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第28話 エレオノーラの婚礼



 その日の帝都は、よく晴れていた。


 雲は高く、風は柔らかく、フォンヴァルト公爵家帝都館の庭には白い花が飾られていた。北方の公爵家らしく、派手すぎる装飾はない。だが、門から礼拝堂へ続く石畳には新しい砂が撒かれ、柱には灰青と白の布が結ばれている。


 灰青。


 ロビンはその色を見るたび、少し胸がくすぐったくなった。


 かつては、ただの首布の色だった。


 下町の若者たちが、自分たちはここにいると示すための色。


 今は、灰鷹隊の色になっている。


 そして今日、その色は公爵家の婚礼の飾りに混じっていた。


「顔が硬い」


 背後からリッカの声がした。


 ロビンは振り返る。


 リッカは礼装の上から、どうしても落ち着かないらしく肩を回していた。普段の槍を持っていないせいで、手持ち無沙汰に見える。


「硬いか」


「うん」


「今日は硬くもなる」


「槍持ってないから?」


「それもある」


「持ってくればよかったのに」


「婚礼に槍を持ち込むな」


「オスカー卿は剣を持ってる」


「オスカー卿は公爵騎士団長だ」


「ずるい」


 リッカは真顔で言った。


 ロビンは思わず笑った。


 その笑いで、少しだけ肩の力が抜けた。


「そう。その顔の方がいい」


 リッカは短く言った。


「ありがとう」


「別に」


 彼女は目を逸らした。


 今日は、リッカもいつもと違っていた。


 勝ち気な目はそのままだが、髪は丁寧に整えられ、薄い青の飾り紐で結ばれている。槍を振るうための服ではなく、祝いの席に出るための服。似合っていないわけではない。むしろ、よく似合っていた。


