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第30話 短い秋の幸福



 灰鷹隊の新しい詰め所には、雨漏りがなかった。


 それだけで、ローレンスは今でも時々感動していた。


 帝都館の北側に建てられたその詰め所は、決して豪華ではない。フォンヴァルト公爵家の本館と比べれば質素で、宮廷騎士団の宿舎と比べれば小さい。だが、灰鷹隊にとっては十分すぎるほど立派だった。


 屋根は雨を防ぐ。


 厩舎は馬を濡らさない。


 稽古場には砂が敷かれている。


 武具庫には槍が整然と並び、会議室には地図を広げられる机がある。


 そして中庭には、灰青の隊旗が掲げられていた。


 交差する二枚の灰鷹の羽。


 その中央を貫く雷槍。


 風が吹くたび、旗は静かに揺れる。


 ロビンは、その旗を見るたび、グラウフェルトの秘密基地を思い出す。


 端材で作った棒。


 汚れた布。


 リッカが描いた、鳥なのか鶏なのか鷹なのかわからない絵。


 おまえ、旗持ちな。


 その声は、今でも妙にはっきりしていた。


「隊長!」


 中庭の向こうから声が飛んだ。


 若い隊士が、槍を抱えて走ってくる。


「リッカさんがまた馬を勝手に増やそうとしてます!」


「馬は勝手に増えない」


 ロビンは言った。


「いえ、増やそうとしてます!」


 どういうことだ。


 ロビンが厩舎へ向かうと、リッカが栗毛の馬の前に立っていた。


 彼女が自分で選んだ馬である。


 名前はパン。


 なぜパンなのかと問えば、色がパンだから、という答えが返ってくる。


 そのパンの隣に、見覚えのない若い馬がいた。


「リッカ」


「何」


「その馬は」


「拾った」


「馬は拾うものではない」


「道にいた」


「道にいる馬には持ち主がいる」


「痩せてた」


 リッカは短く言った。


 若い馬は確かに痩せていた。毛並みも悪く、蹄も少し傷んでいる。捨てられたのか、逃げ出したのか、徴発を恐れた誰かが手放したのか。


 最近、そういう話は増えていた。


 物価が上がり、飼葉も高くなった。


 馬を持つことは、以前よりずっと重い負担になっている。


「ローレンスに相談したか」


「した」


「何と言った」


「帳簿が泣くって」


「なら駄目だ」


「でもローレンスも干し草持ってきた」


 ロビンは厩舎の奥を見た。


 そこには、困った顔のローレンスが干し草を抱えて立っていた。


「ローレンス」


「ごめん。痩せてたから」


「お前まで」


「飼うとは言ってないよ。今日は食べさせるだけ」


「今日食べさせたら、明日も食べさせるだろう」


「たぶん」


 ローレンスは正直だった。


 レイバーが後ろからやって来て、馬を見た。


「また増えたのか」


「増えていない。まだ」


 ロビンが言うと、レイバーは鼻で笑った。


「灰鷹隊は人も馬も拾うのが好きだな」


「最初にロビン拾ったの、レイバーでしょ」


 リッカが言った。


「拾ってねえよ。仲間に入れてやっただけだ」


「同じ」


「違う」


 ロビンは二人の口喧嘩を聞きながら、痩せた馬を見た。


 馬は干し草を食べている。


 生きようとしているものを、簡単に追い出せるはずもなかった。


「一週間だ」


 ロビンは言った。


 ローレンスの顔が明るくなる。


「一週間だけ様子を見る。その間に持ち主を探す。見つからなければ、公爵家へ届けを出す」


「隊長、甘い」


 レイバーが言う。


「お前ならどうする」


「俺なら三日って言う」


「大差ない」


「大差ある。四日分の飼葉代だ」


 ローレンスが真剣に頷いた。


「それは大差あるね」


 ロビンは少し笑った。


 こういう朝が、いつの間にか日常になっていた。


 戦場から戻り、家名が再興され、隊旗を得て、エレオノーラと結婚してから、二年近くが過ぎている。


 灰鷹隊は忙しかった。


 帝都巡衛、要人護衛、下町の治安維持、騎馬訓練、若い隊士の教育。


 時に荒事もあった。


 税に怒る群衆を抑え、徴発を嫌がる商人と役人の間に入り、怪しい集会を調べることもあった。


 それでも、朝の厩舎で馬を拾った拾わないと言い合える日々があった。


 ロビンはその日々を、大切に思っていた。


 大切に思いすぎるほどに。




   ◇




 エレオノーラは、最近よく眠るようになった。


 最初、ロビンは疲れているのだと思った。


 公爵家の娘であり、バーゼル家再興当主の妻であり、灰鷹隊長夫人であり、帝都館での付き合いも多い。彼女は決して弱音を吐かないが、やるべきことは多かった。


 だが、食卓でパンを前にして少し顔をしかめた時、ロビンは心臓が跳ねるほど驚いた。


「具合が悪いのですか」


「少しだけです」


 エレオノーラは微笑んだ。


 白い顔。


 だが、病の青白さではない。


「医師を呼びます」


「もう診ていただきました」


「いつ」


「昨日」


「なぜ言わなかったのです」


