1. 婚約破棄、承りました。退職金の請求書はこちらです
「アレシア・ローヴェル。私は、今宵この場で君との婚約を破棄する」
王宮白鳩の間に、エドガー王太子の声が響いた。
楽団の弓が止まり、貴族たちの扇が一斉に静まる。
王太子の隣には、桃色のドレスをまとったミレーユ・バルニエ子爵令嬢がいた。彼女は怯えた小鳥のように、エドガーの袖をつまんでいる。
「理由を伺っても?」
「君は冷たい。完璧で、退屈で、私を一度も心から見てくれなかった」
「殿下の朝食、睡眠時間、季節ごとの頭痛の頻度まで把握しておりますが」
「そういうところだ!」
エドガーは苛立たしげに手を振った。
「私は妻に帳簿係を求めているのではない。私の隣で笑い、民に愛を示し、私を男として敬う女性を求めている」
「最後の一項目は、公務規定にありません」
「公務規定!」
エドガーは鼻で笑った。
「君は最後まで書類だな。王太子妃とは、もっと柔らかな存在であるべきだ。ミレーユのように」
「アレシア様、わたくしは殿下をお支えしたいだけですの」
ミレーユが甘く言った。
「王宮の難しいことは分かりませんけれど、愛があれば、きっと何とかなりますわ」
「愛で近衛の給金を払う場合、硬貨にはどなたのお顔を刻めばよろしいでしょう」
「え?」
「片面に殿下。もう片面にミレーユ様の涙で足りますか」
ミレーユは口を閉じた。
広間の隅で、誰かが扇の陰で笑った。
エドガーの顔が赤くなる。
「アレシア。君が怒るのも無理はない。だが、君の十年の努力までは否定しない。王都の離宮を一つ与えよう。慎ましく暮らすがいい」
「承知いたしました」
アレシアは静かに膝を折った。
「では本日をもって、私は王太子妃準備役を退任いたします」
「好きにしろ」
「ありがとうございます。では、こちらにご署名を」
控えていた侍女が、銀の封筒を三通差し出した。
エドガーは眉を寄せる。
「何だ、それは」
「一通目が婚約解消受領書。二通目が王太子妃準備役退任届。三通目が退任補償金および未払い報酬の請求書でございます」
広間の空気が冷えた。
ただ一人、エドガーだけが意味を理解していない顔をしていた。
「退任補償金?」
「平民風に申しますと、退職金です」
「退職金だと? 君は婚約者だったのだぞ。雇われ人ではない」
「婚約者であったことは一通目に。雇われ人であったことは二通目に記載されております」
「馬鹿な。妃教育だろう」
「名目は」
「名目?」
「実態は、王太子府内政補佐、王妃宮祭典代理、外交文書下読み、会計院臨時監査、諸侯夫人会の調整です」
「君が茶会の席順を決めていただけの話を、ずいぶん大きく言う」
柱陰で、ベルトラン財務長官が咳き込んだ。
アレシアは視線だけを向ける。
「財務長官。殿下にご説明を」
「この場で、でございますか」
「この場で婚約破棄をなさったのは殿下です」
ベルトランは額の汗を拭った。
「殿下。アレシア様の職務は、茶会の席順だけではございません。王太子府の予算配分、王妃宮の文書整理、祭典費の調整、各侯爵家との寄付折衝も含まれております」
「聞いていない」
「殿下が聞かれる前に、毎回片付いておりましたので」
広間がまた静まった。
エドガーは銀の封筒を睨む。
「つまり君は、私との婚約を金に換えるつもりか」
「いえ。婚約は一通目で終わりです。二通目以降は労務契約の清算です」
「労務契約など知らない」
「殿下が十五歳の時に署名されました」
「十五の時の署名など覚えているものか」
「覚えておいででなくても、署名は歩いて逃げません」
エドガーは唇を歪めた。
「生意気な」
「契約書はたいてい生意気です。人間の記憶より長生きしますので」
「アレシア!」
「はい」
「私を侮辱しているのか」
「いいえ。侮辱には別紙が必要です」
扇の陰で、今度は確かに笑いが漏れた。
エドガーは封筒を奪うように取った。
「よかろう。署名してやる。君のくだらない紙束など、これで終わりだ」
「殿下、お読みください!」
ベルトランが叫んだ。
「黙れ」
エドガーは一通目に署名した。
二通目にも署名した。
三通目にも、荒い筆致で名を書いた。
アレシアは三通を受け取り、王太子府の小印を押す。
