第29話 紙薬莢の市民軍
卵は、よくできている。
シャルルは、そう思っていた。
薄い殻の中に、必要なものが過不足なく収まっている。白身は白身として、黄身は黄身として、互いを邪魔せず、けれど一つにまとまっている。持ち運びもできる。数も揃えられる。茹でれば保存も利く。割ればすぐ使える。
小さな奇跡である。
もちろん、そんなことを兵器研究局の会議で真顔で言えば、たいていの者は困った顔をする。
現に、今もそうだった。
「局長」
机の向こうで、若い技師が眉間を押さえていた。
「また卵ですか」
「また卵だ」
シャルルは殻を剥いた茹で卵を皿に置き、横に白いソースを添えた。
マヨネーズ。
かつて養鶏所の息子だった彼が、茹でた卵に合う調味料を探して作ったものだ。
今ではチェシー共和国の都市部では珍しくもなくなった。帝国の帝都ですら流行ったと聞く。あちらの貴族令嬢が下町でそれを挟んだパンを食べていた、などという噂まで商人から聞いたことがあった。
世の中、何がどこへ届くかわからない。
「卵は偉い」
シャルルは言った。
「必要なものを一つの殻に包んでいる」
「それは昨日も聞きました」
「昨日聞いて、今日も理解していないなら、また言う必要がある」
技師は諦めたように息を吐いた。
シャルルは卵の隣に、細長い紙包みを置いた。
白い紙で巻かれ、端を捻って閉じられている。
卵ほど丸くはない。
だが、思想は同じだった。
「これもだ」
シャルルは紙包みを指で叩いた。
「弾丸、火薬、必要な分量。それを一つに包む。兵士は袋を探らなくていい。火薬を量らなくていい。風でこぼさない。雨に濡らさない限り、同じ量を、同じ手順で、同じ速さで使える」
「紙薬莢」
「そう」
シャルルは頷いた。
「卵と同じだ」
「違うと思います」
「細部は違う」
「細部というか、ほとんど」
「重要なのは思想だ」
若い技師は反論を飲み込んだ。
この局長は、時々妙な比喩を使う。
だが、その妙な比喩の後には、たいてい厄介な発明が出てくる。
種痘。
石鹸。
規格化されたネジ。
軍用缶詰。
そして火薬筒。
シャルル・スヴォボダは、チェシー共和国では英雄と呼ばれている。
本人はその呼び名を好まない。
彼は王ではない。
将軍でもない。
政治家としても、演説家としても、一流ではなかった。
革命の時、王宮へ踏み込んだのは義父であり、民兵を率いた者たちであり、街頭で叫んだ若者たちである。シャルルはその後ろで、火薬と石鹸と帳簿を見ていた。
それでも、彼の作ったものは国を変えた。
だから人は彼を英雄と呼ぶ。
シャルルにとっては、少し居心地の悪い呼び名だった。
英雄という言葉には、どうも一人で世界を変えたような響きがある。
世界を変えるのは、一人ではない。
決まった幅の紙。
同じ重さの火薬。
同じ長さの銃身。
同じ号令で動く兵士。
そういう退屈なものの積み重ねが、世界を変える。
彼はそう考えていた。
◇
兵器研究局の会議室には、大きな地図が広げられていた。
チェシー共和国の北東から帝国領へ続く街道。
川。
橋。
森。
村。
小さな宿場。
そして、赤い印がいくつも打たれている。
前回の戦、帝国軍が越境し、北部公爵軍と灰青色の首布を巻いた部隊が撤退していった道である。
「この橋で止められた」
シャルルは地図の一点を指した。
ブレン村の橋。
報告書には、そう記されている。
帝国軍は一度その橋を補強し、撤退時に破壊した。
追撃隊は川の手前で止まった。
工兵を呼び、橋を架け直すには時間がかかる。浅瀬を探すには土地勘が足りない。無理に渡れば、対岸で叩かれる。
結果、帝国軍は逃げた。
いや、逃げ切った。
シャルルはその違いを軽んじなかった。
「負けたわけではありません」
参謀の一人が言った。
「我が軍は帝国軍を退けました」
「そうだ」
シャルルは頷く。
「退けた。だが、追えなかった」
参謀は黙った。
勝利の報告書には、書きたくない行がある。
シャルルはそこを読むのが仕事だった。
