第三章 二十一年前の出席簿
夜が明けても、学校は学校に戻らなかった。
校舎というものは、どれほど古くても、朝になればそれなりに日常の顔を取り戻す。廊下に差す光。黒板の粉っぽい匂い。誰かが机を引く音。職員室から漏れる教師の声。そうした小さなものが積み重なって、そこがまだ人間の場所であることを教えてくれる。
だが、その朝の校舎には、そういう気配がなかった。
海の匂いが勝っていた。
階段の下から吹き上げてくる空気は湿っていて、塩を含んでいた。三階の廊下にいても、水が壁を舐める音が聞こえる。時折、何かがぶつかる鈍い音がした。机か、椅子か、剥がれた掲示板か。下の階で、学校だったものが少しずつ浮き上がり、ぶつかり、沈んでいる。
五十嵐真帆は、壁に刻まれた文字をもう一度見に行った。
わたしを忘れないで。
欠席にしないで。
その文字は、階段の踊り場の腰壁にあった。水位は夜のうちに少し上がり、もう文字の下端に届きそうになっている。水面が揺れるたび、刻まれた線が歪んで見えた。まるで、文字そのものが水の下へ逃げようとしているようだった。
真帆はしゃがみ込み、指先でその傷に触れた。
古い。木の表面は黒くなり、溝の中には汚れが詰まっている。昨日今日、誰かがふざけて彫ったものではない。二十一年前の日付が、かすれてはいるが確かに読めた。
白石朱里の名前を思い出そうとすると、まだ顔が浮かぶ。
二つ結び。菓子パン。英語の単語帳。夢の話。袖を握る指。
だが、消えた三年生の顔はもうぼやけていた。海斗と話していた背の高い男子。階段へ走った。放送を止めようとした。そこまでは覚えている。けれど名前が出てこない。声も思い出せない。制服の着こなしすら曖昧になっていた。
記憶は、穴の空いた桶に似ている。
どれだけ掬い上げても、気づかないうちにこぼれていく。
「まだ見てたのか」
背後から声がした。
百瀬海斗だった。目の下に薄い隈がある。眠れなかったのだろう。真帆も同じだった。
「水、増えてるね」
「夜中よりは少し落ち着いた。でも引いてない。満潮が過ぎてもこれなら、やっぱり地盤がやられてる」
海斗は階段下の水を睨んだ。そこには校舎の下半分が沈んでいる。とても中学校の階段には見えなかった。地下へ続く水路の入口のようだった。
「旧校舎には行ける?」
真帆が尋ねると、海斗は顔をしかめた。
「普通の通路は無理だな。一階が沈んでる。二階の渡り廊下も途中で歪んでたし、下手したら落ちる」
「でも、行かないと」
「旧放送室か」
真帆は頷いた。
昨夜、辻本蓮が口にした言葉が耳に残っている。
旧校舎に、使われていない放送室がある。
あの女の声がそこから流れたのかどうかはわからない。だが、壁に刻まれた文字と、二十一年前の日付と、図書室で見つけた災害記録。そのすべてが旧校舎の方角を指しているように思えた。
「先生は止めるだろうな」
「うん」
「止めても行く気か」
真帆はすぐには答えなかった。
水面に、朝の灰色の光が揺れている。水は濁っていて、下に何があるか見えない。階段の端に、何か白いものが浮かんでいた。よく見ると、プリントだった。インクが滲み、文字は読めない。
「朱里が消えたのに、みんな忘れてる」
真帆は言った。
「三年生の人も、名前すら思い出せなくなってる。このままだと、誰が消えたのかも、何が起きたのかも、全部わからなくなる」
「わかってる」
「だったら」
「だからって、死にに行くのとは違う」
海斗の声が、少し強くなった。
真帆は彼を見た。
「海斗は怖くないの?」
「怖いに決まってるだろ」
海斗は即答した。
「海は怖いよ。島の人間はみんな知ってる。毎日見てるから、余計にわかる。静かな時ほど危ないことがある。今の海は、そういう海だ」
