第17話 次の戦の足音
先のチェシー征伐から、一年が過ぎようとしていた。
帝都の春は、表向きには穏やかだった。
大通りの並木には若葉が伸び、屋台には新しい野菜が並び、下町の子どもたちは灰鷹隊の首布を真似て、灰色の布切れを首に巻いて走り回っている。
けれど、ロビンはその春の中に、別の音が混じり始めていることに気づいていた。
鍛冶屋の炉は、夜遅くまで赤かった。
以前なら農具や釘を打っていた職人たちが、今は槍の穂先、馬具の金具、鎧の留め具を大量に作っている。
馬市では、良い馬から順に姿を消していった。
穀物商の倉には、帝国の役人が封を押す。
兵糧用。
軍需用。
そう記された札が、町のあちこちに増えている。
パンの値が上がった。
油の値が上がった。
革も、布も、釘も、少しずつ高くなった。
そして、辻には新しい布告が貼られた。
チェシー王国に巣食う反乱分子の討伐に備え、帝国臣民は忠義を尽くすべし。
そこには、共和国という文字は一つもなかった。
灰鷹隊の巡衛中、ロビンはその布告の前で足を止めた。
隣でレイバーが鼻を鳴らす。
「相変わらず、チェシー王国か」
「帝国の公式な立場だ」
「王を追い出されても、王国って呼び続けるのか」
「認めれば、王権を否定することになる」
リオン・フォン・アルトベルクが静かに言った。
「帝国にとって、チェシーが共和国であることより、チェシーを共和国と呼ぶことの方が危険なのだろう。言葉は秩序を作る。逆に、秩序を壊すこともある」
レイバーは肩をすくめた。
「面倒なもんだな」
「貴族も帝国も、面倒なものだ」
リオンの声は淡かった。
ロビンは布告を見つめた。
反乱分子。
賊徒。
王権簒奪者。
帝国はそう呼ぶ。
だが、遠いチェシーでは別の旗が立ち、別の言葉で自分たちを呼んでいる。
ロビンは帝国の者だ。
皇帝を守る槍になることを夢見てきた。
だから布告に従うことに迷いはない。
それでも、町の人々の声は耳に入る。
「また戦か」
「今度こそ勝つんだろうな」
「勝ったって言ってたじゃないか、前も」
「勝ったなら、どうしてまた行くんだ」
ロビンは振り返らなかった。
振り返れば、答えを求める顔がある。
そして今の彼には、答えられる言葉がなかった。
その日の午後、フォンヴァルト公爵家から召喚が来た。
◇
フォンヴァルト公爵家の帝都屋敷の軍議室には、大きな地図が広げられていた。
ロビンたち灰鷹隊の中核――レイバー、リッカ、ローレンス、リオンも共に呼ばれていた。
地図の中央には、トゥーゲンフルス帝国の広い領土が描かれている。
皇帝直轄領を中心に、東西南北の公爵領が帝国を支える。
北方には、フォンヴァルト公爵家のヴァルトハイム。
西には、西部公爵領。そのさらに向こうに、西方の大国――共和国を掲げる強国がある。
南西には、チェシー。
帝国の書記官が作った地図には、そこもなお「チェシー王国」と記されていた。
そして南には、チェシー東部国境を睨む南部公爵領。
アルブレヒト・フォン・ヴァルト公爵は、地図の前に立っていた。
隣にはオスカー。
ほかに数名の軍務官が控えている。
「宮廷は、第二次チェシー征伐を計画している」
アルブレヒトは静かに言った。
第二次。
その言葉だけで、部屋の空気が重くなった。
第一次が失敗であったことを、公式には誰も認めない。
だが、第二次という言葉は、前の戦が十分ではなかったことを雄弁に語っていた。
「公式には、チェシー王国に巣食う反乱分子の再討伐である。王を弑し、朝貢を止め、帝国秩序を乱す賊徒への懲罰だ」
共和国とは言わない。
公爵も、オスカーも、軍務官も。
その呼び名は、この部屋では存在しないものとして扱われていた。
アルブレヒトは駒を動かす。
「皇太子殿下が、再び総大将となられる予定だ」
ロビンは背筋を伸ばした。
皇太子。
帝国直轄軍。
あの華やかな出陣の列。
一年前、ロビンたちはただ見送ることしかできなかった。
「今回は、北部公爵軍と西部公爵軍を主軸とする」
アルブレヒトは北と西に置いた駒を、チェシーへ向けて動かした。
