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第19話 兵站集積地



 帝都を出て三日目、灰鷹隊の荷車は泥にはまった。


 それは、あまりにもあっけない敵だった。


 チェシー兵でもない。


 火薬筒でもない。


 矢でも槍でも魔法でもない。


 春先の雨を吸った街道のぬかるみだった。


 帝都近郊の石畳は、一日も進めば途切れる。そこから先は、踏み固められた土の道だ。乾いていれば荷車も馬も通る。だが雨が降れば、たちまち車輪を呑み込む泥になる。


 三台目の荷車が、深い轍に沈んだ。


 馬が鼻を鳴らし、御者が手綱を引く。


 車輪は半分ほど泥に埋まり、荷台が傾いている。積んでいるのは干し肉、縄、予備の槍穂、それにレイバーがしつこく持たせた生木の枝束だった。


「押せ!」


 レイバーの怒鳴り声が街道に響いた。


「槍を持ってる手があるなら、車輪を押せ! 敵はまだいねえが、泥はもう敵だ!」


 隊士たちが慌てて集まる。


 ロビンも槍を荷台に立てかけ、車輪へ肩を入れた。


 泥が膝に跳ねる。


 手袋の内側まで湿り、足元が滑る。


「一、二で押すぞ!」


 レイバーが声を張る。


「一、二!」


 車輪は動かない。


「もう一回だ! 腰で押せ、腕だけで押すな!」


「腰でって何ですか!」


「大工に聞け!」


「ここに大工はいません!」


「俺がいる!」


 レイバーは怒鳴りながら、泥の中に板を差し込んだ。


 大工の息子らしく、どこに支点を置けば車輪が浮くかを見ている。隊士二人に縄をかけさせ、別の者に馬の横へ回らせる。


 ローレンスは少し離れた場所で馬の足を見ていた。


「無理に引かせないで! このまま引くと脚を痛める!」


「じゃあ人間が押せ!」


 レイバーが即答する。


「人間も壊れるよ!」


「人間は文句を言いながらでも押せる!」


「馬も文句を言えないだけだ!」


 ローレンスの声が少し強くなる。


 レイバーは一瞬だけ口を閉じた。


 それから、舌打ちした。


「わかった。馬は休ませろ。人間で押す」


 ローレンスは頷き、馬の首を撫でた。


 リッカは泥にはまった車輪の反対側へ回り、槍の石突きでぬかるみを掘っている。


「そこ、深い」


「わかってる!」


「じゃあ、そっちはだめ」


「先に言え!」


 リッカは平然と言った。


「今言った」


 リオンは外套の裾を持ち上げ、少し離れた丘の上から道の先を見ていた。


「この轍、昨日今日のものではない。大きな荷車が何度も通っている。近くの宿場で道を直す人足を出させるべきだ」


「それを誰が言う」


 レイバーが聞く。


「私が言う」


「頼んだ」


 ロビンは泥の中で肩に力を入れながら、ふと笑いそうになった。


 戦場へ向かっている。


 その最初の戦が、泥と荷車だとは思っていなかった。


「隊長、笑ってる場合か!」


 レイバーが見逃さずに怒鳴る。


「笑っていない!」


「笑ってたぞ!」


 その時、車輪が少し浮いた。


「今だ! 押せ!」


 全員で押す。


 泥が跳ねる。


 縄が軋む。


 荷車がぐらりと揺れ、ようやく轍から抜け出した。


 隊士たちが歓声を上げた。


 ロビンは泥まみれの手を見た。


 槍を握る手ではなく、車輪を押す手。


 これも戦なのだと、彼は初めて思った。




   ◇




 最初の兵站集積地候補は、街道沿いの宿場町だった。


 名を、ブレン村という。


 村といっても、宿場としてはそれなりに大きい。馬小屋があり、荷車置き場があり、旅籠が三軒、麦倉が二つ、井戸が二つある。


 本隊が来る前に、ここを整えなければならない。


 北部公爵軍の先遣補助として灰鷹隊に与えられた仕事は、華々しいものではなかった。


 井戸の水量を調べる。


 倉の屋根を確かめる。


 馬小屋の床を張り替えさせる。


 腐った藁を捨てる。


 宿場役人と村長に、兵糧の受け入れ数を確認させる。


 渡河点までの距離を測る。


 橋の状態を見る。


 荷車がすれ違える道幅を確保する。


 敵影より先に、雨漏りと腐った梁を探す。


「井戸は二つじゃ足りねえ」


