第五章 欠席者は誰が決めるのか
守るつもりだった、という言葉ほど、信じにくいものはない。
悪意のある人間は、自分に悪意があったことを隠すためにそう言う。善意のある人間は、自分の善意が誰かを傷つけたことを認めたくなくてそう言う。どちらの場合も、傷ついた側にとって結果は変わらない。
屋上にいる誰もが、有馬先生を見ていた。
風は強くなっていた。濃い霧が校舎の周囲を流れ、海と空の境目を曖昧にしている。水面は体育館の屋根近くまで迫っていた。校門はもう見えない。防潮堤も、グラウンドも、部室棟も、海の下に沈んでいる。
学校は完全に孤立していた。
その屋上で、有馬先生は立ち尽くしていた。若い教師の顔には、疲労と諦めが浮かんでいる。生徒たちを安心させようとしていた顔ではない。隠してきたものの重さに耐えきれなくなった人間の顔だった。
五十嵐真帆は、母の留守番電話をもう一度思い出していた。
もし学校で放送が流れたら、絶対に返事をしないで。
あなたは、その名簿に載ってはいけない子なの。
母は何を知っていたのか。なぜ真帆の名前は、二十一年前の出席簿にあった少女と同じなのか。誰が現在の二年三組の名簿に、母の字に似せて真帆の名前を書き足したのか。
そして、有馬先生は何をしたのか。
「先生」
黒瀬結衣が最初に口を開いた。
「今の言葉は、どういう意味ですか」
有馬先生はすぐには答えなかった。屋上の端へ視線を向ける。そこには、古い拡声器がある。さっきまで校内放送の声を吐き出していたものだ。今は沈黙しているが、その沈黙さえ不自然だった。息を潜めているように見える。
「私は、この学校に赴任してから、二十一年前の資料を見つけた」
先生は低い声で言った。
「最初は偶然だった。灰谷校長から旧校舎の整理を頼まれ、資料室に入った。古い避難訓練記録、会議メモ、出席簿の写し。そこに、公式記録と違う内容があった」
百瀬海斗が一歩前へ出た。
「欠席扱いのことですか」
有馬先生は頷いた。
「地震のあと、旧校舎地下に取り残された生徒がいた。資料上は、最終的にその生徒たちは当日欠席として処理されていた」
生徒たちの間にざわめきが広がった。
すでに断片は聞いていた。だが、教師の口からはっきり語られると、その重みは違った。二十一年前の事件は、噂でも怪談でもなかった。書類の中で処理された、現実の罪だった。
「うちのじいちゃんは」
海斗の声が掠れた。
「本当に邪魔したんですか」
有馬先生は首を横に振った。
「私が見た資料では、君のお祖父さんは旧校舎に入ろうとしていた。避難誘導を妨害したとは書かれていない。むしろ、取り残された生徒を助けようとしていた可能性が高い」
海斗の表情が変わった。
怒りが消えたわけではない。むしろ深くなった。だがその奥に、長い間探していたものに触れたような痛みが浮かんでいた。
「じゃあ、どうして」
「学校と町が、責任の所在を曖昧にするためだと思う」
「思う?」
海斗が噛みつくように言った。
「先生は、またそうやって逃げるんですか」
「断定できるだけの資料はなかった」
「でも、わかってたんだろ」
海斗の声が震えた。
「じいちゃんが悪者にされたって、わかってたんだろ」
有馬先生は黙った。
それは、海斗にとって肯定と同じだった。
「何で言わなかった」
「言えなかった」
「何で」
「証拠が足りなかった。校長に問いただしても、古い噂に振り回されるなと言われた。町の教育委員会にも相談したが、記録に残っている以上のことは確認できないと言われた」
「それで終わり?」
「終わらせたくなかった」
有馬先生の声が少しだけ強くなった。
「だから、旧放送装置を調べた」
辻本蓮が顔を上げた。
「旧放送装置を?」
「二十一年前、旧放送室には非常時用の録音装置があった。災害で外部との連絡が途絶えた時、校内にいる生徒の名前を読み上げ、記録として残すためのものだ。救助隊が来た時、誰がどこにいるかを伝えるための設備だった」
