第18話 先発する灰鷹隊
戦は、出陣式の日に始まるわけではない。
ロビンがそのことを知ったのは、皇太子の出陣式より十日も前のことだった。
夜明け前の帝都北区。
下町の路地はまだ薄暗く、パン屋の竈にも火が入りきっていない。屋台の幌は畳まれ、石畳には夜露が残っていた。
その中を、三台の荷車がゆっくりと進んでいく。
外から見れば、ただの行商隊だった。
荷台には布袋、干し肉、鍋、予備の車輪、樽、木箱。
だが、木箱の底には地図が隠されている。測量紐、簡易の方位盤、通行証、暗号符、折り畳んだ灰青色の首布。槍の穂先は農具の金具に見えるよう布で包まれ、短剣は荷の隙間へ差し込まれていた。
灰鷹隊の斥候小隊だった。
隊士たちは灰青色の首布を巻いていない。
代わりに、古びた商人風の外套や、荷運び人の粗末な上着を着ている。
先頭に立つのは、二年前ならまだ門弟の一人に過ぎなかった青年だ。今では斥候小隊長を任されている。
ロビンは南門へ向かう道の手前で、彼らを見送った。
「道を見ること。宿場の水を調べること。橋の傷み、倉の空き、街道沿いの村の様子。無理に敵を探すな。まず道を見ろ」
「はい、隊長」
斥候小隊長は緊張した顔で頷く。
レイバーが横から口を挟んだ。
「見つかるな。手柄を立てようとするな。怪しいと思ったら戻れ。戻るのも仕事だ。死んで持って帰れねえ情報に価値はねえ」
「はい、副長」
「副長じゃねえ」
レイバーはいつものように言ったが、誰ももう本気にしていなかった。
この一年で、灰鷹隊の中でレイバーが実質的な副長であることは、誰の目にも明らかになっていた。
ローレンスが荷車の脇に立ち、薬包と包帯の入った小袋を渡す。
「怪我人が出たら、まず止血。熱が出たら無理をさせないで。あと、水は必ず煮ること」
「わかっています」
「わかっていても、もう一度言う。水は煮ること」
ローレンスの声は穏やかだが、そこだけは譲らない。
リオンは通行証を一枚一枚確認し、最後に小隊長へ渡した。
「宿場役人にはこの印を見せろ。ただし、必要以上に名乗るな。灰鷹隊だと知れれば、余計な期待も警戒も生む」
リッカは少し離れた場所で腕を組んでいる。
「私も先に行けたのに」
「お前が行商人に見えるか」
レイバーが言う。
「見える」
「槍を持ってなきゃ、迷子の子どもには見えるかもな」
リッカはレイバーの脛を蹴った。
「痛え」
「当然」
小さな笑いが起きる。
斥候小隊長も、少しだけ表情を緩めた。
ロビンはその顔を見て、胸の奥に奇妙な感覚を覚えた。
かつては自分たちが、こうして大人に見送られる側だった。
今は、自分が隊士を送り出している。
この一年で、灰鷹隊は変わった。
帝都巡衛隊第三分隊。
通称、灰鷹隊。
隊士は増え、小隊に分かれた。
斥候、前衛、荷駄護衛、伝令、負傷者係、留守居。
巡衛だけでなく、野営訓練、地図読み、街道調査、火薬筒への対処、粗朶盾の運搬まで訓練するようになった。
それでも、彼らはまだ正式な騎士団ではない。
公爵騎士団隷下の一部隊。
皇帝から見れば、さらにその下の陪々臣に過ぎない。
だからこそ、最初に出るのは彼らだった。
華やかな軍列よりも前に。
楽隊よりも前に。
歓声よりも前に。
泥道と橋と宿場を調べるために。
「行け」
ロビンは言った。
「灰鷹隊の目として、道を見てこい」
斥候小隊長は深く頭を下げた。
荷車が動き出す。
車輪が石畳を軋ませ、まだ眠る帝都の路地へ消えていく。
ロビンは、その背が見えなくなるまで見送った。
戦は、もう始まっている。
出陣式よりも先に。
誰にも歌われない場所で。
◇
灰鷹隊本隊の出立は、その数日後に決まっていた。
皇太子殿下の出陣式は、さらにその数日後。
帝都の大通りでは、すでに式典用の飾りが準備されている。宮廷楽師の練習が遠くから聞こえ、貴族街では鎧を磨く下男たちが走り回っているという。
だが、ハルト道場の離れにある灰鷹隊の準備は、それとはまるで違っていた。
「荷駄一番、干し肉の数が合わねえぞ」
レイバーの声が飛ぶ。
「誰だ、訓練用の縄と荷締めの縄を混ぜた奴は。首を締められたいのか」
「副長、こっちの枝束はどこへ」
「副長じゃねえ。枝束は二番荷車だ。乾いた板と混ぜるな。生木は生木でまとめろ」