それは意外な言葉だった。
海斗はいつも海に慣れているように見えた。漁師の家の子で、潮の変化にも、波の音にも詳しい。だから真帆はどこかで、彼は海を恐れていないのだと思っていた。
「でも、行くんでしょ」
真帆が言うと、海斗は小さく息を吐いた。
「行くしかないならな」
その時、上の廊下から声が聞こえた。
「二人とも、ここにいたんですね」
黒瀬結衣だった。手にはノートを持っている。白石朱里について書き留めたノートだ。表紙の角が少し濡れている。
その後ろには、辻本蓮もいた。いつもの携帯音楽プレーヤーを首から提げている。昨夜の放送を録音したものだろう。蓮は眠っていないように見えた。顔色は悪いが、目だけが妙に冴えている。
「先生が探してます」
結衣が言った。
「今後の避難場所を決めるそうです。屋上に移る準備をするかもしれません」
「屋上?」
海斗が聞き返す。
「三階も安全とは言えなくなってきたから。水位がこのまま上がるなら、上へ行くしかありません」
「でも、屋上は風が強い。雨が来たら厳しいぞ」
「それでも沈むよりはいい、という判断です」
結衣の声は落ち着いていた。だが、その落ち着きは努力で作られたものだった。ノートを握る指が白くなっている。
「その前に、旧校舎へ行きたい」
真帆は言った。
結衣は驚かなかった。むしろ、そう言われることを予想していたようだった。
「資料室ですね」
「資料室?」
海斗が結衣を見る。
「図書室の災害記録だけでは足りません。二十一年前のことを調べるなら、旧校舎の資料室に行くしかないと思います。校長室や職員室の古い記録は、すでに誰かが整理している可能性があります。でも、旧校舎の資料室なら、見落とされたものがあるかもしれない」
蓮が口を開いた。
「ある」
「何が?」
「資料室。旧校舎の二階。鍵は壊れてる」
有馬先生が聞いたら顔色を変えそうな言い方だった。
「入ったことあるの?」
真帆が尋ねると、蓮は曖昧に頷いた。
「何度か」
「旧放送室も?」
「入口までは」
「中には入ってない?」
「入れなかった。ドアが錆びてて、開かなかった」
海斗が眉をひそめた。
「じゃあ、どうやって行く」
「二階の渡り廊下から行ける。途中で床が歪んでるけど、端を通ればたぶん大丈夫」
「たぶん、で行く場所じゃない」
「他に道はない」
蓮は淡々と言った。
真帆は結衣を見た。結衣はノートを胸に抱き、少し考えてから頷いた。
「先生に言えば止められます」
「じゃあ黙って行くのか」
海斗が言った。
「危なくなったら戻る。それでいいですか」
結衣の提案は、提案というより決定に近かった。
海斗は一度、階段下の水を見た。それから、諦めたように頭をかいた。
「五分だけだ。渡り廊下が危なかったら即戻る。水が上がってたら行かない。いいな」
「うん」
真帆は頷いた。
四人は有馬先生に見つからないように、廊下の反対側へ向かった。
教室にはまだ生徒たちが固まっていた。疲れきった顔で座り込む者。乾パンを噛む者。窓の外を見ないようにしている者。教師たちは屋上への移動準備で慌ただしく動いている。今なら、四人が抜け出してもすぐには気づかれない。
旧校舎へ続く渡り廊下は、二階の東端にあった。
二階へ下りる階段は半分ほど水に浸かっていた。手すりを伝いながら、まだ濡れていない段まで下りる。そこから渡り廊下の入口へ移るには、水際ぎりぎりを歩く必要があった。水面には小さな波が立ち、階段に当たっては戻っていく。
足元が滑る。
真帆は壁に手をついた。冷たく湿っている。海斗が先頭に立ち、床の状態を確かめながら進んだ。続いて蓮、結衣、最後に真帆。
