表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海に沈む学校 ――夜の校内放送が告げる。「今日の欠席者は一名」  作者: 二条理|アコンプリス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/6

第四章 名簿を書き換えた者

 名前は、誰のものなのだろう。

 生まれた時につけられ、何度も呼ばれ、書類に記され、答案用紙の端に書き、卒業アルバムに印刷される。名前は自分のものだと、誰もが当然のように思っている。

 だが本当にそうだろうか。

 五十嵐真帆は、校長室の床に膝をついたまま、自分の名前を見下ろしていた。

 現在の二年三組の名簿。その最後に、自分の名前が書き足されている。五十嵐真帆。見慣れた四文字のはずなのに、そこにある文字は真帆を拒んでいるように見えた。

 その字は、母の字だった。

 右払いの癖。真帆の「帆」のつくりを、少しだけ縦長に書くところ。何度も見た。小学校の連絡帳。弁当箱に貼られた付箋。病院から帰りが遅くなる日に、台所のテーブルに置かれていたメモ。

 間違えようがなかった。

 自分の名前をこの名簿に加えたのは、母だ。

 真帆はスマートフォンを握りしめた。さっき届いた留守番電話の声が耳の奥に残っている。

 もし学校で放送が流れたら、絶対に返事をしないで。

 あなたは、その名簿に載ってはいけない子なの。

 圏外のはずのスマートフォンに届いた声。いつ録音されたのかもわからない。今の母の声なのか、何時間も前に送られたものが遅れて届いたのか、それとももっと別のものなのか。

 わからないことばかりだった。

 校長室の中では、有馬先生が灰谷校長の様子を見ていた。校長は床に横たえられ、薄く目を閉じている。呼吸はあるが、意識は戻らない。額に脂汗が浮き、唇は紫がかっていた。

「脈はあります」

 有馬先生が言った。

「ただ、早く医療処置が必要です。診療所と連絡が取れればいいんですが」

「連絡、つながりません」

 黒瀬結衣がスマートフォンを見ながら言った。画面には、真帆のものと同じく圏外の表示が出ている。

 百瀬海斗は、窓際に立って外を睨んでいた。水位はまた上がっている。海水は本校舎の壁を叩き、グラウンドの痕跡をほとんど消していた。校門の上部だけが水面から見えている。学校はもう、島の一部ではなかった。海に取り残された建物だった。

 辻本蓮は、校長室の入口近くで黙っていた。首から提げた携帯音楽プレーヤーに、旧放送室で録音した音が残っている。彼の目は部屋の中ではなく、廊下の先を見ていた。まだ何かを聞いているような顔だった。

