第23話 灰鷹隊、戦場を駆ける
勝った戦場から、灰鷹隊は静かに退いた。
平原にはまだ北部公爵軍の旗が立っている。
焚き火もある。
槍を持った人影もある。
だが、その多くは兵ではなかった。
藁を詰めた人形に、古い外套と兜を被せたものだ。遠目には夜営を続ける兵に見える。風が吹けば、旗が揺れ、焚き火の煙が流れ、人影まで動いているように錯覚する。
その偽りの陣を残し、北部公爵軍の荷駄は闇の中を動いていた。
車輪には布を巻き、馬の口にも布を当てる。
声は出さない。
松明も最小限。
昼間に越えた国境を、夜のうちに戻る。
ロビンはその事実を、まだうまく飲み込めずにいた。
昼には帝国の旗を掲げ、チェシーの土を踏んだ。
火薬筒兵を破り、連隊長を討ち、北部公爵軍は勝どきを上げた。
そして今、彼らは勝った戦場から退いている。
勝利とは何なのか。
敗北とは何なのか。
戦場に来る前より、その境目はずっと曖昧になっていた。
「隊長、考え込むな」
レイバーが馬の手綱を引きながら言った。
「今は足元と前を見る時間だ」
「わかっている」
「わかってる顔じゃねえ」
レイバーの声は低い。
彼も疲れているはずだった。
枝束の盾を前へ出し、銃声の中を歩かせ、倒れた隊士を見て、それでも命令を出し続けた。
だが、今も彼は地図と街道と荷駄の位置を見ている。
勝利の余韻など、彼にはほとんどないらしい。
その時、後方から騎馬の伝令が駆けてきた。
馬の息が荒い。
伝令はオスカーの配下だった。
「チェシー軍、偽装に気づきつつあります!」
周囲の空気が変わった。
伝令は続ける。
「夜明け前、敵斥候が平原北端へ接近。藁人形を確認した模様。敵前衛の一部が追撃準備に入っています!」
レイバーが舌打ちした。
「思ったより早い」
ロビンは南を見た。
闇の向こう、偽りの焚き火がまだ揺れているはずだ。
そこに敵が近づいている。
やがて、帝国軍がもう退いていることに気づく。
そうなれば、追撃が来る。
荷駄を抱えた北部公爵軍にとって、追撃は最も恐ろしい。
逃げる軍は、前を向いている。
追う軍は、背を見る。
レイバーが地図を開いた。
「このままじゃ橋で詰まる。荷駄が渡りきる前に追いつかれる」
リオンが横から覗き込む。
「北側の宿場に、西部公爵軍の馬匹集積が残っているはずだ」
「馬?」
ロビンが振り向く。
リオンは懐から台帳の写しを取り出した。
「西部公爵軍が急に転進した際、予備馬と替え馬をすべては持ち出せなかった。蹄鉄交換中の馬、荷駄用に後送していた馬、体調を崩した馬。台帳上は三十数頭。実際に使えるのは、その半分かもしれない」
レイバーの目が光った。
「置き土産か」
「所有権を論じている時間はない」
「上出来だ」
そこへオスカーが馬を寄せた。
夜の中でも、その姿はすぐにわかる。
黒い外套。
傷のある鎧。
公爵家の武闘派騎士団長。
「話は聞いた」
オスカーはリオンから台帳の写しを受け取ると、ざっと目を通した。
「使える馬を出せ。西部公爵が戦場を離れた。なら、その馬だけでも戦場に残ってもらう」
近くにいた騎士が驚いた顔をした。
「しかし、オスカー卿。西部公爵家の馬を勝手に徴用すれば、後で揉めます」
「揉める頃には、生きて帰っている」
オスカーは短く言った。
「悪くない」
騎士は黙った。
オスカーはロビンを見た。
「灰鷹を出す」
「我らを、ですか」