渡り廊下の窓は何枚か割れていた。霧が入り込んでいる。外は白い。下を見ると、グラウンドは完全に水没していた。朝礼台の上部だけが、島のように浮かんでいる。
「下見るな」
海斗が言った。
「落ちたら終わりだ」
渡り廊下の中央部分は大きく歪んでいた。床が斜めになり、壁に亀裂が入っている。金属の接合部がきしむ音がした。誰かが一歩踏み出すたび、廊下全体がかすかに揺れる。
真帆は息を止めた。
一歩。
また一歩。
靴底が濡れた床に貼りつく。左側の窓から、海の匂いが吹き込む。霧の向こうで、何かが水面を叩いた。魚ではない。何か大きなものが浮き沈みしているような音だった。
「急げ」
海斗の声も小さい。
ようやく旧校舎側に辿り着いた時、真帆は自分の手のひらが汗で濡れていることに気づいた。
旧校舎は、本校舎よりもさらに暗かった。
木造ではないが、内装の多くが古い木材で作られている。廊下の床はところどころ剥がれ、壁には古い掲示物の跡が残っていた。窓から入る光は霧に遮られ、空気は湿って重い。
「こっち」
蓮が先に歩き出した。
「本当に詳しいな」
海斗が言う。
「何度か来たって言った」
「何しに」
「静かだから」
蓮はそれ以上答えなかった。
真帆は歩きながら、壁に貼られた古い写真を見た。体育祭、文化祭、卒業式。色褪せた写真の中で、知らない生徒たちが笑っている。今の自分たちと同じくらいの年齢なのに、妙に遠い時代の人間に見えた。
資料室は、旧校舎二階の一番奥にあった。
蓮の言った通り、鍵は壊れていた。ドアノブは錆び、扉の下には埃が溜まっている。海斗が肩で押すと、扉は鈍い音を立てて開いた。
中は、時間が止まった部屋だった。
スチール棚が壁際に並び、段ボール箱が積まれている。古いファイル、卒業アルバム、学級通信、避難訓練記録、使われなくなった教材。床には埃が厚く積もり、窓際には雨漏りの跡があった。空気は黴臭く、湿った紙の匂いがした。
「五分じゃ無理だな」
海斗が呟いた。
「手分けしましょう」
結衣がすぐに言った。
「二十一年前の資料を探します。災害、避難、放送、出席簿。関係ありそうなものは全部」
「二十一年前って、何年?」
海斗が聞く。
真帆は壁に刻まれた日付を思い出し、年を答えた。
四人は棚を調べ始めた。
真帆は卒業アルバムの段ボールを開けた。古いアルバムが年度ごとに並んでいる。指で背表紙をなぞり、該当する年度を探す。埃で指先が黒くなった。ようやく目的の年に近いアルバムを見つける。
表紙を開くと、知らない校歌の歌詞が印刷されていた。今の校歌とは少し違う。ページをめくる。校舎全景。職員紹介。学年別集合写真。
二年三組。
真帆の指が止まった。
写真の中に、今の自分とよく似た少女がいた。
髪型は違う。制服も古い。けれど、目元と口元が似ていた。鏡を見るほどではないが、親戚だと言われれば信じるだろう。その少女は、列の端で控えめに立ち、カメラをまっすぐ見ていた。
写真の下の名前を読む。
五十嵐真帆。
真帆は息を吸えなくなった。
「何かあった?」
結衣が近づいてくる。
真帆は黙ってアルバムを見せた。
結衣の顔から血の気が引いた。
「同じ名前……」
「私じゃない」
真帆は言った。
当たり前のことだった。二十一年前の写真なのだから、写っているのは自分ではない。けれど、そう言わずにはいられなかった。
海斗も覗き込んだ。
「似てるな」
その率直な言葉が、真帆の背中を冷やした。
「この人、どうなったんだろう」
結衣がページをめくった。卒業アルバムであれば、卒業年度のものだ。だが、この少女が三年生になったページは見つからなかった。別の年度のアルバムも探す。翌年の三年三組には、五十嵐真帆という名前はない。
