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第24話 極秘撤退



 勝ったのだ、と兵たちは思っていた。


 少なくとも、前線にいた多くの兵はそう信じようとしていた。


 チェシー王国の反乱分子は押し返された。火薬筒を並べた敵の横列は崩れ、連隊長を失い、灰色の鷹と北方公爵家の騎士たちに追い散らされた。帝国の槍は折れていない。帝国の剣はまだ鈍っていない。


 そう思わねば、足が前へ出なかった。


 だが、勝った軍は、これほど静かに歩かない。


 夜明け前の街道を、北部公爵軍の列が進んでいた。勝鬨はない。軍楽もない。馬のいななきには布が噛まされ、荷車の車輪には縄が巻かれていた。鎧の金具が鳴らぬよう、兵たちは外套の端を押さえ、息を殺して歩く。


 公式には、前線整理だった。


 より有利な地点へ兵を下げ、補給線を整え、次の攻勢に備える。


 そう命じられていた。


 だが、ロビンはもう知っていた。


 これは、撤退だ。


 敗走にならぬための撤退。


 皇太子殿下の軍を無事に退かせるため、北部公爵軍が勝利の形だけを置いて、夜のうちに戦場を離れる。


 その殿を、灰鷹隊は務めていた。


「隊長、後ろの列、少し間が空いてる」


 リッカが馬上で振り返った。


 彼女は小柄な体に似合わず、いつの間にか馬の動きに慣れていた。鞍の上で膝を柔らかく使い、槍を抱えたまま街道脇の闇を見る。その姿は、道場で木槍を振るっていた頃とは違う鋭さを帯びていた。


「ローレンスの荷駄か」


「たぶん。負傷者の車が遅れてる」


 ロビンは頷き、馬首を返した。


 体が重い。


 昼から夜にかけて、何度馬を走らせたかわからない。初めて馬上で雷槍を振るった腕には、まだ青白い痺れが残っている。神経の奥に火花が散るような痛みがあり、槍を握る指先の感覚が少し鈍かった。


 だが、止まるわけにはいかない。


 ロビンが列の後ろへ戻ると、ローレンスが荷車の横を歩いていた。


 車には負傷兵が乗せられている。矢を受けた者。火薬筒の鉛玉が肩を削った者。馬から落ちて脚を折った者。白い包帯には、夜目にも黒く見える血が滲んでいた。


「ローレンス」


「ロビン」


 ローレンスは顔を上げた。目の下には濃い影がある。それでも彼は、手綱を引く兵に声をかけ、荷車の揺れを抑え、負傷者の呻きに耳を向けていた。


「遅れている」


「わかってる。けど、この車は急がせると駄目だ。中の二人、もう一度傷口が開く」


「追手が来る」


「わかってる」


 ローレンスの声は穏やかだった。


 穏やかすぎて、ロビンは一瞬言葉を失った。


 ローレンスは昔からそうだった。誰かが泣けば、先に駆け寄る。誰かが怪我をすれば、自分の布を裂いて巻く。帝都へ出てからも、灰鷹隊の金勘定をしながら、仕送りを削らず、薬代も削らず、いつも何かを背負っていた。


 戦場でも同じだった。


 同じだからこそ、苦しそうだった。


「置いていけとは言わない」


 ロビンは言った。


「だが、急がせなければ、全員が危ない」


「うん」


 ローレンスは荷車の上の兵を見た。


 若い兵だった。まだ髭も薄い。痛みと熱で朦朧とした目を開け、何かを探すように空を見ている。


「もう少しだけ、揺れるよ」


 ローレンスはその兵の手を握った。


「でも、死なせない。だから、少し我慢して」


 返事はなかった。


 ローレンスは立ち上がり、御者に言った。


「少し速度を上げて。穴を避ける時は、俺が合図する」


 そしてロビンを見た。


「行って。後ろは僕が見る」


「任せる」


「うん」


 ロビンは短く頷いた。


 言葉を重ねる時間はない。


 前方から、レイバーの声が飛んだ。


「ロビン! 来い!」


 ロビンが馬を走らせると、街道の先でレイバーとリオンが待っていた。


 そこは見覚えのある場所だった。


 ブレン村。


 数日前、灰鷹隊が本隊に先行して兵站路を整えた村である。


 壊れかけていた橋を補強し、荷車が通れるようにした。レイバーが端材と杭を見て、怒鳴り散らしながら人足を動かした橋だ。ローレンスが村長と交渉し、リオンが代官に書面を書かせ、リッカが周囲の斥候に出ていた。