「前回、我々は迎撃には成功した。だが侵攻には移れなかった。追撃も不十分だった。敵は橋を落とし、荷駄と負傷者を逃がし、軍を崩さず撤退した」
「北部公爵軍の動きが予想以上でした」
「それと、灰鷹隊だ」
その名を出すと、部屋の空気が少し変わった。
チェシー側の報告書では、その部隊の扱いはまだ小さい。
帝国軍全体から見れば、数百にも満たない公爵家隷下の部隊に過ぎない。正式な騎士団ですらなかった時期もある。だが、戦場で実際に相対した者たちは、その名を覚えていた。
灰青色の首布。
生木の枝束盾。
装填の隙を突く突撃。
馬上から青白い雷をまとって突き込む槍使い。
そして、撤退路を守り、橋を落とした泥臭い指揮。
「旧い軍隊だ」
参謀の一人が言った。
貴族の槍。
魔法。
騎士。
旗。
帝国の古いものを寄せ集めたような部隊である。
だが、シャルルは首を横に振った。
「旧い。だが愚かではない」
会議室が静かになった。
「愚かな敵なら、あの戦術は出てこない。火薬筒の装填間隔を見抜き、生木と土で弾を止め、煙の向こうを走り抜けた。騎兵で追撃を遅らせ、橋を落とした。あれは、こちらを見ていた敵だ」
シャルルは紙薬莢を手に取った。
「見ていた敵は、次も見る。だから我々は、次を変えなければならない」
若い技師が頷いた。
「紙薬莢で、装填を短縮する」
「それだけでは足りない」
シャルルは机の上の金属部品を指した。
新型火薬筒の機関部。
銃口から火薬と弾を押し込む旧式ではない。
後ろを開き、紙薬莢を差し込み、閉じる。
後装式。
「兵士が立ったまま、姿勢を大きく崩さず、次弾を込められるようにする。煙の中を敵が走ってきても、二発目を間に合わせる」
「全軍配備には時間がかかります」
「全軍でなくていい。前列からだ」
「費用もかかります」
「人を失うより安い」
シャルルは即答した。
費用の話は嫌いではない。
むしろ重要だ。
だが、安さだけで旧式を使い続ければ、市民の子が死ぬ。
共和国の兵士は、王に捧げる駒ではない。
彼らは畑から来た。
工房から来た。
店から来た。
養鶏所から来た者もいる。
彼らは国を守るために銃を取る。
ならば、国は彼らを無駄に殺さない道具を用意しなければならない。
「騎士を倒すための銃、ですか」
若い参謀が言った。
シャルルは彼を見た。
「違う」
声が少し強くなった。
「市民を騎士に殺されないための銃だ」
参謀は口を閉じた。
シャルルは自分でも、言葉が強くなったことに気づいた。
彼は騎士が嫌いなわけではない。
槍を持つ者が嫌いなわけでもない。
報告書にある灰鷹隊の隊長は、勇敢だったという。
レイバーという副長らしき男は、よく考える敵だったという。
リッカという小柄な槍使いは、信じられない速さで火薬筒兵へ飛び込んだという。
彼らが悪人だとは思わない。
しかし、戦場で市民兵の前に立つなら、倒さねばならない。
勇敢であればあるほど、次は殺し方を考えなければならない。
戦争とは、時々そういう最低な仕事になる。
◇
午後、シャルルは訓練場へ出た。
空は低く曇っている。
季節は秋のはずだったが、風にはもう冬の気配があった。
訓練場には、市民軍の兵士たちが並んでいた。
かつての王国軍とは違う。
貴族の家臣団でも、傭兵の寄せ集めでもない。
村の若者。
職人の息子。
商人の弟。
教師。
粉挽き。
元王国兵。
革命の時に槍を取った者。
彼らが同じ制服を着て、同じ長さの火薬筒を持っている。
まだ粗い。
号令に少し遅れる者もいる。靴の紐を直し忘れる者もいる。銃口の向きに注意される者もいる。
だが、二年前より整っていた。
革命は叫ぶだけでは続かない。
国家は、パンと靴と弾薬でできている。
シャルルはそれを嫌というほど知っていた。
「第一列、構え!」
号令が飛ぶ。
兵士たちが火薬筒を構える。
先端には短い刃が取り付けられていた。
銃剣。
槍ほど長くはない。
騎士の槍を正面から受けるには心許ない。