「転校したのかもしれない」
結衣が言った。
その声は、そうであってほしいという願いに近かった。
蓮が棚の奥から古いファイルを引き抜いた。
「これ」
ファイルの背には、避難訓練記録と書かれていた。その中に、災害時対応資料という薄い冊子が挟まっている。さらに、手書きの出席簿のコピーが数枚あった。
日付は、壁に刻まれていたものと同じ年。
二年三組。
そこには、生徒の名前が並んでいた。
五十嵐真帆の名前もある。
だが、その周囲に不自然な修正跡があった。数名の名前が黒く塗り潰され、その横に赤いペンで別の印がつけられている。出席、欠席、早退、確認不能。教師があとから書き加えたような文字が混ざっていた。
「確認不能って何だよ」
海斗が言った。
「出席簿に書く言葉じゃない」
結衣が指で別の欄を示した。
「ここ。最終的には欠席扱いにされています」
「確認不能なのに?」
「たぶん、そう処理したんです」
真帆はファイルの下に挟まっていた紙を見つけた。
それは、避難経路図だった。旧校舎、体育館、グラウンド、港へ続く道。赤い線で避難経路が描かれている。だが、旧校舎の地下部分に丸印がついていた。
地下資料庫。
そこに、手書きで短いメモがある。
未確認生徒あり。
「地下?」
真帆が呟くと、蓮が頷いた。
「旧校舎には地下がある。今は封鎖されてるけど」
「学校に地下なんてあったのか」
海斗が驚いた顔をした。
「昔の資料保管庫と機械室。今は立入禁止」
蓮はそこまで言って、少し口ごもった。
「旧放送室も、その近くにつながってる」
真帆は再び出席簿を見た。
黒く塗り潰された名前。欠席の印。確認不能。未確認生徒あり。
二十一年前、何かが起きた。
それは単なる地震ではなかった。災害の混乱の中で、誰かが確かに学校にいた。けれど記録上は、欠席にされた。
わたしを忘れないで。
欠席にしないで。
壁に刻まれた文字が、ここでようやく意味を持ち始めた。
その時、結衣が別の封筒を見つけた。
「新聞の切り抜きです」
封筒の中には、地元紙の記事が数枚入っていた。日付は二十一年前。見出しには、島中学校で避難誘導に混乱、という文字がある。記事の紙面は黄ばんでいたが、文字は読めた。
地震発生後、生徒は校舎上階へ避難。津波警報の発令に伴い、教師らが点呼を実施。一部生徒の所在確認に時間を要したが、最終的に全員の無事を確認――。
「全員の無事を確認?」
海斗が低い声で読んだ。
「でも、さっきの出席簿では確認不能の生徒がいた」
結衣が言った。
「記事と内部資料が食い違っています」
真帆はさらに記事をめくった。
別の記事には、小さくこう書かれていた。
避難時、近隣漁師が校内に入り混乱を招いたとの証言もあり、町教育委員会が調査へ。
海斗の手が止まった。
「近隣漁師……」
「海斗?」
真帆が声をかけると、海斗は記事を奪うように見た。
唇が白くなっている。
「これ、うちのじいちゃんだ」
「お祖父さん?」
「昔、学校の事故で責められたって聞いた。詳しいことは誰も話さなかった。子どもを助けようとして学校に入ったのに、邪魔したことにされたって」
海斗は記事を握りしめた。
「それがこれかよ」
真帆は何も言えなかった。
海斗の祖父は、二十一年前の事故に関わっている。記事では、避難を混乱させた漁師として扱われている。だが海斗の話では、子どもを助けようとしていた。
どちらが本当なのか。
いや、新聞記事が正しいとは限らない。学校の出席簿が書き換えられているなら、外へ出された情報も書き換えられていておかしくない。
結衣が封筒の底から、さらに一枚の紙を取り出した。