 レイバーは宿場の広場で、早速怒鳴っていた。


「裏の古井戸をさらえ。水が濁ってるなら底を掻け。倉の屋根が漏ってる。麦を入れる前に直せ。馬小屋の床板、ここ、踏むと鳴る。腐ってるぞ」


 宿場の番頭が困った顔で言う。


「ですが、急にそのようなことを言われましても」


「本隊が来てから言うよりましだろ」


「人手が」


「出せ」


「費用が」


「記録に残す。フォンヴァルト公爵家の先遣補助として必要と認める」


 レイバーが雑に言うと、横からリオンが滑るように入った。


「ただし、過大請求は認めません。後ほど公爵家の書記官が照合します。人足の数、木材の量、修繕箇所、すべて記録してください」


 番頭の顔がさらに困ったものになった。


 レイバーはリオンを見た。


「助かる」


「君の言い方では、半分は喧嘩になる」


「半分で済むなら上出来だ」


 リオンは肩をすくめた。


 その横で、ローレンスは馬小屋にいた。


 到着までの道中で足を痛めた馬、泥で滑って肩を打った隊士、腹を壊した荷運び。


 彼は一人一人を確認している。


「水をそのまま飲まないでと言ったよね」


「少しだけなら大丈夫かと」


「大丈夫じゃなかったから寝てるんだよ」


 ローレンスはため息をつき、薬湯を渡した。


「半日は休んで。無理に動くと、本隊が来る前に倒れる」


「でも、荷が」


「荷は代わりがいる。君の腹は代わりがない」


 優しい言い方だったが、そこには有無を言わせない強さがあった。


 ロビンはその様子を見て、ローレンスも変わったと思った。


 かつては、誰かに強く言うことをためらう兄貴分だった。


 今は、誰かを守るためなら止めるべき相手を止める。


 それは槍とは違う強さだった。


 リッカは、すでに村の外へ出ていた。


 彼女には前方の橋と渡河点の確認を命じてある。


 斥候としてのリッカは、予想以上に優秀だった。


 足が速い。


 身が軽い。


 余計なことを言わない。


 そして、危ないものを見つけるのが早い。


 ただし、報告は短すぎる。


 昼過ぎ、リッカは戻ってきて、開口一番に言った。


「橋、危ない」


 レイバーが振り返る。


「どの程度」


「荷車二台目で落ちる」


「それを最初に言え!」


「最初に言った」


「危ない、だけじゃ足りねえ!」


 リッカは少し考えた。


「橋、すごく危ない」


「程度の問題じゃねえ!」


 ロビンは思わず笑いかけたが、レイバーに睨まれて真顔に戻した。


「案内してくれ」


 リッカは頷いた。


 灰鷹隊は、橋へ向かった。




   ◇




 橋は、ブレン村の南を流れる川にかかっていた。


 幅は広くない。


 だが、春の雪解け水を集めて流れる川は、見た目よりも速い。


 橋は木製で、古かった。


 表面の板はそれなりに整っている。


 旅人が歩く分には問題ないだろう。


 だが、本隊の荷車、馬、兵糧、火薬、予備武器が通るとなれば話は違う。


 レイバーは橋の手前でしゃがみ込み、板を叩いた。


 乾いた音。


 次に端の梁を見る。


 指で削る。


 木屑がぼろりと落ちた。


「だめだ」


 即答だった。


「見た目は平気でも、中が食われてる。この梁は持たねえ」


 村長が慌てて言った。


「しかし、昨日も荷車が通りましたぞ」


「昨日通ったから今日落ちねえとは限らん」


 レイバーは橋の下を覗き込んだ。


「親父なら、この橋を渡る前に俺の頭を殴る」


「なぜお前の頭を」


 ロビンが聞く。


「こんな橋を見て何も言わなかった罰だ」


 レイバーは立ち上がった。


「補強する。今すぐだ」


 村長の顔が青くなる。


「今すぐと言われましても、人手が」


「出せ」


「材木が」


「近くの林から切る。生木は橋梁には向かねえが、仮補強には使える。乾いた材も倉にあるだろ」


「それは冬越し用の」


 リオンが前に出た。


「村長殿」


 声は穏やかだった。


「この橋が落ちれば、皇太子軍の荷はここで止まります。そうなれば、後から来る徴発官は、橋のための材木だけではなく、馬も、牛も、男手も、倉の麦も、すべて持っていくでしょう」


