第22話 枝束の盾
山場なので2投稿しちゃいました
ヤン・ノヴァークは、帝国軍の先頭に見慣れないものを見た。
枝の束だった。
いや、盾なのだろう。
兵の胸ほどの高さに束ねた生木の枝。縄で縛り、ところどころに土を詰めた籠のようなものも混じっている。
その後ろに、灰青色の首布を巻いた若い兵たちがいる。
ヤンの隣で、若い火薬筒兵が笑った。
「森でも担いできたんですかね、帝国の騎士様は」
「笑うな」
ヤンは短く言った。
若い兵は慌てて口を閉じる。
ヤンは帝国兵を侮ってはいなかった。
貴族の魔術師も、騎士も、槍兵も、恐れるに足る。
だが火薬筒は、それらを変えた。
魔力に恵まれた血筋でなくとも、人を倒せる。
馬上の騎士も、火弾を放つ魔術師も、百の筒が並べば止まる。
前の戦で、それは証明された。
それでも、火薬筒は神の雷ではない。
百歩では、当たる時も外れる時もある。
五十歩なら、恐ろしい。
だが五十歩まで寄られれば、こちらも恐ろしい。
ヤンはそのことを知っていた。
「百歩で一斉射撃。慌てるな。撃ったらすぐ装填。二列目は構えを崩すな」
「はい、連隊長」
火薬筒兵たちが頷く。
彼らの多くは、かつて農夫であり、職人であり、粉挽きであり、羊飼いだった。
今は共和国の兵である。
王のためではない。
貴族のためでもない。
自分たちの土地と家族と、新しい旗のために戦っている。
ヤンは、遠くの帝国軍を見た。
北部公爵軍は鋒矢の陣を敷いている。
最前には、黒い森と鷹の紋章。
その中央に、傷だらけの騎士団。
そして、枝束。
何だ、あれは。
胸の奥に小さな違和感があった。
だが、もう距離は縮まっている。
考える時間はない。
「構え」
火薬筒兵たちが筒を上げた。
ヤンは右手を上げる。
帝国兵が進んでくる。
百二十歩。
百十歩。
百歩。
「撃て!」
平原に、乾いた雷が響いた。
◇
火薬筒の音は、やはり魔法の雷とは違っていた。
耳を叩き、胸を殴り、馬を怯えさせる。
白い煙が平原に広がる。
ロビンの前で、枝束が激しく揺れた。
乾いた枝が弾け、生木の皮が裂け、縄が軋む。
すぐ隣で、灰鷹隊の若い隊士が悲鳴を上げた。
枝束の隙間を抜けた弾が、肩をかすめたのだ。
別の場所では、枝束ごと後ろへ倒れた者がいる。
無傷ではない。
防げる弾もあれば、防げない弾もある。
レイバーの盾は、魔法の壁ではなかった。
それでも、止まった弾があった。
生木の枝の間に、潰れた鉛玉が食い込んでいる。
「止まるぞ!」
レイバーが怒鳴った。
「全部は止まらねえ! だが止まる! 歩け! 盾は無敵じゃねえ、足を止めたらただの的だ!」
灰鷹隊は進んだ。
枝束を抱える者。
その隙間から弓を引く者。
小さな土籠を前へ押す者。
ロビンは槍を握り、枝束の後ろを進む。
火薬の煙が鼻を刺す。
目が痛い。
耳鳴りが残っている。
だが、レイバーの声だけは届いた。
「百歩だ! まだ走るな! 撃たせろ! 撃たせてから走れ!」
撃たせる。
その言葉が、戦場ではあまりにも怖かった。
誰だって撃たれる前に走りたい。
敵の筒口がこちらを向いているなら、止まらず突っ込みたくなる。
だが、そこで走れば、相手は落ち着いて狙う。
枝束の列が崩れれば、火薬筒兵の思うままだ。
だから歩く。
撃たせるために。
弓兵が枝束の隙間から矢を放った。
オスカー隊の従者たちも、盾の横から弓を引く。
後方の魔術師が火弾を放つ。
赤い火が白煙を裂き、チェシー側の列へ落ちた。
向こうでも悲鳴が上がる。