 有馬先生は、真帆が持っている名簿に目を落とした。

「五十嵐。それを見せてくれ」

 真帆は一瞬ためらった。

 先生の声は落ち着いていた。だが、先ほど旧放送室でカセットテープを見た時の反応を、真帆は忘れていない。先生は何かを知っている。少なくとも、知らないふりをしている。

「先生は、この字を見たことがありますか」

 真帆が尋ねると、有馬先生は答える前に名簿を見た。

 その表情がわずかに変わった。

「心当たりがあるんですね」

「……字だけでは判断できない」

「私にはわかります。母の字です」

 有馬先生は黙った。

 その沈黙が、また答えのように感じられた。

「先生は、私の母を知ってるんですか」

「直接は知らない」

「直接は?」

「赴任した時、過去の資料の中で名前を見たことがあるだけだ」

「教育実習生だったんですよね」

 有馬先生は灰谷校長を見た。意識のない校長は、何も答えない。

「二十一年前、この学校で実習をしていた女性がいた。姓は五十嵐。旧放送室の録音が彼女のものなら、君の母親である可能性は高い」

「どうして先生がそれを知ってるんですか」

 結衣が静かに尋ねた。

「赴任してすぐ、校長から旧校舎の資料整理を頼まれた。その時に、二十一年前の事故に関する書類を見た」

「事故?」

 海斗が振り返った。

「今、事故って言いましたよね。学校は何て説明してたんですか。災害時の混乱? それとも、うちのじいちゃんが邪魔したせい?」

「百瀬」

「答えてください」

 海斗の声は低かった。

 有馬先生はすぐに答えなかった。

 校長室のラジオが雑音を吐いている。ざざ、ざざ、と、放送のノイズに似た音がする。その音だけで、真帆の身体は緊張した。

「私は当時の人間じゃない」

 有馬先生は言った。

「だから、何が真実だったのかはわからない」

「でも、書類は見た」

「見た」

「何が書いてありましたか」

 海斗が詰め寄る。

 有馬先生は目を伏せた。

「公式には、全員避難済みとされていた。ただし、内部の記録には、旧校舎地下で所在確認が遅れた生徒がいたと書かれていた」

「遅れた?」

 海斗が笑った。笑い声ではなかった。

「欠席扱いにしたんですよね。死んだかもしれない子を、最初から来てなかったことにした」

「そこまでは、私は確認していない」

「確認してないだけだろ」

 海斗は机を叩いた。

 校長室のペン立てが倒れ、古いボールペンが床に転がった。結衣が肩を震わせる。

「海斗」

 真帆が呼ぶと、海斗は一度だけ深く息を吐いた。

「悪い」

 そう言ったものの、怒りは消えていなかった。消えるはずがない。二十一年前に祖父が背負わされたものが、ただの噂ではなかったかもしれないのだ。

 結衣は床に置いた古い出席簿を見下ろした。

「校長先生は、この出席簿を隠していたんでしょうか」

「おそらくな」

 有馬先生が言った。

「校長室の本棚の奥にあった。私も初めて見る」

「でも、先生は資料を見たんですよね」

 蓮が初めて口を開いた。

「それと同じじゃないんですか」

 有馬先生は蓮を見た。

「同じではない。私が見たのはコピーと報告書だ。これは原本だろう」

「原本には本当の名前が残ってた」

 蓮は淡々と言った。

「コピーでは消されてた」

 部屋の中が静かになった。

 結衣が古い出席簿のページをめくる。そこには、二十一年前の生徒たちの名前が並んでいる。何人かには出席の印がついていた。だが、職員室のコピーでは、その名前は黒く塗り潰され、最終的に欠席扱いとなっていた。

 記録は、二つあった。

 子どもたちが確かに学校にいた記録。

 そして、いなかったことにするための記録。

 真帆は現在の名簿を見た。

 同じことが、今も起きている。

 白石朱里の名前は消えた。消えた三年生の名前も、すでに誰も思い出せない。世界はまた、欠席扱いの記録を作ろうとしている。

「有馬先生」

 結衣が言った。

「この名簿を書き換えたのは、誰ですか」

 先生は目を上げた。

「私は知らない」

「現在の二年三組の名簿は、学校で管理されていたものですよね。外部の人間が勝手に触れるものではありません」

「そうだ」

「でも、五十嵐さんのお母さんの字で、五十嵐さんの名前が書き足されている」

「そう見えるだけかもしれない」

「先生」

 結衣の声は静かだったが、強かった。

「もう、そういう言い方はやめてください」

 有馬先生は言葉を失った。

 結衣は続けた。

「そう見えるだけ。確認できない。今は危険だから。そうやって先送りにしている間に、白石さんは消えました。三年生の先輩も消えました。私たちは、消えた人の名前も思い出せなくなっているんです」

 真帆は結衣を見た。

 委員長らしい正論だった。だがその声には、自分自身を責める響きもあった。父親のパソコンで二十一年前の資料を見たこと。見なかったことにしていたこと。彼女はその重さを感じている。

