3. 王宮の朝食に白パンが出ない理由
以下、第3話を改稿します。
第3話 王宮の朝食に白パンが出ない理由
王太子府の朝食室には、いつも通り銀の食器が並んでいた。
香草入りの卵。
蜂蜜。
薄いスープ。
干し果物。
ただ、中央の籠だけが空だった。
「パンは?」
エドガー王太子が短く尋ねた。
侍従長モリスは、深く一礼した。
「本日は、黒麦粥をご用意しております」
「私はパンを聞いた」
「はい。ですので、黒麦粥を」
「モリス。私は白パンと粥の区別がつかないほど寝ぼけているように見えるか?」
「おそれながら、殿下はご聡明でいらっしゃいます」
「ならば、白パンを出せ」
「出せる白パンがございません」
匙が皿に触れ、かすかな音を立てた。
ミレーユが困ったように空の籠を見つめる。
「白パンがない朝食なんて、少し寂しいですわね」
「寂しいで済めばよろしいのですが」
モリスが答えた。
エドガーは眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「小麦商会への月次支払い承認が止まっております」
「支払い承認?」
「はい」
「そんなもの、財務長官に押させろ」
「ベルトラン財務長官は、昨夜から王太子府の臨時債務確認で執務室に詰めておられます」
「では副官に」
「副官の印では足りません」
「なぜだ」
「王太子府会計印と、王妃宮封印紋の確認が必要です」
ミレーユが小さく呟いた。
「封印紋……」
「昨日、アレシア様が返却された白手袋にございます」
朝食室に沈黙が落ちた。
エドガーは空のパン籠を睨む。
「たかがパンだぞ」
「はい」
モリスは淡々と頷いた。
「たかがパンで、厨房長が廊下で小麦商会の代理人に頭を下げております」
「呼べ」
「厨房長をですか」
「商人もだ」
ほどなく、丸い体に白い前掛けを締めた厨房長パウロと、帳簿を抱えた女商人が入ってきた。
女商人は栗色の髪をきっちり結い、王太子の前でも膝の角度を崩さなかった。
「小麦商会代理、パメラ・オルガンでございます」
「王太子府の食卓を止めるとは、いい度胸だな」
「止めてはおりません。未払い分の納品を見合わせております」
「同じことだ」
「商人の帳簿では違います」
「王太子に商人の理屈を説く気か」
「王太子府が商人の小麦を召し上がるなら、少々は」
パウロが慌てて両手を上げた。
「殿下、パメラ殿は昨日まで融通を利かせてくださっておりました。ですが、昨夜のうちに承認者が退任されたとの知らせが」
「噂が早いな」
パメラは表情を変えなかった。
「パン屋の朝は、恋の噂より早いので」
ミレーユが不安げに尋ねる。
「あの、殿下のお名前では駄目なのですか?」
「殿下のご命令で発注はできます」
パメラは帳簿を開いた。
「ですが、お支払いには承認が必要です。注文する方と払う方が同じ顔だけで済むなら、王都中の若君が毎晩宴会を開きます」
「それは困りますわね」
「困ります。小麦は信用で膨らみませんので」
パウロが深く頷いた。
「パン種より厄介でございますな、信用は」
「厨房長」
モリスが低くたしなめる。
「申し訳ありません。空腹で詩が出ました」
エドガーは椅子の背を掴んだ。
「ではアレシアを呼べ」
「お呼びしてございます」
モリスが答えた。
「来るのか?」
「退職金請求の確認であれば、と」
扉が開いた。
アレシアが入ってくる。
その後ろに、ベルトラン財務長官とレオンハルト辺境伯が続いた。
エドガーの顔がわずかに明るくなる。
「アレシア。ちょうどいい。小麦の承認を」
「おはようございます、殿下」
アレシアは優雅に膝を折った。
「私は本日、退職金請求の確認に参りました。給仕ではございません」
