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第21話 北部公爵軍、単独越境



 翌朝、皇太子軍の荷駄が動いていた。


 それは、進軍のための動きには見えなかった。


 荷車の向きが違う。


 馬の列が、南ではなく北へ向いている。


 天幕を畳む兵たちの手つきは早く、だが声は抑えられていた。軍楽もない。旗も大きくは動かさない。


 表向きには、兵站線の調整。


 後続部隊との合流。


 補給の組み替え。


 そう説明されていた。


 だが、灰鷹隊の者たちは、もうその言葉をそのまま受け取るほど幼くはなかった。


 ロビンは丘の上から、皇太子軍の荷駄が後方へ下がっていくのを見ていた。


 その隣で、レイバーが腕を組んでいる。


「帰すための命令だ」


 昨夜、レイバーはそう言った。


 その言葉が、今は目の前で形になっていた。


 皇太子軍は、撤退している。


 ただし、撤退と呼ばれない形で。


 帝国直轄軍の旗は、まだ中央に残っている。


 皇太子殿下の威光は、まだそこにあることになっている。


 けれど、荷駄が動き、馬が動き、兵糧が動けば、軍は動く。


 旗よりも先に、戦の実態は荷車に現れるのだと、ロビンはこの数日で知ってしまった。


「隊長」


 リオンが近づいてきた。


「オスカー卿より伝令です。灰鷹隊は北部公爵軍前衛、オスカー隊に合流せよ、とのこと」


 ロビンは頷いた。


「全員に伝えろ。荷をまとめる。粗朶束も忘れるな」


「すでにレイバーが怒鳴っています」


 丘の下では、レイバーの声が響いていた。


「枝束を最後尾に回すな! 火薬筒に撃たれてから取りに戻る気か! 前へ持ってこい、前へ!」


 ローレンスは負傷者用の荷を確認している。


「薬箱は二つに分けて。片方が失われても、もう片方が残るように。水は煮たものから先に持っていく」


 リッカは短槍を背負い、いつでも走れるよう外套の裾を縛っていた。


 彼女は皇太子軍の後退する荷駄をちらりと見て、すぐに前を向いた。


「行くのね」


「ああ」


「敵を倒しに?」


 ロビンは答えに迷った。


 敵を倒しに行く。


 そう言えれば、どれほど簡単だろう。


 だが、今回の越境は勝つためのものではない。


 皇太子軍を逃がすための、攻撃の形をした時間稼ぎだ。


「道を開きに行く」


 ロビンはそう答えた。


 リッカは少しだけ首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。


「わかった」


 彼女は槍を握り直した。


 灰鷹隊は動き出した。


 南へ。


 北部公爵軍の前衛へ。




   ◇




 オスカー隊は、北部公爵軍の中でも異質だった。


 華やかな騎士団ではない。


 鎧は磨かれているが、飾りは少ない。


 盾には古い傷が残り、馬具も実用を優先している。騎士たちは口数が少なく、互いの動きだけで間隔を取る。


 公爵家一の武闘派。


 オスカー・フォン・ヴァルトが率いる前衛騎士団。


 その中に灰青色の首布を巻いた灰鷹隊が入ると、どうしても若さが目立った。


 北部公爵家の騎士の一人が、低く呟いた。


「町道場の若造を前へ入れるのか」


 ロビンには聞こえた。


 レイバーにも聞こえたらしい。


 彼は笑って、何か言い返そうとした。


 だが、その前にオスカーが口を開いた。


「橋を落とさず、荷を通し、火薬筒を研究した若造だ」


 騎士たちの視線がオスカーへ向く。


 オスカーは腕を組み、灰鷹隊を見回した。