「お前たちは道を見てきた。橋も知っている。敵の火薬筒にも一度向き合った。そして、命じれば泥へ突っ込む」
オスカーの目が鋭くなる。
「今欲しいのは、綺麗に並ぶ騎士ではない。穴へ走る者だ」
レイバーが小声で言った。
「褒められてるんだよな、これ」
「たぶん」
ロビンは答えた。
オスカーは続けた。
「灰鷹隊の中から騎乗できる者を選べ。全員でなくてよい。臨時の騎馬遊撃だ。追撃の鼻先を叩く。荷駄が橋を渡る時間を稼げ」
ロビンの胸が鳴った。
騎馬。
バーゼル家の槍。
本来、馬上で振るわれるはずだった雷槍。
没落した家で、馬を多く持てず、徒歩槍として磨いてきた技。
その槍が、今、戦場で馬を得る。
「拝命します」
ロビンは頭を下げた。
◇
西部公爵軍が残した馬は、宿場の厩にいた。
数は確かに三十頭ほど。
だが、リオンの言った通り、すべてが使えるわけではなかった。
脚を痛めた馬。
蹄鉄を外されたままの馬。
気性が荒く、人を近づけない馬。
荷駄馬としては使えるが、突撃には向かない馬。
それでも、十数頭はすぐに動かせた。
レイバーが一頭一頭を見て回る。
「こいつは荷駄。こいつは伝令。こいつは気が荒いが足はいい。隊長に回すな、落ちても知らん。リッカ、お前は小柄だからこっちだ」
リッカは割り当てられた馬を見上げた。
「高い」
「馬だからな」
レイバーが言う。
リッカは鐙に足をかけ、ひょいと乗った。
思ったよりも自然だった。
馬が少し首を振る。
リッカは手綱を強く引かず、体を合わせるように座った。
「速い?」
「走ればな」
「悪くない」
レイバーが呆れた顔をした。
「感想それだけか」
「うん」
「まあ、落ちねえならいい」
ローレンスは騎馬遊撃には入らなかった。
彼は荷駄と負傷者の側に残る。
「僕は後ろを守るよ。君たちが止めてくれた分、こっちで必ず通す」
ロビンは頷いた。
「頼む」
リオンは騎乗できた。
貴族家の出である以上、馬は扱える。
ただし、彼は遊撃の先頭ではなく、伝令線の維持に回る。
「私は命令の伝達と橋の通過状況を見る。君たちが敵を止めても、退く時を逃せば意味がない」
「わかった」
レイバーは自分の馬の横で、心底嫌そうな顔をしていた。
「俺は土の上で走る方が性に合うんだがな」
「乗れないのか」
リッカが聞く。
「乗れる。だから文句を言ってる」
「乗れないなら、私が教える」
「やめろ。お前の教え方はたぶん、『落ちなければいい』だ」
「そう」
「ほらな」
そんなやり取りの横で、ロビンは一頭の馬の前に立っていた。
黒鹿毛の軍馬。
西部公爵軍の印が鞍に残っている。
気性は強そうだが、目は悪くない。
ロビンはゆっくりと首筋に触れた。
馬が鼻を鳴らす。
彼は鐙に足をかけ、鞍へ上がった。
視界が高くなる。
地面が遠くなる。
槍を持つ手の角度が変わる。
体の奥で、何かが静かに噛み合う感覚があった。
父の声が蘇る。
馬は無くとも槍は振るえる。
だが、馬上にてこそ、バーゼルの雷は最も遠くへ届く。
ロビンは槍を構えた。
穂先に、わずかに青白い光が宿る。
馬が一瞬怯えた。
ロビンは手綱を抑え、体を沈める。
「大丈夫だ」
自分に言ったのか、馬に言ったのかはわからない。
少し離れた場所で、オスカーがその姿を見ていた。
彼は誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「見たぞ、爺殿。まだ残っている」