蓮が小さく頷いた。
「やっぱり」
真帆は有馬先生を見た。
「それが、今の放送の正体なんですか」
「一部はそうだ」
「一部?」
「機械だけなら、こんなことにはならない」
その言い方に、蓮が反応した。
昨夜、彼も同じことを言っていた。機械だけならしない、と。
有馬先生は続けた。
「二十一年前、旧放送装置には点呼の録音が残されていた。教育実習生だった五十嵐さんが、生徒たちの名前を確認しようとしていた声だ。彼女は、取り残された生徒がいたことを記録に残そうとした」
真帆は胸が苦しくなった。
「母ですか」
有馬先生は静かに頷いた。
「おそらく。君のお母さんだ」
母の若い声。
欠席にしないでください。あの子たちは、ここにいました。
旧放送室で聞いた録音が、真帆の中で甦る。あれは怪異ではない。母が二十一年前に残した証言だった。救えなかった子どもたちを、せめて記録から消させまいとした声だった。
真帆はスマートフォンを取り出した。
電池は二十一パーセント。圏外。だが留守番電話は残っている。真帆は再生ボタンを押した。
雑音の奥から、母の声が流れる。
「真帆。もし学校で放送が流れたら、絶対に返事をしないで。あなたは、その名簿に載ってはいけない子なの」
屋上にいた者たちが、息を詰めた。
有馬先生は目を伏せた。
「君のお母さんは、二十一年前のことを忘れられなかったんだと思う」
「私の名前は」
真帆は聞いた。
「二十一年前に死んだ子と同じ名前なんですか」
有馬先生は少し躊躇った。
「旧出席簿には、五十嵐真帆という生徒がいた」
「その子は」
「その後の記録には出てこない。卒業記録にもない。転校の記録も見つからなかった」
海斗が低く言った。
「欠席にされた中の一人か」
「可能性は高い」
真帆は立っているのがやっとだった。
自分の名前が、急に重くなった。
母は、死んだ少女の名前を娘につけた。忘れないためか。償うためか。救えなかった名前を、もう一度生かそうとしたのか。
どれであっても、真帆にとっては突然すぎた。
自分の名前は、自分だけのものだと思っていた。けれどその名前には、二十一年前の海水と、旧校舎地下の暗闇と、母の罪悪感が絡みついていた。
「でも」
結衣が言った。
「真帆さんのお母さんがつけた名前だとしても、現在の名簿に書き足したのは別人なんですよね」
有馬先生は答えなかった。
結衣は続ける。
「灰谷校長は、字は似せられると言いました。なら、誰かが真帆さんのお母さんの字を真似て、名簿に名前を追加した。目的は、旧放送装置に現在名簿を接続すること」
蓮が口を開いた。
「名簿を読み込ませたんだと思う」
「読み込ませた?」
「旧放送装置には、手書きの名簿をそのまま読み込むような機能はないはずです。でも、現在の名簿を録音で読み上げるか、放送台帳に接続すれば、照合対象になる。二十一年前の未完了の点呼と、現在の名簿が混ざった」
「つまり」
真帆は言った。
「誰かが今の二年三組の名簿を、旧放送装置に入れた」
蓮は頷いた。
「たぶん」
風が屋上を吹き抜けた。
真帆は有馬先生を見た。
「先生がやったんですか」
その問いは、思ったより静かに出た。
有馬先生は目を閉じた。
長い沈黙があった。
そして、先生は言った。
「最初の接続は、私がした」
屋上の空気が凍った。
誰かが息を呑んだ。誰かが小さく悲鳴を上げた。海斗が有馬先生へ詰め寄ろうとし、真帆が腕を掴んで止めた。
「最初の、というのは」
結衣が尋ねる。
「旧放送装置を起動させた。二十一年前の録音と現在の名簿を照合させれば、隠された矛盾が表に出ると思った」
「何のために」
「告発するためだ」
有馬先生は、もう逃げなかった。
