第33話 パートナー
王都グラン・アヴェルラに、遅い春が訪れていた。
長く続いた雨季が明け、石畳の街路樹は一斉に新芽を吹き出し、柔らかな陽光が街全体を黄金色に染め上げている。
第一地区にあるクラウス・フェン・アルゼインの私邸。
そのリビングの窓辺に、一つのガラス瓶が置かれていた。
数ヶ月前、まだ二人が出会って間もない頃、ぎこちない関係の中で漬け込んだ果実酒だ。
氷砂糖は完全に溶けきり、液体は透き通った美しい琥珀色に変化している。
「……そろそろ、飲み頃だな」
休日の昼下がり。
クラウスは瓶を太陽にかざし、眩しそうに目を細めた。
その横顔は、かつての「氷の処刑人」と呼ばれた頃の刺々しさはなく、春の日差しのように穏やかだ。
「長かったですね。……ようやく、味が馴染んだようです」
キッチンから顔を出したベルン・ガーランドが、微笑みながら答えた。
かつて、焦って開けようとしたクラウスを「待つのも味のうち」と諭したあの酒だ。
色々なことがあった。
喧嘩もし、すれ違い、一度は決裂し――そして今、二人はこうして同じ屋根の下にいる。
瓶の中の果実が時間をかけて甘い蜜を吐き出したように、二人の関係もまた、ゆっくりと、しかし確実に熟成されていた。
「……開けるぞ。今すぐだ」
「こらこら、待ってください団長。昼間から酒盛りですか?」
封を切ろうとするクラウスの手を、ベルンが優しく制止した。
「夜の楽しみに取っておきましょう。……せっかくだから、これに合う最高の肴を用意しますよ」
「……フン。それまでに腐って呑めなくなったらたらどうする」
クラウスは悪態をつきながらも、その手はベルンのエプロンの紐をいじっている。
構ってほしい時の合図だ。
「じゃあ、買い物に行きましょうか。……今日は二人とも非番ですし」
「……ああ。採用する」
+++
週末の市場は、春の陽気に誘われた人々でごった返していた。
色とりどりの野菜、焼きたてのパンの香り、威勢の良い掛け声。
平和そのものの光景だ。
その雑踏の中を、ベルンとクラウスは並んで歩いていた。
クラウスは変装のために伊達眼鏡をかけ、マフラーを巻いているが、その凛とした立ち姿と銀髪は隠しきれていない。
だが、人々が彼に向ける視線は、かつてのような恐怖ではなかった。
隣に、いつもニコニコと穏やかな大男――ベルンがいるからだ。
「……人が多いな。酸欠になりそうだ」
人混みが苦手なクラウスが、不機嫌そうに呟く。
だが、その手はしっかりと、ベルンのジャケットの袖を握りしめていた。
迷子にならないように、そして何より、「こいつは私のものだ」と主張するように。
「はは、今日は特に賑わってますね。……あ、美味しそうな海老」
ベルンが魚屋の店先で足を止めた。
新鮮な赤海老が氷の上に並んでいる。
「今夜はアヒージョにしましょうか。あの果実酒には、ニンニクの香りと熱いオイルが合いますよ」
「……採用だ。パンも買え。フカフカのやつだ」
「バゲットですね。了解です」
二人が食材を選んでいると、魚屋の女将さんが顔をほころばせた。
「あら、精が出るねえ! 今日はパーティかい? ……仲が良いねえ、親子……じゃなくて、年の離れた兄弟かい?」
ベルンは苦笑した。親子に見えるほど、自分が老けて見えただろうか。
訂正しようと口を開きかけた時、クラウスがベルンの腕をグイッと引き寄せた。
「……パートナーだ」
クラウスは眼鏡の奥の青い瞳を光らせ、ドヤ顔で言い放った。
「私の胃袋と、睡眠と、人生を預けている唯一無二のパートナーだ。……まけてくれ」
「あらやだ! 素敵だねえ! おまけしとくよ!」
女将さんの豪快な笑い声と共に、袋いっぱいの海老が渡された。
ベルンは赤面しながら、隣で「どうだ」と胸を張る上官を見下ろした。
「……団長。値切るために変なことを言わないでください」
「事実だろう。……それに、浮いた金でチーズも買える」
クラウスは上機嫌で歩き出した。
繋がれた袖の重みが、ベルンには何より愛おしかった。
+++
夕暮れ時。屋敷に戻った二人は、キッチンに立っていた。
ここが、今の二人にとっての「結節点」であり、聖域だ。
ベルンが手際よく海老の殻を剥き、マッシュルームを刻む。
その横で、クラウスはカウンターに肘をつき、じっとその手元を眺めている。
手伝いはしない。いや、させない(過去に鍋を爆発させた前科があるため)。
彼の役割は「監視」と「味見」だ。
「……ベルン」
「はい」
「……その杓子」
クラウスが顎で指したのは、ベルンがオイルを掬っている銅製のレードル(お玉)だった。
あちこちに小さな凹みがあり、年季が入っているが、その表面は鏡のようにピカピカに磨き上げられ、鈍い黄金色の輝きを放っている。
かつて、クラウスがベルンのために買い、その後泥まみれになったものを、ベルンが執念で回収した一本だ。
「……まだそれを使っているのか。新しいのを買ってやるのに。傷だらけじゃないか」
「いいえ。これがいいんです」
ベルンはレードルを愛おしそうに布巾で拭った。
「これは、貴方が初めて私のために選んでくれた道具ですから。……私の手には、これが一番馴染むんです」
「……」
「毎日磨いているんですよ。貴方の髪を梳かすのと同じくらい、丁寧にね」
ベルンがほほ笑みながらゆっくりと瞬きをすると、クラウスは顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「……まったく物好きな奴だ。……フン」
ジュワァ……。
小鍋の中で、オリーブオイルとニンニクが踊る音がした。
香ばしい香りが立ち上る。
ベルンが味見のために、小皿にオイルと具材を少し取った。
「団長。塩加減、どうですか?」
差し出された小皿。
クラウスは懐から、一本の小さな銀のスプーンを取り出した。
ベルンから「担保」として奪い取った(借りている)スプーンだ。
「……どれ」
クラウスはそのスプーンで、熱々のオイルをふぅふぅと冷まし、口に運ぶ。
「……ん。……悪くない」
「合格ですか?」
「……このスプーンのおかげだな。貴様の腕ではない」
クラウスは悪戯っぽく笑い、スプーンについたオイルを舐め取った。
「このスプーンを使うと、どんな料理も3割増しで美味くなる。……魔法のアイテムだ」
「それはそれは。……私のスプーンを返してほしくなりますね」
「断る。これは私が永遠に借りておく契約だ」
クラウスはスプーンを大切そうに懐に戻した。
銅のレードルと、銀のスプーン。
二つの古びた道具は、言葉よりも雄弁に二人の絆を物語っていた。