「これ、議事録です」
町教育委員会と学校関係者の会議記録らしい。だが、正式な書類ではない。誰かがメモとして残したもののコピーだった。
そこには、いくつかの言葉が断片的に書かれていた。
旧校舎地下への浸水。
放送設備の故障。
点呼記録の再作成。
保護者説明は最小限。
欠席扱いで統一。
結衣の顔が強張った。
「欠席扱いで統一……」
海斗が机を叩いた。
「ふざけんな」
埃が舞った。
「いたんだろ。学校にいたんだろ。それを欠席にしたのか」
その声には、怒りだけでなく、長い間押し込められていた何かが混じっていた。祖父のことを、海斗はずっと曖昧な噂として聞いてきたのだろう。島の大人たちが口を閉ざす話。家族が黙り込む話。子どもにはわからないと言われ、知ろうとすると遮られる話。
その答えが今、埃をかぶった紙の中から出てきた。
「これを見せれば」
真帆が言いかけると、結衣が首を振った。
「まだ足りません。これはメモです。誰が書いたものかわからない。公式記録と食い違っていることは示せますが、証拠としては弱い」
「こんな時に証拠の強さなんか」
「必要です」
結衣の声は硬かった。
「こういうものは、曖昧だとまた揉み消されます。昔もたぶん、そうだったんです」
その言葉には、どこか個人的な響きがあった。
真帆は結衣を見た。
「黒瀬さん、何か知ってるの?」
結衣は一瞬だけ黙った。
「父のパソコンで、似た資料を見たことがあります」
「お父さんの?」
「町議会の資料です。二十一年前の事故に関する古いファイルが残っていました。私は偶然見ただけです。でも、そこにも同じような言葉がありました。点呼記録の修正、保護者対応、風評管理」
「風評管理?」
海斗が冷たく笑った。
「子どもが消えて、風評かよ」
結衣は唇を噛んだ。
「父が直接関わったわけではありません。当時はまだ若かったし、町議でもなかった。でも、町として隠してきたことは知っていたのかもしれません」
「知ってて黙ってたんだろ」
海斗の声が鋭くなった。
「島の大人はみんなそうだ。都合の悪いことは海に沈める。じいちゃんのことも、そうやって」
「海斗」
真帆が止めようとしたが、海斗は止まらなかった。
「お前の親父も同じだろ。資料見たなら、何で今まで黙ってた」
結衣の顔が白くなった。
「私は、確信がなかった」
「便利な言葉だな」
「やめて」
真帆が間に入った。
「今、責め合っても朱里は戻らない」
海斗は真帆を見た。何か言い返そうとして、結局目を逸らした。
資料室の空気が重くなった。
蓮だけが別の棚を調べ続けていた。彼はこういう感情のぶつかり合いから意図的に距離を置いているようだった。しばらくして、蓮が低く声を上げた。
「あった」
四人は振り向いた。
蓮が持っていたのは、小さな段ボール箱だった。側面に、放送関係、とマジックで書かれている。中には古いカセットテープが何本も入っていた。ラベルは色褪せている。避難訓練、校内放送、卒業式。いくつかは文字が滲んで読めなかった。
その中に一本だけ、手書きで日付が書かれたテープがあった。
二十一年前の、地震の日。
「再生できるの?」
真帆が尋ねる。
蓮は自分の携帯音楽プレーヤーを見せた。
「これは無理。カセットじゃない。けど、旧放送室に再生機が残ってるかもしれない」
「旧放送室まで行くのかよ」
海斗が言った。
「すぐ近く」
「近くでも危ない」
「でも、この中に声が残ってる」
蓮はテープを見つめていた。
「昨日の声と同じかもしれない」
真帆はそのテープから目を離せなかった。