「私は、二十一年前の資料を見つけた。欠席扱いにされた生徒たちがいたことも、百瀬くんのお祖父さんに責任を押しつけた可能性があることも知った。だが、内部資料だけでは誰も動かなかった。校長は口を閉ざし、教育委員会も過去の記録以上のことは調査しないと言った」
「だから放送を?」
真帆の声は震えていた。
「旧放送装置を使えば、二十一年前の音声記録を再生できる。校内放送として流れれば、教師も生徒も聞く。外部へ録音を送ることも考えていた。地震が起きる前日の夜、私は旧放送室に入り、非常回線を復旧させた」
蓮が目を見開いた。
「入れたんですか」
「合鍵があった。校長から預かっていた鍵の中に、旧放送室のものがあった」
「ドアは錆びていたのに」
「内側の補助錠を外した。完全には開かなかったが、機材には触れた」
海斗が低い声で言った。
「じゃあ、昨日の放送は先生のせいか」
「違う」
有馬先生は即座に言った。
だがその否定は、完全な否定ではなかった。
「いや、きっかけは私だ。だが、昨日の地震でシステムが暴走した。私はあんな出席確認を流すつもりはなかった。まして、誰かが消えるなんて考えてもいなかった」
「当たり前だろ!」
海斗が叫んだ。
「考えてなかったで済むかよ! 朱里が消えた。三年の先輩も消えた。名前も思い出せない。先生が始めたんだろ!」
有馬先生は海斗の怒りを正面から受けた。
「すまない」
「謝れば戻るのか」
「戻らない」
「じゃあ何でやった!」
海斗の声が屋上に響いた。
有馬先生は口を開きかけたが、すぐには言葉が出なかった。彼の視線は、海斗ではなく、屋上の床に落ちていた。
「欠席にされた子どもたちを、出席に戻したかった」
やがて、先生は言った。
「彼らがここにいたことを、誰かに認めさせたかった」
その言葉は、あまりにも痛ましかった。
悪意ではない。
だからこそ、余計に質が悪かった。
真帆はそう思った。先生の目的は、間違っていなかったのかもしれない。二十一年前の隠蔽を暴き、消された子どもたちの名前を戻そうとした。海斗の祖父の汚名を晴らそうとした。母の録音を世に出そうとした。
けれど、そのために現在の名簿を旧放送装置へ接続した。
その結果、朱里が消えた。
「じゃあ、私の名前を書き足したのは先生ですか」
真帆が聞いた。
有馬先生はゆっくりと首を振った。
「違う」
「でも、名簿を接続したのは先生なんですよね」
「私が使った名簿には、君の名前は最初からあった」
「後から書き足されていました」
「そこまでは気づかなかった。いや、気づくべきだった」
有馬先生は苦しげに言った。
「現在の名簿は、校長室の保管庫にあったものを使った。正式なものだと思っていた。君の名前が誰かによって書き足されたものだとは知らなかった」
「誰が保管庫に?」
「校長以外なら、私か教頭、事務職員。ただ、地震の前に保管庫を開けたのは私だ」
「つまり、先生が使った名簿には、すでに私の名前が入っていた」
「そうだ」
結衣が考え込む。
「なら、真帆さんの名前を書き足した人物は、有馬先生より前に名簿を操作していたことになります」
「校長先生?」
真帆は灰谷校長を見た。校長はまだ意識を失っている。
結衣は首を振った。
「校長先生は、真帆さんの名前を警戒していたように見えました。起動させてはならない、と書いていました。もし校長先生が書き足したなら、矛盾します」
「じゃあ、誰が」
海斗が言った。
蓮が低い声で答えた。
「真帆のお母さんの字を知っている人」
真帆は凍りついた。
母の字を知っている人間。
それは、母本人か、母と近しい人間。あるいは、母が二十一年前に残した資料や手紙を見た人間。
有馬先生ではない、と彼は言う。灰谷校長は警戒していた。蓮は名簿に触れられない。結衣も海斗も違う。
では、まだ見えていない誰かがいる。
「お母さんは」
結衣が慎重に言った。