庭には荷物が積まれていた。
槍、短槍、予備の穂先、弓、矢、盾、縄、鍋、干し肉、豆、麦、包帯、薬、針、釘、革紐、地図、通行証、野営布。
そして、レイバーがこだわって準備させた生木の枝束。
火薬筒の弾を殺すための盾。
あの実験から一年。レイバーはその使い方をまだ完成させてはいない。だが、少なくとも「何もせず撃たれるよりはまし」な形にまで持ってきていた。
ローレンスは別の机で名簿と荷物表を見比べている。
「戦場へ行く者、帝都に残る者、家族への連絡が済んだ者、まだの者。ここ、確認して」
彼の周りには若い隊士たちが集まっていた。
中には、顔を強張らせている者もいる。
初めて帝都を離れる者。
初めて戦に関わる者。
家族に言えず、昨夜ようやく母親へ話した者。
ローレンスは一人一人に声をかけ、仕送りの手配や、怪我をした時の連絡先まで確認している。
彼自身もまた、故郷の母と弟妹へ手紙を書いていた。
リオンは公爵家の書記官と机を挟み、通行許可と徴発免除の書類を調整している。
「この宿場は公爵家の印だけでは通らない。皇太子軍の先触れが出ているはずだ。重複すると揉める」
「では、どうします」
「灰鷹隊名義ではなく、フォンヴァルト公爵軍の先遣補助として出す。文言を変えろ」
書記官が慌てて書き直す。
リオンの声はいつもと変わらず冷静だった。
だが、彼の目も少しだけ鋭くなっている。
リッカは槍の穂先を研いでいた。
一年前より背は伸びた。
けれど、まだ小柄だ。
その小さな身体に、戦場へ向かう空気だけが妙に似合ってしまう。
ロビンはそれぞれの姿を見て回った。
隊長として。
かつての悪ガキの一人として。
自分たちは、本当にここまで来たのだと思った。
騎士にはまだ遠い。
皇太子の御前を進む軍列にも並べない。
だが、灰鷹隊は戦へ向かう。
帝国の軍が進む道を、誰よりも先に見に行く。
その時、若い隊士の一人がぽつりと言った。
「出陣式、見たかったな」
庭の空気が少し止まった。
その隊士は慌てて口を押さえる。
「すみません」
ロビンは怒らなかった。
むしろ、その言葉は自分の胸にもあった。
皇太子の出陣式。
黄金の飾り。
軍楽。
旗。
歓声。
一年前、あの列を見上げて、いつか必ず並ぶと誓った。
今も、その思いは消えていない。
レイバーが荷物の上に腰をかけた。
「見たけりゃ帰ってから見ろ。俺たちが戻ってくる頃には、凱旋式ってやつがあるかもしれねえ」
「副長」
「副長じゃねえ」
レイバーは隊士を見た。
「俺たちは軍列の前の穴ぼこを探すんだよ。偉い人が馬ごと落ちる前にな」
何人かが笑った。
ロビンも小さく笑った。
そして言った。
「出陣式に並べないことを、悔しいと思うのは悪いことではない」
隊士たちは顔を上げた。
「俺も悔しい。だが、灰鷹隊の役目はそこではない。俺たちは、誰かが華やかな道を進む前に、先に泥道を踏む。そのために選ばれた」
レイバーが静かに頷いた。
「泥道が俺たちらしい」
その言葉に、リッカが短く言った。
「悪くない」
ロビンは頷く。
「ああ。悪くない」
◇
出立の前日、ロビンはフォンヴァルト公爵家の帝都屋敷へ呼ばれた。
エレオノーラは、温室にいた。
一年前と同じ場所だった。
薬草と冬に強い草花が整然と並び、硝子越しの光が柔らかく差し込んでいる。
あの時よりも、いくつかの鉢は大きくなっていた。
芽だったものが茎になり、小さな白い花をつけている。
ロビンは扉の前で礼をした。
「エレオノーラ様」
彼女は振り返った。
「ロビン様」
声は穏やかだった。
だが、その目の奥には、抑えた感情があった。
「明日、出るのですね」
「はい。皇太子殿下の出陣式より先に」
「悔しいですか」
ロビンは少しだけ苦笑した。
「少し」
「でも、誇らしいのでしょう」
「はい」
その答えに迷いはなかった。
エレオノーラは小さく頷いた。
「誰かが華やかな道を進むために、先に泥道を踏む者がいる。あなたたちは、そういう役目なのですね」
「はい。それが灰鷹隊の道です」
ロビンは温室の土を見た。
一年前、ここで彼女に言ったことを思い出す。
帰ります。
胸を張って、あなたに会うために。
エレオノーラも、同じことを思い出していたのだろう。