「帝国東部から南下し、チェシー北東部を圧迫する。西部公爵軍は西側の街道を押さえ、我ら北部公爵軍は山沿いの道を進む。南部公爵はチェシー東部国境を固め、反乱分子の動きを封じる」
レイバーが地図を覗き込む。
「西の大国は?」
オスカーが答えた。
「西方共和国か」
「はい」
「あれも油断ならん。共和を掲げる国同士、チェシーに好意的だ。表向きは静観を装っているが、武器、金、技師が流れているという報告もある」
リオンが低く言った。
「帝国から見れば、チェシーは火種。西方共和国から見れば、帝国を揺らす楔ということですね」
「そうだ」
アルブレヒトは頷いた。
「したがって、宮廷は急いでいる。だが、軍を動かすには時間が要る。兵、馬、兵糧、街道、橋、宿営地。前回のように威光だけで進むわけにはいかん」
前回のように。
それもまた、敗戦を認めない者の精一杯の言い方だった。
オスカーがロビンたちを見た。
「そこで、お前たちだ」
ロビンは一歩前に出た。
「灰鷹隊に、何をお命じでしょうか」
アルブレヒトは机の上の別紙を取った。
「帝都巡衛隊第三分隊、通称灰鷹隊に命じる。来るべき征伐に備え、隊員を増やし、編制を整えよ」
ロビンは息を呑んだ。
命令は、出陣ではなかった。
だが、出陣へ向かう命令だった。
「現在のお前たちは、治安部隊としては十分に働いている。だが戦場に出すには小さい。小隊単位に分け、指揮系統を明確にしろ。戦場へ連れていく者、帝都巡衛に残す者を選別せよ」
ローレンスが真剣な顔で頷く。
彼はもう、頭の中で名簿を作り始めているのだろう。
「さらに、街道、宿場、渡河点、倉庫、兵站集積地候補を調べよ。公爵軍本隊が動く前に、先んじて道を見る者が要る。灰鷹隊には、その任を与える予定だ」
先んじて。
ロビンの胸が小さく鳴った。
「つまり、我らは本隊より先に動くのですか」
「そうなる」
オスカーが答えた。
「斥候、兵站集積地の確認、街道警備。華やかな仕事ではない」
レイバーが小さく笑った。
「華やかな仕事が回ってくると思っている奴は、この隊にはいませんよ」
「そうか」
オスカーの口元がわずかに上がる。
だが、ロビンは別のことに気づいていた。
本隊より先に動く。
兵站集積地を用意する。
斥候として街道を見る。
つまり、帝都の大出陣式には並べない。
皇太子の馬。
帝国直轄軍の旗。
貴族たちの鎧。
市民の歓声。
一年前、ただ眺めていたあの列。
今度こそ、と思っていた。
いつか必ず、あの列に並ぶ。
そう胸に刻んだ。
だが、灰鷹隊に与えられた道は、列の中ではなかった。
列の前にある泥道だった。
「不満か、バーゼル」
オスカーの声が飛んだ。
ロビンは顔を上げた。
「……少し」
正直に答えた。
部屋の空気がわずかに動く。
ロビンは続けた。
「一年前、私は帝国軍の出陣式を見送りました。いつかあの列に並びたいと願いました。今も、その思いはあります」
オスカーは黙って聞いている。
「ですが、我らが必要とされる場所が列の前の泥道であるなら、そこを進みます」
レイバーが横で小さく頷いた。
リッカも黙っている。
アルブレヒト公爵は、静かにロビンを見ていた。
オスカーが言う。
「御前の列に並ぶ者は、列に並ぶ前に泥を踏んでいる。お前たちは、ようやくその泥を踏む機会を得た」
「はい」
「戦場で名を得ろ。列に並ぶかどうかは、その後だ」
ロビンは深く頭を下げた。
「拝命いたします」
レイバーが続けて頭を下げる。
「実務の確認をしても?」
「言え」
「隊員拡充の上限。俸給。装備。食糧。火薬筒対策の実験費。あと、枝束に使う生木をどこまで公爵家持ちにできますか」
軍務官の一人が目を丸くした。
オスカーは笑った。
「早いな」
「華やかな列には並べないんでしょう。なら、泥道を歩く準備をしないと」
アルブレヒトも少し笑った。
「必要なものを一覧にして出せ。すべては無理だが、可能な限り手当てする」
「ありがとうございます」
レイバーは即座に頭を下げた。
ロビンはその横顔を見た。
悔しさはまだ胸にある。
けれど、同時に誇らしさもあった。
灰鷹隊は、ついに戦の準備に組み込まれた。
ただの町道場の若者ではない。
帝都の義侠でもない。
公爵軍の一部として、戦場へ向かうための役割を与えられたのだ。