「パンくらいで意地を張るな」
「パンくらいで呼び戻されるとは思いませんでした」
「君が承認すれば済む話だ」
「済みません」
「なぜ」
「退任済みの者が承認印を押せば、文書偽造です」
「私が許す」
「監査院は許しません」
ベルトランが弱々しく頷いた。
「殿下。アレシア様のおっしゃる通りです。昨日付で退任届は受理されております」
「お前まで」
「私は昨夜、署名前に読むよう申し上げました」
レオンハルトが静かに口を開く。
「署名した書類は、朝になると消えるものではない」
エドガーは彼を睨んだ。
「辺境伯。朝食の席にまで来るとは暇なのか」
「債務者の朝食が止まったと聞けば、債権者は心配する」
「白パン程度で王太子府が傾くものか」
「白パン程度で騒ぐ者が、金貨四万二千枚を払えるとも思えない」
ミレーユは空の籠とアレシアを交互に見た。
「アレシア様」
「はい」
「昨日まで、こういうことを毎朝なさっていたのですか?」
「毎朝ではありません」
ミレーユは少し安心した顔をする。
「では」
「問題が起きる前に済ませておりました」
その安心はすぐ消えた。
「殿下のお好みの白パンは、皮を薄く落として、蜂蜜を三滴です」
アレシアは続けた。
「四滴ですと甘すぎるとお怒りになります。卵の香草は粗め。スープは熱すぎず、新聞は東方欄を一番上に。雨の日は政治欄を下へ」
ミレーユは呆然とした。
「それを、覚えるのですか?」
「覚える必要はありません」
エドガーが少し得意げに言う。
「そうだ。細かすぎる」
アレシアは淡々と返した。
「ただ、覚えていないなら、怒られる相手を間違えないことです」
モリスが一瞬だけ目を伏せた。
パウロは黒麦粥の鍋を抱え直す。
「厨房としては、怒号より注文書を頂ける方が助かります」
パメラも頷いた。
「商会としては、愛より承認印を頂ける方が助かります」
ミレーユは小さく息を吸った。
「わたくし、殿下をお支えしたいと思っていました」
「よいお心がけです」
アレシアは言った。
「ですが、支えるとは、隣で微笑むだけではありません」
「では、何をすれば」
「まず、何が止まっているのか知ることです」
ミレーユは空の籠を見た。
「白パン」
「はい」
「それから?」
ベルトランが帳簿をめくる。
「建国祭の花火費、近衛の外套修繕費、王妃宮文書庫の封印解除、ミレーユ様歓迎舞踏会の正式招待状」
「え」
ミレーユの声が揺れた。
「歓迎舞踏会も?」
「副署待ちです」
「副署がないと?」
アレシアが答える。
「王家が正式に招いたことになりません」
エドガーが不機嫌に言う。
「招待状くらい、私の名で十分だ」
「殿下」
アレシアは静かに向き直った。
「昨日は白パンが『たかが』でした」
「それが何だ」
「今日は招待状が『くらい』です」
「……」
「明日は、何が『その程度』になるのでしょうね」
扉が叩かれた。
侍女が青い顔で入ってくる。
「殿下、ミレーユ様の歓迎舞踏会について、王都十二家よりお返事が届いております」
ミレーユの顔が明るくなった。
「まあ。皆様、来てくださるのね」
侍女は封筒の束を差し出した。
「すべて、未開封のまま返送されております」
朝食室が止まった。
エドガーの視線が、空のパン籠から封筒の束へ移る。
アレシアは静かに言った。
「殿下」
「何だ」
「白パンの次は、舞踏会でしたね」
レオンハルトが窓の外を見た。
「柔らかいものから崩れるらしい」
ミレーユは封筒を一通抱きしめた。
「わたくし、招かれる側ではなく、断られる側になったのですか?」
誰もすぐには答えなかった。
黒麦粥だけが、湯気を立てていた。