 有馬先生は、疲れたように目を閉じた。

「……今は、校長を屋上へ運ぶ。それが先だ」

「また逃げるんですか」

 海斗が言った。

「逃げているわけじゃない。命を守るためだ」

「名前は命じゃないんですか」

 真帆の口から、前にも言った言葉が出た。

 有馬先生が真帆を見た。

「五十嵐」

「名前が消えたら、誰も探してくれません。誰も泣いてくれません。誰も、そこにいたって言ってくれません。それでも命だけ守ればいいんですか」

 言い終えた時、真帆は自分の声が震えていることに気づいた。

 先生は答えなかった。

 その時、廊下の向こうから教師の声が聞こえた。

「有馬先生! 屋上移動を始めます!」

 有馬先生は現実へ引き戻されたように顔を上げた。

「わかった。すぐ行く」

 そして真帆たちに向き直る。

「出席簿と資料は持っていく。校長も運ぶ。詳しい話は、屋上で安全を確保してからだ」

 海斗が何か言いかけたが、真帆は首を横に振った。

 今は従うしかない。

 灰谷校長を運び出すために、廊下から二人の教師が駆けつけた。椅子の背と毛布を使って簡易担架を作る。校長は意識を失ったまま、時折うなされるように唇を動かした。

 真帆はその声を聞き取ろうとした。

「……欠席じゃ……ない……」

 かすかな声だった。

 有馬先生も聞いたらしく、動きが一瞬止まった。

「校長先生?」

 しかし灰谷校長はそれ以上何も言わなかった。

 真帆は古い出席簿と現在の名簿、旧放送室で見つけた資料を抱えた。結衣は朱里についての記録ノートを持つ。蓮はカセットテープをポケットに入れた。海斗は窓の外を一度だけ見てから、校長室を出た。

 屋上への移動は、混乱していた。

 三階の廊下には生徒たちが並び、教師が順番に階段へ誘導している。負傷者を先に、低学年を次に、二年三組はその後。余震のたびに列が止まり、誰かが悲鳴を上げる。水音はさらに近づいていた。二階の一部が沈み、階段の下から湿った空気が上がってくる。

 階段の踊り場で、真帆はふと足を止めた。

 壁に貼られた現代の避難経路図の横に、古い校内配置図があった。今まで気づかなかった。紙は黄ばんでいるが、旧校舎と本校舎の接続、放送回線の系統、屋上への経路が描かれている。

 その端に、小さく印がついていた。

 旧放送室。

 真帆はその位置を目で追った。

 旧放送室から伸びる線は、現在の放送室ではなく、校長室と職員室の下を通っている。非常用回線と書かれていた。

「蓮」

 真帆は小声で呼んだ。

 蓮が振り返る。

「旧放送室の回線って、今の放送室と別なの?」

「たぶん」

「じゃあ、誰かが今の放送室にいなくても、放送は流せる?」

「旧放送室が生きてれば」

「でも、旧放送室はさっきまで閉まってた」

「完全に閉まってたとは限らない。機械は動いてた」

 蓮は少し考えた。

「非常回線がどこかで開いてる。海水でショートして、勝手に繋がってる可能性もある」

「勝手に?」

「半分は」

「半分?」

 蓮は答えなかった。

 その沈黙が引っかかった。

 屋上に出ると、風が強かった。

 霧は少し薄くなっていたが、視界は悪い。海は校舎の四方に広がり、校庭だった場所を完全に飲み込んでいる。体育館の屋根だけが水面から突き出ていた。遠くに港のクレーンが見えるが、船の姿はない。連絡橋は中央が落ち、灰色の海に切断面を晒していた。

 生徒たちは屋上の中央に集められた。

 給水タンクの横に負傷者を寝かせ、校長もそこに運ばれた。教師たちは点呼を始めた。今度は全学年まとめてではなく、各担任が自分のクラスを確認する。夜の放送の後では、点呼という行為自体が恐怖を呼んだ。だが、やらないわけにはいかない。