「どうして真帆さんをこの島に連れてきたんでしょう」
真帆は答えられなかった。
母は看護師として島の診療所に来た。そう説明していた。診療所に欠員が出たから。しばらくの間だけだから。けれど、本当にそれだけなのか。
二十一年前、母はこの学校で救えなかった子どもたちを見た。証言を残した。島を出た。そして娘に、死んだ少女と同じ名前をつけた。
そんな母が、偶然この島へ戻るだろうか。
「母は、何かを終わらせに来たのかもしれない」
真帆は呟いた。
その言葉は、自分でも怖かった。
有馬先生は顔を上げた。
「君のお母さんは、旧放送記録を外へ出そうとしていたのかもしれない」
「外へ?」
「二十一年前の録音を、証拠として残したのは彼女だ。だが当時は握り潰された。今回、島に戻ってきたのは、何か新しい証拠を見つけるためだった可能性がある」
「でも、私には何も言いませんでした」
「言えなかったんだろう」
「どうして」
「君を巻き込みたくなかったからだ」
真帆は笑いそうになった。
巻き込みたくなかった。
その結果が、これなのか。
母は真帆に何も語らなかった。何も知らされないまま、真帆はこの学校に通い、地震に遭い、放送に名前を呼ばれた。朱里が消えた。現在の名簿には、母の字に似せて真帆の名前が書き足されていた。
知らされないことは、守られることではない。
真帆は初めて、母に対してはっきりと怒りを覚えた。
その時、蓮が有馬先生に向かって言った。
「先生が起動させたのは、いつですか」
「地震の前日の夜だ」
「その時、放送は流れましたか」
「いや。旧録音の再生までは確認したが、校内回線には流していない」
「現在名簿との接続は?」
「試験的に行った。照合エラーが出た。すぐに停止した」
「照合エラー?」
「二十一年前の出席記録と、現在名簿の中に同姓同名があると表示された。五十嵐真帆という名前だ」
真帆の胸が詰まった。
「それで?」
「危険だと思った。校長に報告しようとした。だが、翌朝、地震が起きた」
蓮は眉を寄せた。
「停止したのに、昨日の夜に再起動した」
「そうだ」
「地震で非常電源が入った。海水で回線がショートした。旧放送装置が、未完了の照合を自動再開した」
「私もそう考えている」
「でも、それだけじゃ秘密の読み上げはできない」
蓮は言った。
「黒瀬の父親の資料、百瀬の祖父、俺が旧放送室に入ったこと。そんな情報は、旧放送装置にはない」
結衣が頷く。
「つまり、誰かが追加で情報を与えている」
「もしくは、放送の内容の一部は人間が操作している」
蓮の言葉に、有馬先生の表情が険しくなった。
「私はもう触っていない」
「先生だけじゃない」
蓮は屋上の拡声器を見上げた。
「回線が開いているなら、旧放送室だけじゃなく、校長室や職員室からも割り込める可能性がある」
「でも職員室は水没してる」
海斗が言う。
「校長室は?」
真帆が言った。
全員の視線が、校舎内へ続く扉へ向く。
校長室は三階にある。まだ水没していない。そこにはラジオ、古い回線、出席簿があった。灰谷校長が倒れていた場所でもある。
「誰かが校長室にいる?」
結衣が言った。
「でも、教師は全員屋上に」
「全員とは限らない」
蓮が言った。
その言葉に、屋上の空気がまた硬くなる。
誰かが校長室に残っている。あるいは、すでに仕掛けを残している。
有馬先生が立ち上がった。
「私が確認する」
「また先生一人で?」
海斗が冷たく言った。
「今度は行かせませんよ」
「百瀬」
「俺たちも行く」
真帆は立ち上がった。
有馬先生は反対しかけたが、すぐに諦めたようだった。
「危険を感じたらすぐ戻る。それが条件だ」
真帆、海斗、結衣、蓮、有馬先生の五人は、屋上から校内へ戻った。
階段を下りると、校舎の中は昼間とは思えないほど暗かった。屋上の風音が扉の向こうで遠ざかり、代わりに水音が近づく。三階の廊下にも湿気が満ちていた。床の一部が濡れ、壁には細かなひびが走っている。
