第31話 帝都の秋は短く
帝都の秋は短い。
その年、ロビン・フォン・バーゼルは何度もそう思った。
朝には薄い霧が石畳を撫で、昼にはまだ夏の名残のような陽が差す。だが夕方になると北風が急に冷たくなり、夜には暖炉の火が恋しくなる。
季節が移るのが早い。
早すぎる。
エレオノーラの腹が少しずつ目立つようになった頃、帝都の空気もまた、目に見えぬ形で変わっていった。
最初は、値段だった。
パンが高くなった。
塩が高くなった。
飼葉が高くなった。
ローレンスは帳簿の前で、毎日のように唸っている。
「また上がってる」
「何が」
レイバーが、椅子を後ろへ傾けながら尋ねた。
「何もかも」
「雑だな」
「雑じゃないよ。本当に何もかもなんだ」
ローレンスは帳簿を指で叩く。
「パン、干し肉、豆、飼葉、薬草、包帯、馬具の革、釘。釘だよ、釘まで上がってる」
「釘は大事だ」
レイバーは急に真面目な顔になった。
「釘が高いと屋根も橋も直せねえ」
「だから困ってるんだよ」
ローレンスはため息をついた。
「隊の予算は増えてる。でも出費はもっと増えてる。下町の人たちは、もっと大変だと思う」
その言葉に、ロビンは黙った。
灰鷹隊の詰め所は、まだ暖かかった。
公爵家から支給される薪があり、食事があり、馬には飼葉がある。
だが下町は違う。
ロビンたちがかつて日々歩いた路地では、パンの厚みが薄くなり、店先の声から明るさが減っていた。
西方戦線は続いている。
帝国西部では共和国勢力との小競り合いが絶えず、兵も物資も金も吸い上げられていく。
帝都は遠い戦場を直接見ない。
だが、戦場は値札になって街へ戻ってくる。
徴発の札。
増税の告示。
兵士募集の張り紙。
そして、不満の声。
「今日の巡回は北区から大路裏、職人街、大学通り」
ロビンは地図を指した。
「大学通り?」
レイバーが眉を上げる。
「あそこは面倒くせえぞ」
「面倒だから行く」
ロビンは答えた。
「昨日、共和主義の集会があったらしい」
その言葉で、部屋の空気が少し硬くなった。
共和国。
以前なら、それは遠い国の話だった。
西方の大国。
チェシーの反乱分子。
帝国が認めない言葉。
だが最近、その言葉は帝都の壁に書かれるようになった。
王権は神ではない。
税は民の血である。
市民に権利を。
皇帝より議会を。
幼稚な落書きもあれば、妙に整った文句もある。
後者の方が厄介だった。
「灰鷹隊は治安維持部隊だ」
ロビンは隊士たちを見た。
「思想を裁く部隊ではない。だが、暴動、放火、暗殺、武器の持ち込みは止める」
「境目が曖昧になってきたな」
リオン・フォン・アルトベルクが静かに言った。
彼は壁際に立ち、腕を組んでいた。
「何がだ」
「思想と暴力の境目さ」
リオンの声はいつも通り冷静だった。
「誰かが税に怒る。誰かが演説する。誰かが石を投げる。誰かが剣を抜く。どこからが取り締まりで、どこからが弾圧なのか」
ロビンはリオンを見る。
「我々は民を守る」
「民から民を?」
「必要なら」
「その必要を決めるのは誰だい」
部屋が静かになった。
レイバーが椅子の脚を床へ戻した。
「リオン」
彼の声は低い。
「今の言い方は面倒だぞ」
「面倒な時代だからね」
リオンは薄く笑った。
「すまない。議論をしたいわけではない」
「なら何だ」
「ただ、我々はかつて下町の人々に手を振られていた。今は同じ人々の列を押し返すことがある。それを忘れない方がいいと思っただけだ」
ローレンスは目を伏せた。
リッカは何も言わず、槍を手に取った。
ロビンはしばらく黙っていた。
リオンの言葉は、痛かった。
痛いからこそ、否定できなかった。
「忘れない」
ロビンは言った。
「だが、今日も巡回には出る」
「それでいい」
リオンは頷いた。
「忘れずに出るなら」
◇
北区の通りは、以前より狭く感じられた。
道幅は変わっていない。
人の表情が変わったのだ。
灰青色の首布を見ると、子どもたちは今でも手を振る。屋台の主人も、顔見知りの職人も、ロビンたちに声をかける。
だが、その声に少しだけ遠慮が混じるようになった。
「隊長さん、今日も巡回かい」
「ええ」
「ご苦労なこった」
魚屋の男は笑った。
だが、その笑いは前より硬い。
店先の魚は少なく、値札は高い。
「最近、物騒ですから」
ロビンが言うと、男は鼻を鳴らした。
「物騒なのは、腹が減ってるからだよ」
その言葉に、隣の女が慌てて男の袖を引いた。
「やめなよ」
「いいだろ、灰鷹の隊長さんだ。昔から知ってる」
男はロビンを見た。
「なあ、隊長さん。戦はまだ続くのか」
ロビンはすぐには答えられなかった。
「西方のことなら、私には」