 ただ、彼女自身がそれを受け入れていないだけだった。


「リッカ」


「何」


「来てくれて、嬉しい」


 リッカは一瞬だけロビンを見た。


 それから、少しだけ口を尖らせる。


「当たり前でしょ」


「ああ」


「灰鷹隊の隊長が、変なことしないか見張るのも、副隊長の仕事」


「いつから副隊長になった」


「今決めた」


「レイバーが怒るぞ」


「じゃあ槍副隊長」


「何だ、それは」


 リッカは答えなかった。


 ただ、礼拝堂の方を見た。


 そこには白い花が揺れている。


 風が吹く。


 リッカの結んだ髪紐も揺れた。


「おめでとう」


 彼女は小さく言った。


 今度は、冗談ではなかった。


 ロビンは静かに頭を下げた。


「ありがとう」


 リッカは頷き、足早に去っていった。


 その背中を、ロビンはしばらく見ていた。


 痛みがなかったわけではない。


 彼女の中にも、自分の中にも。


 それでも今日は、祝福の日だった。


 リッカはそれを選んでくれた。


 そのことが、ロビンにはありがたかった。




   ◇




 婚礼は、政治でもあった。


 それを知らぬ者は、この館には一人もいない。


 ロビン・フォン・バーゼルは、再興されたばかりの公爵家臣家の若き当主である。


 かつて先々代皇帝に仕えた武闘派貴族バーゼル家の名を持ち、第二次チェシー征伐において功を挙げた灰鷹隊の隊長でもある。


 エレオノーラ・フォンヴァルトは、北方公爵家の三女である。


 皇族の傍流たるフォンヴァルト家の血を持ち、帝都の政治においても軽んじられぬ立場にある。


 この婚姻によって、バーゼル家には公爵家の血が入る。


 灰鷹隊はより強くフォンヴァルト公爵家に結びつく。


 敗戦によって欠け始めた貴族家、騎士家の穴を、古い名と新しい功で埋める。


 アルブレヒト・フォン・ヴァルト公爵がこの婚姻を認めた理由は、一つではなかった。


 家のため。


 領のため。


 帝国のため。


 そして、娘のため。


 公爵は礼拝堂の奥で、静かに立っていた。


 隣にはオスカーがいる。


 兄弟は似ていない。


 アルブレヒトは静かに考える者の顔をしている。オスカーは、今すぐにでも敵を斬りに行ける者の顔をしている。


 だが今日だけは、二人とも少しだけ父親と叔父の顔をしていた。


「緊張しているな」


 オスカーが言った。


 ロビンは姿勢を正した。


「はい」


「戦場よりか」


「ある意味では」


「よろしい」


 オスカーは腕を組む。


「戦場より緊張しない男に、姪はやれん」


「オスカー卿」


 アルブレヒトがたしなめる。


 だが、その声にも少し笑みがあった。


 オスカーはロビンの前に立った。


「ロビン・フォン・バーゼル」


「はい」


「エレオノーラを泣かせるな」


「はい」


「泣かせたら、槍ではなく俺が斬る」


「……はい」


「返事がよい」


 オスカーは満足そうに頷いた。


 アルブレヒトは小さく息を吐いた。


「脅しに来たのか、祝福に来たのか」


「両方だ」


「困った兄上だ」


「妾腹の兄など、元より困ったものだろう」


 オスカーが軽く笑う。


 アルブレヒトもわずかに笑った。


 そのやり取りを見て、ロビンは少し救われた。


 公爵家もまた、家族なのだと思った。


 政治と血筋と格式の向こうに、兄弟がいて、父がいて、叔父がいる。


 アルブレヒトはロビンへ向き直った。


「ロビン」


「はい」


「この婚姻には、政治がある」


「承知しております」


「だが、それだけではない」


 公爵の声は静かだった。


「私は父として、娘が不幸になる婚姻を許したつもりはない」


 ロビンは深く頭を下げた。


「生涯をかけて、エレオノーラ様を大切にいたします」


「その言葉を忘れるな」


「はい」


「それと」


 アルブレヒトは少しだけ表情を緩めた。


「今日くらいは、エレオノーラ様ではなく、エレオノーラと呼んでやれ」


 ロビンの顔が熱くなった。


 オスカーが低く笑う。


「そこからか」


「……努力します」


「戦より難しそうだな」


「はい」


 ロビンが正直に答えると、オスカーは声を出して笑った。




   ◇




 エレオノーラは、白い衣をまとっていた。


 華美ではない。


 だが、歩くたびに布が柔らかく光を返し、淡い金の髪が肩の上で揺れる。胸元にはフォンヴァルト家の小さな飾り、そして灰青の細いリボンが結ばれていた。


 そのリボンを見た瞬間、ロビンは息を忘れた。


 エレオノーラがこちらを見る。


 公爵家三女として、礼拝堂へ歩く顔。


 だがその目だけは、ロビンの知るエリーだった。


 初めて会った日のことが、ふと蘇る。


 帝都の通り。


 卵とレタスの挟まったパン。


 白いソース。


 ぶつかって落ちたサンドイッチ。


 次はもっと高いものを持って歩くことにするわ、と笑った少女。


 あの日、ロビンは彼女が公爵家の令嬢だとは知らなかった。