校長室へ向かう途中、真帆は二年三組の教室の前を通った。
扉は開いていた。
中は荒れている。倒れた机、散らばるプリント、割れた窓。朱里の机があった場所は、やはり空白のままだった。
真帆は足を止めた。
「どうした」
海斗が尋ねる。
「少しだけ」
真帆は教室に入った。
朱里の机があったはずの場所に立つ。床には何もない。けれど、真帆はそこに机の気配を感じた。朱里が単語帳を広げ、菓子パンを置き、真帆のノートを覗き込もうとした場所。
記憶が薄れる前に、もう一度呼ぶ。
「白石朱里」
声に出した。
教室の空気が、かすかに揺れた気がした。
海斗も入口で言った。
「白石朱里」
結衣がノートを開き、続けた。
「白石朱里さん。二年三組。真帆さんの友人」
蓮は少し迷ってから、小さく言った。
「白石朱里」
有馬先生も、教室の外から低く言った。
「白石朱里」
誰かの名前を呼ぶ。
それだけの行為が、こんなにも重いものだとは思わなかった。
その時、真帆のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
また留守番電話だった。
母から。
真帆はすぐに再生した。
雑音が強い。海鳴りのような音の奥で、母の声が途切れ途切れに聞こえる。
「真帆……聞こえているなら……旧放送室には……近づかないで……」
真帆は息を止めた。
「あなたの名前は……私がつけた。でも……名簿に載せたのは、私じゃない……」
全員が凍った。
母の声は続いた。
「あの子の名前を、私は忘れられなかった。だから、あなたに同じ名前をつけた。ごめんなさい。でも、あなたはあなたです。二十一年前のあの子の代わりじゃない」
真帆の視界が滲んだ。
「放送は、欠席者を探しているんじゃない。矛盾を消そうとしている。記録に合わない名前を、欠席にしようとしている。あなたが返事をすれば、あなたは照合対象になる」
雑音が大きくなる。
「逃げて。いいえ……違う。名前を……」
声が途切れた。
真帆はスマートフォンを握りしめた。
「お母さん」
呼んでも返事はない。
海斗が横から画面を覗いた。
「今の、録音じゃなくて、今送られてきたのか?」
「わからない」
真帆は首を振った。
圏外なのに、届く。しかも、今の状況を知っているような内容だった。
結衣が言った。
「診療所からでしょうか」
「でも圏外です」
蓮が言う。
「普通の通信じゃないかもしれない」
「どういう意味?」
「旧放送回線と同じ。島内の非常通信が、どこかでまだ生きているのかも。音声が遅れて届いている可能性もある」
有馬先生が顔を上げた。
「診療所には、災害時用の無線がある」
「母はそこから送っている?」
「かもしれない」
真帆は窓の外を見た。
診療所は学校より高台にあるはずだった。だが霧で見えない。母は無事なのか。こちらの状況をどこまで知っているのか。なぜ、もっと早く言ってくれなかったのか。
胸の中で、怒りと安堵が絡み合う。
母は嘘をついていた。
でも、真帆を消したかったわけではない。
そのことだけは、今の声でわかった。
「行こう」
真帆は言った。
校長室へ向かう。
扉は半開きだった。
中へ入った瞬間、全員が足を止めた。
机の上に置いていたはずの書類が、荒らされていた。古いラジオは床に落ち、雑音を吐いている。灰谷校長が倒れていた場所には、濡れた跡が残っている。窓は閉まっている。だがカーテンが揺れていた。
「誰かいた」
海斗が低く言った。
結衣が机の上を確認する。
「現在の名簿の写しがありません」
「持ち出されたのか」
有馬先生が部屋を見回す。
蓮は壁際の古い配電盤に近づいた。
「これ、開いてる」