「そうじゃねえよ。チェシーだの西方だの、上の人間には名前が違うんだろうが、俺らからすりゃ全部戦だ。戦が続けば魚は減る。塩は高くなる。息子は兵に取られる。税は上がる」
男の声は大きくはなかった。
怒鳴ってもいない。
だからこそ、重かった。
「帝国は勝ってるんじゃなかったのか」
凱旋式の大路を、ロビンは思い出した。
皇太子の英断。
戦線整理。
チェシー王国の反乱分子への打撃。
帝国の大局。
言葉は美しかった。
だが、魚屋の店先に並ぶ魚は少ない。
「我々は、戻りました」
ロビンは言った。
「多くを帰しました」
「勝ったとは言わねえんだな」
男は静かに言った。
ロビンは答えなかった。
男はしばらくロビンを見て、それから小さく息を吐いた。
「悪い。あんたに言っても仕方ねえ」
「いえ」
「エリー様、身重なんだってな」
突然話が変わり、ロビンは少し固まった。
「どこでそれを」
「下町の耳をなめるなよ」
男は少しだけ笑った。
今度の笑いは、昔に近かった。
「めでてえことだ。元気な子が生まれるといい」
「ありがとうございます」
「その子が腹いっぱい食える世の中にしてくれや」
ロビンは深く頭を下げた。
魚屋の男は照れたように手を振った。
そのやり取りを、リオンが少し離れて見ていた。
彼の表情は読めなかった。
◇
大学通りでは、声が響いていた。
石造りの講堂の前に、若者たちが集まっている。
学生。
書生。
職人風の男。
商人の息子らしい者。
中には、貴族の次男三男に見える者もいた。
彼らは壁に張られた紙を前に、熱を帯びた議論をしていた。
「王権神授など古い迷信だ!」
「帝国は民の血で成り立っている!」
「チェシーでは村長が王を倒した。西方では市民が議会を持った。なぜ我らだけが皇帝の影に震えねばならない!」
ロビンたちが近づくと、声が少し静まった。
灰青色の首布。
正式な隊旗は持っていないが、灰鷹隊だとすぐにわかる。
一人の若者が前へ出た。
服は上等だが、貴族というより裕福な商家の息子に見える。
「これは合法的な討論です」
「許可は」
ロビンが尋ねる。
「大学構内の討論に、治安部隊の許可が必要ですか」
「通りを塞いでいる」
「民の声が通りに出ることも罪ですか」
周囲がざわめいた。
レイバーが小さく舌打ちする。
「こういうのが一番面倒なんだよ」
ローレンスは不安そうに周囲を見ている。
リッカは槍を持つ手に力を込めたが、ロビンが視線で制した。
「通りを塞がず、武器を持たず、騒ぎを起こさないなら、灰鷹隊は討論そのものを止めない」
ロビンは言った。
「だが、張り紙の中に皇族への殺害示唆がある。これは見過ごせない」
若者の顔が少し強張った。
ロビンは壁の一枚を指した。
そこには、皇帝の冠を斧で割る絵が描かれていた。
稚拙な絵だ。
だが意味は明白だった。
「誰が貼った」
「知りません」
「剥がす」
「言論の弾圧だ!」
別の若者が叫んだ。
ロビンは彼を見た。
「言論なら言葉でやれ。殺しを絵にするな」
若者は口を閉じた。
しかし敵意は消えない。
レイバーが部下に合図し、張り紙を剥がさせる。
その時、群衆の後ろから石が飛んだ。
ロビンの肩に当たる。
音は小さかった。
だが、その場の空気は一瞬で変わった。
リッカが動きかける。
「待て」
ロビンが低く言った。
「でも」
「待て」
もう一つ石が飛ぶ。
今度は若い隊士の額を掠めた。
血が流れる。
レイバーの目が鋭くなった。
「隊長」
「前へ出るな。盾を上げろ」
灰鷹隊の隊士たちは短い盾を構えた。
リオンが群衆の後方を見た。
「煽っている者がいる」
「見えるか」
「三人。学生ではない」
「捕らえられるか」
「このままでは難しい」
群衆は混乱していた。
叫ぶ者。
逃げようとする者。
石を投げた者を探す者。
灰鷹隊を罵る者。
ロビンは声を張った。
「通りを空けろ! 武器を持たぬ者は下がれ! 我らは討論を止めに来たのではない。暴力を止めに来た!」
その声は通った。
少なくとも、前列の若者たちは動いた。
だが後ろの三人は逃げた。
「リッカ!」
「わかった」
リッカは槍を抱えたまま横道へ走った。
速い。
人混みをすり抜け、壁を蹴り、路地へ消える。
しばらくして、短い悲鳴が二つ聞こえた。
リッカが二人を引きずって戻ってくる。
一人は逃げたらしい。
「遅い」
彼女は捕まえた男たちへ言った。
男たちは学生ではなかった。
髭を剃った跡が粗く、靴は路地の泥で汚れている。懐から小さな刃物が見つかった。
「雇われか」
レイバーが吐き捨てる。
「誰に」
ロビンが尋ねると、男たちは黙った。
リオンが彼らの顔を見た。
ほんの一瞬、何かを考えるような表情をした。