「確かめたかったのです」


 ロビンは椅子から立ち上がりかけた。


「病ですか」


「いいえ」


「では」


 エレオノーラは、少しだけ目を伏せた。


 それから、ロビンを見た。


「ロビン」


「はい」


「あなたは、父になります」


 部屋の音が消えた。


 窓の外で馬車が通ったはずなのに、その音も遠くなった。


 ロビンは、ただエレオノーラを見ていた。


 父になる。


 自分が。


 ロビン・フォン・バーゼルが。


 グラウフェルトで手書きの旗を持たされていた少年が。


 帝都で田舎者と笑われた若者が。


 戦場で橋を落とし、家名を戻し、彼女と結ばれた自分が。


「……私が」


「はい」


「父に」


「はい」


「本当に」


「医師はそう言いました」


 エレオノーラは少し笑った。


「雷槍の隊長でも、こういう時は言葉を失うのですね」


 ロビンは何か言おうとした。


 だが言葉が出ない。


 戦場では号令を出せた。


 公爵の前では礼を述べられた。


 婚礼では誓いも言えた。


 なのに今は、ただ胸がいっぱいで、何も言えない。


 エレオノーラが静かに手を差し出した。


 ロビンはその手を取る。


 彼女の手は温かかった。


「触れても」


 ロビンは尋ねた。


 エレオノーラは頷いた。


 ロビンは恐る恐る、彼女の腹へ手を当てた。


 まだ何もわからない。


 膨らみもほとんどない。


 動くはずもない。


 それでも、そこに何かがいるのだと思うと、手が震えた。


「怖いですか」


 エレオノーラが尋ねる。


「怖いです」


 ロビンは正直に答えた。


「嬉しいのに?」


「嬉しいからです」


 エレオノーラは、婚礼の日と同じように微笑んだ。


「なら、一緒に持ちましょう」


「何をですか」


「怖さも、嬉しさも」


 ロビンは目を閉じた。


 二年前、彼女は幸せを一緒に持ちましょうと言った。


 今度は怖さも嬉しさも一緒に持とうと言う。


 この人を妻にできてよかった。


 心から、そう思った。




   ◇




 報せを聞いた灰鷹隊は、予想通り騒がしくなった。


 最初に泣いたのはローレンスだった。


「まだ生まれていない」


 ロビンは言った。


「わかってる」


「ならなぜ泣く」


「嬉しいからだよ!」


 ローレンスは本気で泣いていた。


 婚礼の時と同じだった。


 いや、あの時より少しひどいかもしれない。


「ロビンが父親に……エリー様が母親に……バーゼル家に子が……」


「落ち着け、ローレンス」


 レイバーが肩を叩く。


「泣くには早え」


「早くない」


「早いだろ。生まれたらどうすんだ」


「もっと泣く」


「だろうな」


 レイバーは呆れたように笑った。


 だが、その目元も少し赤かった。


「レイバー」


 ロビンが言うと、彼はそっぽを向いた。


「これは風だ」


「屋内だ」


「じゃあ埃だ」


「掃除はした」


「うるせえな」


 レイバーは乱暴に鼻をすすった。


「隊長が親父かよ。世も末だな」


「そこまでか」


「子どもが槍持ったらどうすんだ」


「まだ早い」


「歩く前に持つかもしれねえ」


「持たせるな」


 リッカは黙っていた。


 いつものように素っ気ない顔で、壁にもたれている。


 ロビンは少しだけ身構えた。


 リッカはその視線に気づき、短く言った。


「おめでとう」


「ありがとう」


「じゃあ、槍教える」


「気が早い」


「早くない。子どもはすぐ大きくなる」


 ローレンスが涙を拭きながら頷いた。


「それは本当にそう」


「まず無事に生まれることが先だ」


 ロビンが言うと、リッカは真面目な顔で頷いた。


「それも大事」


「それが一番大事だ」


「じゃあ、無事に生まれたら槍」


「なぜ槍から離れない」


「バーゼルだから」


 リッカは当然のように言った。


 ロビンは笑った。


 笑いながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 レイバーが腕を組む。


「名前はどうすんだ」


「まだ考えていない」


「男なら?」


「考えていない」


「女なら?」


「考えていない」


「考えろよ、親父」


 親父。


 その言葉に、またロビンは少し固まった。


 レイバーがにやりと笑う。


「慣れねえ顔してんな」


「慣れない」


「まあ、俺も慣れねえ」


 その時、リオン・フォン・アルトベルクが静かに杯を掲げた。


「祝福するよ、ロビン」


「ありがとう、リオン」


「バーゼル家は、本当に戻っていくんだな」


 その言葉は穏やかだった。


 だが、ほんの少しだけ遠かった。


 ロビンはリオンを見た。


 リオンは微笑んでいる。


 祝福の顔だ。


 それでも、その目はどこか眩しいものを見るようだった。


「リオン」


「何かな」


「お前にも、いつか」