 村長は言葉を失った。


「我々は今、必要な分を記録し、対価を請求できる形で使おうとしている。どちらがよいか、考えてください」


 村長はしばらく黙り、それから肩を落とした。


「……人を集めます」


「賢明です」


 リオンは静かに頭を下げた。


 ロビンはそのやり取りを見ていた。


 リオンの言葉は冷たい。


 だが、現実を外していない。


 兵站はお願いだけでは動かない。


 しかし奪いすぎれば、次の村が敵になる。


 だから書面と印が要る。


 リオンが前に言った言葉を、ロビンは思い出した。


 橋の補修は、夕方まで続いた。


 レイバーは泥と木屑にまみれながら指揮を執った。


「そこじゃねえ! 梁の下へ噛ませろ! 縄は斜めに張れ、真っ直ぐじゃ揺れを殺せねえ!」


 隊士も村人も、区別なく働かされた。


 ロビンも材木を運んだ。


 リッカは対岸の林で見張りをしながら、必要な枝を切り出している。


 ローレンスは怪我をした村人の指に包帯を巻き、同時に作業の休憩を指示した。


「水を飲んで。順番に休む。倒れたら作業が遅れる」


「休んでる暇なんか」


 村人が言いかけると、ローレンスは静かに言った。


「倒れる暇の方がありません」


 その言葉で、村人は黙って水を飲んだ。


 日が傾く頃、橋は仮補強を終えた。


 完全ではない。


 だが、荷車を一台ずつ通すなら持つ。


 レイバーは最後に自分で橋の上を歩き、板の軋みを確かめた。


 そして頷く。


「一台ずつだ。間隔を空けろ。馬を走らせるな。荷が重い車は右側へ寄るな」


 ロビンは橋を見た。


 ただの木の橋だった。


 だが、これが落ちれば軍は止まる。


 軍が止まれば、兵糧が腐る。


 兵糧が腐れば、兵は倒れる。


 敵と戦う前に負ける。


 戦とは、こういうものなのか。


 ロビンは、槍ではなく橋を見つめながらそう思った。




   ◇




 その夜、ブレン村の倉には、フォンヴァルト公爵軍先遣補助の印が押された札が掛けられた。


 井戸は一つさらわれ、もう一つは明朝から作業することになった。


 馬小屋の腐った床板は外され、新しい板が仮に渡されている。


 橋には通行制限の立て札。


 倉の麦は雨漏りしない場所へ移された。


 一日中、誰も敵兵を見なかった。


 火薬筒の音も聞かなかった。


 それでも、灰鷹隊は疲れ切っていた。


 夜、倉の前でロビンが腰を下ろしていると、レイバーが隣へ来た。


 彼の服は泥と木屑だらけだった。


「ひでえ顔だな、隊長」


「お前もだ」


「俺は元からだ」


「否定しないのか」


「疲れてるんだ」


 二人はしばらく黙って倉を見た。


 中には兵糧が積まれている。


 干し肉、麦、豆、塩。


 戦を支えるもの。


「一日中、敵を見なかった」


 ロビンは言った。


 レイバーは鼻を鳴らす。


「いたろ」


「どこに」


「泥、腐った梁、空の倉、役人の言い訳、腹を壊す水。隊長が南門で言った敵だ」


 ロビンは苦笑した。


「そうだったな」


「戦場に行けば、敵が旗を立てて待ってると思ってたか」


「少しは」


「素直だな」


 レイバーは倉の壁にもたれた。


「敵は旗だけじゃねえ。荷が届かなきゃ負ける。橋が落ちりゃ負ける。水で腹を壊しても負ける。戦ってのは、勝つ前に負ける理由を潰す仕事だ」


 ロビンはその言葉を胸に刻んだ。


 勝つ前に、負ける理由を潰す。


 それが今日の灰鷹隊の仕事だった。


 槍を振るうより泥臭く、名誉から遠い。


 だが、それがなければ本隊は進めない。


 その時、倉の外で足音がした。


 リッカだった。


 彼女は夜にもかかわらず、外套を羽織ったまま戻ってきた。