「一年は、長かったですか」
彼女が尋ねた。
「訓練するには、やはり短かったです」
「待つには?」
ロビンは答えに詰まった。
それから、正直に言った。
「長かったです」
エレオノーラは目を伏せた。
ほんの少しだけ、笑ったようにも見えた。
「私もです」
その一言だけで、ロビンの胸は熱くなった。
けれど、まだ言わなかった。
エリー。
その名は、喉元まで来て、また胸の奥へ戻っていく。
エレオノーラはそれに気づいたようだった。
「あなたはまだ、私をあの名で呼びませんか」
「……帰ってきた時に」
「では、待ちます」
「はい」
「けれど」
彼女は少しだけ近づいた。
「約束を忘れないでください。功を立てることより、名を上げることより、まず帰ることを」
ロビンは深く頷いた。
「忘れません」
「軽く言わないで」
「重く言います」
ロビンは彼女を見た。
公爵家の姫君。
施療院で膝をついた人。
手紙をくれた人。
ロビンが、胸を張ってエリーと呼びたい人。
「帰ります」
彼は言った。
「必ず」
エレオノーラは静かに頷いた。
「待っています」
それ以上は、何も言えなかった。
言えば、明日の足が鈍る気がした。
ロビンは深く礼をし、温室を出た。
扉が閉まる直前、エレオノーラの声が聞こえた。
「ロビン様」
振り返る。
彼女は微笑んでいた。
「どうか、灰鷹隊の皆様にも。無事を祈っています、と」
「必ず伝えます」
ロビンはそう答えた。
◇
本隊の出立は、夜明け前だった。
帝都の南門へ向かう道は、まだ青い闇に沈んでいる。
灰鷹隊は整列していた。
人数は、かつての町道場の仲間だけだった頃とは比べものにならない。
それでも大軍ではない。
数十人と荷車。
少数の騎乗者。
槍と短槍。
粗朶束を積んだ荷車。
灰青色の首布。
そして、手書きの小旗。
正式な隊旗はまだない。
布に描かれた灰鷹は、昔より少しだけ上手くなっていた。
だが、どこか子どもの頃の不格好さを残している。
ロビンはその旗を見た。
グラウフェルトの秘密基地。
端材の壁。
レイバーの声。
おまえ、俺たちの旗持てよ。
その記憶を胸に、ロビンは隊士たちの前へ出た。
町人たちが集まり始めているのは知っていた。
だが、まず言うべき相手は隊士たちだった。
ロビンは槍の石突きで石畳を一度叩いた。
音が南門前に響く。
「聞け、灰鷹隊」
ざわめきが止まった。
レイバーが腕を組み、ローレンスが名簿を閉じ、リッカが槍を握り直す。
ロビンは隊士たちを見渡した。
「我らは、皇太子殿下の出陣式には並ばない。金の飾りも、軍楽も、歓声もない」
何人かの顔がわずかに動いた。
ロビンは続けた。
「だが、恥じるな。我らの戦は、その前に始まる」
南門の向こうは、まだ暗い。
「敵は、チェシーの旗だけではない。敵は、壊れた橋にある。腐った兵糧にある。遅れる荷車にある。迷う伝令にある。火薬筒の煙にある。そして、恐れて足を止める己の胸にある」
隊士たちの目が変わる。
ロビン自身の胸も熱くなっていた。
「それらを先に見つけ、先に討つ。本隊が進む道を開く。誰かが倒れる前に走る。誰かが迷う前に道を示す。誰かが撃たれる前に盾を出す」
リッカの目が鋭くなる。
ローレンスが静かに頷く。
レイバーは口元を少しだけ上げた。
「それが灰鷹隊だ」
ロビンは槍を掲げた。
「我らは華やかな列ではない。だが、帝国の軍が進む泥道の一番前に立つ。灰鷹隊、出るぞ」
一瞬、静まり返った。
次の瞬間、隊士たちの声が上がった。
「応!」
大軍の鬨の声ではない。
けれど、南門の石壁に跳ね返るには十分な声だった。
レイバーが近づいてきて、小声で言った。
「隊長にしては短かったな」
「長かったか」
「いや、ちょうどいい。珍しく」
「珍しくとは何だ」
レイバーは笑った。
その笑いで、隊士たちの緊張が少し緩んだ。
そして、南門前に集まった人々の姿が、朝の薄明かりの中で見えてきた。
◇
公式な見送りではなかった。
そこに宮廷楽師はいない。
貴族の馬車もない。
金の飾りも、皇帝の旗もない。
だが、北区と下町の人々がいた。
屋台の親父が、紙に包んだパンを抱えている。
薬師の女が、包帯と薬包を入れた箱を持っている。
火事で助けた子どもが、また灰鷹の絵を描いた紙を握っている。
