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第20話 西部国境の急報



 戦は、始まる前に崩れることがある。


 アルブレヒト・フォン・ヴァルトは、そのことを若い頃に学んでいた。


 敵の剣が届く前に、兵糧が尽きる。


 敵の矢が放たれる前に、橋が落ちる。


 敵の旗を見る前に、味方の諸侯が足を止める。


 それでも、軍議の席では誰もが勝利を語る。


 勝利を語らなければ、兵は動かない。貴族は金を出さない。宮廷は面子を保てない。


 だから、勝利という言葉は便利だった。


 そして、ときに残酷だった。


 チェシー国境に近い仮設軍営で、アルブレヒトは灰鷹隊から届いた報告書を読んでいた。


 幕舎の外では、兵士たちの声がする。


 馬のいななき。


 鍋をかき混ぜる音。


 槍の穂先を磨く音。


 荷車の車輪を直す槌音。


 遠くでは皇太子軍の旗が翻っている。


 帝国直轄軍の金の鷲。


 その脇に、北部公爵家フォンヴァルトの黒い森と鷹の旗。


 さらに西には、西部公爵軍の天幕が連なっている。


 少なくとも、昨日まではそうだった。


「ブレン村の橋、仮補修完了。荷車一台ずつなら通行可能。井戸一つを浚渫。倉二棟、雨漏り処置済み。難民多数。焼けた村あり。チェシー側斥候の影あり」


 アルブレヒトは、報告書の文字を指で追った。


 字はローレンスのものだろう。整っていて、必要な数字が抜けていない。


 別紙にはレイバーの追記があった。


 こちらは字が汚い。


 だが、内容は悪くない。


 橋梁補修に使用した材木量、縄、村人の人足、荷車の通行順、粗朶束の保管場所、泥濘箇所の目印。


 アルブレヒトは思わず口元を緩めた。


「若い。粗い。だが、役に立つ」


 幕舎の入口近くに立っていたオスカーが、腕を組んだまま言った。


「だから言っただろう。バーゼルの槍は、まだ錆びていない」


「槍だけではない」


 アルブレヒトは報告書を机に置いた。


「あの隊は荷車も押せる。泥を嫌がらん」


 オスカーは少し笑った。


「それは、騎士団より貴重かもしれんな」


「時にはな」


 アルブレヒトは地図へ目を落とした。


 皇太子軍、北部公爵軍、西部公爵軍。


 三つの駒が、チェシー王国と記された土地の北東に並ぶ。


 南では南部公爵が国境を固めている。


 予定では、三軍が圧力をかけ、チェシーの反乱分子を山と川の間へ押し込む。


 宮廷が描いた絵図は美しい。


 美しすぎる。


「殿下の幕僚どもは、灰鷹をどう見ている」


 オスカーが尋ねる。


「便利な下働きだろう」


「腹立たしいな」


「事実でもある」


 アルブレヒトは静かに言った。


「だが、下働きを軽んじる軍は、腹を空かせて負ける」


 その時、幕舎の外が少し騒がしくなった。


 足音が近づく。


 皇太子軍の幕僚が入ってきた。


 まだ若い男だった。鎧は磨かれ、マントの留め具には直轄軍の印が光っている。


「フォンヴァルト公爵閣下」


「何か」


「殿下より、明朝の進軍予定について確認を、とのことです。北部公爵軍は予定どおり山沿いの道を進み、我が直轄軍の右翼を支える。西部公爵軍は西側街道を押さえ、反乱分子の退路を断つ」