 有馬先生が二年三組の前に立った。

 出席簿を開く。

 生徒たちの顔が強張る。

「返事をしろとは言わない」

 先生は言った。

「名前を呼ぶ。いる者は手を上げてくれ」

 その配慮が正しいのかどうか、誰にもわからなかった。

 先生は一人ずつ名前を呼んだ。生徒は手を上げる。声は出さない。風がページをめくろうとするたび、先生は出席簿を押さえた。

 白石朱里の名前は、やはりなかった。

 真帆は結衣のノートを見た。そこには朱里の名前がある。ノートの文字だけが、今この屋上で朱里を保っているように思えた。

 点呼が終わると、生徒たちはそれぞれ毛布にくるまった。空はまだ昼だというのに暗い。雲が低く、風は湿っている。救助のヘリ音も、船のエンジン音も聞こえない。

 やがて、有馬先生は真帆たちを屋上の隅へ呼んだ。

 そこには、結衣、海斗、蓮もいた。

「校長の出席簿を見せます」

 有馬先生は低い声で言った。

「ただし、ここで見たことを不用意に他の生徒へ広めないでください。混乱が起きる」

「もう十分混乱してます」

 海斗が言った。

「それでも、これ以上悪くする必要はない」

 先生は古い出席簿を開いた。

 二十一年前の二年三組。

 名前の横に出席、欠席、早退の印がある。問題は、最後のページに挟まれていた紙だった。現在の二年三組の名簿。その写しの裏側に、細かな手書きのメモがあった。

 真帆はそれを読んだ。

 名簿不一致。

 五十嵐真帆、登録経緯不明。

 母親、五十嵐姓。二十一年前の教育実習生と同一人物の可能性。

 旧放送記録と照合必要。

 最後に、赤いペンで短く書かれている。

 起動させてはならない。

「これは校長先生の字ですか」

 結衣が尋ねた。

「おそらく」

 有馬先生が答える。

「じゃあ、校長はわかってたんですね。真帆の名前がおかしいって」

 海斗が言った。

「わかっていて黙ってた」

 真帆は紙の文字を見つめた。

 登録経緯不明。

 自分の転校は、普通の転校ではなかったということなのか。母は手続きをしたはずだ。住民票も、転入届も、学校への書類も、すべて出したと言っていた。だが名簿には、後から母の字で書き足された名前がある。

 正式な記録ではなく、誰かの手で紛れ込まされた名前。

「先生」

 真帆は言った。

「旧放送記録って、何ですか」

「二十一年前の録音だろう」

「それを照合するって、何と?」

 有馬先生は答えに詰まった。

 蓮が言った。

「出席簿」

 全員が蓮を見た。

「旧放送は出席確認をしてた。録音の名前と出席簿の名前を照合する仕組みがあったんじゃないですか。非常時に、誰が避難しているか校内放送で記録するために」

「そんな設備が?」

 結衣が尋ねる。

「古いけど、あり得る。マイクで名前を読み上げて、テープに残す。救助が来た時、誰がいるか伝えるため」

「でも今は、逆に誰かを消している」

 真帆が言った。

 蓮は頷いた。

「記録が矛盾してるから」

「矛盾?」

「二十一年前、実際には来ていた生徒が欠席にされた。今も、名簿にいるはずの白石朱里が消された。記録の中で、出席と欠席がぶつかってる」

 海斗が苛立ったように言った。

「機械が勝手にそんなことするかよ」

「機械だけならしない」

 蓮は言った。

 その言葉に、真帆は反応した。

「機械だけなら?」

 蓮は視線を逸らした。

「何でもない」

「蓮、何か知ってるの?」

「知らない」

 その返事は早かった。

 早すぎた。

 海斗が蓮に詰め寄った。

「お前、旧放送室に何度も行ってたよな」

「入口までだって言った」

「本当に入口までか?」

「本当だ」

「じゃあ、何でそんなに詳しいんだよ。放送回線のことも、非常用の仕組みも、昨日からお前だけわかってる」

 蓮は黙った。

 結衣が慎重に言った。

「辻本くん。責めたいわけではありません。でも、知っていることがあるなら話してください」

「知ってることなんてない」

 蓮の声は低い。

「ただ、調べただけ」

「何を」

「この学校のこと」

「どうして?」

 蓮はしばらく黙っていた。

 風が吹き、出席簿のページがめくれた。そこに白く貼られた修正紙が見えた。二十一年前の欠席処理の跡だった。

 蓮はようやく口を開いた。

「自分の名前が、学校から消えていく気がしたから」

 誰も声を出さなかった。

「不登校になると、最初は先生が電話してくる。友達も来る。でもそのうち、誰も来なくなる。プリントも机に置かれなくなる。行事の班分けにも、最初から入ってない。教室に行っても、席がどこだったかわからない顔をされる」