「お前たちより役に立つかもしれん」


 騎士は口を閉じた。


 レイバーが小声で言った。


「隊長、今のは褒められたのか、周りを敵に回されたのか」


「両方だ」


 ロビンも小声で返した。


 オスカーはロビンの前に立った。


「ロビン・フォン・バーゼル」


「はい」


「今日から灰鷹隊は、私の前衛に入る。町の巡衛ではない。戦場だ」


「承知しました」


「承知だけで槍は動かん」


 オスカーの目が鋭くなる。


「怖いか」


 周囲が静かになった。


 ロビンは一瞬だけ言葉を探した。


 そして、正直に答えた。


「怖いです」


 リッカがわずかにロビンを見る。


 レイバーは何も言わない。


 オスカーは頷いた。


「ならよい。怖くない者から死ぬ」


 その言葉で、周囲の騎士たちの空気が少し変わった。


 オスカーは続ける。


「恐怖は隠すな。だが、恐怖に命令させるな。命令を出すのはお前だ。お前が揺れれば、灰鷹も揺れる」


「はい」


「レイバー」


「はい」


「粗朶束と土籠は使えるか」


「使えるようにします」


「それでは足りん」


「使います」


「よし」


 オスカーはリッカにも目を向けた。


「お前は前へ出たがる顔をしている」


「出ます」


「命じられるまで出るな」


「……はい」


「不満か」


「少し」


「よい。不満を足に乗せるな。槍に乗せろ」


 リッカは真面目な顔で頷いた。


 オスカーは最後にローレンスとリオンを見た。


「負傷者を戻す道を失うな。伝令線を切らすな。前で勝っても、後ろが詰まれば死ぬ」


 ローレンスとリオンは同時に頭を下げた。


「では聞け」


 オスカーは地図を広げた。


 周囲にロビンたちが集まる。


 地図には、帝国とチェシーの境を示す細い線が引かれている。


 実際には、ただの川と石標と草地だ。


 だが、人はそこに線を引く。


 そして、その線を越えることに意味を与える。


「北部公爵軍は予定通り越境する」


 オスカーは言った。


「公式には、チェシー王国反乱分子の前衛を圧迫するための進軍だ」


 公式には。


 その言い方だけで、ロビンにはもう十分だった。


「実際には、皇太子軍を後方へ下げる時間を稼ぐ」


 周囲の灰鷹隊士が息を呑む。


 オスカーは低い声で続けた。


「このことを、全兵に触れ回るな。兵の多くは、攻めると信じて進む。それでよい。軍は、時にそうでなければ動かん」


 ロビンは拳を握った。


 攻めると信じて進む兵。


 その後ろで、皇太子軍は退く。


 それが必要なのだと頭ではわかる。


 だが、胸のどこかがざらついた。


「我らは深追いしない。勝ちすぎてもいかん。崩れてもいかん。押す。止める。皇太子軍が下がる時間を作る。そして退く」


 レイバーが低く言った。


「勝つより面倒ですね」


 オスカーは頷いた。


「そうだ。勝つ方が簡単なこともある」


 ロビンは地図を見つめた。


 騎士の戦とは、敵を討ち、旗を奪い、名を上げるものだと思っていた。


 しかし今、目の前にある戦は違う。


 攻撃の形をした撤退支援。


 名誉の旗を掲げた時間稼ぎ。


 戦場での名誉と現実が、噛み合わない音を立てている。


 オスカーはそんなロビンを見た。


「納得できん顔だな」


「……はい」


「正直でよい」


 オスカーは地図を畳んだ。


「騎士の名誉は、敵を斬ることだけにあると思うな。帰すべき者を帰すために嘘をつくこともある。泥をかぶることもある。戦場で綺麗なまま立っていられる者など、絵の中にしかおらん」