行商人たち、職人たち、孤児院の子どもたち、かつて迷子になった少年とその母親。
ハルト師範もいた。
腕を組み、いつものようにしかめ面をしている。
「まったく」
レイバーが呟いた。
「朝っぱらから物好きだな」
「皆、見送りに来てくれたんだ」
ローレンスの声は少し震えていた。
屋台の親父が叫んだ。
「行ってこい、灰鷹!」
それを合図に、声が広がった。
「気をつけろよ!」
「帰ってこいよ!」
「灰鷹さん、負けるな!」
「リッカ姉ちゃん、槍折るなよ!」
「姉ちゃんじゃない!」
リッカが反射的に言い返すと、子どもたちが笑った。
ハルト師範がロビンの前に来た。
「師範」
「槍を落とすな」
「はい」
「名も落とすな」
「はい」
「だが、命は拾ってこい」
ロビンは胸を突かれた。
「……はい」
ハルトはそれだけ言うと、レイバーの頭を軽く小突いた。
「お前もだ」
「俺だけ扱いが雑じゃないですか」
「雑に扱われても死なんだろう」
「ひどい」
レイバーは笑って頭を下げた。
ロビンは人々を見た。
自分たちは、皇太子の出陣式には並ばない。
けれど、ここに自分たちの出陣式があった。
下町の人々が作ってくれた、名もない出陣式が。
ロビンは短く言った。
「行ってきます」
それ以上の言葉はいらなかった。
人々の声が返る。
「行ってこい!」
その時、ロビンは人波の端に、灰色の外套を見つけた。
息が止まった。
外套のフードを深くかぶった女性。
隣には侍女のミラ。
少し離れた場所に、見慣れない男たちが三人。立ち姿からして、公爵家の護衛だとわかる。
エレオノーラだった。
ロビンは歩み寄った。
人々は自然に道を空けた。
彼女は小さく笑った。
「公式の見送りには行けませんから」
「ここも、公式ではありません」
「だから来ました」
その言葉に、ロビンはどうしようもなく笑みがこぼれた。
昨日の温室では、まだ言えなかった。
帰ってきた時に、と言った。
だが、今この場にいる彼女は、公爵家三女エレオノーラでありながら、灰色の外套で下町の見送りに立つエリーでもあった。
ロビンは深く息を吸った。
「行ってきます、エリー」
エレオノーラの目が揺れた。
ほんの一瞬、彼女は言葉を失った。
それから、両手を胸の前で重ねる。
「行ってらっしゃい、ロビン様」
声は静かだった。
けれど確かに届いた。
「約束を、忘れないでください」
「必ず帰ります」
ロビンは言った。
今度は、軽くではなく。
重く。
エレオノーラは頷いた。
そのやり取りを、リッカは少し離れた場所で見ていた。
エリー。
ロビンがその名を呼ぶのを、彼女は聞いた。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど、何も言わなかった。
槍の柄を握り直しただけだった。
レイバーが小さく声をかける。
「リッカ」
「何」
「行くぞ」
「わかってる」
リッカは前を向いた。
◇
南門が開いた。
重い木と鉄の扉が、朝の空気を押し分けるように動く。
門の向こうには、南へ伸びる街道があった。
昨夜の雨で、ところどころ泥が残っている。
遠くの空が白み始めていた。
ロビンは馬上ではなかった。
まだ灰鷹隊に十分な軍馬はない。
槍を手に、徒歩で先頭に立つ。
その横にレイバー。
少し後ろにリッカ、ローレンス、リオン。
荷車が続き、隊士たちが続く。
手書きの灰鷹旗が、朝風に揺れた。
門を出る時、ロビンは一度だけ振り返った。
帝都の塔。
南門の上に集まる人々。
灰色の外套。
エレオノーラは、そこにいた。
ロビンは軽く頭を下げた。
彼女もまた、胸の前で手を重ねていた。
そして、灰鷹隊は門を出た。
左手、東の空から朝日が昇る。
光はまだ淡く、冷たい。
だが、その光は灰青色の首布を照らし、槍の穂先を細く輝かせた。
皇太子の出陣式は、まだ数日後だった。
帝都の大通りには、これから金の飾りと軍楽が満ちるだろう。
大貴族の旗が並び、市民は歓声を上げ、宮廷は帝国の威光を示すだろう。
だがその時、灰鷹隊はすでに南門を出ていた。
華やかな軍列ではない。
泥の残る街道だった。
それでも、若い鷹たちは進んだ。
誰よりも先に、戦場へ続く道を見に行くために。