◇
軍議が終わり、仲間たちが退出する時、アルブレヒト公爵がロビンを呼び止めた。
「バーゼルの子。少し残れ」
ロビンは緊張して振り返った。
「はい」
何か不備があったのだろうか。
先ほど、出陣式に並びたいなどと正直に言いすぎただろうか。
レイバーが一瞬こちらを見たが、オスカーに促されて部屋を出た。
扉が閉まる。
軍議室には、アルブレヒトとロビンだけが残った。
公爵は地図を見下ろしたまま言った。
「娘に会っていけ」
ロビンは思わず顔を上げた。
「エレオノーラ様に、ですか」
「他に私の娘を訪ねたいのか」
「い、いえ」
アルブレヒトはわずかに笑った。
「勘違いはするな、ロビン・フォン・バーゼル」
声が少しだけ父親のものになった。
「父としては、娘を軽く扱う男を許すつもりはない。まして娘はフォンヴァルトの家に生まれた者だ。感情だけでどうにかできる立場ではない」
「承知しております」
「だが、命を懸ける前に言葉を交わしたいと思う心まで、禁じるほど私は石ではない」
ロビンは何も言えなかった。
まだ出陣は一年ほど先だ。
だが、今日の命令で道は決まった。
灰鷹隊は戦場へ向かう。
その事実は、もう取り消せない。
「ありがとうございます」
ロビンは深く頭を下げた。
公爵は地図の上に置かれたチェシーの駒を見つめていた。
「一年は長いようで短い。準備を怠るな」
「はい」
「そして、娘の前で虚勢を張りすぎるな。女は、男の嘘を思うより見抜く」
ロビンは返事に詰まった。
公爵は今度こそ、少しだけ笑った。
「行け」
◇
エレオノーラは、屋敷の小さな温室にいた。
温室と言っても、南方の珍しい花で飾られた華やかな場所ではない。
北方公爵家らしく、薬草や冬に強い草花が整然と育てられている。窓越しの光は柔らかく、外の風の音だけが遠く聞こえた。
彼女は鉢植えの土を見ていた。
ロビンが近づくと、振り返る。
「ロビン様」
「エレオノーラ様」
礼をする。
彼女はその姿を少し見つめた。
「父から聞きました。灰鷹隊に、次の戦への準備命令が下ったと」
「はい」
「一年後、ですか」
「おそらくは」
エレオノーラは窓の外を見た。
帝都の空は晴れている。
戦の影など、まだそこには見えない。
「一年は、長いのでしょうか。短いのでしょうか」
ロビンは少し考えた。
「訓練するには短く、待つには長いと思います」
エレオノーラは静かに微笑んだ。
「あなたらしい答えですね」
「そうでしょうか」
「ええ。真面目で、少し硬い」
ロビンは苦笑した。
「よく言われます」
「レイバー様に?」
「主に」
二人は少し笑った。
その笑いの後に、静けさが戻る。
エレオノーラは小さな芽に触れた。
「あなたは、功を立てたいのですね」
ロビンは答えに迷わなかった。
「はい」
「家を再び立てるために?」
「それもあります」
「灰鷹隊のために?」
「それも」
「では、それだけですか」
ロビンは言葉を止めた。
それだけではない。
そう思った。
だが、その先を口にするには、勇気がいった。
エレオノーラは急かさなかった。
ロビンは温室の土の匂いを吸い込んだ。
施療院の匂い。
孤児院の庭。
エレオノーラの手紙。
今日、地図の上で見た戦の道。
それらが一つに重なる。
「胸を張って、あなたに会える者になりたいのです」
ようやく、そう言った。
エレオノーラの指が止まった。
ロビンは続ける。
「今の私は、あなたをエリーと呼ぶにも足りません」
「そう思っているのですか」
「はい」
「私は、もう少し早く呼んでいただいてもよいと思っています」
その言葉に、ロビンの胸が跳ねた。
エレオノーラは少し悪戯っぽく笑った。
だが、その目は真剣だった。
「けれど、あなたがそう決めたのなら、待ちます」
「エレオノーラ様」
「一年後、あなたは戦場へ向かうのでしょう」
「はい」
「私は止めません。止める言葉を、私は持ちません。あなたがなぜ槍を取るのか、知っているつもりですから」
ロビンは黙って聞いた。
「けれど、約束してください」
「何をでしょうか」
「功を立てることより、名を上げることより、まず帰ることを」
ロビンは息を呑んだ。
