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第32話 最後の出陣式



 出陣式というには、あまりにも静かだった。


 夜明け前の帝都大路には、まだ薄い霧が残っている。石畳は夜露に濡れ、馬の蹄が踏むたびに鈍く光った。


 旗はあった。


 兵もいた。


 軍楽隊も、形ばかりではあるが並んでいた。


 だが、かつて皇太子軍がチェシー征伐へ向かった時のような華やかさはない。屋台も少ない。見物人も少ない。門前に集まった民衆は、歓声を上げるというより、何が起きるのかを確かめに来たような顔をしていた。


 南部公爵軍が敗れた。


 その噂は、公式発表より早く帝都を駆け巡っていた。


 宮廷は「南部方面における一時的混乱」と告げた。


 チェシー王国の反乱分子が不法越境し、南部方面で戦闘が発生した。帝国は秩序を回復すべく、迎撃軍を派遣する。


 そう発表した。


 だが、商人は知っていた。


 南部から来るはずの荷が止まったことを。


 兵站役人は知っていた。


 南部の倉庫印が押された荷車が戻ってこないことを。


 兵士の家族は知っていた。


 手紙が途絶えたことを。


 そして帝都の路地は、公式発表よりも正確なことを囁く。


 南部公爵軍は負けたらしい。


 チェシー軍はもう北上しているらしい。


 帝都へ来る道の途中、ヴァーレンハーフェンに迎撃軍が集まるらしい。


 ロビン・フォン・バーゼルは、灰鷹隊の列の前で、その囁きすべてを背中に受けていた。


 灰青色の首布。


 整えられた槍。


 馬上の隊士たち。


 少数ながら火薬筒を持つ銃兵隊。


 そして、正式な隊旗。


 交差する二枚の灰鷹の羽と、中央の雷槍。


 その旗が、帝都大路の朝風に揺れている。


 ロビンはその旗を見上げた。


 ついに、ここに立った。


 かつて、帝国軍の出陣式を道端から見上げるしかなかった。


 自分たちはまだ列に入れない田舎者だった。


 前の戦では、正式な出陣式の前に先発隊として泥道を進んだ。


 そして今、灰鷹隊は正式な隊旗を掲げ、帝都大路に並んでいる。


 夢見た光景だった。


 だが、その夢はひどく冷たかった。


「ようやく出陣式に出られたってのに」


 隣でレイバーが呟いた。


 礼装ではなく実戦装備。片手剣と短銃、腰には工具袋まで下げている。戦場へ行く格好で、式に立っていた。


「空気が重すぎるな」


「軽い出陣式などあるのか」


 ロビンが返す。


「あるだろ。昔の皇太子殿下のやつとか」


「あれも、戦場へ行く式だ」


「そうだが、あの時は皆、勝つ気でいた」


 レイバーは大路の先を見た。


「今日は、勝てるかどうかを見に来てる顔だ」


 ロビンは民衆を見た。


 確かに、歓声より不安が多い。


 灰鷹隊を見つけて手を振る子どももいる。北区の職人たちも来ている。魚屋の男も遠くにいた。だが、誰も心から浮かれてはいなかった。


 戦は遠いものではなくなっていた。


 南から、こちらへ来ている。


「隊長」


 ローレンスが駆け寄ってきた。


 背には医療箱、腰には帳簿袋、手には包帯の詰まった袋を持っている。出陣式に出る格好というより、すでに野戦病院へ向かうような格好だった。


「負傷者用の荷車、三台追加できました。ただ、薬草が少ないです」


「公爵家の倉庫は」


「出してくれた。でも帝国軍の分もあるから、全部は無理だって」


「わかった。現地で調達できるものは」


「ヴァーレンハーフェンは商業都市だから、在庫はあると思う。ただし価格がどうなっているか」


 ローレンスは言いながら、少し顔を曇らせた。


 戦場へ向かう前から、彼の戦いは始まっている。


 誰を乗せるか。


 どの薬を残すか。


 何を買い、何を諦めるか。


 ロビンは頷いた。


「任せる」


「うん」


 ローレンスは短く答え、また荷車の方へ走った。


 リッカは馬上で槍を抱えていた。


 彼女の栗毛の馬、パンが鼻を鳴らす。


 リッカはいつもより口数が少ない。


「リッカ」


「何」


「馬の調子は」


「いい」


「お前は」


「いい」


「本当に?」


 リッカは少しだけ眉を寄せた。


「ロビンを守る」


 返事になっていない。


 だが、それが彼女の答えだった。


「私は隊長だ。守られるだけでは」


「守る」


 リッカは言い直さなかった。


 ロビンは小さく息を吐いた。


「なら、私もお前を守る」


「いらない」


「いる」


「遅くなければ」


「努力する」


 リッカは少しだけ口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


 リオン・フォン・アルトベルクは列の少し後ろで隊旗を見上げていた。


 朝霧の中で、灰青の布が揺れる。


「綺麗な旗だ」


 彼は言った。


「昨日も見ただろう」


 レイバーが言う。