火薬筒兵が一人倒れ、別の兵がその場所を埋めようとする。
チェシー軍も無傷ではなかった。
枝束の盾にうろたえながらも、彼らは必死に装填している。
火薬を入れる。
弾を入れる。
棒で押し込む。
火皿を整える。
その手順を、彼らは何度も練習してきたのだろう。
だが、盾が近づいてくる。
その盾の隙間から矢と火弾が飛んでくる。
隣の仲間が倒れる。
煙の向こうから槍の穂先が見える。
手順は、急に遠くなる。
二度目の射撃は、一度目ほど揃わなかった。
それでも音は響いた。
枝束がまた揺れる。
灰鷹隊士が一人、膝をついた。
ローレンスが後ろから叫ぶ。
「下げろ! 肩を押さえて! まだ息はある!」
負傷者を引く者が動く。
ロビンは足を止めそうになった。
だが、止まれば列が乱れる。
進むしかない。
「五十歩!」
レイバーの声が飛んだ。
五十歩。
その距離になると、敵の顔が見えた。
火薬筒を構える兵の目が見えた。
若い。
ロビンと同じくらいの年の兵もいた。
その兵は、震える手で火薬を筒へ流し込んでいる。
口が動いていた。
何を言っているのかまではわからない。
だが、恐怖はわかった。
こちらも怖い。
向こうも怖い。
五十歩とは、敵が人に見える距離だった。
リッカが低く構える。
短槍の穂先が、煙の中で鈍く光った。
レイバーは敵列を見ていた。
装填が乱れている。
二列目が詰まっている。
指揮官が叫んでいる。
白煙が風に流れ、敵の一角が薄く見えた。
その瞬間、レイバーが吠えた。
「今だ! 盾を捨てろ! 走れ!」
枝束が地面に落ちた。
リッカが飛び出した。
◇
リッカは、煙の下を潜るように走った。
小柄な身体が低く沈み、短槍が地面すれすれに構えられる。
敵兵の筒口がこちらを向いた。
間に合わない。
リッカの槍が跳ね上がり、火薬筒の先を弾いた。
轟音。
弾は空へ逸れた。
「遅い」
リッカは短く言った。
その声が敵に聞こえたかどうかはわからない。
だが、彼女の槍は次の兵の手元へ走っていた。
火薬袋が裂ける。
棒が飛ぶ。
装填しかけていた兵が後ろへ下がる。
リッカの開けた隙間へ、灰鷹隊が続いた。
そしてロビンも踏み込む。
体内に魔力を巡らせる。
神経を走る電気を、無理やり強める。
バーゼル雷槍術。
青白い光が穂先に宿る。
足が地を蹴る。
五十歩。
四十歩。
三十歩。
煙の中、敵の声がはっきり聞こえた。
「装填を続けろ! 槍を恐れるな! 列を崩すな!」
チェシーの連隊長だった。
軍服の胸に、共和国の印。
顔には恐怖がある。
だが、逃げていない。
部下を立て直そうとしている。
敵もまた、自分の兵を守ろうとしていた。
ロビンはそれを見た。
見たうえで、止まれなかった。
「雷槍!」
青白い穂先が、煙を裂いた。
連隊長は剣を抜こうとした。
だが、ロビンの踏み込みが先だった。
槍の穂先が軍服の中央を貫き、号令が途切れた。
連隊長の身体が後ろへ崩れる。
その瞬間、チェシー火薬筒隊の一角が乱れた。
「連隊長が!」
「下がれ!」
「装填、装填しろ!」
声が重なり、列が揺れる。
オスカーの怒号が響いた。
「前へ! 今を逃すな!」
公爵騎士団が押し出した。
傷だらけの盾。
槍。
騎士の怒号。
灰鷹隊が開けた穴へ、オスカー隊が食い込む。
チェシー軍前衛は後退した。
総崩れではない。
後方では太鼓が鳴り、旗が振られ、別の士官が兵を下げている。
規律はまだ死んでいない。
だが、一角は確かに崩れた。
北部公爵軍の前衛が、押した。
帝国兵たちが声を上げる。
「押したぞ!」
「賊徒が退く!」
