第34話 氷が溶ける甘い夜
夜の帳が下りる頃。
リビングの照明を落とし、二人はソファに深く腰掛けていた。
テーブルには、グツグツと煮えたアヒージョ、切ったバゲット、そして数種類のチーズ。
そして中央には、封を開けられた果実酒があった。
トクトクトク……。
琥珀色の液体がグラスに注がれる。
甘く、芳醇で、どこか懐かしい香り。
「……乾杯しましょうか」
「ああ」
カチン。
グラスが軽く触れ合う澄んだ音が、静かな部屋に響いた。
クラウスが一口含む。
その目が大きく見開かれた。
「……甘いな」
「甘すぎましたか?」
「いや……嫌な甘さじゃない。喉の奥が熱くなる、優しい味だ」
クラウスは、ほうっと熱い息を吐いた。
アルコールが回ったのか、それとも部屋の暖かさのせいか、白い陶器のような肌がほんのりと桜色に染まっていく。
「……あの時は、栄養剤でしか腹を満たすことができなかった私が、こんな酒を美味いと感じるとはな」
「成長しましたね、団長」
「……成長ではない。進化したと言え」
クラウスはグラスの中の琥珀色を見つめながら、ポツリと言った。
「あの嵐の夜も、魔獣に襲われた日も、ヴァルデングに裏切られた日も……全部、この酒が熟成するための時間だったのかもしれん」
「そうですね。……苦味も渋みも、時間をかければ深みに変わる」
「……貴様との時間も、悪くない熟成具合だ」
クラウスが流し目でベルンを見て、艶っぽく微笑んだ。
ベルンはドキリとして、グラスを傾けて誤魔化した。
この「氷の処刑人」は、酒が入ると防御力が下がって攻撃力(色気)が上がるから始末が悪い。
「……おい、ベルン」
「はい」
「貴様、いつまで私を『団長』と呼ぶんだ」
クラウスが、少し拗ねたように言った。
「ここは職場じゃない。……名前で呼べと言っているだろう」
「ふふ、どうしましょうかね」
ベルンはわざとらしく考え込むフリをした。
「団長は団長ですから。……それに、とっておきは、一番大事な時のために取っておきますよ」
「……ケチな男だ。減るもんじゃあるまいし」
クラウスは不満げに頬を膨らませ、残りの酒を飲み干した。
その仕草が無防備で、ベルンの胸を締め付ける。
+++
ボトルが半分ほど空いた頃。
クラウスの目はとろんと潤み、頭がカクカクと揺れ始めていた。
限界だ。
彼はそのまま、隣に座るベルンの肩にコテンと頭を預けてきた。
「……眠い」
「ベッドに行きましょうか」
「……ん。……運べ」
ベルンは苦笑し、クラウスの体を軽々と抱き上げた(お姫様抱っこだ)。
クラウスは自然にベルンの首に腕を回し、その胸板に顔を埋める。
干し草の匂い。一番安心する匂い。
主寝室。
キングサイズのベッドに、ベルンはクラウスをそっと下ろした。
サイドテーブルの魔石灯だけが、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。
ベルンが離れようとすると、強い力で腕を引かれた。
「……」
クラウスが、ベルンの手首を掴んで離さない。
その瞳は眠気で潤んでいるが、そこには揺るぎない熱が宿っていた。
「……どこへ行く」
「水を持ってきますよ」
「……いらん。ここにいろ」
クラウスは自分の隣のスペースをポンポンと叩いた。
「……寝かしつけろ。終身刑だろう」
ベルンは観念して、靴を脱ぎ、クラウスの隣に横たわった。
スプリングが軋み、二人の体が密着する。
ベルンが腕を広げると、クラウスは待っていましたとばかりにその懐に潜り込んできた。
ベルンの太い腕が、クラウスの華奢な背中を包み込む。
クラウスの手が、ベルンの胸元のシャツを握りしめる。
互いの体温が溶け合い、境界線が曖昧になっていくような感覚。
「……ベルン」
「はい」
「……行くなよ」
クラウスが、ベルンの胸に顔を埋めたまま呟いた。
かつての嵐の夜。
あの時は、恐怖と孤独に震えながらの「行くな」だった。
だが、今は違う。
「……俺が眠るまで、その温かい手を離すな」
それは、明日も明後日も、この温もりが続くことを疑わない、甘えた命令。
幸福な約束としての言葉だった。
ベルンは愛おしさがこみ上げ、クラウスの顎に指をかけ、その顔を上げさせた。
青い瞳が、ベルンを真っ直ぐに見つめ返す。
ベルンはゆっくりと顔を近づけ、その柔らかな唇に、自身の唇を重ねた。
深くて、甘い、果実酒の味がする口づけ。
「……んッ……」
クラウスの喉が鳴り、ベルンの背中に回した腕に力がこもる。
唇が離れても、吐息がかかる距離で視線が絡み合う。
ベルンは、クラウスの耳元で、今まで大切にしまっておいた「とっておき」を囁いた。
「……ああ、行かないさ。……ずっと一緒だ、クラウス」
その名前を呼ばれた瞬間。
クラウスの顔が、火照ったように赤く染まり、そして花が咲くように柔らかく崩れた。
「……やっと、呼んだな」
クラウスは満足げに目を細め、ベルンの首筋に吸い付くようにキスを落とした。
そして、挑発するように上目遣いで囁き返す。
「……おやすみは、まだ早いだろう? ……ベルン」
クラウスの手が、ベルンのシャツのボタンに触れる。
その指先は熱く、これからの長い夜を予感させた。
ベルンは微笑み、サイドテーブルの魔石灯に手を伸ばした。
フツリ。
明かりが消え、部屋は春の夜の闇に包まれる。
窓の外では、満月だけが静かに輝いていた。
氷の処刑人が溶け、春の陽だまりと一つになる夜。
二人の物語は、ここからまた新しく紡がれていく。
おやすみ、そして、愛おしい明日へ。
第1章 完
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