バーゼルの雷槍は、まだ残っている。
ロビンはそれを聞いていなかった。
だが、馬上で槍を握る手に、確かに血の記憶のようなものを感じていた。
◇
追撃は、夜明け前に来た。
チェシー軍の全軍ではない。
火薬筒兵を含む軽歩兵と、斥候騎兵の混じった追撃隊だった。
彼らは北部公爵軍が本格的に退いたことに気づき、荷駄を狙ってきている。
目標は明らかだった。
橋。
荷車。
負傷者。
そこを乱せば、撤退は崩れる。
レイバーが馬上から丘を指した。
「隊長、右の丘を取る。あそこを取られると荷駄が丸見えだ」
「わかった」
「勝つなよ」
ロビンは一瞬、意味を取り違えそうになった。
レイバーは続ける。
「止めろ。止めたら逃げろ。俺たちは追撃を潰しに来たんじゃねえ。荷駄を通す時間を買いに来た」
「承知した」
「本当にわかってるか?」
「わかっている」
「ならいい」
レイバーは手を上げた。
「灰鷹騎馬班、右へ回る! リッカ、突っ込みすぎるな! 隊長の雷を見たら離れろ!」
「なんで」
「巻き込まれるからだ!」
リッカは少し考え、頷いた。
「わかった」
馬が走り出す。
地面を蹴る音が重なる。
徒歩とは違う速度。
風が顔を打つ。
ロビンは初めて、バーゼル雷槍術が本来何を目指していたのかを体で理解した。
一撃離脱。
距離を潰し、槍を届かせ、次の瞬間には離れる。
足で走る雷ではない。
馬と人と槍が一つになって走る雷。
右の丘へ向かうチェシー追撃隊がこちらに気づいた。
火薬筒兵が慌てて列を作ろうとする。
だが、早い。
灰鷹隊はすでに側面に回り込みつつあった。
銃声が一発鳴る。
弾は外れた。
馬が一頭、怯えて横へ跳ねる。
レイバーが怒鳴った。
「音に馬を負けさせるな! 手綱じゃねえ、腹で抑えろ!」
「それ、今言うことか!」
隊士の一人が叫ぶ。
「今必要だから言ってんだ!」
リッカが先に入った。
馬上で短槍を扱うには間合いが違う。
だが彼女は、妙に早く感覚を掴んでいた。
敵斥候騎兵の槍を低くかわし、馬の首元すれすれに短槍を滑らせる。
相手の手綱を切る。
騎兵が体勢を崩したところへ、後続の灰鷹隊士が押し込む。
「速い」
リッカが呟いた。
「悪くない」
レイバーが遠くから叫ぶ。
「感想は後にしろ!」
ロビンは中央を見た。
チェシー追撃隊の先頭が、橋へ向かおうとしている。
そこを抜かれれば、荷駄が危ない。
ロビンは槍を構えた。
青白い光が穂先に走る。
馬の鼓動。
自分の鼓動。
雷のように神経を走る魔力。
一息。
踏み込む。
馬が地を蹴った。
世界が狭くなる。
敵先鋒の盾。
その向こうの目。
槍の穂先。
雷槍。
青白い線が夜明け前の空気を裂いた。
ロビンの槍は敵先鋒の盾を弾き、続く兵の列を割った。
馬上の勢いを殺さず、そのまま横へ抜ける。
追撃隊の足が止まった。
その一瞬を、レイバーは逃さない。
「今だ、引け! 止めたら引く! 勝つなと言っただろうが!」
灰鷹隊は深追いしなかった。
一撃。
離脱。
別の場所へ回る。
まさに遊撃だった。
橋の手前では、北部公爵軍の荷駄が渡り続けている。
ローレンスの声が聞こえた。
「負傷者を先に! 荷を詰めすぎないで! 馬を急かすな!」
リオンは橋の反対側で伝令を走らせている。
「三番荷車、通過。次、粗朶束の車。間隔を空けろ。右岸の隊は十騎を残して後退!」
灰鷹隊の騎馬班は、その間を縫うように走った。
丘へ。
