第32話 聖母と狂犬
昼時。
第零班の執務室には、食欲をそそる香りが充満していた。
ベルンにより拡張・改装された給湯室(もはや厨房)で、大鍋いっぱいのクリームシチューが煮込まれている。
「うわぁ……いい匂い!」
「ベルンさんの手料理だ!」
新人たちがわらわらと集まってくる。
ベルンが味見のために小皿にシチューをよそい、ふぅふぅと冷ましていると、一人の新人が唾を飲んだ。
「あ、あの! ベルンさん! 一口でいいんで、味見させてくれませんか!?」
「ん? ああ、構わんよ。一口と言わず……」
ベルンが小皿を差し出そうとした、その瞬間。
ゾクリ。
室内の気温が、氷点下まで下がった。
「――貴様ら」
地獄の底から響くような声。
新人たちが凍りついて振り返ると、背後に仁王立ちしたクラウスがいた。
その背後には、可視化できそうなほどのどす黒いオーラが揺らめいている。
「私の生命線に、気安く触れるな。……その手を切り落とされたいか?」
「ひぃいいいッ!? しょ、処刑人モードだァッ!!」
「すみません! 調子に乗りましたァ!」
新人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
クラウスは「フン」と鼻を鳴らし、ベルンの手から小皿を奪い取ると、一気に飲み干した。
「……んッ。……熱い」
「当たり前です。出来たてですよ」
「……味が薄い気がする。もっと私の分だけ、濃くしろ」
「はいはい。団長の分は、特盛でお肉多めに確保してありますから。……そんなに威嚇しないでください」
ベルンが宥めると、クラウスは満足げに鼻を鳴らし、大人しく自分の席へと戻っていった。
その背中を見送りながら、古参のギルバートが新人たちに耳打ちした。
「……見たか? あれが通常運転だ。ベルンさんの料理は、団長の聖域。手を出したら死ぬぞ」
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昼食後。
ポカポカとした春の陽気が、騎士団本部の中庭に降り注いでいた。
午後の訓練までの束の間の休息時間。
木陰のベンチには、ベルンが座って本を読んでいた。
そこへ、満腹になって眠気眼のクラウスがふらふらとやってきた。
彼は無言のまま、当然のようにベルンの太ももに頭を乗せ、ベンチの上に横たわった。
見事な膝枕である。
「……団長。ここ、中庭ですよ。部下が見てます」
「……うるさい。充電中だ。……魔力切れになる寸前だ……」
クラウスはベルンの腹に顔を埋め、幼子のように丸まった。
ベルンから漂う干し草の匂いに包まれて、瞬く間に意識が落ちていく。
ベルンは溜息をつき、諦めて本を閉じた。
そして、その大きな手で、クラウスのサラサラとした銀髪を優しく撫で始めた。
「……おい、あれ見ろよ」
「団長が……あの鬼の団長が、膝枕させてもらっている……!」
遠巻きに見ていた新人たちが、ザワザワと騒ぎ始める。
いつもの冷徹な指揮官からは想像もつかない、無防備で幸福そうな寝顔。
ベルンの膝の上で、完全に安心しきって微睡むその姿は、ある意味で衝撃映像だった。
「……(尊い)」
「……(絵画か?)」
新人女子騎士たちが胸を押さえて倒れそうになる中、ギルバートが慣れた手つきで彼女たちの目を覆った。
「あー、はいはい。あまり見ちゃダメだぞー。目に麻薬だからな。あれは第零班の名物『聖母と狂犬の昼寝』だ。拝むなら遠くからにしとけ。中毒になっちゃうよ」
その時。
熟睡していたクラウスが、無意識にベルンの軍服の裾をギュッと握りしめた。
眉間に皺が寄り、苦しげな寝言が漏れる。
「……んぅ……行くな……ベルン……」
小さな、しかし切実な声。
かつての孤独な記憶が、夢の中で彼を不安にさせているのかもしれない。
その声は、静まり返った中庭に小さく響いた。
新人たちが息を呑む。
ベルンは優しく微笑み、クラウスの背中をトントンと一定のリズムで叩いた。
「……行きませんよ。終身刑ですからね」
低く、温かい声。
その言葉が届いたのか、クラウスの眉間の皺がスッと消え、安らかな表情に戻った。
握りしめられていた裾の手が、安心したように緩む。
木漏れ日が二人を包み込む。
それは、戦争も復讐もない、とても平和で穏やかな午後だった。
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夕暮れ時。
業務を終えた二人は、並んで屋敷への帰路についていた。
石畳に、二つの影が長く伸びる。
「……今日は新人がうるさかったな。どいつもこいつも、ベルン、ベルンと……」
クラウスが不満げに靴先で小石を蹴った。
「明日は全員、泥沼しごきの刑だ。……私の補佐官をアイドルか何かと勘違いしている」
「やめてあげてくださいよ。彼らは貴方に憧れて入ってきたんですから。……それに、私はただの枯れたオッサンです」
「……フン。枯れているものか。……熟成されて今が一番脂がのっている」
クラウスはそっぽを向いてボソリと言った。
それは彼なりの、精一杯の褒め言葉だったのかもしれない。
「……私は、貴様がいればそれでいい。他の奴らなど、どうでもいい」
クラウスが立ち止まり、ベルンを見上げた。
夕陽に照らされたその瞳は、透き通るように綺麗で、揺るぎない信頼に満ちていた。
かつては孤独に凍りついていたその瞳に、今はベルンという色彩が宿っている。
「はいはい。分かってますよ」
ベルンは穏やかに微笑み、歩き出した。
「……今日の夕飯は、ハンバーグにしましょうか」
「……!」
クラウスの表情がパァッと輝いた。
分かりやすい人だ。
「チーズを乗せろ。……二枚だ。中からトロッと出るやつだぞ」
「カロリー高そうですねぇ。……まあ、今日はお疲れの様でしたから、特別ですよ」
「……ん。楽しみにしている」
クラウスは嬉しそうにベルンの横に並び、その袖をチョンと掴んだ。
手をつなぐのはまだ恥ずかしいが、離れるのは嫌だという距離感。
ベルンはその袖の重みを感じながら、夕食の献立を反芻する。
スープは何にしようか。サラダには、朝市で買った新鮮なトマトを使おう。
特別なことは何もない。
ただ、一緒に家に帰り、一緒にご飯を食べて、一緒に眠る。
そんな「当たり前」の幸せが、今の二人には何よりの滋養だった。
「……ベルン」
「はい」
「……明日の朝も、オムレツがいい」
「了解です、ボス」
二人の笑い声が、茜色の空に溶けていく。
伝説のバディ、そして「終身刑」のパートナーたちの、甘やかで穏やかな日々は、これからもずっと続いていく。