 蓮は屋上の床を見ていた。

「だから、欠席って言葉が嫌いだった。欠席が続くと、そのうち欠席じゃなくなる。最初からいないのと同じになる」

 真帆は蓮を見た。

 彼が旧校舎に入っていた理由が、少しだけわかった。静かな場所を探しただけではない。自分と同じように、学校から消されかけた名前を探していたのだ。

「旧校舎の資料室で、二十一年前の出席簿のコピーを見つけた。欠席扱いにされた生徒がいた。だから気になった。それだけ」

「カセットテープは?」

 海斗が聞いた。

 蓮は口を閉じた。

「持ってたよな。昨日、旧放送室に行く前から」

 海斗の声が鋭くなる。

「お前の鞄に、古いカセット入ってたの見た」

 蓮の顔がわずかに変わった。

 真帆も思い出した。蓮が旧放送室へ行く前、確かに鞄の中を気にしていた。いつも持っている携帯音楽プレーヤーだけではなく、何か別のものを抱えているように見えた。

「蓮」

 真帆が声をかける。

「持ってるの?」

 蓮はしばらく黙っていたが、やがて鞄から透明なケースを取り出した。

 古いカセットテープだった。

 ラベルには、文字が書かれている。

 二年三組 出席確認。

 結衣が息を呑んだ。

「それ、どこで」

「資料室」

「いつ?」

 蓮は答えなかった。

 海斗が一歩前に出る。

「昨日の放送、お前が流したのか」

「違う」

「じゃあ何で持ってた」

「聞こうとしただけ」

「いつ」

「地震の前」

 真帆は蓮を見つめた。

「地震の前?」

 蓮は頷いた。

「昨日の朝、旧校舎に行った。学校に来たけど教室に入る気になれなくて。資料室でそれを見つけた。再生できる機械を探して、旧放送室の前まで行った。でもドアが開かなかった。そこで地震が起きた」