「何度見ても綺麗だと思っただけさ」


「素直に褒めると気持ち悪いな」


「では言い換えよう」


 リオンは薄く笑った。


「綺麗な旗ほど、遠くからよく見える」


 レイバーの顔から笑みが消えた。


 ロビンもリオンを見る。


「どういう意味だ」


「旗は目印だ。味方にも、敵にも」


 リオンの声は静かだった。


「それだけだよ」


 それだけではない、とロビンは思った。


 だが、今ここで問い詰めることでもなかった。


 旗は確かに目印である。


 集まるためのもの。


 誇るためのもの。


 そして、狙われるためのものでもある。


 父の手紙の言葉が蘇る。


 旗は布ではない。


 旗の下に集まった者たちの顔である。


 ロビンは隊士たちを見た。


 若い顔。


 緊張した顔。


 少し誇らしげな顔。


 恐怖を隠そうとしている顔。


 それらすべてが、この旗の下にある。




   ◇




 エレオノーラは、出陣式の列から少し離れた場所にいた。


 公爵家の護衛と侍女に囲まれ、灰色の外套をまとっている。


 腹は、もう隠しきれないほどではないが、見る者が見ればわかる。彼女は片手をそっとそこへ添えていた。


 ロビンは式の前に、彼女のもとへ向かった。


 大路の脇にある小さな石段。


 かつて民衆が凱旋を見上げた場所。


 今、エレオノーラはそこでロビンを待っていた。


「寒くありませんか」


 ロビンが最初に言うと、エレオノーラは少し笑った。


「またそれですの?」


「心配なので」


「わかっています」


 彼女は外套の前を軽く押さえた。


「私は大丈夫です」


「子は」


「まだ、あなたを心配させるほど暴れてはいません」


「そうですか」


「けれど、きっと聞いています」


 エレオノーラは腹に手を当てた。


「父が出陣する音を」


 ロビンはその手の上へ、自分の手を重ねた。


 まだ動きはわからない。


 だが、そこに命がある。


 その事実が、今は槍より重かった。


「帰ります」


 ロビンは言った。


 エレオノーラは彼を見た。


「それを言うと思いました」


「言わずにはいられません」


「では、私も言います」


 エレオノーラの目は静かだった。


「英雄になることではなく、帰ることを約束してください」


 ロビンは息を呑んだ。


 英雄。


 かつて憧れた言葉。


 騎士。


 皇帝の御楯。


 バーゼルの雷槍。


 そのすべてが、今はエレオノーラの言葉の前で少し遠くなる。


「約束します」


 ロビンは言った。


「私は帰ります」


「ロビン」


「はい」


「全部は、守れません」


 同じ言葉だった。


 だが、今はもっと切実だった。


「だから、何を守るかを間違えないでください」


 ロビンは彼女の手を握った。


「あなたと、この子です」


「それだけではありません」


「ええ」


 ロビンは灰鷹隊の列を見た。


「仲間も、民も、隊旗も。守れるだけ守ります」


「守れるだけ」


 エレオノーラはその言葉を繰り返した。


「少し、現実的になりましたね」


「レイバーのせいです」


「では、レイバーさんに感謝しなければ」


 二人は少しだけ笑った。


 笑いはすぐに消えた。


 軍楽隊が準備を始める音がした。


 時間だった。


「エリー」


 ロビンは小さく呼んだ。


「はい」


「名前を、考えておいてください」


「あなたも考えるのです」


「戦場で?」


「帰ってくる理由が増えるでしょう」


 エレオノーラは微笑んだ。


 強い人だ、とロビンは思った。


 強くあろうとしている人だ。


 だからこそ、置いていくのが怖かった。


 ロビンは深く頭を下げた。


 夫として抱きしめたかった。


 だがここは大路で、式の前で、彼は隊長だった。


 エレオノーラもまた、公爵家の娘であり、バーゼル家の妻だった。


 それでも、彼女はほんの一瞬だけ近づき、ロビンの手を強く握った。


「帰ってきて」


 声は小さかった。


 誰にも聞こえないほどに。


「必ず」


 ロビンも小さく答えた。


 そして手を離した。




   ◇




 出陣式は簡略だった。


 宮廷の役人が高台に立ち、巻物を広げる。


 その顔は青白い。


 眠っていないのだろう。


「チェシー王国に巣食う反乱分子は、帝国の慈悲を忘れ、再び秩序を乱し、南部国境を不法に侵した」


 チェシー共和国とは、やはり呼ばない。


 王国。


 反乱分子。


 帝国の言葉は変わらない。


 だが、戦場は変わっている。


「南部方面において一時的混乱が生じたものの、帝国はこれを速やかに鎮定すべく、迎撃軍を派遣する。皇帝陛下の御名のもと、秩序と安寧を取り戻すべし」


 一時的混乱。


 その言葉を聞いた時、民衆の中から小さなどよめきが起きた。


 誰も信じていない。


 少なくとも、全ては信じていない。


