2.財務長官だけが知っている、理想の王太子妃の値段
白鳩の間の熱が冷めきらぬうちに、王太子府の小会議室には関係者だけが集められた。
長卓の上には、三通の書類。
婚約解消受領書。
王太子妃準備役退任届。
そして、退任補償金および未払い報酬の請求書。
エドガー王太子は椅子に座らず、窓際で腕を組んでいた。隣のミレーユは、不安げに彼の外套の袖をつまんでいる。
ベルトラン財務長官は、椅子に座っているのに立っている者より疲れて見えた。
レオンハルト辺境伯だけが、夜会帰りとは思えぬ落ち着きで長卓の端に立っている。
「まず確認する」
エドガーが低く言った。
「先ほどの署名は無効だ」
「理由は?」
アレシアは書類をそろえながら尋ねた。
「私は動揺していた」
「婚約破棄を宣言なさった時からですか、請求額をご覧になった時からですか」
「屁理屈を言うな」
「契約の世界では、時刻が大切ですので」
ベルトランが小さく呻いた。
「殿下。残念ながら、署名の無効を主張するには、強迫、詐欺、心神喪失のいずれかを証明する必要がございます」
「私は強迫された」
「どなたに」
「この女にだ」
「アレシア様は、書類を差し出しただけです」
「人前で恥をかかせた」
「婚約破棄を人前で始められたのは、殿下でございます」
ベルトランの声は弱いが、逃げ道だけは正確に塞いだ。
エドガーは舌打ちした。
「なら詐欺だ。退職金などあると聞いていない」
「殿下」
アレシアが銀封筒から写しを一枚取り出した。
「こちらが十年前の契約書です。第七条に、王太子妃準備役が王太子側の都合により解任された場合、在任年数に応じた退任補償金を支払う、とございます」
「読んでいない」
「署名はされています」
「十五の子供に読めるものか」
「私は同じ日に読みました」
小会議室が沈黙した。
ミレーユがそっと手を上げた。
「あの、アレシア様」
「はい」
「殿下は王子様ですのよ。王子様に細かな書類を読ませるなんて、少し意地悪ではありませんか?」
「ミレーユ様」
「はい」
「王子様が読まない書類は、誰かの人生を勝手に縛ります」
「人生」
「ええ。たいてい、読まなかった方ではなく、読まされた方の」
ミレーユは不満そうに唇を尖らせた。
「でも、愛があれば」
「愛に署名欄はございません」
「また書類のお話」
「今夜は書類が主役ですので」
レオンハルトが喉の奥で短く笑った。
エドガーが彼を睨む。
「辺境伯。君は何がおかしい」
「書類が主役だという点だ。王都の舞踏会にしては珍しく、誠実な配役だ」
「君に関係のない話だ」
「関係はある」
レオンハルトは長卓の上に一枚の羊皮紙を置いた。
「フォルスター辺境伯家は、王家に北境防衛費として金貨二十万枚を貸し付けている。返済能力の確認は、債権者の権利だ」
「それは国王陛下との契約だろう」
「王太子府が王室監査院に送られれば、王室全体の信用に傷がつく」
「脅す気か」
「数字を読む気だ」
その言い方に、ベルトランがわずかに顔を上げた。
「辺境伯閣下。請求書をご覧になりますか」
「よろしければ」
アレシアは一瞬だけレオンハルトを見た。
「閣下。先に申し上げます」
「何を」
「この請求書は、私を売る値札ではありません」
「承知している」
「私は買い取られるつもりも、保護されるつもりもありません」
「だろうな」
「では、なぜ債権を買うと?」
「王太子府に払えるとは思えないからだ」
エドガーの眉が跳ねた。
「無礼だぞ」
「事実なら、無礼ではなく会計だ」
ベルトランが今度は咳をしなかった。
代わりに、深く頷いた。
アレシアは請求書をレオンハルトへ渡した。
「第一請求額、金貨四万二千枚。内訳は、退任補償金、臨時職務手当、祭典代理手当、夜間公務加算、私費立替分、利息です」
レオンハルトは目を通し、眉一つ動かさなかった。
「安いな」
エドガーが笑った。
「ほら見ろ。辺境伯も馬鹿げていると言っている」
「逆だ」
レオンハルトは書類から目を離さずに言った。
「十年、これだけ働かせて四万二千枚で済むなら、王都の人材市場は奴隷市より安い」
ミレーユが小さく息を呑んだ。
「奴隷だなんて、恐ろしい言葉」
「無給の献身を美談と呼ぶよりは、正直です」
アレシアが静かに返した。
ベルトランは胃のあたりを押さえた。
「アレシア様。確認いたします。祭典代理手当は、建国祭、聖樹祭、収穫感謝式、戴冠記念祝典の四種でございますね」
「はい」
「夜間公務加算は」
「王妃宮から日没後に持ち込まれた文書の下読みです」
「回数は」
「三百八十六回」
エドガーが鼻で笑った。
「大げさな。そんなにあったはずがない」
「殿下が夜会でお休みになった後に届いておりましたので」
「では私が知るわけがない」
「はい。ですから請求しております」