配電盤の蓋が少し開いていた。中には古い配線と、非常放送と書かれたスイッチがある。その横に、新しい傷がついていた。つい最近、何かでこじ開けたような跡だった。
「誰かがここから割り込んだ」
蓮が言った。
「放送に?」
「たぶん」
海斗が辺りを見回した。
「でも誰が」
その時、真帆は机の下に落ちているものに気づいた。
小さな紙片だった。
拾い上げる。
そこには、手書きの文字があった。
五十嵐真帆。
母の字に似ている。
だが、真帆は違和感を覚えた。さっきまでは母の字だと信じていた。けれど母の留守番電話を聞いた今、改めて見ると少し違う。似せてはいる。だが、ほんの少し硬い。筆順を真似ようとして、かえって不自然になっている。
「母じゃない」
真帆は言った。
「この字、母じゃない」
「じゃあ誰が」
結衣が聞いた。
真帆は紙片を見つめた。
その裏に、薄く印刷された文字が残っている。何かの書類を切り取ったものらしい。端に、小さく「有馬」と読める文字があった。
真帆の手が止まった。
海斗がそれを見て、有馬先生を振り返った。
「先生」
有馬先生の顔色が変わった。
「違う」
先生は言った。
その声には、初めて明確な恐怖が混じっていた。
「私は書いていない」
「でも、ここに先生の名前が」
「違う。これは私の書類かもしれないが、字を書いたのは私じゃない」
「信用しろって言うんですか」
海斗が詰め寄る。
「先生はもう一度嘘をついてた。旧放送装置を起動したのも先生だった。名簿も先生が接続した。だったら、真帆の名前を書き足したのも先生じゃないんですか」
「違う!」
有馬先生の声が校長室に響いた。
その激しさに、真帆は一歩下がった。
先生は両手を握りしめていた。
「私は、五十嵐の名前が照合エラーになることを知って止めようとした。君を巻き込むつもりはなかった。白石が消えることも、誰かの記憶が書き換わることも、何も知らなかった」
「でも、きっかけを作った」
真帆は言った。
有馬先生は言葉を失った。
そこだけは否定できないのだ。
蓮が配電盤を見ながら言った。
「今も回線が開いてる」
「止められる?」
結衣が尋ねる。
「切れば止まるかもしれない。でも、旧放送室側が生きてるなら完全には無理」
「旧放送室への道は崩れた」
海斗が言う。
「じゃあ、ここを切るしかない」
蓮がスイッチに手を伸ばした瞬間、ラジオから声が流れた。
「切らないで」
全員が固まった。
それは女教師の声ではなかった。
子どもの声だった。
細く、濡れたような声。
「切ったら、また欠席になる」
真帆はラジオを見つめた。
「誰?」
返事はない。
ただ、ざざ、というノイズが続く。
蓮は手を止めた。
「どうする」
海斗が苛立った声で言う。
「切るのか、切らないのか」
有馬先生も答えられない。
真帆は、ラジオの前に膝をついた。
「あなたは、二十一年前の五十嵐真帆さん?」
ノイズが乱れた。
答えはなかった。
「欠席にされたの?」
ざざ。
水音が混じる。
そして、小さな声が聞こえた。
「名前がないと、出られない」
真帆の背筋が震えた。
「どこから?」
「学校」
「学校のどこ?」
「名簿の外」
意味はわからない。だが、胸に刺さる言葉だった。
名簿の外。
それは、どこにも所属しない場所。出席でも欠席でもなく、ただ記録から落ちた者たちの場所。
「どうすればいいの」
真帆は聞いた。
ノイズの中で、声が遠ざかる。
「全員を呼んで」
「全員?」
「欠席にされた人を、全員」
そこでラジオは切れた。
校長室に沈黙が戻る。
蓮がスイッチから手を離した。
「切れない」
彼は言った。
「今切ったら、二十一年前の記録も全部閉じる」
有馬先生は苦しげに頷いた。
「だが、このままでは現在の生徒が消える」
「止めるんじゃなくて、終わらせる必要がある」
結衣が言った。
「出席確認を」
真帆は立ち上がった。
さっきの声は、欠席にされた人を全員呼んで、と言った。