黒いインクが乾くまでの数秒、白鳩の間の誰も動かなかった。
「これで手続きは完了いたしました」
「満足か」
「まだです」
「まだ?」
「お支払いがあります」
エドガーの笑みが消える。
「いくらだ」
「第一請求額は、金貨四万二千枚です」
ミレーユが目を丸くした。
「まあ。小さなお城が買えますわ」
「買えます」
アレシアは頷いた。
「殿下が昨年、狩猟宮を新築なさらなければ、半分は払えました」
エドガーの頬が引きつった。
「そんな金、払うわけがない」
「拒否なさる場合、王室監査院へ移管されます」
「監査院など、父上が止める」
「陛下の御璽が必要です」
「なら母上が」
「王妃殿下の署名も、十年前の契約書にございます」
ベルトラン財務長官が目を閉じた。
それは祈りではなかった。帳簿を脳内でめくっている顔だった。
「アレシア様。支払期限は」
「明朝九時です」
「遅延利息は」
「一日につき金貨百二十枚」
「馬車が一台燃えますな」
「殿下の馬車なら、車輪だけです」
広間のあちこちで、扇が震えた。
エドガーはアレシアを睨みつける。
「君は私を破滅させたいのか」
「いいえ」
「では何だ」
「退職したいだけです」
その一言は、豪奢な広間に冷たく落ちた。
エドガーは初めて、怒り以外の顔をした。
「アレシア。君は、私の妃になるために十年を費やしたのだろう」
「はい」
「ならば、そこまで意地を張るな。望むなら、王妃宮の相談役として残してやってもいい」
「殿下」
「何だ」
「今のご提案は、解雇した相手に無給の残業を頼む時の言い方です」
「なっ」
「次からは、せめて時給を添えてください」
アレシアは白い手袋を外した。
十年間、王太子の隣で公務に立つ時だけ使った、王家の銀糸入りの手袋だった。
「それも返すつもりか」
「はい。王太子妃準備役の徽章を兼ねておりますので」
「そんな布切れ、持っていけ」
「布切れですか」
アレシアは手袋を銀盆に乗せた。
「では、明日から王妃宮の公文書は止まります」
ベルトランが低く呻いた。
「アレシア様、それは」
「財務長官。退職者に鍵を持たせる方が問題です」
「鍵?」
エドガーが言った。
「手袋が鍵だというのか」
「銀糸の刺繍が、王妃宮文書庫の封印紋になっております。殿下は以前、私の手元が地味だとおっしゃいました」
「ああ、言った。いつも白ばかりで、つまらないと」
「その白で、王妃宮の扉を開け閉めしておりました」
エドガーは言葉を失った。
初めてだった。
十年で初めて、彼はアレシアの手元を見た。
その時、広間の扉が開いた。
黒い礼装の男が入ってくる。肩には辺境伯家の銀狼章。
レオンハルト・フォルスター辺境伯だった。
「遅れたようだ」
「宴には間に合っております、辺境伯閣下」
「宴か。私には葬儀に見える」
エドガーが苛立たしげに言う。
「フォルスター辺境伯。これは王太子府の内輪の話だ」
「では、ちょうどいい」
レオンハルトは一枚の羊皮紙を取り出した。
「王太子府が支払いに困るなら、フォルスター辺境伯家がその債権を買い取ろう」
「債権?」
「アレシア嬢の退任補償金および未払い報酬だ」
広間が揺れた。
エドガーは一歩踏み出す。
「なぜ君が出てくる」
「王家には、我が領の戦費貸付も残っている。債務者の返済能力には関心がある」
「王太子を債務者呼ばわりするのか」
「違うのか」
レオンハルトの声は平らだった。
「署名したのだろう」
エドガーの視線が、乾いたばかりのインクへ落ちた。
アレシアは静かに膝を折る。
「辺境伯閣下。私は、誰かに買われるつもりはございません」
「だろうな」
「では、なぜ」
「買うのは君ではない。君の働きに、正当な値をつける」
レオンハルトはそこで初めて、かすかに笑った。
「求婚は、その後だ」
白鳩の間に、今夜一番深い沈黙が降りた。
アレシアは手袋のない指で、銀の封筒を押さえた。
「順序を守る方は、嫌いではありません」
「契約書から始めるか」
「ええ」
アレシアは、王太子を見ずに答えた。
「婚約より、そちらの方が信用できますので」
お読みいただきありがとうございます!
面白かったら☆やブクマ頂けると嬉しいです!




