴った。
雷が体内を走る。
神経が青白く熱を帯び、視界が鋭くなる。
「灰鷹隊、続け!」
槍の穂先に雷がまとわりつく。
ロビンは煙の中へ突っ込んだ。
◇
雷槍は届いた。
青白い穂先が、チェシー軍の前列を裂く。
銃剣を構えた兵が弾かれ、旗手が倒れ、横列の一部に穴が開く。
その瞬間だけ、旧い武は新しい銃を上回った。
ロビンの馬が敵列の端を抜ける。
リッカがその穴へ飛び込み、低い槍で二人を倒す。
オスカーの騎士団も右翼から突入した。
馬蹄が平原を叩き、剣が光り、騎士たちの怒号が響く。
「押し返せ! まだ折れるな!」
オスカーの声が戦場を貫いた。
北部公爵軍は強かった。
灰鷹隊も強かった。
ロビンも、リッカも、オスカーも、前より強くなっていた。
だが、穴は広がらなかった。
チェシー軍の後列が動く。
前列が崩れた場所へ、予備の横列が滑るように入る。
撃つ。
下がる。
次が出る。
銃剣を構える。
火薬筒兵が、撃った後にただ逃げる兵ではなくなっていた。
銃の先の刃が、槍衾のように並ぶ。
馬が嫌がる。
騎士が刃に絡め取られる。
歩兵が近づけば、銃床と銃剣で押し返される。
ロビンはもう一度雷槍を放った。
二列目を裂く。
だが、三列目が来る。
リッカが一人を倒し、次を躱し、三人目の銃剣を槍で払う。
それでも、敵は崩れない。
恐怖はある。
チェシー兵の顔にも、恐怖はある。
目は見開かれ、手は震え、口は何かを叫んでいる。
だが、彼らは列を離れない。
隣の者と同じ動きをする。
号令で撃つ。
号令で込める。
号令で刃を構える。
英雄ではない。
天才でもない。
ただ訓練された市民兵が、列となってそこにいた。
その列が、雷槍を飲み込もうとしていた。
「隊長! 中央が!」
誰かが叫んだ。
ロビンは馬首を返した。
帝国軍中央が押されている。
チェシー軍の射撃は、灰鷹隊だけに向けられていたわけではない。中央の帝国軍にも、東部公爵軍にも、同じように降り注いでいる。
魔術師が狙われて倒れる。
指揮官が撃たれ、旗が乱れる。
東部公爵軍の一部が後退し始めた。
帝国軍の横列に隙間が生まれる。
そこへチェシーの市民軍が進む。
歩く。
撃つ。
込める。
また歩く。
前へ。
整然と。
ロビンは、その光景に背筋が冷たくなった。
これは突撃ではない。
怒号でもない。
戦場を、作業のように進めている。
レイバーが馬で近づいてきた。
顔に泥と血がついている。自分の血ではないかもしれない。
「あいつら」
彼は息を荒げていた。
「あいつら、俺たちの勝ち方を覚えてやがる」
ロビンは答えられなかった。
レイバーはさらに言った。
「違う。覚えたんじゃねえ。潰すために作ってきたんだ」
銃声が響く。
枝束盾の残骸が平原に転がっている。
まだ弾を止めているものもある。
だが、止めきれない。
時代の速度が、盾の厚みを越えていく。
◇
撤退命令は、昼前に下った。
アルブレヒトの決断は早かった。
平原で押し返せない。
これ以上ここで踏みとどまれば、帝国軍中央が裂け、北部公爵軍も東部公爵軍も包まれる。
ヴァーレンハーフェンを失う前に、都市へ下がる。
平原ではなく、市街で止める。
それが決断だった。
「都市へ下がる!」
伝令が叫ぶ。
「隊列を崩すな! 負傷者を捨てるな! 灰鷹隊は右翼後衛!」
灰鷹隊は走った。
勝つためではない。
逃がすために。
ローレンスが負傷者の荷車を誘導する。
「先に重傷者! 歩ける人は肩を貸して! まだ戻れる、まだ戻れる!」
彼の声は震えていたが、折れていなかった。
リッカは後衛で追撃を払った。
馬上に戻り、短く槍を振るう。
チェシー兵が近づけば突き、撃たれれば身を伏せ、また走る。
ロビンは何度も雷槍を使った。
体が軋む。
指先が痺れる。
それでも、追撃を少しずつ止める。
オスカーの騎士団も殿に入った。
彼はまだ笑っていた。
「下がれ! 下がりながら噛みつけ! 犬のように逃げるな、狼のように退け!」
騎士たちが応える。
北部公爵軍の旗はまだ立っている。
灰鷹隊の隊旗も、泥と煙の中で揺れている。
だが、平原はもう帝国のものではなかった。
市門が近づく。
ヴァーレンハーフェンの南門。
その上で、都市の人々がこちらを見ている。
商人。
荷役。
女。
子ども。
彼らの街へ、敗れた軍が戻ってくる。
ロビンは胸が重くなった。
平原で止めるはずだった。
街を戦場にしないはずだった。
だが、できなかった。
「ロビン!」
レイバーが叫ぶ。
「門を塞がせるな! 荷車を二列にしろ! 銃兵は上へ! 市街戦に移る!」
「わかった!」
ロビンは隊士たちへ号令を飛ばした。
灰鷹隊は市門をくぐる。
平原から、チェシー軍の銃声が追ってくる。
銃剣の刃が、陽を受けて光っていた。
門の内側へ入った時、ロビンは振り返った。
平原に、枝束盾の残骸が散らばっている。
生木は裂け、土籠は砕け、縄は切れていた。
それでも、いくつかの枝束はまだ形を保っていた。
弾を受け、土をこぼしながら、兵を守った盾だった。
役に立たなかったわけではない。
多くの命を救った。
だが、戦の流れは止められなかった。
レイバーもそれを見ていた。
彼は何も言わなかった。
ロビンも言わなかった。
枝束は、まだ弾を止めていた。
ただ、時代を止めることはできなかった。