「じゃあ、放送は」

「俺じゃない」

 蓮は強く言った。

「本当に違う。俺は再生してない。できなかった」

 海斗はまだ疑っている顔だった。

「でも、お前が触ったせいで何か起きた可能性はある」

「それは……わからない」

「わからないで済むかよ。朱里も、三年の先輩も消えてるんだぞ」

 蓮の目が一瞬だけ揺れた。

「俺だって消えたかったわけじゃない」

 その声は小さかったが、鋭かった。

 海斗が黙った。

 有馬先生がカセットテープを受け取った。

「これは私が預かる」

「駄目です」

 蓮が即座に言った。

「また隠すんですか」

「隠すわけじゃない。危険だからだ」

「危険なのは、隠すことです」

 蓮の声には、いつになく感情があった。

「二十一年前もそうだったんじゃないですか。危険だから、混乱するから、保護者が騒ぐから。そうやって名前を消した」

 有馬先生はカセットを持ったまま動かなかった。

 その時だった。

 屋上のスピーカーが鳴った。

 誰もが同時に振り返った。

 屋上にも古い拡声器が設置されている。普段は避難訓練や体育祭で使うものだ。停電しているはずなのに、その拡声器からノイズが漏れていた。

 ざざ。

 ざざ。

 昼でも夜でも関係ない。

 放送はもう、時間を選ばなくなっていた。

「臨時の報告を行います」

 女教師の声だった。

 生徒たちが悲鳴を上げる。教師たちが静かにするよう叫ぶ。しかし、その声は風に散った。

「二年三組。記録に不一致があります」

 真帆は、胸が締めつけられるのを感じた。

「黒瀬結衣さん」

 結衣が固まった。

「あなたは、父親の資料を見ました」

 結衣の顔から血の気が引いた。

 屋上の生徒たちが一斉に彼女を見る。

「二十一年前の欠席処理を知っていました。けれど、誰にも言いませんでした」

「違う」

 結衣が小さく言った。

 その声は、風に消えた。

「百瀬海斗くん」

 海斗の拳が握られる。

「あなたは、祖父の名誉を取り戻すために学校を憎んでいます」

 海斗はスピーカーを睨んだ。

「辻本蓮くん」

 蓮の手から、カセットケースが滑り落ちそうになった。

「あなたは、誰かに気づいてほしくて放送室に入りました」

「違う」

 蓮が言った。

 だが、その否定は強くなかった。

「五十嵐真帆さん」

 真帆は動けなかった。

 屋上の空気が静まり返る。霧を含んだ風が、髪を頬に貼りつける。

「あなたは――」

 そこで、放送が途切れた。

 ぶつ、と音がして、拡声器は沈黙した。

 切れたことに安堵する者はいなかった。むしろ、続きが語られなかったことの方が恐ろしかった。真帆自身もそうだった。自分について何を言おうとしたのか。名簿に載ってはいけない子。二十一年前の同姓同名。母の字。どれを告げるつもりだったのか。

 周囲の視線が、痛いほど突き刺さった。

「どういうこと」

 誰かが言った。

「黒瀬さん、知ってたの?」

「百瀬って、学校を恨んでたのかよ」

「辻本が放送室に?」

「やっぱりあいつが流したんじゃ」

 疑いは、火のように広がった。

 屋上という逃げ場のない場所で、人々の視線だけが四方から迫ってくる。さっきまで同じ災害に閉じ込められた仲間だったはずの者たちが、突然互いを疑い始めていた。

 有馬先生が声を張った。

「全員、落ち着け。今の放送は事実とは限らない。誰かを疑うな」

「でも先生、今の、本当なんですか」

 女子生徒が泣きそうな声で言った。

「黒瀬さんのお父さんって町議でしょ。何か知ってたの?」

 結衣は唇を噛んでいた。

「資料を見たのは本当です。でも、私は全部を知っていたわけではありません」

「じゃあ何で黙ってたの」

 別の生徒が言う。

 結衣は答えられない。

 海斗に対しても、視線が集まっていた。

「学校を憎んでたって、何だよ」

「百瀬が何かしたの?」

「昨日も放送で名前呼ばれてたし」

 海斗は何も言わなかった。言えば言うほど、疑いが広がるとわかっているようだった。

 蓮はもっと露骨に疑われた。

「辻本、カセット持ってたんだろ」

「放送室入ってたって」

「じゃあ、白石さんが消えたのも」

「白石って誰だよ」

 最後の言葉に、真帆は身体が冷たくなった。

 朱里の名前は、また薄れている。

 結衣のノートを開く。白石朱里、と書かれた文字は残っている。だが、その横に書いた特徴のいくつかが、なぜか読みにくくなっていた。インクが滲んだわけではない。文字はある。けれど意味が頭に入ってこない。

 怖い。

 真帆は初めて、はっきりそう思った。

 海に沈むことよりも、放送よりも、誰かに疑われることよりも、名前が意味を失っていくことが怖かった。

「先生」

 真帆は有馬先生に言った。

「今の放送は、誰かが操作してます」

「そうとは限らない」

「限ります」

 真帆は自分でも驚くほど強く言った。

「秘密を読み上げたんです。結衣さんが父親の資料を見たこと、海斗の祖父のこと、蓮が旧放送室に入ったこと。これは、資料と人間関係を知っている誰かじゃないとできません」

