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第33話 ヴァーレンハーフェン



 ヴァーレンハーフェンは、戦うための街ではなかった。


 少なくとも、そう見えた。


 帝都から南へ続く街道を進み、灰鷹隊がその街を望んだ時、まず目に入ったのは城壁ではなく、川だった。


 幅の広い河が、ゆるく曲がりながら街の東側を流れている。河岸には桟橋がいくつも突き出し、荷船が並び、倉庫が連なっていた。遠くからでも、穀物袋、塩樽、魚油の樽、麻布、木材、飼葉の山が見える。


 市場の屋根。


 高い倉庫。


 荷車の列。


 河を渡る大きな橋。


 商人と荷役と船曳きの声。


 本来なら、朝から晩まで物が動き続ける街なのだろう。


 ヴァーレンハーフェン。


 商品と港の街。


 帝都と南部国境の中間にある河港都市。


 南から帝都へ向かう者にとって、ここは避けて通れない。近くに大軍が渡れる渡河点は少なく、橋と河港と倉庫がここに集まっている。


 兵站を重んじる軍ほど、港を捨てて進めない。


 その意味を、ロビンは街を見た瞬間に理解した。


 ここを取られれば、帝都への道が開く。


 ここを守れなければ、南部から来る戦は帝都の門前まで届く。


 だから、ここで止める。


 止めなければならない。


「港町ってのは、賑やかなもんだと思ってたが」


 レイバーが馬上で呟いた。


「今日は葬式みてえだな」


 確かに、街の空気は重かった。


 港には船がある。


 倉庫には物資がある。


 市場には人もいる。


 だが、声が低い。


 商人たちは帳簿を抱え、荷役たちは兵に指示されながら荷を運び、女たちは子どもを抱いて家の戸口に立っている。


 帝国軍の旗。


 北部公爵軍の旗。


 東部公爵軍の先遣旗。


 それらが街の要所に立ち、倉庫の一部は軍用に接収されていた。


 市場の屋根の下には負傷者用の寝台が並べられ、橋の両端には槍兵が立つ。


 商業都市は、戦場の準備をしていた。


「ここを避けてくれりゃいいのにな」


 若い隊士が言った。


 レイバーは鼻を鳴らした。


「避けられるならな」


「なぜです」


「橋だよ。港だ。倉庫だ。飯と弾と馬の餌は、祈ったって湧かねえ。大軍が動くなら、渡れる川と食える荷が必要だ」


 レイバーは河の方を顎で示した。


「チェシーの連中は、前より兵站を考えるようになってる。なら、ここを放って進む馬鹿はしねえ」


 ロビンは頷いた。


 灰鷹隊は街の北側に割り当てられた区画へ入った。


 倉庫街の一角である。


 厚い石壁の倉庫、細い路地、屋根へ上がる外階段、川へ抜ける小道。帝都の下町とは違うが、街の匂いはある。


 市街警備を生業としてきた灰鷹隊には、こういう場所の呼吸がわかった。


 どの路地が逃げ道になるか。


 どの窓から弓や火薬筒を撃てるか。


 どこに荷車を倒せば道が塞がるか。


 どの倉庫に火が回ると危険か。


 ロビンが街を見る横で、レイバーはすでに地図を広げていた。


「早いな」


「街に入ったら、まず逃げ道だ」


「逃げる前提か」


「勝つ準備と逃げる準備は、同じ紙の裏表だ」


 レイバーは言った。


「勝つつもりで前に出る。逃げ道を知らずに前に出る奴は、ただの馬鹿だ」


 ローレンスが荷車から降り、周囲を見た。


「市場の屋根下を負傷者収容に使えるね。水場も近い。ただ、あそこは人目が多い。重傷者を置くなら奥の倉庫の方がいいかも」


「倉庫の壁は厚い」


 レイバーが頷く。


「銃弾も多少は止める」


「銃弾がここまで来る前提?」


 ローレンスの顔が少し曇る。


「前提にしたくねえから、今考えてる」


 リッカは馬から降り、路地を覗き込んでいた。


「狭い」


「嫌か」


 ロビンが尋ねる。


「嫌じゃない」


 リッカは槍を少し短く持ち替えた。


「長く突けないけど、近ければ速い」


 彼女らしい答えだった。


 リオンは倉庫街の壁に手を当てていた。


「商人の街だね」


「見ればわかる」


 レイバーが言う。


「いや、壁を見ればもっとわかる」


 リオンは石壁を軽く叩いた。


「火事を恐れている。盗賊を恐れている。税吏も恐れている。だが、戦を恐れて作られた街ではない」


 ロビンは街を見た。


 確かに、ここは砦ではない。


 人が暮らす場所だ。


 その場所を、戦が飲み込もうとしていた。




   ◇