橋へ。
側面へ。
追撃してくる敵を完全に倒すのではない。
前へ出る鼻先を叩き、足を止め、距離を作る。
ロビンは二度目の雷槍を放った。
今度は敵の騎兵を馬ごと押し返す。
リッカがその横を抜け、火薬筒兵の足元へ槍を走らせた。
レイバーは馬上で指揮を飛ばし続ける。
「左は捨てろ! 橋を見ろ! 隊長、戻りすぎるな! リッカ、行きすぎだ! おい、誰だ荷駄馬で突撃しようとしてる馬鹿は!」
文句を言いながら、彼は誰よりも周囲を見ていた。
馬上の視界は広い。
レイバーはその広さを、すぐに自分のものにしていた。
やがて、最後の大きな荷車が橋を渡った。
ローレンスが手を上げる。
「荷駄、通過!」
リオンの伝令が駆ける。
「右岸、撤収可能!」
オスカーの声が遠くで響いた。
「灰鷹、戻れ!」
レイバーが即座に叫ぶ。
「撤収! 隊長、最後に雷を一発見せてやれ!」
「承知!」
ロビンは馬首を返した。
追撃隊の先頭が、まだ食らいつこうとしている。
彼らも必死だった。
帝国軍を逃がせば、次にいつ捕まえられるかわからない。
ここで止めなければならない。
それは敵にとっても同じだった。
ロビンは槍を構えた。
青白い光が、今までで一番強く宿る。
馬が息を吐く。
ロビンも息を吐いた。
「バーゼルの雷槍、参る!」
雷光が走った。
敵の先頭が割れる。
追撃隊が一瞬、足を止める。
その一瞬で十分だった。
灰鷹隊は橋を渡った。
◇
夜明けの光が、東の空を染め始めていた。
橋の向こう、帝国側の土に戻った時、ロビンは振り返った。
昼に越えた国境を、彼らは夜明け前に戻ってきた。
チェシー側の平原には、まだ煙が残っている。
偽りの旗も、焚き火も、やがて敵に見破られるだろう。
だが、その間に荷駄は戻った。
負傷者も戻った。
北部公爵軍の多くも、戻りつつある。
オスカーが馬を寄せた。
「よくやった」
ロビンは息を整えながら言った。
「勝ったのでしょうか」
問いは、自然に口から出た。
敵を倒した。
追撃を弾いた。
だが、彼らは退いている。
オスカーは少しの間、ロビンを見た。
「勝った」
短い答えだった。
「少なくとも、帰すべき者を帰した。それは勝ちだ」
ロビンはその言葉を胸に入れた。
レイバーが馬から降り、腰を押さえた。
「俺は二度と馬上指揮なんぞやらん」
リッカが馬上から見下ろす。
「向いてた」
「最悪の褒め言葉だな」
「褒めてる」
「知ってるよ」
ローレンスが駆け寄ってきた。
「怪我は?」
「少し」
ロビンが答えると、ローレンスはすぐに腕と肩を確認した。
「少しじゃない傷を、少しと言わないで」
「本当に少しだ」
「後で見る」
リオンは台帳を閉じ、疲れた顔で言った。
「西部公爵家には、後で馬の使用報告を書かなければならない」
レイバーが顔をしかめる。
「今それを言うか」
「今言わないと忘れる」
「忘れてえよ」
小さな笑いが起きた。
疲れ切った笑いだった。
だが、生きて戻った者たちの笑いだった。
ロビンは馬の首を撫でた。
臨時の騎馬遊撃。
正式な騎馬隊ではない。
軍馬も借り物。
隊旗もまだ手書き。
それでも、灰鷹隊は戦場を駆けた。
馬上で雷槍を振るった。
味方が逃げるための道を守った。
灰鷹隊は、初めて戦場を駆けた。
その駆けた先にあったのは、敵の首都ではなく、味方が帰るための道だった。
だが、その道を守ったことだけは、確かに彼らの武功だった。