 蓮が顔を上げた。

「機械の誤作動じゃない」

 真帆は頷いた。

「少なくとも、今の放送は誰かが意図している」

 有馬先生の表情が変わった。

 真帆はその変化を見逃さなかった。

「先生。校長先生が意識を失う前、何をしていたんですか」

「出席簿を持っていた」

「それだけですか」

「……校長室の無線を使おうとしていた」

「本当に?」

 有馬先生は眉を寄せた。

「何が言いたい」

「校長先生は、放送を止めようとしていたんじゃないですか。それとも、流そうとしていた?」

 海斗が低く言った。

「校長が犯人ってことか」

「わからない。でも、校長先生は二十一年前のことを知っていて、本物の出席簿を隠していた。現在の名簿も持っていた。今の放送で私たちの秘密が読まれた。資料は校長室にあった」

 結衣が言った。

「校長室から放送できるんですか」

 蓮が答えた。

「旧回線が校長室の下を通ってた。配線が残ってるなら、できるかもしれない」

 有馬先生の顔が険しくなった。

「憶測で校長を疑うな」

「じゃあ、先生は誰だと思ってるんですか」

 真帆が尋ねた。

 有馬先生は答えなかった。

 その時、給水タンクの横で寝かされていた灰谷校長が、かすかに呻いた。

 全員が振り向いた。

 校長の目が、わずかに開いていた。

「校長先生」

 有馬先生が駆け寄る。

 灰谷校長は唇を動かした。声は小さく、風に消えそうだった。真帆たちも近づく。

「……違う」

「何が違うんですか」

 有馬先生が尋ねる。

「私は……流していない」

 真帆の心臓が鳴った。

「放送を?」

 校長はかすかに頷いた。

「止めようと……した」

「誰が流しているんですか」

 海斗が身を乗り出す。

 灰谷校長の目が、海斗を見た。

「百瀬……」

「俺のじいちゃんを知ってるんですか」

 校長の顔が歪んだ。

「すまなかった」

 海斗は息を呑んだ。

「何を謝ってるんですか」

「彼は……助けようとした。私たちが……」

 校長の呼吸が乱れた。

 有馬先生が止めようとする。

「校長、無理に話さないでください」

「言わなければ……また……」

 灰谷校長は震える手を上げた。

「出席簿を……」

 結衣が古い出席簿を差し出す。校長はそれを見ると、わずかに首を振った。

「最後……」

「最後?」

 真帆がページをめくる。

 最後のページ。現在の二年三組の名簿。母の字で書かれた真帆の名前。

 その裏に、もう一枚薄い紙が貼りついていた。湿気でくっついていたのだ。真帆は慎重に剥がした。

 そこには、短い文章が書かれていた。

 旧放送装置は、未完了の点呼を繰り返す。

 欠席処理された名と、出席記録の矛盾を検出する。

 現在名簿を接続してはならない。

 接続者――

 そこで文字は途切れていた。紙の端が破れている。

「接続者?」

 結衣が言った。

 蓮が青ざめた。

「現在名簿を接続……」

「どういう意味」

 真帆が尋ねる。

 蓮は口を開きかけた。

 その瞬間、有馬先生が鋭く言った。

「辻本。お前、何かしたのか」

 蓮は固まった。

 海斗が蓮を掴みかけた。

「お前か」

「違う!」

 蓮が初めて大声を出した。

「俺じゃない。俺は接続なんてしてない。テープを見つけただけだ」

「じゃあ誰がした」

 海斗が詰め寄る。

 蓮は答えられなかった。

 灰谷校長が、弱々しく首を動かした。

「違う……その子じゃ……ない」

 全員が校長を見る。

「では誰ですか」

 有馬先生が聞いた。

 校長は息を吸おうとした。だが、うまく吸えない。喉の奥で音が鳴る。

「名簿を……持ち出した……」

「誰が」

 真帆が尋ねる。

 校長の目が、真帆へ向いた。

「君の……母親ではない」

 真帆は言葉を失った。

「字は……似せられる」

 その言葉が落ちた瞬間、真帆の中で何かが軋んだ。

