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第16話 卵売りの兵器局長



 チェシー王国の王宮には、もう王の旗はなかった。


 かつて金糸で獅子を縫い取った旗が翻っていた塔には、今は三色の布が掲げられている。


 自由。


 国民。


 議会。


 そうした言葉が、首都の壁という壁に書かれていた。


 だが、文字が新しくなったからといって、人の暮らしまで一夜で新しくなるわけではない。


 王宮前の広場には、今日も配給を待つ列ができていた。


 古い貴族屋敷を接収した役所の前では、兵士が怒鳴り、書記官が書類の山に埋もれている。石畳の端には、革命の初期に倒された王党派の名を削り取った記念碑があり、その脇で子どもたちがパン屑を拾っていた。


 シャルルは、その広場を横切りながら、帽子を目深にかぶり直した。


「局長!」


 しかし、すぐに見つかった。


 若い兵士が敬礼する。


 その声で、配給列の者たちがこちらを向いた。


「シャルル様だ」


「種痘の」


「火薬筒の人だろ」


「マヨネーズの人よ」


 最後の声だけ、少し違う方向から飛んできた。


 シャルルは曖昧に笑って、軽く手を上げた。


 英雄。


 革命の功労者。


 帝国軍を退けた新兵器の発明者。


 そう呼ばれるたびに、彼は肩が重くなる。


 彼自身の感覚では、まだ養鶏所の息子だった。


 卵をどう売れば村の収入が増えるかを考え、流行り病の子どもに種痘を受けさせるため親を説得し、茹で卵に合う白い調味料を作っていた地方役人。


 それがいつの間にか、兵器研究局局長などという肩書きを背負っている。


 本当に、人の人生というものは油断ならない。


 彼はそう思いながら、旧王立施療院へ足を向けた。


 兵器研究局へ行く前に、どうしても寄っておきたい場所があった。




   ◇




 旧王立施療院は、革命後も施療院のままだった。


 看板だけが変わっている。


 王立、という文字は削られ、共和国施療院と塗り直された。


 中には負傷兵が多い。


 王党派との市街戦で傷を負った者。


 帝国軍との戦で脚や腕を失った者。


 火薬筒の暴発で顔を焼いた者。


 そして、流行り病から生き残った者。


 シャルルは薬品庫へ向かう途中、白い布をかぶった女が一人の兵士に水を飲ませているのを見た。


 足を止める。


 女は顔を上げた。


 年は三十に届くかどうか。


 痩せてはいるが、背筋はまっすぐだった。顔立ちにはかつて王宮で磨かれたであろう気品が残っている。


 アデライナ。


 かつてチェシー王国の王女であり、帝国皇帝の妾として帝都へ送られ、若い寵姫が現れると用済みのように送り返された女。


 彼女の帰還は、チェシーの民にとって屈辱だった。


 王家が帝国に膝を折り、娘を差し出し、そしてその娘すら玩具のように返された。


 あの日から、王への失望と帝国への憎しみは、静かに町の底へ沈んでいった。


 革命の熱が最も高かった頃、彼女を王家の罪として裁けと叫ぶ者もいた。


 逆に、彼女を掲げて旧王家を戻せと囁く者もいた。


 だがアデライナは、どちらの旗も取らなかった。


 ただ、病人の側に座った。


「シャルル局長」


 彼女は静かに言った。


「王女殿下」


 シャルルがそう呼ぶと、アデライナは小さく首を振った。


「その呼び名は、もう私には重すぎます」


「では、アデライナ様」


「様も、少し重いですね」


「では、アデライナさん」


 彼女は少し笑った。


「それでお願いします」


 兵士が咳き込んだ。


 アデライナはすぐに水差しを傾け、布で口元を拭う。


 その手つきは慣れていた。


 かつて帝国の宮廷で飾られていた手が、今は傷病兵の汗を拭っている。


 シャルルはその姿を見て、胸の奥が重くなった。


「あなたは忙しい方でしょう、局長」


「本業は卵屋です」


「そうでしたね」


 アデライナは柔らかく言った。


「では、卵屋さん。薬のことで来られたのですか」


「ええ。種痘の記録と、消毒用の酒精の配分を確認に」


「人を生かす仕事ですね」


 シャルルは少し答えに詰まった。


 彼が今日これから向かう場所は、兵器研究局だ。


 人を生かすための薬の後で、人を殺すための道具を見る。


 アデライナは、それを知っているのだろう。


「アデライナさん」


「はい」


「あなたは、今の共和国をどう思いますか」


 問いは、ふと口から出た。そしてハッとした。


 聞くべきではなかったかもしれない。


 王女だった彼女に、新しい共和国のことを問うのは残酷だ。


 だが、彼女は怒らなかった。


「私は、王家の者でした」


