第31話 新しい朝
王都の第一地区。かつて「氷の城」と恐れられ、冷たい静寂だけが支配していたクラウス・フェン・アルゼインの私邸は、今や劇的な変貌を遂げていた。
重厚な扉の横には、季節の花々が植えられたプランターが並び、色とりどりの花が風に揺れている。
無機質だった玄関ホールには、温かみのあるラグが敷かれ、壁には風景画が飾られている。
そして何より、この屋敷の空気を変えているのは――キッチンから漂う、芳醇な朝食の香りだ。
「……団長。いい加減に起きないと、遅刻しますよ」
主寝室のキングサイズのベッド。
その端に腰掛けたベルン・ガーランドは、布団の塊に向かって呆れた声をかけた。
布団がモゾモゾと動き、中から不機嫌そうな銀色の頭と、青い瞳が半分だけ覗く。
「……あと五分」
「十分前にも同じことを聞きました」
「……うるさい。私の家だ。私のルールが法律だ」
クラウスは子供のようにぐずると、布団から細い腕を伸ばし、ベルンの腰にギュッとしがみついた。
「……充電が足りん。貴様が早く起きてキッチンに行くからだ」
「朝食を作らないと、貴方が不機嫌になるでしょう?」
「……匂いはするが、熱源が遠い」
クラウスはベルンの腰に顔を埋め、スースーと匂いを吸い込んだ。
ヴァルデングの一件から数ヶ月。
あの日の「終身刑」宣告以来、二人の同居生活は正式なものとなっていた。
憑き物が落ちたクラウスは、外では相変わらず「氷の処刑人」として畏怖されているが、この屋敷の中だけでは、甘えん坊の猫そのものだった。
「ほら、起きてください。今日は新人の訓練視察があるんでしょう?」
「……チッ。あのジャガイモ共か。……全員、私のしごきで地獄行きにしてやる」
悪態をつきながらも、クラウスはようやくのっそりと起き上がった。
その髪は芸術的なまでに爆発しており、寝ぼけ眼でふらつく姿は、王都の英雄とは程遠い。
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着替えの時間もまた、毎朝の恒例行事となっていた。
クラウスは鏡の前に立ち、ベルンが差し出すシャツに袖を通す。
ボタンくらい自分で留められるようになったはずだが、彼は決して自分ではやらない。両手を広げ、ベルンに全てを委ねている。
「……もう春なんですから、少しはシャキッとしてくださいよ」
ベルンは苦笑しながら、丁寧にボタンを留めていく。
かつての、ダンスパーティーの夜に首を絞めそうになったクラバット(装飾ネクタイ)も、今では手慣れたものだ。
ふわりと布を巻き、美しい結び目を作る。
「よし、完璧です。今日も男前ですよ、団長」
「……フン。貴様の腕がいいだけだ」
クラウスは鏡の中の自分――ではなく、後ろに立つベルンの顔を見て、僅かに口角を上げた。
そして、結び目を整えるベルンの大きな手に、自分の頬をすり寄せた。
猫が飼い主に甘えるような仕草。
「……今日も、私の視界から出るなよ」
「はいはい。補佐官ですからね」
ベルンは慣れた手つきでクラウスの銀髪をブラシで整え、爆発していた寝癖を艶やかな絹糸へと戻した。
仕上げに、騎士団のマントを羽織らせる。
そこにはもう、甘えん坊の青年の姿はなく、凛々しい騎士団長が立っていた。
ただし、その耳だけは少し赤いままだったが。
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王立騎士団、特別捜査局・第零班。
かつては「窓際」「墓場」と呼ばれた地下の執務室は、今や騎士団内で最も活気のある、憧れの部署となっていた。
ヴァルデングの野望を阻止し、王都を救った「伝説のバディ」がいる場所。
その噂を聞きつけた優秀な新人たちが、こぞって配属を希望してきたのだ。
「ベルン補佐官! すみません、この書類の書き方なんですが……」
「ベルンさん! 剣の握りがどうもしっくりこなくて、また見てくれませんか?」
「あ、ベルンさん! 彼女へのプレゼントなんですけど、何がいいと思います?」
ベルンのデスクの周りには、常に若い騎士たちが群がっていた。
38歳という年齢と、元料理人ならではの物腰の柔らかさ、そして何より「あのクラウス団長を飼いならしている」という実績が、彼を若手たちの良き相談役(お母さんポジション)に押し上げていた。
「はいはい、順番にな。……書類はここの印鑑が抜けてるぞ。剣の握りは、肩の力を抜け。プレゼントは……まあ、花束が無難じゃないか?」
ベルンは的確に、そして穏やかに対応していく。
その様子を、執務室の最奥――「魔王の玉座」と呼ばれるデスクから、氷のような視線で見つめる男がいた。
「…………(イライラ)」
クラウスである。
彼は羽ペンをへし折らんばかりの握力で握りしめ、ベルンに群がる新人たちを睨みつけていた。
面白くない。
ベルンは私の補佐官だ。私の世話係だ。
なぜ、あんな有象無象の青二才共に、私のベルンの貴重な時間を割かねばならないのか。
そんなクラウスの殺気に気づかないフリをして、能天気な新人女性騎士、リサがベルンにこっそりと耳打ちした。
「ねえねえ、ベルン補佐官。噂で聞いたんですけど、団長の私邸に住み込みで働いてるって本当ですか?」
「ん? ああ、まあな」
「ひえぇ……凄すぎます。あの『氷の処刑人』と同じ屋根の下なんて、私なら緊張で凍死しちゃいますよ。……怖くないんですか?」
リサがチラリとクラウスの方を見る。クラウスは即座に視線を逸らし、書類を読むフリをした(耳はダンボだ)。
ベルンはコーヒーを一口飲み、小さく笑った。
「……まあ、確かに外では怖い顔をしてるがな。……ああ見えて、意外と可愛いところがあるんだよ」
「えっ、可愛い? あの団長が?」
「ああ。朝なんて、寝癖がすごくて前が見えてないし、寝起きは駄々をこねて子供みたいだしな」
ピキッ。
奥のデスクから、何かがひび割れる音がした。
リサが恐る恐る振り返ると、クラウスが書類を握りつぶし、顔を真っ赤にして震えていた。
「……べ、ベルン補佐官……」
「……おっと。聞かれてたか」