 母の字だと思っていた。間違いないと思った。だが校長は、似せられると言った。では、あの名簿に真帆の名前を書き足したのは、母ではないのか。

 誰かが、母の字を真似た。

 なぜ。

 真帆を名簿に載せるために。

 載ってはいけない子を、あえて載せるために。

「誰が書いたんですか」

 真帆は校長に詰め寄った。

 校長の唇が動いた。

 だが、声になる前に、屋上のスピーカーが再び鳴った。

 ざざ。

 ざざ。

「記録を訂正します」

 女教師の声だった。

 校長の顔が恐怖に歪んだ。

「やめろ……」

 彼はかすれた声で言った。

「もう、やめてくれ」

 放送は続く。

「名簿を書き換えた者は、まだ出席しています」

 屋上全体が静まり返った。

「名簿を書き換えた者は、次の確認で返事をしてください」

 風が止まったように感じた。

 真帆は周囲を見回した。

 有馬先生。灰谷校長。蓮。結衣。海斗。教師たち。生徒たち。

 この中にいる。

 真帆の名前を名簿に書き足した者。

 白石朱里を消すきっかけを作ったかもしれない者。

 二十一年前の欠席処理を、現在へつなげた者。

 放送は、最後にこう告げた。

「返事がない場合、代理の欠席者を一名、選出します」

 悲鳴が上がった。

 誰かが泣き出し、誰かが「誰だよ」と叫んだ。屋上の空気が一気に崩れた。疑いはもう抑えられない。全員が全員を見ている。生徒だけではない。教師も、校長も、有馬先生も疑われている。

 海斗が真帆の腕を掴んだ。

「こっちにいろ」

「でも」

「今、離れるな」

 その手は強かった。

 結衣はノートを抱えたまま、周囲の視線を受けて立ち尽くしている。蓮はカセットを握りしめ、スピーカーを見上げていた。有馬先生は放送設備を止める方法を探すように、屋上の配電盤へ向かおうとしている。

 その背中を見て、真帆はふと思った。

 有馬先生は、旧校舎の資料を見た。

 有馬先生は、校長から旧校舎に近づくなと言われた。

 有馬先生は、過去の隠蔽を知っていた可能性がある。

 そして今、誰よりも放送を止めようとしている。

 止めたいのは、生徒を守るためか。

 それとも、何かを言わせないためか。

 その疑念が生まれた瞬間、真帆は自分が嫌になった。

 誰かを疑うことは、こんなにも簡単なのか。

 放送が仕掛けたのは、死の恐怖だけではない。疑いだった。名前を奪う前に、互いの信頼を奪う。そうすれば、人は誰かの名前を守れなくなる。

 白石朱里の名前が、また遠くなる。

 真帆は結衣のノートを開いた。

 白石朱里。

 その文字を指でなぞる。

 忘れない。

 忘れてはいけない。

 その時、灰谷校長が再び呻いた。

 真帆は顔を上げた。

 校長が、有馬先生の背中を見ていた。

「有馬……先生」

 有馬先生が振り返る。

 校長は震える手を伸ばした。

「あなたは……何を……した」

 屋上の空気が凍った。

 有馬先生の顔から、表情が消えた。

 海斗が低く言った。

「先生?」

 有馬先生は一歩も動かなかった。

 校長は、それ以上言えなかった。力尽きたように目を閉じ、再び意識を失った。

 だが、十分だった。

 疑いの矛先は、今度は有馬先生へ向いた。

 生徒たちの視線。教師たちの視線。真帆たちの視線。

 有馬先生は、しばらく黙っていた。

 やがて、小さく息を吐いた。

「……私は」

 言葉は、そこで止まった。

 屋上のスピーカーが、最後に一度だけノイズを吐いた。

 ざざ。

 それは、笑い声のようにも聞こえた。

 有馬先生は空を見上げ、それから真帆たちを見た。

「私は、生徒を守るつもりだった」

 その言葉は、告白の始まりに聞こえた。

 けれど同時に、もっと深い穴の入口にも聞こえた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