古いプラスチックのケース。手書きの日付。誰かが二十一年前に録音し、ここに残したもの。それは紙の資料よりも生々しかった。声は、文字よりも嘘をつきにくい。もちろん編集もできる。録音も歪む。けれど、そこに誰かの呼吸が残る。
朱里の声がもう聞けないことを思うと、その古いテープの重みが増した。
「行こう」
真帆は言った。
海斗がすぐに反応した。
「おい」
「ここまで来た。何も持たずに戻ったら、たぶんまた誰かが消える」
「テープだけ持って戻ればいい」
「再生できなきゃ意味がない」
「命の方が大事だろ」
「名前も命だよ」
言ってから、真帆は自分の言葉に驚いた。
だが、本当にそう思った。
朱里はまだ、身体が見つかったわけではない。死んだと決まったわけでもない。けれど名前を失い、記憶を失い、記録を失えば、それは死とどれほど違うのだろう。
いや、もっと残酷かもしれない。
死を悼むことすら許されないのだから。
海斗はしばらく真帆を見ていたが、やがて短く息を吐いた。
「三分だ」
「五分じゃなくて?」
「旧放送室に入るなら三分。危なかったら即戻る。これは譲らない」
真帆は頷いた。
蓮が先頭に立ち、資料室を出た。
旧放送室は、同じ階の奥にある階段を少し下りた先だった。正確には中二階のような場所で、本校舎の放送室とは別の古い設備室だという。廊下はさらに暗く、壁には配線の管がむき出しになっていた。
途中で、床が水に濡れていた。
海水ではない。天井からの雨漏りか、配管の破裂かもしれない。だが、足元が滑ることに変わりはない。海斗が何度も後ろを振り返る。
「本当にすぐ戻るからな」
蓮は錆びたドアの前で止まった。
旧放送室。
プレートの文字はほとんど読めなくなっていた。ドアの下部は錆び、床との隙間には黒い汚れが溜まっている。蓮がノブを回したが、動かなかった。
「前と同じ」
「どいて」
海斗が前に出た。ドアに肩を当て、力を込める。一度目は動かない。二度目で、錆びた金属が嫌な音を立てた。三度目で、ドアが内側へ少しだけ開いた。
湿った空気が流れ出てきた。
黴と鉄と、古い機械の匂い。
真帆は思わず口元を押さえた。
中は狭い部屋だった。壁一面に古い放送機材が並び、中央には操作卓のようなものがある。マイク。スイッチ。音量つまみ。カセットデッキ。上部には校内のスピーカー系統を示す古い図が貼られていた。赤いランプは消えている。だが機械の奥から、かすかな唸りのような音が聞こえた。
「電気、来てるのか」
海斗が言った。
「非常電源かもしれない」
蓮は操作卓に近づいた。
「水でショートしてる可能性もある。触るなよ」
海斗が注意する。
蓮は頷いたが、目は機材から離れない。彼にとってここは恐怖の場所であると同時に、ずっと気になっていた場所でもあるのだろう。
カセットデッキは古かったが、電源ランプがわずかに点いていた。蓮がテープを入れる。再生ボタンに指をかけ、少し躊躇した。
「押すよ」
誰も止めなかった。
カチリ、と音がした。
最初はノイズだけだった。
ざざ、ざざ。
海の音に似ている。昨夜の放送と同じ音だ。真帆は背筋が冷えるのを感じた。
やがて、女の声が聞こえた。
「記録を残します」
昨夜の声と同じだった。
落ち着いていて、少し硬い。だが、今聞こえる声には明らかに疲労と焦りが混じっていた。
「二年三組、現在確認できている生徒は十四名。地下資料庫付近に取り残された可能性がある生徒、複数名。校長および教頭は、全員避難済みとして報告するよう指示しています」
結衣が息を呑んだ。
録音の声は続いた。
「違います。あの子たちは来ていました。欠席ではありません。出席簿にも名前があります。確認不能だから欠席にするなんて、そんな処理はできません」