 あの時、村人たちは半信半疑で見ていた。


 帝国軍が通るための橋など、村にとっては迷惑でもある。だが、橋が丈夫になれば冬の荷運びも楽になる。子どもたちは、灰青色の首布を巻いた若者たちを物珍しそうに眺めていた。


 その橋が、朝靄の中に見えていた。


 川幅は広くはない。


 だが、増水期で流れは速い。橋がなければ、荷車も負傷者も渡れない。馬だけなら浅瀬を探せるかもしれないが、追撃を受けながらでは無理だ。


 橋の向こうには、すでに北部公爵軍の列が続いている。


 こちら側には、まだ灰鷹隊と後衛、そして数台の荷車が残っていた。


 村人たちも起き出していた。


 鍬を持った老人。頭巾をかぶった女。裸足の子ども。彼らは何が起きているのかわからぬまま、軍列と橋を見比べている。


「勝ったんじゃなかったのか」


 誰かが言った。


「兵隊さん、戻ってきたのか」


「また橋を通るのか」


 声は小さかった。


 まだ恐怖より困惑の方が強い。


 レイバーは橋を見ていた。


 いつもの軽口はなかった。


「落とす」


 彼は短く言った。


 ロビンは返事をしなかった。


 予想はしていた。


 ここが要になると、誰でもわかる。


 この橋を残せば、チェシー軍の追撃はすぐにこちらへ渡る。北部公爵軍の荷駄列、負傷者、後続の歩兵に追いつかれる。


 この橋を落とせば、追手は止まる。


 だが、村は川で裂かれる。


 村人たちは、帝国軍のために直された橋を、帝国軍の手で壊されることになる。


「追手は」


 ロビンが尋ねる。


 リオンが答えた。


「早ければ半刻。遅くとも一刻はない」


「斥候はそう言っているのか」


「斥候はもっと楽観的に言っている。私は楽観を信用しない」


 リオンは橋を見た。


「橋を残せば、こちらの負傷者が死ぬ。橋を落とせば、村が恨む」


「冷たい言い方をするな」


 レイバーが低く言った。


「事実だ」


「事実でも、言い方がある」


「言い方で橋は残らない」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


 ロビンは村人たちを見た。


 老人が一歩前へ出る。


「隊長さん」


 彼はロビンを覚えていた。


 数日前、補強した橋を最初に荷車で渡った村の老人だ。


「あんたら、また橋を直しに来たんじゃないのか」


 ロビンは答えられなかった。


 老人は、ロビンの沈黙で悟ったのだろう。顔が少しずつ歪んでいく。


「まさか」


「すまない」


 ロビンは言った。


「橋を落とす」


 女が悲鳴に近い声を上げた。


「そんな、これから麦を運ぶのに」


「川向こうに畑があるんだぞ」


「冬までに直せるのか」


「帝国軍が直してくれるのか」


 声が増えた。


 責める声。


 縋る声。


 呆然とした声。


 ローレンスが遅れて到着した。荷車の列を見送りながら、村人たちの声を聞き、表情を曇らせる。


「ロビン」


「落とす」


 ロビンは言った。


 ローレンスは目を伏せた。


 反対しなかった。


 それが、ロビンには痛かった。


「村長は」


 リオンが周囲を見た。


 やがて、寝間着に外套を羽織った男が走ってきた。顔は青い。


「何事ですか。橋を落とすとは、本当ですか」


「本当です」


 リオンが前へ出た。


「北部公爵家の名で、後日補償を申請できる書面を作る。材木、労役、通行損害、可能な限り記載する」


「可能な限り?」


 村長の声が震えた。


「では、全部ではないのですか」


「戦時です」


 リオンの声は冷静だった。


「全部などと約束すれば、嘘になる」


「嘘でも言ってくれた方がましだ!」


 村長が叫んだ。


 リオンは黙った。


 その横で、ローレンスが自分の鞄から紙束を取り出した。


「村長さん。今、書ける分は書きます。公爵家の補給印を借りています。食糧の引換、材木の優先配給、工兵の派遣依頼。どこまで通るかは、僕にもわかりません。でも、何も残さないよりは」