ベルトランが帳簿をめくった。
「私費立替分が、香油、布地、孤児院寄付、使節団歓迎花代、東翼暖炉修繕費……」
そこで彼は止まった。
「東翼暖炉修繕費?」
「殿下が昨冬、暖炉の前でミレーユ様に青薔薇を贈られた部屋です」
ミレーユの顔がぱっと明るくなった。
「あの時のお部屋、とても暖かくて素敵でしたわ」
「煙突が詰まっておりましたので、前日に私が職人を呼びました」
「まあ」
「青薔薇の花代は王太子府。煙突の修繕費は私です」
エドガーの顔から色が消えた。
「なぜ私に言わなかった」
「殿下はその日、『アレシアは風情がないから青薔薇の意味も分からない』とおっしゃいました」
「あれは」
「ええ。風情がないので、煙突を直しました」
レオンハルトが請求書の端を指で押さえた。
「この修繕費は、利息をつけてもいい」
「つけています」
「少ない」
「王太子府が潰れます」
「潰したいのでは?」
「いいえ」
アレシアはまっすぐ答えた。
「働いた分を、働いたこととして記録したいだけです」
その言葉で、会議室の温度がわずかに変わった。
エドガーは顔を背けた。
「君は、そんなことをずっと考えていたのか」
「いいえ」
「では、いつからだ」
「殿下が私に、理想の王太子妃なら不満を顔に出すなとおっしゃった日からです」
「覚えていない」
「はい。殿下は覚えておいでになりません」
「嫌味か」
「記録です」
ベルトランが帳簿を閉じた。
「殿下。金貨四万二千枚を明朝九時までに用意するのは、不可能ではございません」
エドガーの顔が明るくなった。
「ならば払えばいい」
「ただし、建国祭の花火、狩猟宮の内装、王太子殿下の新馬車、ミレーユ様の歓迎茶会、以上四件をすべて止めれば、でございます」
ミレーユが青ざめた。
「歓迎茶会もですか?」
「はい」
「わたくし、もう招待状を出してしまいました」
「では、招待状だけが出席します」
アレシアが言った。
ミレーユは泣きそうな顔でエドガーを見た。
「殿下……」
「止めるな」
エドガーは即答した。
「茶会は王太子妃となるミレーユの披露目だ。花火も建国祭に必要だ。馬車も外国使節の前に出す」
ベルトランは無言でレオンハルトを見た。
レオンハルトは淡々と言った。
「では、支払い能力なしと記録する」
「待て」
エドガーが机を叩いた。
「なぜそうなる。金は国庫にあるだろう」
「王太子府の債務を、国庫から勝手に払うことはできません」
ベルトランが答えた。
「国庫と王太子府会計は別でございます」
「なら、母上の王妃宮から借りる」
「王妃宮文書庫は、本日付で封印解除権者が不在です」
「何?」
「アレシア様が手袋を返却されましたので」
エドガーの視線が、銀盆の上の白手袋に落ちた。
「そんなもの、代わりを作れ」
「銀糸の封印紋は、前王妃時代の誓約魔法でございます。作るには、王妃殿下、監査院長、封印師、そして前任者の同意が必要です」
「前任者とは誰だ」
ベルトランは、気の毒そうにアレシアを見た。
「アレシア様です」
小会議室に、今夜何度目か分からない沈黙が落ちた。
ミレーユが小声で言った。
「アレシア様が、戻ってくださればいいのでは?」
エドガーも同じことを思いついた顔をした。
「そうだ。アレシア、手袋だけ預け直せ。婚約とは別だ。公務だと思えばいい」
「殿下」
「何だ」
「退職者に鍵を返せと言う前に、まず未払い賃金を払うのが順序です」
「君は本当に金の話ばかりだな」
「金の話を避けた結果が、今の王太子府です」
ベルトランが何か言いかけて、やめた。
たぶん、言いたいことは山ほどあったのだろう。
その時、扉の外が慌ただしくなった。
近衛が一人、顔を出す。
「殿下、財務長官閣下。厨房長が至急お目通りをと」
エドガーは苛立って振り返った。
「今度は何だ」
近衛は気まずそうに目を伏せた。
「明朝の王太子府の白パンが、ご用意できないとのことです」
「白パン?」
「はい。小麦商会への月次支払い承認が、未処理で止まっております」
ベルトランの顔が、はっきりと白くなった。
アレシアは静かに言った。
「それは、私の昨日最後の仕事でした」
エドガーがこちらを見る。
「なぜ処理していない」
「退任いたしましたので」
「たかがパンだろう」
「はい」
アレシアは銀封筒を抱え直した。
「明日の朝、殿下が最初に失うものとしては、ちょうどよろしいかと」
レオンハルトが小さく笑った。
「白パンから始まる崩落か」
「柔らかいものほど、無いと騒がれます」
アレシアは窓の外に目を向けた。
夜明け前の王宮は、まだ静かだった。
だがその静けさは、整っているからではない。
誰もまだ、何が止まったのか知らないだけだった。
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