 ロビンは役人の声を聞きながら、南部公爵軍のことを考えた。


 彼らはどこで敗れたのか。


 どれほどの兵が戻らなかったのか。


 火薬筒の音は、どれほど速かったのか。


 まだ詳しい報告は来ていない。


 だが、チェシー軍はヴァーレンハーフェンへ向かっている。


 そこを抜かれれば、帝都への道が開く。


 ヴァーレンハーフェン。


 河港と倉庫の都市。


 街道と川が交わる兵站の要地。


 大軍が渡れる橋と港を持つ街。


 チェシー軍がそこを避けない理由は明白だった。


 兵站を重んじる軍ほど、港を捨てて進めない。


 逆に言えば、そこを守れなければ帝国は南部の扉を失う。


 役人の演説は短かった。


 拍手もまばらだった。


 だが、号令が下ると兵たちは動いた。


 帝国軍。


 北部公爵軍。


 灰鷹隊。


 東部公爵軍は現地合流予定と聞いている。


 アルブレヒト・フォン・ヴァルト公爵は、黒馬に跨っていた。


 その横にオスカー・フォン・ヴァルトがいる。


 オスカーはロビンを呼び寄せた。


「ロビン」


「はい」


「今度こそ、本当の戦だ」


 その言葉は重かった。


「前の戦も本物でした」


「そうだ。だが、あれはまだこちらが選んだ戦だった」


 オスカーは南の空を見た。


「今度は向こうが来る。戦場も、時も、敵が選んだ」


「はい」


「灰鷹隊は強くなった」


「はい」


「強くなった者ほど、自分の強さに頼る。頼りすぎるな」


 ロビンはオスカーを見た。


 武人である彼から出た言葉としては、意外なほど慎重だった。


「敵も強くなっている」


 オスカーは言った。


「南部公爵軍は弱兵ではない。それが破られた。忘れるな」


「承知しました」


「それと」


 オスカーは少しだけ声を低くした。


「姪を泣かせるな」


 婚礼の日にも聞いた言葉だった。


 ロビンは深く頷いた。


「帰ります」


「ならよい」


 オスカーは不器用に笑った。


 それが、ロビンが見た彼の穏やかな顔の一つだった。


 アルブレヒトはその横で静かに言った。


「ヴァーレンハーフェンで東部公爵軍と合流する。都市南部の平原で迎撃態勢を整える予定だ」


「はい」


「だが、予定は予定に過ぎぬ。現地の状況を見ろ。報告を怠るな」


「承知しました」


「灰鷹隊には市街警備の経験がある。もし都市内で混乱が起きた場合、お前たちの働きが必要になる」


 ロビンは一瞬、違和感を覚えた。


 まだ平原で迎撃する予定のはずだ。


 それでもアルブレヒトは、都市内の混乱を想定している。


 公爵は、最悪を考えている。


「心得ました」


 ロビンは答えた。




   ◇




 出陣の号令が下った。


 まず帝国軍の先遣が進む。


 次に北部公爵軍。


 灰鷹隊はその一翼として大路へ出た。


 隊旗が上がる。


 灰青の布が朝風を受けた。


 民衆の間から声が上がる。


「灰鷹隊だ!」


「ロビン隊長!」


「帰ってこいよ!」


 誰かがそう叫んだ。


 帰ってこい。


 それは、万歳よりも重かった。


 ロビンは馬上で背筋を伸ばした。


 手を振りたい気持ちはあった。


 だが、今は隊長として列を乱せない。


 彼は前を向いた。


 その横でレイバーが小さく言った。


「振り返りたい顔してるぞ」


「していない」


「してる」


「隊長だからな」


「なら前見てろ」


「ああ」


 レイバーは少し笑った。


「俺が代わりに見といてやる」


 ロビンは返事をしなかった。


 返事をすれば、声が揺れそうだった。


 レイバーは後ろを見た。


 エレオノーラがいた。


 灰色の外套。


 腹に添えた手。


 隣には侍女と護衛。


 その顔は凛としている。


 だが、遠くからでもわかるほど、目はロビンを追っていた。


 レイバーは小さく呟いた。


「見てるぞ」


「誰が」


「言わせんな」


 ロビンは前を向いたまま、目を閉じかけた。


 だが閉じなかった。


 前を見る。


 隊長として。


 夫として。


 父になる者として。


 灰鷹隊の列は帝都大路を進む。


 かつて見上げるだけだった道を、今度は自分たちが進んでいる。


 正式な隊旗を掲げて。


 軍馬を連ねて。


 槍と火薬筒を持って。


 夢見た光景だった。


 それなのに、空はもう冬の色をしていた。


 南門が近づく。


 帝都の外には街道が続いている。


 その先にヴァーレンハーフェンがある。


 河港と倉庫の都市。


 南から来る市民軍を止める場所。


 そして、まだ誰も知らぬ終わりの始まる場所。


 ロビンは槍を握った。


 灰鷹の隊旗は、朝の風を受けて進んだ。


 目指す先は、ヴァーレンハーフェン。


 そして、まだ誰も知らぬ冬だった。


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