 南部公爵軍の敗残兵は、街の西側の広場に集められていた。


 それを見た時、灰鷹隊の若い隊士たちは黙った。


 鎧がない者。


 兜を失った者。


 腕を吊った者。


 足を引きずる者。


 目だけが妙に大きく開いた者。


 彼らは、ただ負けた兵ではなかった。


 何が起きたのか理解できないまま、戦場から剥がれ落ちてきた者たちだった。


 ローレンスがすぐに動いた。


「包帯を。水も。熱がある人は日陰へ」


 彼は灰鷹隊の衛生係たちを連れて、広場へ入る。


 南部公爵軍の兵士の一人が、ロビンの灰青色の首布を見た。


「灰鷹……」


 声が掠れている。


「灰鷹隊か」


「そうだ」


 ロビンは膝をついた。


「何があった」


 兵士はしばらく口を開けたまま、言葉を探していた。


「撃たれた」


「火薬筒か」


「火薬筒だ。だが、違う」


「違う?」


「止まらない」


 兵士は震えた。


「音が、止まらないんだ。撃った。煙が出た。こっちは走った。いつもなら、煙の中へ入れば間に合う。装填の間に槍が届く。そう教わった。そう聞いた」


 ロビンの背後で、レイバーの表情が変わった。


 兵士は続けた。


「でも、煙の向こうで、もう次の銃口がこっちを向いていた」


 その場の空気が冷えた。


「どれくらい早い」


 レイバーが前へ出た。


 声は低い。


「装填だ。どれくらいだ」


「わからない」


「見たんだろ」


「見えない。煙で。でも、早い。こっちが五十歩を走る前に、二度目が来る。三度目も」


 レイバーは唇を噛んだ。


「後ろから込めてたか」


 兵士は混乱したように首を振った。


「後ろ?」


「銃口じゃねえ。後ろを開けてなかったか」


「わからない。だが、立ったままだった。前みたいに、棒で突き込んでいない者がいた」


 レイバーは短く息を吐いた。


 ロビンは彼を見た。


「知っているのか」


「噂だけだ」


「後装式か」


「たぶんな」


 火薬筒と後装式。


 シャルルというチェシーの技術英雄の噂。


 紙薬莢。


 噂として遠く語られたものが、今、南部敗残兵の震える声となって目の前にあった。


 別の兵士が、うわごとのように言った。


「近づいたんだ」


 彼は片腕を失っていた。


 ローレンスが手当てをしている。


「近づいた。馬も行った。騎士様が突っ込んだ。なのに、銃の先に刃があった」


「銃剣か」


 リオンが呟いた。


「槍みたいに並んでた。撃った後も逃げない。馬が止まった。倒れた。騎士様が落ちた。魔術師様も撃たれた。火を放とうとしたら、先に撃たれた」


 リッカが槍を握る手に力を込めた。


「南部公爵は」


 ロビンが尋ねる。


 兵士は目を伏せた。


「見ていない。最後に見た時は、旗の下にいた。次に見た時、旗がなかった」


 それが答えだった。


 ロビンは立ち上がった。


 南部公爵軍は弱兵ではない。


 オスカーがそう言っていた。


 その軍が崩れた。


 ただ負けたのではない。


 戦い方そのものを、破られた。


「レイバー」


「ああ」


 レイバーは南の空を見た。


「面倒なことになってる」


「枝束盾は」


「使う。使わなきゃもっと死ぬ」


 彼は言った。


「だが、前と同じつもりで走ったら、死ぬ」




   ◇




 軍議は、ヴァーレンハーフェン中央の商会館で開かれた。


 本来なら商人たちが取引を行う大広間である。


 今は長机に地図が広げられ、帝国軍、北部公爵軍、東部公爵軍、灰鷹隊の代表が並んでいた。


 壁には商会の紋章が残っている。


 黄金の天秤と、帆船。


 その下で、戦の話が行われる。


 アルブレヒト・フォン・ヴァルト公爵は地図の中央を指した。


「敵は南部街道を北上中。先鋒は明朝には都市南部の平原へ入る見込みだ」


 帝国軍の将校が頷く。


「都市を背に布陣し、平原で迎撃する。ヴァーレンハーフェンの橋と河港は絶対に守らねばならん」


 東部公爵軍の代表は、細面の騎士だった。


 名をエルンスト・フォン・ライゼンという。


 彼は儀礼的な口調で言った。


「東部公爵軍本隊は夜半までに到着予定。兵の疲労はありますが、布陣には間に合わせます」


 帝国軍将校は少し苛立ったように言った。


「疲労はどこも同じだ。南部公爵軍の敗北を取り戻すには、明日の会戦で敵を止めるほかない」


「敗北、と認めるのですか」


 リオンが静かに言った。


 将校は彼を睨んだ。


「何だ、君は」