「私の話はいい」


 リオンは柔らかく遮った。


「今日は君の子の話だ」


 ロビンはそれ以上、踏み込まなかった。


 幸福な場に影を探すのは、失礼な気がした。


 それに、今日くらいは幸福でよかった。


 この日くらいは。




   ◇




 アルブレヒト・フォン・ヴァルト公爵は、報せを聞いてしばらく黙っていた。


 ロビンは緊張していた。


 エレオノーラは隣で落ち着いている。


 父と娘である。


 ロビンにはわからない何かが、二人の間にはあるのだろう。


 やがて、アルブレヒトは静かに息を吐いた。


「そうか」


「はい、お父様」


「無理をするな」


 最初の言葉は、それだった。


 政治でも、家名でも、血筋でもない。


 娘の体を案じる父の言葉だった。


 エレオノーラは微笑んだ。


「はい」


「ロビン」


「はい」


「お前も無理をさせるな」


「決して」


「決して、という言葉は重いぞ」


「承知しております」


 アルブレヒトは頷いた。


 その目に、わずかな安堵が浮かんだ。


 公爵として見れば、この報せは大きい。


 バーゼル家にフォンヴァルトの血が入る。


 再興した家はより強く公爵家へ結びつく。


 灰鷹隊の隊長は、もはや単なる戦功ある若者ではなく、公爵家の娘婿であり、次代へ血をつなぐ者になる。


 政治的意味は、いくらでもあった。


 だが、アルブレヒトはすぐにはそれを口にしなかった。


「エレオノーラ」


「はい」


「よく知らせてくれた」


 エレオノーラの目が少し潤んだ。


「はい」


 その横で、オスカーは腕を組んでいた。


 なぜか難しい顔をしている。


「私は」


 オスカーが言った。


「大叔父になるのか」


「そうですね、兄上」


 アルブレヒトが答える。


「大叔父」


 オスカーはその言葉を噛みしめた。


「悪くないな」


 ロビンは少し笑いそうになった。


 だが、オスカーの顔が真剣なので耐えた。


「ロビン」


「はい」


「子が生まれたら、剣と槍、どちらを先に持たせる」


「兄上」


 アルブレヒトが今度こそ強めにたしなめた。


「生まれる前から武器の話をするな」


「大事なことだ」


「大事ではあるが、早い」


「リッカも同じことを言っていました」


 ロビンが思わず言うと、オスカーは満足そうに頷いた。


「槍の娘はわかっている」


 エレオノーラが笑った。


 アルブレヒトも、ついに少し笑った。


 公爵家の部屋に、柔らかい空気が流れた。


 この瞬間だけは、帝国の戦費も、共和国の噂も、宮廷の陰謀も遠かった。


 一人の娘が母になり、一人の若者が父になる。


 ただそれだけのことが、何より大きく感じられた。




   ◇




 その夜、ロビンとエレオノーラは二人で庭を歩いた。


 婚礼の日にも歩いた庭である。


 白い花の季節は過ぎ、今は淡い黄色の小花が咲いていた。空気は少し冷たい。秋は来ている。だが、帝都の秋はいつも短い。気づけば北風が吹き、冬の匂いが石畳に降りる。


「寒くありませんか」


 ロビンが尋ねる。


「少しだけ」


 エレオノーラは答えた。


 ロビンは外套をかける。


「あなたは心配しすぎです」


「心配します」


「これからずっと?」


「おそらく」


「それは大変ですわね」


「覚悟します」


 エレオノーラは笑った。


 ロビンは彼女の横を歩きながら、まだ顔も知らない子のことを考えた。


 男か女か。


 槍を持つのか。


 持たないのか。


 グラウフェルトへ連れて行けるだろうか。


 シーベルト火山を見せたい。


 灰の野を歩かせたい。


 父に抱かせたい。


 レイバーは何を教えるだろう。


 ローレンスは泣くだろう。


 リッカは本当に槍を教えるだろう。


 リオンは、少し離れて微笑むだろうか。


 そんな未来が、手の届くところにあるように思えた。


 庭の外、遠くの大路で誰かが叫んだ。


 内容までは聞こえない。


 ただ、共和国、という言葉だけが風に乗ってかすかに届いた。


 ロビンは足を止めかけた。


 エレオノーラがその手を握る。


「ロビン」


「……はい」


「今は、ここにいてください」


 ロビンは彼女を見た。


 エレオノーラは穏やかに笑っていた。


 不安を知らない笑みではない。


 不安を知ったうえで、今を選ぶ笑みだった。


「はい」


 ロビンは頷いた。


 遠くの声は、庭の中までは入ってこなかった。


 少なくとも、その夜は。


 ロビンはエレオノーラの腹にそっと手を当てた。


 まだ動かない命。


 まだ名前もない未来。


 その小さな未来を守るためなら、自分は何でもできるような気がした。


 帝都の秋は短い。


 けれど、その短い秋の中で、ロビン・フォン・バーゼルは確かに幸福だった。


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