 ただ、不思議な娘だと思った。


 もう一度会えたらいいと思った。


 その後、彼女は誘拐された。


 銀鹿亭の裏蔵。


 薬の匂い。


 槍を構えて踏み込んだ夜。


 助け出した少女は、エレオノーラ・フォンヴァルトだった。


 身分の差は、笑えるほど大きかった。


 それでも、今日ここに立っている。


 ロビンは、自分の手が震えていることに気づいた。


 雷槍を放つ時とは違う震えだった。


 怖いのではない。


 幸せすぎて、現実に手が追いついていない。


 エレオノーラが隣に立つ。


 近い。


 白い花の香りがした。


 司祭の言葉が礼拝堂に響く。


 神の名。


 家の名。


 誓いの言葉。


 ロビンは一つ一つ答えた。


 噛まないように、間違えないように。


 それなのに、エレオノーラが小さく囁いた。


「緊張していますの?」


「しています」


「戦場より?」


「皆それを聞きます」


「答えは?」


「戦場より、少し」


 エレオノーラは目だけで笑った。


「光栄ですわ」


 ロビンは、危うく誓いの返事を遅らせるところだった。


 指輪が運ばれてくる。


 ロビンはそれを受け取り、エレオノーラの手を取った。


 白い手だった。


 だが、ただ柔らかいだけではない。


 誘拐事件の後、恐怖を飲み込み、凛として立った手。


 凱旋の後、自分の傷を見て「勝って帰った方のお顔ではありませんわ」と言った人の手。


 ロビンはその指に、指輪を通した。


 エレオノーラも、ロビンの手を取る。


 彼女の指先も少し震えていた。


 ロビンはそれに気づき、胸が温かくなった。


 彼女も緊張している。


 公爵家の令嬢も、エリーも、今ここにいる。


 指輪がはめられる。


 司祭の声が高くなる。


 誓いが終わる。


 礼拝堂に拍手が広がった。


 ロビンはエレオノーラを見る。


 彼女もこちらを見ていた。


 涙はなかった。


 だが、目が少し潤んでいた。


「エレオノーラ」


 ロビンは初めて、敬称なしでその名を呼んだ。


 声が少し掠れた。


 エレオノーラは微笑んだ。


「はい、ロビン」


 その瞬間、礼拝堂の拍手も、外の風も、花の香りも、すべてが遠くなった。


 ロビンはただ、幸せだった。




   ◇




 祝いの席は、予想通り騒がしくなった。


 公爵家の婚礼である以上、厳かな場もあった。貴族たちは礼儀正しく祝辞を述べ、宮廷からの使者は整った言葉で祝福を告げ、アルブレヒトは公爵としてそれらに応じた。


 だが、灰鷹隊がいる限り、全てが厳かに終わるはずもなかった。


 レイバーは最初こそ礼装を着て大人しくしていたが、三杯目の酒で完全にいつもの調子になった。


「いやあ、隊長が公爵令嬢と結婚とはな!」


「声が大きい」


 ローレンスが目元を押さえながら言う。


 彼は式の間、ずっと泣いていた。


 誓いの時にも泣き、指輪の時にも泣き、エレオノーラが「ロビン」と呼んだ時には完全に崩れた。


「ローレンス、お前泣きすぎだろ」


 レイバーが笑う。


「泣くよ!」


 ローレンスは珍しく強い声で言った。


「だって、あのロビンが……グラウフェルトで旗持ってたロビンが……」


「おいやめろ、俺までくるだろ」


「きてるじゃないか」


「きてねえ」


 レイバーは目元をこすった。


「これは酒だ」


「目に?」


「目に酒が入った」


「どうやって」


「知らねえよ!」


 ローレンスは泣きながら笑った。


 リッカは少し離れた場所で、皿に乗った焼き菓子を眺めていた。


 エレオノーラが近づく。


「リッカさん」


 リッカは顔を上げた。


 少し緊張したように見えた。


「何」


 すぐに無礼に聞こえる言い方をしてしまったことに気づいたのか、リッカは少し慌てた。


「……何でしょう」


 エレオノーラは笑った。


「いつものままで構いませんわ」


「そう」


「今日は来てくださって、ありがとうございます」


「ロビンの婚礼だから」


「はい」


 エレオノーラは静かに頷いた。


 リッカは焼き菓子を一つ取り、少し迷ってから言った。


「ロビンをよろしく」


 エレオノーラは、まっすぐにその言葉を受け止めた。


「はい」


「槍は弱くしないで」


「それは……私にできるかしら」


「ロビン、浮かれると遅くなる」


 エレオノーラは口元に手を当てて笑った。


「では、遅くならないように気をつけます」


「うん」


 リッカは頷いた。


 それから、小さく付け加えた。


「幸せにしてあげて」


 エレオノーラの笑みが、少し柔らかくなった。


「私も、幸せにしてもらいますわ」


 リッカは一瞬だけ目を丸くした。


 そして、ほんの少し笑った。


「強いね」


「そうありたいと思っています」


「なら、大丈夫」


 二人はそれ以上、多くを語らなかった。


 だが、それで十分だった。


 ロビンは遠くからその様子を見ていた。