朱里の名前を呼んだ時、教室の空気が少し揺れた。あれは気のせいではなかったのかもしれない。名前を呼ぶことに、意味がある。
「二十一年前の欠席扱いされた生徒の名前を、全部確認する」
真帆は言った。
「校長の出席簿に残ってる。それを屋上で読み上げる。朱里の名前も、消えた三年生の名前も、思い出せる限り探す」
「三年の先輩の名前は、もう誰も」
結衣が言いかける。
「名簿を見ればわかるかもしれない」
「でも現在の名簿の写しは持ち出されました」
「担任の出席簿がある」
有馬先生が言った。
「屋上に各担任が持っている。消えた生徒の名前が残っているかはわからないが、確認する価値はある」
海斗が頷いた。
「なら戻るぞ」
その時だった。
校内放送のチャイムが鳴った。
キンコンカンコン。
昼でも、夜でもない。
だが、帰りの会の始まりを告げる音だった。
キンコンカンコン。
有馬先生の顔が変わった。
「屋上へ!」
五人は走り出した。
廊下を抜け、階段を上がる。放送が校舎全体に響く。
「本日の最終確認を行います」
女教師の声。
だが、そこには以前よりも多くのノイズが混じっていた。海鳴り、子どもの声、金属がきしむ音。二十一年前と現在が、同じ回線の中で重なっている。
「出席者は、名を告げてください」
真帆たちは屋上へ飛び出した。
生徒たちは混乱していた。教師たちが抑えようとしているが、悲鳴と怒号が入り混じっている。拡声器から声が続く。
「名を告げられない者は、欠席とします」
真帆は古い出席簿を握りしめた。
屋上の中央で、灰谷校長が目を開けていた。意識が戻ったのか、苦しそうに上体を起こそうとしている。
「校長先生!」
結衣が駆け寄る。
灰谷校長は真帆を見た。
「読め……」
「何を」
「本当の名簿を……」
真帆は頷いた。
有馬先生が生徒たちに向かって叫ぶ。
「全員、静かにしろ! 名前を呼ぶ。聞こえた名前を忘れるな!」
「先生、何を」
別の教師が止めようとする。
有馬先生は振り返らなかった。
「欠席にされた生徒を、出席に戻す」
その言葉は、屋上の風の中で不思議なほどはっきり響いた。
真帆は古い出席簿を開いた。
二十一年前の二年三組。
黒く塗り潰されなかった、本物の名前。
しかし、彼女が最初の名前を読み上げようとした瞬間、拡声器が真帆の名を呼んだ。
「五十嵐真帆さん」
真帆の手が止まる。
屋上中の視線が集まる。
「あなたは、どちらの五十嵐真帆ですか」
風が止まったように感じた。
現在の五十嵐真帆。
二十一年前の五十嵐真帆。
同じ名前が、出席簿の上で重なっている。
返事をすれば、照合対象になる。母はそう言った。けれど返事をしなければ、欠席にされるかもしれない。自分だけではない。二十一年前の少女も、朱里も、消えた三年生も。
海斗が真帆の隣に立った。
「真帆」
その声は、放送ではなかった。
今ここにいる人間の声だった。
「俺が覚えてる」
真帆は海斗を見た。
「だから、お前は消えない」
結衣もノートを抱えて立った。
「私も覚えています」
蓮がカセットテープを握りしめて言った。
「記録もある」
有馬先生が、古い出席簿を支えた。
「読むんだ、五十嵐」
真帆は息を吸った。
自分の名前が誰のものなのか、まだ答えは出ていない。
けれど、一つだけわかる。
欠席者を決めるのは、放送ではない。書き換えられた名簿でもない。隠蔽した大人たちでもない。
そこにいた人の名前を、誰かが呼ぶこと。
それだけが、欠席に抗う方法なのだ。
真帆は出席簿を開き、最初の名前を読み上げた。
二十一年前、欠席扱いにされた生徒の名前だった。
拡声器のノイズが、激しく揺れた。
それでも真帆は、読み続けた。
名前が一つ、また一つ、屋上の風に放たれていく。
海に沈む学校の上で、失われた出席確認が、ようやく始まろうとしていた。