「それで橋が戻るのか」


「戻りません」


 ローレンスは唇を噛んだ。


「ごめんなさい」


 村長は怒鳴ろうとした。


 だが、ローレンスの顔を見て、声を失った。


 代わりに、老人が低く言った。


「灰鷹ってのは、町を守る若い衆だと聞いた」


 ロビンはその言葉を受け止めた。


 帝都では、そうだった。


 橋の上で迷子を背負い、荷車を押し、悪党を追い払った。下町の人々は手を振ってくれた。首布を見て笑ってくれた。


 だが戦場では、守るために壊すことがある。


 誰かを逃がすために、誰かの暮らしを踏むことがある。


 その現実が、槍より重かった。


「村人を川のこちら側から退かせてください」


 ロビンは言った。


「破片が飛ぶかもしれない。追手も来ます」


「追手」


 村長の顔色が変わった。


「チェシーの兵が来るのか」


「来ます」


 ロビンは嘘をつかなかった。


「だから、橋を落とします」


 レイバーが手を叩いた。


「聞いたな! 灰鷹、動け! 最後の荷車が渡るまで橋を持たせる。渡ったら落とす。火は使うな、煙が上がる。支えを抜いて、縄で引く!」


 若い隊士たちが一斉に動いた。


 レイバーは橋に駆け寄り、膝をついて補強部分を見た。


 数日前、自分で打った杭。自分で噛ませた梁。自分で締めた縄。


 彼はそれを見て、口の端を歪めた。


「俺が直した橋だ」


 誰に言うでもなく呟く。


「どこを抜けば落ちるかも、俺が一番知ってる」


 その声には、笑いがなかった。


 ロビンは槍を握り直した。


「リッカ、後方を見る」


「わかった」


「リオン、村人の退避を」


「了解した」


「ローレンス、負傷者と荷駄を渡し切れ」


「うん」


「レイバー」


「言われなくてもやる」


 レイバーは橋の下を覗き込んだまま答えた。


「お前は後ろで槍を振ってろ。ここは俺の仕事だ」


 ロビンは頷いた。


 馬首を返す。


 東の空が薄く白み始めていた。


 朝が来る。


 朝になれば、隠していたものがすべて見える。


 撤退も。


 橋も。


 追手も。




   ◇




 最初に聞こえたのは、鳥の声ではなかった。


 火薬筒の乾いた音だった。


 遠くの林の縁で、白い煙が小さく上がる。


 リッカが馬を走らせて戻ってきた。


「来た。数は多くない。でも速い」


「先遣か」


「たぶん。歩兵と軽い荷車。火薬筒持ち」


 ロビンは息を吐いた。


 本隊ではない。


 だが、先遣に橋を押さえられれば終わる。


 ローレンスの荷車は、まだ二台残っていた。


「あとどれくらいだ!」


 ロビンが叫ぶ。


「二台!」


 ローレンスが返す。


「一台は今渡る。最後の一台に重傷者がいる!」


 レイバーは橋の上で隊士たちに指示を飛ばしていた。


「そこ抜くな、まだ早え! 抜いたら味方ごと落ちる! 縄は弛ませるな! 合図まで引くなよ、引いたらぶん殴る!」


 橋の下では、支えの一部がすでに外されている。


 見た目にはまだ橋だ。


 だが、最後の力で立っているだけだった。


 ロビンは馬を前へ出した。


「灰鷹、後衛!」


 十数騎が集まる。


 正式な騎馬隊ではない。鞍も馬具も揃っていない。西部公爵軍が残していった予備馬に、灰青色の首布を巻いた若者たちが跨っているだけだ。


 だが、それでも今は、彼らが後ろを支える槍だった。


「敵を倒し切るな」


 ロビンは言った。


「止める。遅らせる。橋へ近づけるな」


 レイバーの言葉を借りたのだと、自分でも思った。


 勝つな。


 止めろ。


 止めたら逃げろ。


「行くぞ!」


 ロビンが馬を蹴る。


 灰鷹の騎馬が街道を駆けた。


 林の縁から、チェシー兵が現れる。