 彼女は言った。


「けれど、民を守る力はありませんでした」


「あなたが悪いわけではありません」


「そう言ってくださる方もいます。でも、あの時、民が怒った理由を私は知っています」


 アデライナは施療院の寝台を見渡した。


「王宮にいた者は、帝国の顔色を見ていました。民の顔ではなく。私自身も、民を救えなかった。帝国に送られ、戻され、ただ泣くだけでした」


 シャルルは何も言えなかった。


「だから今は、水を運びます。包帯を替えます。祈ります。それくらいしかできません」


「それくらい、ではありません」


 シャルルは言った。


 アデライナは静かに微笑む。


「では、卵屋さん。どうか、次は人を生かす発明をしてください」


 その言葉は、穏やかだった。


 だからこそ、痛かった。


 シャルルは深く頭を下げた。


「……努力します」


 施療院を出る頃、空は薄く曇っていた。


 革命の旗が、遠くの塔で風に揺れている。


 人を生かす発明。


 彼はその言葉を胸の内で繰り返した。


 そして、兵器研究局へ向かった。




   ◇




 チェシー共和国兵器研究局は、旧王立工房と貴族の馬車倉庫をつなげて作られた、ひどく不格好な建物だった。


 入り口には共和国の紋章が掲げられているが、壁にはまだ王家の古い装飾が残っている。馬車を入れるための広い扉の奥には、作業台、金床、紙束、油壺、ばね、金具、木材、火薬樽がところ狭しと並んでいた。


 職人たちが怒鳴り合う。


 書記官が数字を書きつける。


 兵士が試作品を抱えて走る。


 どこかの作業台では、火薬の匂いに混じって焦げた紙の匂いがした。


「局長!」


 眼鏡をかけた若い技師が、紙束を抱えて駆け寄ってきた。


「第二試作の報告です。油紙は湿気に強くなりましたが、兵が噛み切る時に破れ方が安定しません。火薬量は揃いますが、紙が厚すぎると装填に手間取ります」


「薄くすると?」


「湿気に負けます」


「でしょうね」


 シャルルは報告書を受け取った。


 作業台の上には、油紙に包まれた火薬と鉛玉が並んでいる。


 紙薬莢。


 火薬と弾を一つにまとめる。


 ただそれだけのことに見える。


 だが、戦場ではその「ただそれだけ」が兵の生死を分ける。


 今の火薬筒は遅い。


 火薬を量る。


 筒へ入れる。


 弾を入れる。


 棒で押し込む。


 火皿を整える。


 構える。


 撃つ。


 熟練兵なら早い。


 だが、共和国軍の兵の多くは、ついこの間まで農夫であり、職人であり、粉挽きであり、羊飼いだった。


 手順が多ければ、戦場で必ず間違える。


 雨が降れば火薬は湿る。


 煙で前が見えなくなれば、焦って詰め損なう。


 そして、その隙を騎士が詰めてくる。


 帝国騎士は愚かではない。


 一度敗れた者は、必ず考える。


 盾を厚くする者が出る。


 枝を束ねる者が出る。


 煙の中を走り、装填の隙に槍を届かせようとする者が、必ず現れる。


 シャルルは紙薬莢を一つ手に取った。


「銃は万能じゃないんですよ」


 近くの職人が顔を上げた。


「帝国騎士を倒した新兵器では?」


「倒したのは、銃だけではありません。地形、訓練、数、帝国軍の慢心、そして運です」


 シャルルは紙薬莢を作業台に戻した。


「勝った理由を間違えると、次で死にます」


 職人たちは黙った。


 シャルルは次の作業台へ移った。


 そこには、後ろ側が開くように作られた金属筒が置かれている。


 後装式。


 筒口から火薬と弾を込めるのではなく、後ろから込める仕組み。


 理屈だけなら簡単だ。


 実際に作るとなると、地獄だった。


「第三試作は?」


 シャルルが尋ねると、年配の鍛冶職人が苦い顔をした。


「漏れます」


「どの程度」


「撃つ兵の眉がなくなる程度には」


「それは困りますね」


「困ります。第二試作は頬が焼けました」


「もっと困ります」


 シャルルは金具を手に取った。


 精度が足りない。


 金属加工の技術が追いついていない。


 火薬の圧力を受け止めるには、隙間が大きすぎる。閉鎖機構も弱い。何度も撃てば歪む。


 下手をすれば、敵を撃つ前に味方の顔が吹き飛ぶ。


「後ろから込める仕組みは、まだ危ないですね」


「では中止で?」


「いいえ。続けます」


 鍛冶職人が顔をしかめる。


「局長、危ないと言ったばかりでしょう」


「危ないから、訓練場ではなく工房で壊しておくんです」


 シャルルは金具を戻した。


「紙薬莢は先に量産へ。後装式は試作継続。閉鎖部の金具は、もっと精度を上げる必要があります。職人を増やしてください。ただし、急がせすぎない。雑な後装式は敵より怖い」