「前の宿場から、斥候が戻った」


 ロビンとレイバーは立ち上がる。


「報告は」


 リッカは短く言った。


「次の宿場の先、焼けた村。難民、多い。チェシー兵っぽい影もある」


 レイバーの表情が変わった。


「どのくらい先だ」


「明日の昼には着く」


 ロビンは南の闇を見た。


 風の匂いが少し変わった気がした。


 泥と木屑と麦の匂いに、かすかな焦げ臭さが混じっているような気がした。




   ◇




 翌日、灰鷹隊はブレン村を発った。


 補修した橋を、一台ずつ荷車が渡る。


 レイバーは最後まで橋の横に立ち、車輪の位置を見ていた。


「右へ寄るな! 間隔を空けろ! 馬を急かすな!」


 すべての荷車が渡り終えると、彼はようやく息を吐いた。


 街道は南へ続く。


 チェシー国境は、まだ少し先だ。


 だが、景色は変わり始めていた。


 畑に人が少ない。


 畦道に捨てられた荷物がある。


 道端で、家財道具を積んだ小さな荷車を押す家族とすれ違う。


 母親が子どもを抱え、老人が杖をついている。


 彼らは灰鷹隊を見ると、怯えたように道の端へ寄った。


 ロビンは馬を持たない徒歩の隊長として、先頭近くを歩いていた。


「どこから来たのですか」


 彼はその家族に声をかけた。


 老人が答える。


「南の村からです」


「チェシー兵が?」


「兵かどうかはわかりません。夜に火が出ました。倉が焼けた。誰がやったのかもわかりません。帝国軍が来ると聞いて、逃げました」


「帝国軍から?」


 ロビンは思わず聞き返した。


 老人は疲れた目でロビンを見た。


「帝国軍が来れば、チェシー兵が来る。チェシー兵が来れば、帝国軍が来る。どちらが先でも、村は潰れます」


 ロビンは言葉を失った。


 自分たちは帝国軍の先遣だ。


 秩序を守るために来た。


 チェシーの反乱分子を討つために来た。


 だが、この老人にとっては、帝国軍もチェシー兵も、村を戦場にする者であることに変わりない。


 ローレンスが前に出て、水袋と干し肉を渡した。


「次の宿場まで行けますか」


「足がもてば」


「灰鷹隊の札を持っていってください。ブレン村の倉で、少しは休ませてもらえるはずです」


 ローレンスは小さな木札に印を書き、老人へ渡す。


 レイバーはそれを見て何か言いかけたが、黙った。


 リオンが静かに言う。


「数が増えれば、すべては助けられない」


「わかっています」


 ローレンスは答えた。


「でも、今この人たちは助けられる」


 リオンはそれ以上言わなかった。


 ロビンは南の道を見た。


 戦場はまだ先だと思っていた。


 だが、戦の匂いはもう、街道の土に染み始めていた。


 午後、灰鷹隊は焼けた村の煙を見た。


 空へ細く上がる黒い筋。


 風に混じる焦げた木と麦の匂い。


 リッカが前方から戻ってきた。


「人、いる。難民。あと、見張られてる」


「チェシーか」


 ロビンが聞く。


 リッカは首を傾げた。


「たぶん。でも、遠い」


 レイバーが腰の剣を確認した。


 ローレンスが薬箱を持ち直す。


 リオンは通行証の束を懐へしまった。


 ロビンは槍を握った。


 ようやく、敵の影が見え始めた。


 だがその前に、助けを求める人々がいる。


 灰鷹隊の道は、やはり泥道だった。


 ロビンは息を吸った。


「進む。まず難民を確保する。警戒は怠るな」


 隊士たちが頷く。


 灰青色の首布が、風に揺れた。


 戦場は、もう地図の上だけにはなかった。


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