 火薬筒を持つ歩兵。短い槍を持つ兵。数は多くないが、顔に焦りがあった。彼らもまた、橋を押さえる意味を知っている。


 敵の指揮官らしき男が叫んだ。


 チェシー語はわからない。


 だが、意味はわかった。


 撃て。


 白煙。


 音。


 馬が怯む。


 隣の若い隊士が肩を弾かれ、落馬しかけた。後ろの仲間が手綱を掴んで支える。


 ロビンは止まらなかった。


 雷が体内を走る。


 神経が熱くなる。


 視界が少し青く染まる。


「雷槍!」


 馬上の槍が、朝靄を裂いた。


 突き抜ける。


 敵の横列の端を崩し、そのまま斜めに抜ける。


 深く入らない。


 倒し切らない。


 止める。


 ロビンは馬首を返した。


 リッカが横から飛び込む。


 彼女の槍は、馬上でも短く鋭い。敵兵の火薬筒を弾き飛ばし、もう一人の膝を払う。


「遅い!」


 敵に言ったのか、味方に言ったのか、わからなかった。


 チェシー兵は踏み止まった。


 彼らも必死だった。


 装填する者。


 伏せて狙う者。


 仲間を引きずる者。


 火薬筒の白煙が広がり、朝靄と混ざる。


 ロビンの頬を鉛玉が掠めた。


 熱い。


 血が流れる。


 だが痛みは遅れてくる。


「隊長、下がれ!」


 後ろから声がした。


 誰の声かわからない。


 ロビンはもう一度、槍を構えた。


 雷槍を重ねる。


 体が悲鳴を上げる。


 父の声が脳裏をよぎった。


 ――雷は借り物だ。体に通せば、体が払う。


 わかっている。


 それでも、今払わなければならない。


 ロビンは二度目の突貫で、敵の先頭を押し返した。


 馬が荒く息を吐く。


 槍の穂先の青白い光が、少し揺らいだ。


 その時、橋の方からローレンスの声が響いた。


「最後の荷車、渡り始めた!」


 あと少し。


 あと少しでいい。


 ロビンは振り返らなかった。


 振り返れば、橋を見てしまう。


 橋を見れば、村人の顔を見てしまう。


 今は敵を見る。


 前だけを見る。


「灰鷹、散れ! 撃たせるな!」


 レイバーの声が橋から飛んだ。


 いつの間にか彼は、橋の上から戦場を見ていた。


「一列になるな! 馬鹿、止まるな! 火薬筒は止まった奴から狙うんだよ!」


 怒鳴り声に、隊士たちが動きを変える。


 ばらける。


 近づく。


 離れる。


 敵に狙いを定めさせない。


 それは騎士の優雅な突撃ではなかった。


 泥道の喧嘩だった。


 だが、灰鷹隊には、それがよく似合った。


 チェシー兵の足が止まる。


 前へ出ようとすれば槍が来る。狙おうとすれば馬が横切る。装填しようとすれば矢が飛ぶ。


 その間に、最後の荷車が橋を渡った。


「負傷者、全員渡った!」


 ローレンスの声。


「村人、退避完了」


 リオンの声。


「荷駄、最後尾通過」


 別の隊士の声。


 レイバーが一瞬だけ目を閉じた。


 それから叫んだ。


「縄を引け!」




   ◇




 橋は、すぐには落ちなかった。


 最初に、木が裂ける音がした。


 乾いた音ではない。


 生木と古い梁と縄が、一緒に悲鳴を上げるような音だった。


 村人たちが息を呑む。


 隊士たちが縄に体重をかける。


 レイバーが斧で最後の楔を叩いた。


「落ちろ!」


 橋が傾いた。


 数日前に補強した板が跳ねる。


 杭が抜ける。


 梁が折れる。


 そして、橋は川へ落ちた。


 大きな水音が谷に響いた。


 朝靄が揺れた。


 水しぶきが、白く上がった。


 ロビンはその音を、背中で聞いた。


 チェシー兵も、止まった。


 目の前で道が消えたのだ。


 何人かが火薬筒を構え、こちらへ撃った。鉛玉は遠く、誰にも当たらず、川岸の土を跳ねただけだった。