 反乱分子。


 この男も決して共和国とは言わない。


 アルブレヒトは頷いた。


「承知している」


「殿下は、今度こそ賊徒に帝国の威光を示すお考えです」


「威光は、兵糧と道の上に立つものだ」


 幕僚は一瞬、意味を測りかねた顔をした。


「もちろんでございます」


 もちろんではない。


 アルブレヒトはそう思ったが、口には出さなかった。


 若い幕僚は勝利を信じている。


 いや、信じなければならないのだろう。


 皇太子は、前の征伐でも総大将だった。


 帝国宮廷は、あれを敗北とは呼んでいない。


 しかし誰もが知っている。


 帝国は、チェシーで傷ついた。


 だからこそ、今回の征伐は勝たねばならない。


 皇太子殿下は、勝たねばならない。


 その重さが、若い幕僚の声を必要以上に硬くしていた。


 オスカーが低く言った。


「火薬筒兵への備えは」


「前回のようには参りません。今回は密集を避け、魔術師隊も前へ出します。騎士団も、反乱分子の奇妙な筒などに怯むことはないでしょう」


 怯むことはない。


 アルブレヒトは、その言葉に危うさを感じた。


 怯まぬことと、対策することは違う。


 だが、その指摘を今ここでしても、この幕僚の耳には届くまい。


 彼が去った後、オスカーが舌打ちした。


「威勢がよすぎる」


「若い幕僚は、主君の不安を威勢で覆う」


「殿下ご自身の不安か」


「殿下だけではない。宮廷全体だ」


 アルブレヒトは地図を見た。


 チェシーと記された土地。


 そこに革命の旗が立っていることを、帝国は認めない。


 認めれば、火は帝国内へ入る。


 だから、これは単なる軍事作戦ではない。


 言葉の戦でもあった。


 その時だった。


 幕舎の外で馬の蹄が乱れた。


 次いで、怒鳴り声。


 伝令が駆け込んできた。


 泥と汗にまみれている。


 顔は蒼白だった。


「急報!」


 幕舎の空気が凍った。


 伝令は膝をつき、息を切らしながら封書を差し出した。


「西部国境より急報! 西方共和国軍が国境を越えました! 西部公爵領の国境砦二つが襲撃を受け、ひとつは包囲中とのこと!」


 オスカーの目が鋭くなる。


 アルブレヒトは封書を受け取った。


 封は西部公爵軍のものではない。


 帝国西部の国境監視官からだ。


 読み進める。


 西方共和国軍の越境。


 国境砦への攻撃。


 西部公爵領内での混乱。


 そして、最後の一文。


 西部公爵軍は、自領防衛のため、現征伐軍より離脱し西方へ転進する。


 アルブレヒトはしばらく紙を見つめた。


 幕舎の外では、まだ兵士たちが鍋をかき混ぜている。


 馬が草を食んでいる。


 だが、地図の上では、今、軍の一角が消えた。


「逃げたか」


 オスカーが低く言った。


「逃げたのではない」


 アルブレヒトは紙を畳んだ。


「自領を守りに戻った」


「同じことだ」


「戦場ではな。政治では違う」


 オスカーは弟を睨んだ。


「では、お前ならどうする。ヴァルトハイムが襲われたと知って、それでもこの場に留まれるか」


 アルブレヒトは答えなかった。


 答えはわかっていた。


 自領を守る。


 家督を継いだ領主とは、そういうものだ。


 西部公爵を罵ることは簡単だ。


 だが、もし北方の本領ヴァルトハイムに敵が越境したなら、自分は同じ選択をしなかったと言い切れるか。


 言い切れない。


 だからこそ、苦かった。


 幕僚たちが集められた。


 皇太子軍の幕舎から、先ほどの若い幕僚だけでなく、さらに年長の側近たちもやって来る。


 西部公爵軍の使者は、すでに撤退準備のため姿を消していた。


「敵前逃亡だ!」


 皇太子側近の一人が机を叩いた。


「西部公爵を処罰せよ! 直ちに戻るよう命じるべきだ!」


「命じても、戻りますまい」


 アルブレヒトは静かに言った。


「彼らはすでに動いている。国境砦が包囲されているなら、西部公爵領の兵は領主の旗へ戻る」


「ならば、我らだけで進めばよい!」


 別の側近が叫ぶ。


「殿下は退かぬ。退けぬ。ここで退けば、殿下は二度も賊徒に背を向けたことになる!」


 その言葉に、幕舎の空気がさらに重くなった。


 二度も。


 誰も口にしなかった言葉だった。


 アルブレヒトは地図上の駒を動かした。


 西部公爵軍の駒を取り除く。


 それだけで、絵図は崩れた。


 西側街道は空く。


 チェシー軍の退路を断つはずの圧力が消える。


 北部公爵軍の側面は広く開く。


 皇太子軍は中央で突出する形になる。


 南部公爵は東部国境を固めており、すぐには動けない。


 補給線は長く、街道は細い。


 チェシーが機敏に動けば、皇太子軍は各個撃破されかねない。


 アルブレヒトは内心で結論を出していた。


 もう、この戦は勝つ戦ではない。


 いかに負けを負けに見せず、軍を帰すかの戦になった。


「進むのは危険です」


 軍務官の一人がようやく言った。