 書記官が慌てて書きつける。


 そこへ、別の男がやって来た。


 上等な服を着ている。


 軍人ではない。


 共和国外務委員会の者だった。


「シャルル局長。大統領がお呼びです」


「今ですか」


「西方共和国の使節についてです」


 シャルルは紙薬莢をもう一度見た。


 それから帽子を取って、髪をかき上げる。


「わかりました」


 政治は苦手だ。


 外交はもっと苦手だ。


 だが、苦手だから知らないふりをしてよい時代ではなくなっていた。




   ◇




 大統領執務室は、かつて王の控えの間だった。


 壁の金装飾は残されているが、王家の紋章は取り外され、代わりに共和国議会の印が掲げられている。


 机の向こうに座っている男は、豪奢な椅子がまるで似合っていなかった。


 マティアス・クラール。


 かつては村長。


 今はチェシー共和国初代大統領。


 そして、シャルルの義父である。


 彼は書類の山から顔を上げると、疲れた笑みを浮かべた。


「来たか、シャルル」


「はい、お義父さん」


 部屋にいた書記官が小さく咳払いした。


 シャルルは言い直す。


「大統領閣下」


 マティアスは苦笑した。


「家ではお義父さんでよい。ここでは少し困るがな」


「失礼しました」


「座ってくれ」


 シャルルが椅子に座ると、マティアスは一通の書簡を示した。


「西方共和国から正式な使節が来る。彼らは、共和国同士の友好を深めたいと言っている」


「それは結構なことです」


「顔が結構ではないと言っている」


「友邦ではあります。今は」


 マティアスの眉が動いた。


「今は?」


「外交に、永遠の友情はありません。あるのは利害です」


 書記官たちが顔を上げた。


 マティアスはしばらく黙っていた。


「西方共和国は、帝国を恐れている。だから我々と手を結ぶ。そういうことか」


「はい。彼らは帝国を東から牽制したい。我々は西からの支援が欲しい。利害は一致します」


「なら問題はないのではないか」


「今は、です」


 シャルルは窓の外を見た。


 共和国の旗が見える。


 旗の下では、兵士が行進している。


「我々が弱ければ、彼らは友として支援します。我々が強くなりすぎれば、今度は我々を警戒します。自由を掲げる国が、他国の自由まで尊ぶとは限りません」


「共和国が共和国を踏みにじると?」


「あり得ます」


 シャルルは静かに言った。


「国民の権利を掲げた国々が、やがて海の向こうへ軍艦を出し、工場と市場を求め、より大きな帝国を作ることもあるでしょう」


 マティアスは目を細めた。


「まるで見てきたように言うな」


 シャルルは一瞬、口を閉じた。


 見てきたように。


 そう言われると困る。


 彼はなぜか知っている。


 王の首を落とした国が、やがて皇帝を戴くことを。


 自由と平等を掲げた国が、植民地を求めて大陸の外へ出ていくことを。


 国民国家が、王朝国家よりもずっと効率よく人を動員し、税を集め、戦争を巨大にしていくことを。


 なぜ知っているのかは、彼自身にも説明しにくい。


 ただ、その知識はいつも頭の奥にあった。


「臆病なだけです」


 シャルルはそう答えた。


「私は、平和になると簡単に信じられるほど善人ではありません」


 マティアスは深く息を吐いた。


「革命を起こした者が、それを言うか」


「革命を起こしたからこそです。秩序を壊すのは難しい。ですが、壊れた後に何が出てくるかは、もっと難しい」


 マティアスは疲れた顔で書簡を見た。


「国内もまだ収まっていない。王党派の残党、食糧不足、兵の増員、議会の派閥。そこへ帝国がまた来るかもしれん」


「来るでしょう」


 シャルルは即答した。


「帝国は一度の敗北を認められません。王権を否定した我々を放置すれば、自国の民にも火が移る。必ず、もう一度来ます」


「そのための紙薬莢か」


「はい」


「間に合うか」


 シャルルは少しだけ考えた。


「紙薬莢は、ある程度なら。後装式はまだ無理です」


「後装式?」


「火薬筒を後ろから込める仕組みです。装填が速くなります。ただ、金具が危険で」


「危険とは」


「撃つ者の顔が吹き飛ぶ程度には」


 マティアスは額を押さえた。


「お前は時々、恐ろしいことを普通に言う」


「普通に言わないと、もっと恐ろしいことになります」