 ロビンは馬を返し、橋のあった場所まで下がった。


 川の向こうで、チェシー兵の指揮官が叫んでいる。


 怒り。


 焦り。


 命令。


 だが、兵たちは動けない。


 橋を架け直すには時間がかかる。浅瀬を探すには土地勘がいる。無理に渡れば、対岸で待つ北部公爵軍に叩かれる。


 そして、ここはもう帝国領だった。


 チェシー軍がこのまま深く踏み込めば、帝国は面子ではなく、本土防衛として兵を集める。勝ったはずの戦いが、終わらない戦いへ変わる。


 川向こうの指揮官は、それを理解しているようだった。


 彼はしばらく橋の残骸を睨んでいた。


 やがて、部下に何かを命じた。


 チェシー兵は追撃隊形を解き始めた。


 ロビンは息を吐いた。


 肺の奥が痛い。


 勝ったのではない。


 追いつかれなかっただけだ。


「やったな」


 リッカが馬を寄せてきた。


 肩で息をしている。


 頬に泥がついていた。


「ああ」


 ロビンは頷いた。


「やった」


 その言葉は、思ったより重かった。


 橋のこちら側では、村人たちが崩れた橋を見ていた。


 老人が帽子を握りしめている。


 女が泣いている。


 子どもは、何が起きたのかわからぬ顔で川を見ている。


 村長はローレンスの書いた紙を両手で持っていた。


 紙はある。


 印もある。


 だが、橋はない。


「灰鷹め」


 誰かが呟いた。


 小さな声だった。


 だが、ロビンには聞こえた。


 聞こえてしまった。


 ローレンスも聞いたのだろう。彼は何も言わず、深く頭を下げた。


 村人たちへ。


 橋へ。


 自分が救った負傷者たちへ。


 そのすべてに対して、頭を下げているようだった。


 リオンが近づいてきた。


「追撃は止まった。少なくとも今日中に本隊へ追いつくことはない」


「そうか」


「成功だ」


 リオンは言った。


 その声に感情は少なかった。


 だが、冷たさだけでもなかった。


「北部公爵軍は大損害を避けた。皇太子軍も後方へ退ける。橋を落とした判断は正しい」


「正しいか」


「正しい」


 リオンは少し間を置いた。


「正しいことが、綺麗だとは限らない」


 ロビンは川を見た。


 橋の残骸が流れに揺れている。


 数日前、レイバーが怒鳴りながら直した橋。


 村人が通れるようになった橋。


 兵が進むための橋。


 負傷者を逃がすための橋。


 追手を止めるために壊した橋。


 同じ橋だった。


 レイバーが斧を肩に担いで戻ってきた。


 額に汗が滲んでいる。


 彼は橋の跡を見て、鼻を鳴らした。


「ひでえ仕事だ」


「お前が一番うまくやった」


 ロビンが言うと、レイバーは笑わなかった。


「うまく壊すために、うまく直したわけじゃねえんだがな」


 それだけ言って、彼はローレンスの方へ歩いていった。


 ローレンスはまだ村人に頭を下げている。


 レイバーはその背中を軽く叩いた。


「行くぞ」


「うん」


「お前がここに残っても橋は戻らねえ」


「わかってる」


「わかってねえ顔してる」


「そうかも」


 ローレンスは顔を上げた。


 目が赤かった。


 それでも彼は、書面の控えをリオンへ渡し、負傷者の数を確認し、荷車の順番を整えた。


 優しいままでは、戦場で何も守れない。


 だが、優しさを捨てれば、何のために守るのかわからなくなる。


 ローレンスは、その間で揺れていた。


 ロビンも同じだった。


 オスカーの騎士が馬を飛ばしてきた。


「ロビン隊長! 公爵軍本隊より伝令。後衛は速やかに北上せよ。次の宿営地まで夜を待たず進む」


「承知した」


 ロビンは返事をした。


 灰鷹隊が再び動き始める。