だが、何もないよりはるかにいい。
火薬筒兵は、撃った後にただの獲物になってはならない。
突撃してくる槍兵を恐れて崩れれば、そこで終わる。
だから銃に刃を付ける。
兵士に、まだ戦えると思わせる。
「撃て!」
乾いた音が揃う。
白煙が広がる。
「後装、開け!」
兵士たちが機関部を開く。
「薬莢!」
紙包みを差し込む。
「閉じ!」
金属音。
「構え!」
二発目の構え。
シャルルは秒を数えていた。
旧式より速い。
まだ遅い者もいる。
紙薬莢を落とした兵が、教官に怒鳴られている。
だが、実用になる。
煙の向こうを灰青色の首布が走ってきても、二発目が間に合う。
少なくとも、間に合う可能性がある。
「銃剣、構え!」
兵士たちが足を開き、刃を前へ出す。
横列が、細い鉄の生け垣のようになった。
騎士の馬がこれへ突っ込むかどうか。
突っ込めばどうなるか。
シャルルは、頭の中で何度も計算する。
完全ではない。
完璧な兵器などない。
だが、前回とは違う。
初弾を耐え、煙の中を走る。
あれは勇敢な戦術だった。
だから、二度目は許してはならない。
訓練場の端で、義父が見ていた。
革命後、チェシー共和国の大統領となった男である。
かつては村長だった。
シャルルの妻の父。
王を倒し、共和国を宣言し、今も議会と軍と民衆の間で胃を痛めている男。
「どうだ」
義父が尋ねた。
「形にはなっています」
「勝てるか」
「勝てる軍に近づいています」
「近づいている、か」
「勝つかどうかは、兵器だけでは決まりません」
シャルルは訓練場を見た。
「補給、道路、橋、靴、塩、干し肉、馬車、地図、工兵。前へ進む軍は、戦うより先に食べなければならない」
義父は苦い顔をした。
「また帳簿の話か」
「帳簿のない革命は、飢えます」
「耳が痛い」
「痛い耳が残っているだけ幸運です」
義父は笑った。
疲れた笑いだった。
革命は、王を倒した時に終わらなかった。
むしろ、そこから始まった。
貴族の土地をどうするか。
旧王国兵をどう扱うか。
税をどう集めるか。
西方の共和国とどう付き合うか。
帝国が再び攻めてきたらどうするか。
王権神授を否定した国は、周囲の王や皇帝にとって存在そのものが挑発だった。
だからチェシーは、守るだけでは済まない。
守るために、前へ出る必要があった。
「西方との調整は」
シャルルが尋ねる。
「友好は深まっている」
義父は言った。
「だが、お前の言う通りだ。外交に個人間の友情はない。共和国同士だからといって、永遠の友ではない」
「はい」
「彼らは帝国を弱めたい。我々は帝国に潰されたくない。今は利害が一致している」
「今は」
「そう、今は」
義父は訓練場を見た。
「我々は王を倒した。だが、王がいなくなった世界が平和になるわけではなかった」
シャルルは頷いた。
彼には、時々先の景色が見える気がする。
共和国。
国民の権利。
市民軍。
その先に、より大きな国家と、より大きな戦争が来る。
自由の名で兵を集め、国民の名で隣国へ進む時代。
王冠が消えても、砲声は消えない。
むしろ、民衆の力を動員する国家は、古い王国よりも大きな戦争をするかもしれない。
そんな予感があった。
だが、今それを口にしても、誰にも伝わらないだろう。
シャルル自身にも、まだうまく言葉にできない。
「局長」
教官が駆け寄ってきた。
「銃剣隊形の第三試験、始めます」
「続けてください」
「はっ」
教官が戻る。
訓練場の反対側から、騎兵役の兵士たちが木槍を持って進み出た。
馬ではない。
徒歩で突撃を模擬する。
銃剣兵がそれを受ける。
最初の衝突はぎこちなかった。
何人かが腰を引き、何人かが刃を上げすぎる。
教官の怒号が飛ぶ。
それでも、列は崩れなかった。
シャルルはその様子を見ながら、灰青色の首布を想像した。
報告書の中の敵。
雷をまとった槍。
生木の盾を捨て、煙の中を走る若者たち。
彼らはきっと、次も勇敢に走る。
だからこそ、その勇敢さを殺す準備をしなければならない。