 沈黙が落ちた。


 義父と婿。


 村長と養鶏所の息子。


 大統領と兵器研究局長。


 二人の間には、いくつもの関係が重なっている。


 マティアスはやがて言った。


「アンナは心配している」


 シャルルは少し表情を緩めた。


「帰ったら叱られますね」


「間違いなくな。お前は兵器局に籠りすぎだ」


「本業の方も進めています」


「本業?」


「卵です」


 マティアスは数秒黙った。


 それから笑った。


「この国で、お前ほど妙な男はいない」


「褒め言葉として受け取ります」




   ◇




 兵器研究局へ戻ると、作業台の上ではまだ紙薬莢の試作が続いていた。


 シャルルは油紙の厚みを確かめ、火薬量の表を見直し、職人にいくつか指示を出した。


「火薬量は揃える。兵が自分で量らなくていいように。紙は噛み切りやすく。ただし湿気に負けないよう油を薄く。濃すぎると火皿で燃え残ります」


「簡単に言いますな」


 職人がぼやく。


「簡単なら、私がやっています」


「局長は卵でも混ぜていてください」


「その卵が、あなたの昼食を豊かにしているんですよ」


 職人たちが笑った。


 重い空気が少しだけ軽くなる。


 そこで若い技師が、新しい報告書を差し出した。


「局長、紙薬莢の量産計画ですが」


「それも大事ですが、卵も大事です」


「卵?」


 技師がぽかんとする。


「はい。卵です」


「今、火薬の話をしていましたよね」


「火薬も大事です。ですが、国を強くするのは銃だけではありません。栄養、保存、価格、民の食卓。兵士も民も、食べなければ動けません」


 シャルルは隣の小部屋へ向かった。


 そこは兵器研究局の中で、なぜか台所になっている。


 誰が何と言おうと、シャルルにとっては必要な部署だった。


 作業台には、卵、牛乳、砂糖が並んでいる。


 砂糖はまだ高価だ。


 だが、少量でも人を笑顔にする力がある。


 彼は卵を割った。


「次は、柔らかい菓子を作ります」


 技師が後ろから覗く。


「菓子ですか」


「菓子です」


「兵器研究局で?」


「革命には甘味も必要です」


 シャルルは真面目に言った。


 卵と牛乳と砂糖を混ぜる。


 ゆっくり蒸す。


 火加減が難しい。


 強すぎると固くなる。


 弱すぎると固まらない。


 兵器よりよほど繊細だ、と彼は少し本気で思った。


 小さな器に入った黄色い菓子が、湯気を立てる。


 まだ名前はない。


 だが、きっと売れる。


 子どもも、兵士も、疲れた大統領も、たぶん喜ぶ。


 アデライナの言葉が蘇る。


 次は人を生かす発明をしてください。


 シャルルは、作業台の向こうを見た。


 隣の部屋には、油紙に包まれた火薬と鉛玉が並んでいる。


 こちらの台には、卵と牛乳と砂糖を蒸した菓子がある。


 人を殺すための紙。


 人を笑わせるための甘味。


 その両方が、同じ日の同じ建物の中で生まれようとしていた。


 若い技師が恐る恐る尋ねた。


「局長、それは何という菓子ですか」


 シャルルは少し考えた。


「まだ決めていません」


「売るのですか」


「もちろん。本業ですから」


「兵器局長の本業が卵料理なのは、どうかと思います」


「卵料理人が兵器局長をしているだけです」


 技師は諦めた顔をした。


 シャルルは小さな匙で、試作品を少しすくった。


 甘い。


 少し火が強かった。


 だが、悪くない。


 彼は隣の部屋へ戻り、紙薬莢の試作品を一つ手に取った。


 机の上には、二つの試作品が並んでいた。


 一つは、油紙に包まれた火薬と鉛玉。


 もう一つは、卵と牛乳と砂糖を蒸した、まだ名もない菓子。


 シャルルはその両方を見て、深く息を吐いた。


「どちらも、国を変えるんですよ」


 窓の外では、共和国の旗が風に鳴っていた。


 その旗の向こう、遥か東では、帝国が再び軍を整え始めている。


 そしてシャルルは知っていた。


 次の戦は、前の戦より大きくなる。


 次の勝利は、前の勝利より多くの血を求める。


 だから彼は、紙を折り、金具を磨き、卵を割る。


 人を殺すために。


 人を生かすために。


 その二つを分ける線が、時にひどく細いことを知りながら。


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