 隊士たちは疲れていた。誰も大きな声を出さない。馬も人も、泥を跳ね上げながら北へ向かう。


 橋のない川が、背後に残った。


 村人たちも残った。


 恨みも残った。


 それでも、進まなければならなかった。




   ◇




 川の向こうで、チェシー軍の先遣隊長は、崩れた橋を見つめていた。


 勝てなかったわけではない。


 帝国軍は退いている。


 戦場には藁人形と空の旗が残され、追撃の道には落とされた橋があった。


 つまり、敵は逃げた。


 だが、追いつけなかった。


「橋を架けますか」


 部下が尋ねた。


 隊長は川幅を見た。


 流れを見る。


 対岸の街道を見る。


 遠ざかる蹄の跡を見る。


 架け直せば、半日はかかる。工兵を呼べばもっと早いかもしれないが、その間に敵はさらに遠ざかる。無理に渡れば、対岸で少数ずつ叩かれる。


 何より、ここから先は帝国の土地だ。


 命令は迎撃であって、侵攻ではない。


 共和国は勝った。


 だが、勝った先へどう進むかを、まだ誰も十分には学んでいなかった。


「本隊へ報告する」


 隊長は言った。


「帝国軍は撤退。橋を破壊。追撃は困難」


「追わないのですか」


「追えない」


 彼は苦い顔をした。


「今日のところはな」


 部下は黙った。


 川のこちら側に、火薬筒を持つ兵たちが集まっている。


 彼らは帝国の槍を退けた。


 だが、帝国の泥道を追う足は、まだ持っていなかった。




   ◇




 その日の夕刻、北部公爵軍は予定していた後方集積地へ到達した。


 損害はあった。


 負傷者も多い。


 置き去りにした荷もある。


 壊した橋もある。


 だが、軍は崩れなかった。


 皇太子軍はさらに後方へ退き、面子を保つための文言が宮廷へ送られた。


 北部公爵軍は、チェシー王国の反乱分子を押し返し、戦線整理のため後退した。


 そう記されることになる。


 敗走ではない。


 撤退である。


 そう記されることになる。


 ロビンは宿営地の端で、槍を抱えて座っていた。


 指先の痺れはまだ残っている。


 頬の傷は、ローレンスが雑にではなく丁寧に手当てしてくれた。血は止まったが、触れると熱い。


 遠くで兵たちが焚き火を囲んでいる。


 勝ったと笑う者はいない。


 負けたと泣く者もいない。


 ただ、生きて戻った者たちが、黙って湯気の立つ椀を抱えていた。


 レイバーが隣に腰を下ろした。


「橋、落ちたな」


「ああ」


「いい落ち方だった」


「そうか」


「大工の息子としてはな」


 レイバーは空を見上げた。


「人としては、最悪だ」


 ロビンは何も言えなかった。


 しばらくして、レイバーが小さく笑った。


「けど、俺たちは生きてる。負傷者も渡した。公爵軍も逃がした。なら、今日はそれでいい」


「それでいいのか」


「よくはねえよ」


 レイバーは即答した。


「よくねえことを、やらなきゃならねえ日があるってだけだ」


 ロビンは槍の柄を握った。


 祖父のように皇帝の御楯となる。


 家を再興する。


 騎士になる。


 そんな夢を語っていた頃、戦場とはもっと眩しい場所だと思っていた。


 旗が翻り、槍が光り、名誉がある場所だと。


 だが今日、ロビンが守ったものは泥道だった。


 負傷者を乗せた荷車だった。


 黙って退く兵の背中だった。


 そして、壊した橋だった。


 北部公爵軍は、大損害を出さずに撤収した。


 皇太子軍も、無事に後方へ退いた。


 作戦は、成功した。


 そう言えるのだろう。


 だがロビンの耳には、橋が落ちる音と、村人の声がいつまでも残っていた。


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