「ここで退くのも危険です」


 皇太子側近が即座に返す。


「では、どうせよと言うのだ!」


 声が荒れる。


 オスカーが机に拳を置いた。


「怒鳴っても兵は増えん」


 幕舎が静まった。


 アルブレヒトは目を閉じた。


 皇太子を逃がす必要がある。


 だが、皇太子が逃げたように見えてはならない。


 帝国が賊徒に背を向けたように見えてはならない。


 ならば、誰かが前へ出なければならない。


 勝つためではない。


 退くために。


「我らが越境する」


 アルブレヒトは言った。


 全員が彼を見た。


 オスカーの顔が険しくなる。


「本気か」


「本気だ」


 アルブレヒトは地図上の北部公爵軍の駒を、チェシー側へ少し進めた。


「北部公爵軍は予定通り進軍する。侵攻継続の形を取る。皇太子軍は、後続と兵站調整の名で一度後方へ下がる」


 皇太子側近が目を見開いた。


「それでは、北部公爵軍が矢面に」


「そのために我らがいる」


 アルブレヒトは静かに言った。


「殿下の軍を先に退かせる。汚名は我らが被る」


 幕舎の中に、重い沈黙が落ちた。


 汚名。


 それは、誰も口にしたくなかった言葉だった。


 皇太子軍を守るために進む。


 しかし公式には、北部公爵軍は勇んで賊徒へ攻め込むことになる。


 もし失敗すれば、無謀な突出として責められる。


 もし撤退すれば、戦果不十分として責められる。


 成功しても、皇太子の面子を立てるため、語られる功は限られる。


 それでも、誰かがやらねばならない。


「アルブレヒト」


 オスカーが低く言った。


「前へ出るのは私だ」


「もちろんだ」


 アルブレヒトは兄を見た。


「お前にしか任せられん」


 オスカーは短く頷いた。


 怒っている。


 だが、もう反対はしなかった。


 皇太子側近の一人が震える声で言った。


「殿下には、何と」


「北部公爵軍は予定通り越境し、反乱分子の前衛を圧迫する。皇太子軍は後続調整のため、兵站線を整える。そう伝えよ」


「しかし」


「そう伝えよ」


 アルブレヒトの声は静かだった。


 だが、命令だった。


 側近は唇を噛み、頭を下げた。


 幕舎の外では、まだ兵士たちは何も知らない。


 だが、軍の行く先は決まった。


 勝利へではない。


 撤退のための前進へ。




   ◇




 灰鷹隊への命令は、日が暮れる頃に届いた。


 ロビンたちは焼けた村の近くで難民の整理を終え、臨時の宿営地に戻ったところだった。


 荷車の脇で、ローレンスが負傷者の手当てをしている。


 リッカは斥候から戻ったばかりで、泥のついた外套を脱いでいた。


 レイバーは地図の上に石を置き、街道と渡河点の確認をしている。


 そこへ、オスカー配下の騎士が来た。


 ロビンは命令書を受け取った。


 文面は簡潔だった。


 北部公爵軍は予定通り越境する。


 灰鷹隊は先行し、山沿いの街道側面、渡河点、兵站路を確保せよ。


 チェシー側前衛との接触に備え、斥候を厚く出せ。


 粗朶盾および土籠の準備を進めよ。


 ロビンは読み終えた後、地図を見た。


 南。


 チェシー国境。


 そこへ、北部公爵軍だけが進む。


 何かが変わった。


 文面には書かれていないが、明らかだった。


「西部公爵軍は?」


 ロビンは騎士に尋ねた。


 騎士は一瞬だけ目を伏せた。


「西方国境へ転進されました」


 レイバーの顔が変わった。


「つまり、いねえってことか」


 騎士は答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 リオンが静かに言った。


「作戦は崩れたのですね」


 騎士はさらに沈黙した。


 ロビンは命令書を握りしめた。


「皇太子軍は」


「後続調整のため、兵站線を整えるとのことです」


 レイバーが低く笑った。


 笑いではなかった。


「勝ちに行く命令じゃねえな」


 ロビンは彼を見た。


「どういう意味だ」


「帰すための命令だ」


 その言葉は、焚き火の火よりも冷たかった。


 ロビンはもう一度地図を見る。


 北部公爵軍。


 皇太子軍。


 消えた西部公爵軍。


 チェシー国境。


 灰鷹隊の進む道。


 泥道の先に、今度こそ火がある。


 ローレンスが静かに薬箱を閉じた。


 リッカは短槍を握り直した。


 リオンは通行証の束を懐へしまい、表情を消した。


 レイバーは地図の上の石をひとつ、南へ押し出した。


「隊長、泥道の次は火の中だ」


 ロビンは槍を取った。


「行くぞ」


 その夜、北部公爵軍の幕舎に灯る火は、夜明け近くまで消えなかった。


 翌朝、帝国軍は予定どおり進軍すると発表された。


 ただし、その予定がすでに壊れていることを知る者は、まだ少なかった。


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