「戦場で、その約束は軽々しくできません」
「わかっています」
エレオノーラの声は揺れなかった。
「だから、軽く言わないでください。重く、言ってください」
ロビンは彼女を見た。
公爵家の姫君。
施療院で膝をついた人。
帝国を恥ずかしくないものにしたいと言った人。
ロビンが、いつか胸を張ってエリーと呼びたい人。
「帰ります」
ロビンは言った。
「胸を張って、あなたに会うために」
エレオノーラは小さく頷いた。
「では私は、待っています」
「はい」
「あなたが、私をそう呼ぶ日を」
ロビンは、今すぐその名を呼びたい衝動に駆られた。
エリー。
その二文字は、喉元まで来た。
だが、まだ飲み込んだ。
呼ぶなら、帰ってきた時だ。
胸を張れる自分になって。
その時、温室の外でミラの足音がした。
時間だった。
ロビンは深く礼をした。
「一年、励みます」
エレオノーラは微笑んだ。
「私も」
その言葉の意味を、ロビンはすぐには測れなかった。
だが、彼女もまた待つだけではないのだとわかった。
ロビンが戦場へ向かう準備をする一年。
エレオノーラもまた、自分のいる場所で何かをしようとしている。
それが、彼女だった。
◇
道場へ戻ると、灰鷹隊はすでに動き始めていた。
レイバーは床に大きな紙を広げ、名簿を作っている。
「戦場へ出せる者、帝都に残す者、斥候向き、荷駄向き、喧嘩だけ強い馬鹿、喧嘩にも弱い馬鹿」
「最後の二つは必要か」
ロビンが尋ねる。
「必要だ。間違えて前線に出さないためにな」
ローレンスは別の紙に俸給、装備、食糧、仕送りの予定を書き込んでいる。
「戦場に連れていくなら、家族への説明も必要だよ。急に連れていくわけにはいかない」
リッカは槍の穂先を研いでいた。
「斥候なら、走れる人がいる」
「誰だ」
「私」
「お前は前に出すぎるから斥候に向かない」
レイバーが即答した。
リッカは不満そうに眉を寄せた。
リオンは古い街道地図を持ち込んでいた。
「北からチェシーへ向かうなら、この川沿いの宿場は重要だ。だが橋が古い。荷駄を通すには補修が必要かもしれない」
レイバーが地図を覗く。
「林は?」
「この辺りに多い」
「生木は取れるな」
ロビンはそれを聞いて、以前の実験を思い出した。
枝束。
一発を殺す盾。
レイバーはもう、戦場の地形を火薬筒対策に重ね始めている。
灰鷹隊は変わろうとしていた。
帝都の町を駆ける治安部隊から、戦場で泥を踏む部隊へ。
だが、首に巻く布は変わらない。
灰青色の首布。
手書きの旗から始まった、彼らの印。
「隊長」
レイバーが顔を上げた。
「旗はどうする」
「旗?」
「訓練用でもいい。隊を増やすなら、集まる目印がいる。正式な隊旗なんて、まだもらえないだろ」
ロビンは少し考えた。
公爵家から正式な隊旗を賜るには、まだ早い。
帝都巡衛隊第三分隊としての書状はあっても、彼らはまだ小さな部隊だ。
だが、灰鷹には旗がいる。
グラウフェルトの秘密基地で、レイバーが言った言葉を思い出す。
おまえ、俺たちの旗持てよ。
「まだ、手書きでいい」
ロビンは言った。
レイバーはにやりと笑った。
「俺たちらしい」
「今度はもう少し上手く描こう」
ローレンスが言う。
リッカが短く答えた。
「前のも悪くなかった」
「鳥に見えなかったぞ」
レイバーが言う。
「見えた」
「お前だけだ」
小さな笑いが起きた。
その笑いは、まだ春のものだった。
けれど、窓の外では鍛冶屋の槌音が夜になっても止まらない。
帝都の倉には兵糧の印が押され、馬市からは良馬が消え、募兵所には若者が並び始めている。
まだ詔は下っていない。
まだ軍旗も動いていない。
だが、戦はもう遠い話ではなかった。
帝国は、再びチェシーへ向けて身を起こし始めている。
ロビンは灰青色の首布に触れた。
一年前、彼らは出陣する軍を見送るだけだった。
今、彼らはその軍が通る道を、先に見に行くことを命じられた。
華やかな列ではない。
泥道だ。
だが、その泥道こそが、灰鷹隊の道だった。
次の戦は、まだ遠い。
けれど、その足音だけは、もう確かに聞こえていた。
若き鷹たちの春は、終わりへ向かって歩き始めた。