「灰鷹隊のリオン・フォン・アルトベルクです」


「没落貴族の部隊が、軍議で言葉を挟むのか」


 部屋の空気が張った。


 ロビンは一歩前へ出ようとしたが、アルブレヒトが手で制した。


「彼らは前回の戦で撤退戦を支えた。ここにいる資格はある」


 公爵の言葉に、将校は口を閉じた。


 リオンは何事もなかったように続けた。


「認めるべきことを認めずに戦えば、兵は死にます」


 帝国軍将校は苦い顔をした。


 だが、反論はしなかった。


 アルブレヒトは地図を指す。


「都市南部の平原で迎撃する。だが、万一押し込まれた場合、都市内での抵抗も考える」


「市街戦ですか」


 東部の騎士が眉をひそめた。


「商業都市を戦場にすれば、被害は甚大です」


「承知している」


 アルブレヒトの声は重かった。


「だが、ここを抜かれれば帝都が危うい。都市を背にする以上、負ければ民を巻き込む。巻き込まずに済む道を探すが、目を逸らしても巻き込む事実は消えない」


 沈黙が落ちた。


 ロビンは地図を見た。


 都市南部の平原。


 そこから市門へ続く街道。


 倉庫街。


 河港。


 橋。


 もし平原で止められなければ、戦は街へ入る。


 それは避けたい。


 だが、避けたいだけでは避けられない。


「灰鷹隊」


 アルブレヒトがロビンを見た。


「お前たちは前線遊撃に入る。同時に、都市内への後退路、路地、倉庫、橋の確認を進めよ」


「承知しました」


「市街戦となった場合、お前たちの経験が必要になる」


 ロビンは頭を下げた。


 帝都の下町で積み重ねた日々。


 迷子を探し、盗賊を追い、路地を走り、屋根へ上り、倉庫の裏口を押さえた経験。


 それが、ここで戦のために使われる。


 そう思うと、胸の奥が重くなった。


 レイバーが地図に小さな印をつけていく。


「この通りは広い。敵の横列が入る。塞ぐなら荷車三台。ここは屋根が低い。銃兵を置ける。この倉庫は壁が厚いが、油があるから火は厳禁。橋へ抜ける裏道は二本。一本は避難民用に空ける」


 彼の声は早かった。


 すでに戦っている。


 剣や銃ではなく、地図と街で。


 ローレンスが別の紙へ負傷者の流れを書き込む。


 リッカは市門から平原へ出る道を見て、槍の長さを考えている。


 リオンは窓の外を見ていた。


 商会館の外では、商人たちが荷を運んでいる。


 彼らの街が戦場になることを、まだ完全には理解していない者もいるだろう。


 あるいは、理解したくないのかもしれない。




   ◇




 夕暮れ、ロビンは都市南部の外壁へ上がった。


 そこから平原が見えた。


 なだらかな草地。


 南へ続く街道。


 遠くに低い森。


 その向こうに、夕陽を背にした影があった。


 列。


 旗。


 荷車。


 煙。


 チェシー軍の前衛だった。


 まだ遠い。


 だが、整然としていた。


 足並みが揃っている。


 火薬筒の列が見える。


 その先端に、夕陽を受けて小さな光が並んでいた。


 刃だ。


 銃の先に、刃がついている。


 レイバーも隣でそれを見ていた。


 彼はしばらく黙っていた。


 やがて、低く言った。


「銃の先に、刃がついてる」


「ああ」


「撃って、すぐ次を撃って、それでも近づいたら刺す気だ」


 ロビンは槍を握った。


 前回の戦場を思い出す。


 枝束盾。


 煙。


 五十歩。


 リッカの突撃。


 雷槍。


 勝鬨。


 そして、夜の撤退。


 あの時、旧い武でもまだ戦えると思った。


 いや、思いたかった。


 だが敵は、あの勝ち方を覚えていた。


 そして潰しに来た。


「レイバー」


「何だ」


「勝てるか」


 レイバーはすぐには答えなかった。


 彼らしくなかった。


 いつもなら、勝つ方法を口にする。無理なら無理と言う。茶化すか、怒るか、少なくとも黙り込む男ではない。


 しばらくして、彼は言った。


「勝つために準備する」


 それは答えではなかった。


 だが、答えだった。


 ロビンは南の平原を見た。


 チェシー軍の旗が夕暮れの風に揺れている。


 ヴァーレンハーフェンの街の背後では、倉庫の灯が一つ、また一つと灯り始めた。


 商業都市は夜を迎える。


 その南で、新しい戦争が、整然とこちらへ歩いてきていた。


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