「知っているのか」
ロビンが聞く。
「いや」
リオンは首を振った。
「ただ、こういう手口を使う者は増えたと思っただけだ」
ロビンは群衆を見た。
学生たちは灰鷹隊を睨んでいる。
だが、投石犯が捕まったことで、先ほどの熱は少し冷めていた。
それでも、誰もロビンたちに拍手しなかった。
昔なら、悪党を捕まえれば歓声が上がった。
今日は違う。
灰鷹隊は、治安を守った。
だが、そこにいる多くの者にとって、灰鷹隊は同時に権力の側だった。
ロビンはその視線を受け止めた。
首布が、少し重く感じられた。
◇
夕方、詰め所へ戻ると、エレオノーラが待っていた。
公爵家の護衛と侍女を伴っているが、顔を見るなりロビンの肩へ目を向けた。
「怪我を」
「石です。大したことはありません」
「大したことがない怪我をした方は、皆そう言います」
ロビンは少し笑った。
「以前にも言われました」
「何度でも言います」
エレオノーラはロビンの肩に触れようとして、ふと手を止めた。
身重の彼女を立たせたままでいることに気づき、ロビンは慌てて椅子を用意する。
「座ってください」
「私は病人ではありません」
「わかっています。でも座ってください」
エレオノーラは少しだけ不満そうにしたが、結局座った。
その姿を見て、レイバーがにやにやする。
「隊長、完全に心配性の親父だな」
「黙れ」
「まだ生まれてねえのに」
「黙れと言った」
エレオノーラが笑う。
その笑い声で、詰め所の空気が少し柔らかくなった。
ロビンは彼女の隣に座った。
「今日は大学通りで少し騒ぎが」
「聞きました」
「早いですね」
「帝都の噂は、あなたが思うより速いです」
エレオノーラは静かに言った。
「そして、不安も速い」
ロビンは彼女を見る。
「不安」
「人々は苦しんでいます。税、物価、徴発。西方の戦。チェシーの噂。宮廷の発表を、皆がそのまま信じているわけではありません」
「あなたも、そう思いますか」
「はい」
エレオノーラははっきり頷いた。
「ただし、不満が正しいからといって、暴力が正しくなるわけではありません」
ロビンは今日の通りを思い出した。
若者たちの声。
石。
刃物を持った煽動者。
灰鷹隊を見る冷たい目。
「難しいですね」
「ええ」
エレオノーラは腹に手を当てた。
「この子が生まれる頃、帝都はどんな場所になっているのでしょう」
ロビンはすぐには答えられなかった。
かつてなら、帝都は帝国の中心であり、揺るがぬ場所だと言えたかもしれない。
今は、その言葉が喉を通らない。
「守ります」
ロビンは言った。
「あなたも、この子も、帝都も」
エレオノーラは彼を見た。
優しい目だった。
だが、少し悲しそうでもあった。
「全部は、誰にも守れません」
ロビンの胸に、その言葉が静かに沈んだ。
「だからこそ、何を守るかを間違えないでください」
「エリー」
「私は、あなたに英雄になってほしいわけではありません」
エレオノーラは言った。
「帰ってきてほしいのです」
ロビンは彼女の手を取った。
「帰ります」
その約束を、何度しただろう。
婚礼の後。
妊娠を知った日。
日々の任務の前。
そして今日も。
約束は、言うたびに重くなる。
それでも言わずにはいられなかった。
「必ず」
エレオノーラは、何も言わずにその手を握り返した。
◇
夜半、詰め所の門が激しく叩かれた。
ロビンはすぐに目を覚ました。
隊長室の机に突っ伏して仮眠していたらしい。
外では足音が走っている。
レイバーの怒鳴り声。
ローレンスの声。
リッカが槍を取る音。
ロビンは外套を羽織り、廊下へ出た。
門の前に、公爵家の伝令がいた。
馬は泡を吹き、伝令の顔は青い。
「ロビン隊長!」
「何事だ」
伝令は息を整える間も惜しむように、封書を差し出した。
封蝋はフォンヴァルト公爵家のもの。
緊急を示す赤紐。
ロビンは封を切った。
短い文だった。
だが、その短さがかえって重かった。
チェシー軍、国境を越える。
北東街道沿いに侵攻中。
火薬筒兵多数。
市民軍旗確認。
北部公爵軍、迎撃準備。
灰鷹隊、即時待機。
ロビンはしばらく紙を見ていた。
チェシー軍が越境した。
今度はこちらから攻めるのではない。
向こうが来た。
レイバーが横から紙を覗き込んだ。
顔から眠気が消える。
「来やがったか」
リッカは槍を握り直した。
ローレンスは一瞬だけ目を閉じ、それから医療箱を取りに走った。
リオンは暗い廊下の中で、静かに立っていた。
「秋は短かったね」
彼は小さく言った。
ロビンは何も返さなかった。
詰め所の中庭で、灰鷹隊の隊旗が夜風に揺れていた。
その風は、もう冬の匂いがした。