「北部公爵軍、前へ!」
ロビンも追おうとした。
リッカもすでに前へ出かけている。
だが、オスカーの声がそれを止めた。
「深追いするな! 陣形を維持しろ!」
ロビンは足を止めた。
敵は退いている。
追えば、さらに崩せるのではないか。
そんな思いが一瞬浮かんだ。
しかし、すぐにレイバーの声が続いた。
「勝ちじゃねえ! ここからが本番だ! 列を崩すな! 負傷者を下げろ! 枝束を拾えるだけ拾え!」
ここからが本番。
その言葉で、ロビンは思い出した。
この戦の目的は、チェシー軍を討ち滅ぼすことではない。
皇太子軍を退かせる時間を稼ぐこと。
押したと見せること。
そして、退くこと。
ロビンは槍を握り直した。
「灰鷹隊、陣形を戻せ! 負傷者を下げる!」
声は出た。
震えてはいなかった。
ただ、手は震えていた。
初めて人を討った感触が、槍の柄に残っている。
だが、今は見ない。
見るのは後だ。
今は隊を戻す。
◇
北部公爵軍は勝どきを上げた。
平原に声が響く。
帝国の旗が前へ出る。
チェシー前衛は距離を取り、再編している。
見た目には、北部公爵軍が押し勝った。
実際、局地的には勝った。
灰鷹隊は、火薬筒兵の一角を崩した。
オスカー隊は、その隙を逃さず押し込んだ。
旧い槍と盾は、火薬筒相手に届いた。
しかし、勝利の声の裏で、別の作業が始まっていた。
「藁人形を立てろ」
レイバーが低く命じる。
「旗は残す。火は多めに焚け。兜と外套をかけろ。遠目に兵がいるように見せるんだ」
隊士たちが動く。
荷車から藁束が下ろされ、人の形に縛られる。
槍を持たせる。
古い外套を被せる。
焚き火の数を増やす。
空の兜を杭に掛ける。
勝どきは大きく。
荷車は静かに。
それが今日の仕事だった。
ロビンはその光景を見つめた。
勝ったはずの戦場で、彼らは退く準備をしている。
それがこの戦の現実だった。
ローレンスは負傷者を後方へ送っている。
顔色は悪い。
だが手は止まらない。
リッカは槍の血を拭い、黙って座っていた。
いつもなら勝ち気な目が、今は少しだけ遠い。
リオンは、残す旗の位置を計算している。
「丘の上に二本。川沿いに一本。火はここから見えるように。音が足りないなら、太鼓を一つ残す」
レイバーが頷く。
「よし」
ロビンは枝束の一つを拾い上げた。
生木の枝の中に、潰れた鉛玉が食い込んでいる。
レイバーが隣へ来た。
「止まったな」
「ああ」
ロビンは鉛玉を見た。
「戦えた」
「今の火薬筒とはな」
レイバーの声は低かった。
ロビンは彼を見た。
「次は違うと?」
「敵が馬鹿なら同じだ」
「馬鹿ではないか」
「今日ので、向こうも学ぶ」
レイバーは平原の向こうを見た。
チェシー軍は後退しつつも、崩れてはいない。
彼らもまた、こちらを見ている。
枝束の盾。
煙の中の槍。
装填の隙。
今日こちらが見つけた勝ち筋は、今日向こうにも知られた。
ロビンは槍を握った。
旧い武でも、まだ戦える。
その確信はあった。
だが、その確信は永遠ではない。
日が傾き始める頃、北部公爵軍の本当の撤退が始まった。
表向きには、前線の整理。
実際には、皇太子軍をさらに遠ざけるための後退。
平原には、北部公爵軍の旗がまだ立っていた。
その下には、兵ではなく藁を詰めた人形が並んでいる。
焚き火の煙が上がり、遠目には夜営の準備をしているように見える。
どうか、少しでも長く気づかれないでくれ。
ロビンはそう願った。
初めて勝った戦場から、灰鷹隊は静かに退き始めた。