シャルルは、自分の考えた言葉に少しだけ嫌気が差した。
勇敢さを殺す。
ひどい言葉だ。
だが、市民を生かすためなら、ひどい言葉も必要だった。
◇
夕方、兵器研究局の倉庫では、紙薬莢の箱詰めが行われていた。
窓の外では細い雨が降っている。
作業台の上に、紙包みが並ぶ。
一つ。
二つ。
三つ。
数える者。
箱へ詰める者。
湿気を避けるため油紙をかぶせる者。
帳簿へ数を記す者。
シャルルはその作業を見ていた。
兵士たちは剣よりも先に、これを必要とする。
紙。
火薬。
鉛。
規格。
訓練。
それらが揃って初めて、市民軍は軍になる。
若い技師が、試作品の一つを持ってきた。
「局長、湿気対策の新しい油紙です」
「試験は」
「三日間の雨天保管では問題なし。十日試験は継続中です」
「十日で駄目なら、行軍中に駄目です」
「はい」
「やり直しを前提に記録を」
「承知しました」
技師は去りかけ、振り返った。
「局長」
「何です」
「本当に、帝国へ進むのですか」
シャルルはすぐには答えなかった。
倉庫の奥で、箱が閉じられる音がする。
木箱に焼き印が押される。
チェシー共和国兵器研究局。
市民軍第三補給廠。
「帝国が我々を放っておくなら、進まなくて済むかもしれません」
シャルルは言った。
「ですが、彼らは我々をチェシー王国の反乱分子と呼び続けています」
「共和国とは認めない」
「認めれば、自分たちの足元を見ることになる」
帝国にとって、チェシー共和国は存在してはならない国だった。
王が倒され、村長が大統領となり、平民が銃を持つ。
そんなものが隣にあっては困る。
だから、いつかまた攻めてくる。
あるいは、こちらが攻める前に、別の戦線で弱る。
どちらにせよ、戦争は来る。
シャルルはそう見ていた。
「戦争は嫌いですか」
技師が尋ねた。
「好きな者がいるなら、兵器局から追い出した方がいい」
「兵器を作る局なのに?」
「兵器を好きな者に兵器を作らせると、使いたくなる」
技師は苦笑した。
「局長は、使いたくない?」
「使わずに済む兵器が一番いい」
シャルルは箱詰めされた紙薬莢を見た。
「だが、使う時に足りない兵器は最悪だ」
雨音が強くなった。
倉庫の屋根を叩く音が、一定の調子で続く。
シャルルはふと、養鶏所の屋根を思い出した。
雨の日、鶏たちは小屋の中で騒ぐ。
卵を集め、籠に詰め、割れないように布をかける。
あの頃、彼は卵のことだけを考えていた。
いや、正確には、卵と、それに合う料理のことを。
それが今、紙に包んだ弾薬を箱へ詰めている。
人生はおかしな方向へ転がる。
彼が作りたかったのは、茹で卵に合うソースだった。
だが、彼が変えてしまったのは、戦場だった。
シャルルは茹で卵を一つ、手に取った。
殻に小さな罅が入っている。
それを見て、ふと思った。
殻は、割れるためにもある。
中身を守るためにあり、いつか割られるためにもある。
国も、制度も、古い秩序も、同じなのかもしれない。
彼は卵を机に戻した。
「銃剣の取り付け部、明日もう一度確認します」
「はい」
「紙薬莢は湿気試験を続行。後装部の閉鎖不良は、工房ごとに差がある。規格を揃えること」
「承知しました」
「それと」
シャルルは少しだけ考えた。
「兵士用の卵料理の保存試験も続けます」
技師がまた眉間を押さえた。
「この流れで卵に戻りますか」
「兵士は食べなければ撃てません」
「それはそうですが」
「卵は偉い」
「聞きました」
技師は呆れながらも、帳簿へ書き足した。
兵士用卵加工品、保存試験継続。
紙薬莢、湿気試験継続。
銃剣取り付け部、再確認。
戦争は、こうして準備される。
英雄の叫びではなく、帳簿の行と、木箱の数と、雨漏りしない倉庫によって。
倉庫の奥では、銃の先に短い刃が取り付けられていた。
市民軍の兵士たちは、もう撃った後に槍を恐れて逃げるだけの兵ではない。
その冬、チェシー共和国は、銃の先に刃を付けて帝国の方角を向いた。