 ロビンは胸を突かれた。


 オスカーの鎧には傷がある。


 盾にも、馬具にも。


 この男は、綺麗な戦など信じていない。


「承知しました」


 ロビンは言った。


 今度の承知は、先ほどよりも重かった。




   ◇




 北部公爵軍は、午後に越境した。


 国境は、思っていたより静かだった。


 大きな城壁も、荘厳な門もない。


 浅い川。


 古い石標。


 野草の生えた土手。


 帝国側にもチェシー側にも、同じように春の草が揺れている。


 ロビンは槍を手に、列の中でその石標を見た。


 ここから先は敵地。


 そう教えられた。


 だが、土の色は変わらない。


 空の色も変わらない。


 川の水は、帝国側からチェシー側へ流れているわけではない。ただ低い方へ流れている。


 人が線を引き、人が旗を立て、人が敵地と呼ぶ。


 その線を越えた瞬間、ロビンの胸は確かに鳴った。


 灰鷹隊はチェシー領へ入った。


 前方にはオスカー隊の騎士たち。


 後方には北部公爵軍本隊。


 さらに後方では、皇太子軍の荷駄が少しずつ遠ざかっているはずだった。


 表向きには、後続調整。


 実態は撤退。


 そのことを知る者は少ない。


 知らない兵たちは、越境の瞬間に小さく声を上げた。


「帝国に栄光を」


「賊徒を討て」


 ロビンは、その声を聞いた。


 彼らは嘘をついているのではない。


 本当に、そう信じている。


 だからこそ、苦かった。


 リオンが隣で静かに言った。


「戦場の真実は、全員に同じ顔を見せないものだね」


「お前は、平気なのか」


「平気ではない。ただ、驚いてはいない」


 リオンは前を見た。


「貴族の家に生まれれば、幼い頃から教えられる。名誉とは、たいてい誰かが隠した汚れの上に立っている」


 ロビンは返す言葉がなかった。


 リッカが前方から戻ってきた。


「丘の向こう、広い」


「敵は」


「まだ。でも、足跡がある。多い」


 レイバーがすぐに地図を開く。


「平原か」


「たぶん」


「たぶんじゃ困る」


「広かった」


「よし、平原だ」


 レイバーは諦めたように言った。


 北部公爵軍は丘を越え、ゆるやかな平原へ出た。


 春の草が広がっている。


 遠くに焼けた村跡が見えた。


 さらにその向こう、低い丘の陰に、動くものがあった。


 旗。


 人影。


 そして、横に並ぶ黒い点の列。


 斥候が駆け戻ってきた。


「敵軍発見! チェシー軍前衛、平原の南端に展開中!」


 オスカーの声が飛ぶ。


「鋒矢の陣を敷け!」


 北部公爵軍が動いた。


 ゆっくりと、しかし確実に。


 中央が前へ伸びる。


 左右が広がる。


 槍歩兵が列を作り、魔術師隊が後方へ控え、騎士たちが最前を固める。


 鋒矢。


 矢じりの形。


 その最前に立つのは、オスカー率いる公爵騎士団。


 そして、その中に灰鷹隊も組み込まれた。


「粗朶束、前へ!」


 レイバーが叫ぶ。


「土籠はまだ置くな! 動きが止まる! 枝束は槍隊の前、間隔を空けろ!」


 隊士たちが動く。


 生木の枝束を抱えた者たちが、前へ出る。


 リッカは短槍を低く構え、呼吸を整えていた。


 ローレンスは負傷者を下げる道を確認している。


 リオンは伝令の位置を見て、隊士を二人配置し直した。


 ロビンは槍を握った。


 手の中で、柄が少し湿っている。


 汗だった。


 怖い。


 オスカーにそう答えた時と同じ感情が、今も胸にある。


 だが、恐怖に命令させてはならない。


 命令を出すのは自分だ。


 ロビンは息を吸った。


「灰鷹隊、構え」


 声は震えなかった。


 隊士たちが応じる。


 遠くのチェシー軍が動いた。


 黒い点の列が、肩を並べる。


 火薬筒。


 施療院で見た片脚の兵士の言葉。


 レイバーの実験場で響いた轟音。


 それらが一瞬で蘇る。


 平原に、風が吹いた。


 次の瞬間、乾いた雷のような音が響いた。


 魔法の雷ではない。


 火薬筒の音だった。


 白い煙が、遠くの敵列の前に広がる。


 ロビンの初陣は、その音で始まった。


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