 胸が少し痛み、同時に温かかった。


 リッカは祝ってくれている。


 その強さに、ロビンはまた救われた。


 リオンは窓際で杯を持っていた。


 ロビンが近づくと、彼は先に口を開いた。


「おめでとう、ロビン」


「ありがとう」


「君は本当に、遠くへ来たね」


「まだ、帝都の中だ」


「そういう意味ではないよ」


 リオンは薄く笑う。


 祝福の笑みだった。


 だが、その奥にはやはり、眩しいものを見るような翳りがある。


「手書きの旗から、公爵家の婚礼か」


「順番が飛びすぎている気がする」


「物語なら、ご都合主義だと感じるかもしれない」


「現実でもそう思う」


「けれど、君はその間で戦った。泥を踏んだ。橋を落とした。だから、今日ここにいる」


 リオンは杯を掲げた。


「誇っていい」


 ロビンも杯を掲げる。


「お前も、ここにいる」


「私は、君の横にいる」


「それでは不足か」


 リオンは少しだけ間を置いた。


 そして、微笑んだ。


「今日は、十分だ」


 その言葉の意味を、ロビンは深く追わなかった。


 今日は、追わなくていい日だった。


 幸福を疑うには、あまりに晴れていた。




   ◇




 夕暮れ、ロビンとエレオノーラは庭に出た。


 祝いの席の喧騒は館の中に残り、庭には柔らかな風だけがあった。白い花は夕陽を受け、少し金色に見える。


 遠く、中庭には灰鷹隊の隊旗が見えた。


 交差する二枚の灰鷹の羽と、中央の雷槍。


 その旗の下で、レイバーが何かを大声で話し、ローレンスが止め、リッカが焼き菓子を食べ、隊士たちが笑っている。


 ロビンはそれを見て、静かに息を吐いた。


「夢のようです」


 エレオノーラが言った。


「私もです」


「最初にお会いした時は、まさかこうなるとは思いませんでした」


「私は、卵サンドを弁償したことしか覚えていません」


「まあ。私の印象はそれだけですの?」


「いえ」


 ロビンは慌てた。


「よく笑う方だと思いました」


「怒っていたのですけれど」


「怒りながら、笑っていました」


 エレオノーラは少し考え、頷いた。


「そうだったかもしれません」


「次はもっと高いものを持って歩く、と」


「言いましたわね」


「今日は、何より高いものをいただいてしまいました」


 エレオノーラは瞬きをした。


 それから、頬を少し赤くした。


「そういうことを、急に言うのはずるいですわ」


「すみません」


「謝らなくてもよろしいです」


 ロビンは笑った。


 エレオノーラも笑う。


 その笑みは、帝都の通りで見たものと同じだった。


 公爵家の娘でも、ロビンの妻でもある前に、エリーだった。


「ロビン」


「はい」


「私は、幸せです」


 あまりにまっすぐな言葉だった。


 ロビンは胸を衝かれた。


「私もです」


「本当に?」


「はい」


 ロビンは庭の向こうを見た。


 隊旗。


 仲間たち。


 公爵家の館。


 父へ送った手紙。


 戻った家名。


 そして、隣にいるエレオノーラ。


 グラウフェルトで手書きの旗を持たされていた少年には、想像もできなかった場所だった。


 あの時、レイバーは笑っていた。


 リッカはまだ小さく、ローレンスは優しく、ロビンは自分が何者なのかもよくわからなかった。


 それが今、ここにいる。


「私は、怖いくらい幸せです」


 ロビンは正直に言った。


 エレオノーラはその言葉を聞き、そっとロビンの手を取った。


「怖いなら、一緒に持ちましょう」


「何をですか」


「幸せを」


 ロビンは彼女の手を握り返した。


 白い花が風に揺れる。


 遠くでレイバーの笑い声が響いた。


 ローレンスの泣き声のような笑いも聞こえる。


 リッカが何か短く言い、また皆が笑った。


 ロビンはその音を聞きながら、思った。


 ここで終われば、きっと幸福な物語だった。


 没落貴族の少年が、仲間と出会い、帝都に出て、戦で功を挙げ、家を再興し、愛する人と結ばれる。


 旗は掲げられ、友は笑い、父は喜び、未来は明るい。


 これ以上、何を望むのだろう。


 ロビンにはわからなかった。


 わからないほど、満ち足りていた。


「エリー」


 ロビンは小さく呼んだ。


 エレオノーラは目を見開いた。


 それから、嬉しそうに微笑んだ。


「はい」


「これから、よろしくお願いします」


「こちらこそ、ロビン」


 二人は夕暮れの庭で、しばらく手をつないでいた。


 灰鷹隊の隊旗が、穏やかな風に揺れていた。


 その日、ロビン・フォン・バーゼルとエレオノーラ・フォンヴァルトは夫婦となった。


 灰鷹隊は笑い、フォンヴァルト公爵家は祝福し、帝都の空は暮れるまで晴れていた。


 それは、灰鷹たちの夏の頂だった。


 

くぅ~疲れましたw これにて完結です!(大嘘)

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