真帆は操作卓に手をつきそうになり、慌てて引っ込めた。
声が震えている。
それは怪異の声ではなかった。
生きている人間が、恐怖と怒りを押し殺して残した声だった。
「水が上がっています。旧校舎地下への通路は開きません。百瀬さんが外から入ろうとしています。彼は避難を妨害しているのではありません。救助しようとしているんです。誰か、これを聞いてください」
海斗が動きを止めた。
「百瀬……」
録音の中で、遠くから大きな音がした。誰かの叫び声。水音。金属を叩く音。
女の声が近づいた。
「欠席にしないでください。あの子たちは、ここにいました」
真帆の喉が詰まった。
その言葉は、壁に刻まれた文字と同じだった。
わたしを忘れないで。
欠席にしないで。
録音はそこで一度途切れた。ノイズが続く。蓮が停止ボタンに指を伸ばした時、再び声が入った。
「五十嵐真帆さん」
真帆は身体を硬くした。
それは、録音の中の出席確認だった。
「五十嵐真帆さん。返事をしてください」
古いテープの中で、女教師が名前を呼ぶ。
だが返事はない。
「五十嵐真帆さん」
また呼ぶ。
返事はない。
ノイズが大きくなる。テープが傷んでいるのか、声が歪む。海の音と重なり、言葉が聞き取りにくくなる。
その時、別の声が入った。
若い少女の声だった。
「はい」
真帆は息を止めた。
その声は、録音の古さに合っていなかった。
遠い昔の声ではない。つい先ほど聞こえたような、生々しい声だった。しかも、その声には聞き覚えがあった。
自分の声に似ている。
女教師の声が遠くなる。
そして、最後に別の声が混じった。
「私は、出席しています」
その瞬間、テープが止まった。
カセットデッキの中で、リールが空回りする音だけが残った。
誰も動けなかった。
真帆は、自分の喉に手を当てた。声を出した覚えはない。けれど今聞こえた声は、自分のものに似ていた。二十一年前のテープに、現在の自分の声が混じっていた。
「今の」
結衣が掠れた声で言った。
「五十嵐さんの声に、聞こえました」
「やめて」
真帆は反射的に言った。
結衣は口を閉じた。
海斗がカセットデッキを睨んだ。
「あり得ないだろ。二十一年前のテープだぞ」
蓮は黙って機械を見ていた。
「テープが上書きされたのかもしれない」
結衣が言う。
「でも、誰が?」
「それは」
答えはなかった。
その時、部屋の奥で赤いランプが点いた。
操作卓の上部。
校内放送。
小さなランプが、ひとつだけ赤く光っている。
「まずい」
蓮が呟いた。
「何が」
海斗が聞く。
「今の、流れてたかもしれない」
真帆の胸が冷えた。
「校内に?」
「わからない。でも、このランプは放送回線が開いてる時のものだと思う」
次の瞬間、廊下の方から声がした。
「五十嵐!」
有馬先生だった。
怒りと恐怖の混じった声が旧校舎に響く。
「そこにいるのか!」
四人は顔を見合わせた。
見つかった。そう思った瞬間、操作卓のスピーカーからノイズが漏れた。
ざざ。
ざざ。
そして、昨夜の女教師の声とは違う、細い子どもの声が聞こえた。
「まだ、全員じゃない」
真帆はその場に立ち尽くした。
「まだ、欠席にされたまま」
赤いランプが点滅する。
カセットデッキは止まっている。誰も再生ボタンに触れていない。
それでも声は続いた。
「名前を返して」
旧放送室の外で、有馬先生の足音が近づいてくる。海斗がドアへ向かった。結衣はノートを抱きしめる。蓮は操作卓のスイッチを切ろうとして、どれに触れればいいかわからず固まっている。
真帆だけが、スピーカーを見上げていた。
声は最後に、はっきりと言った。
「五十嵐真帆さん」
それは二十一年前の少女を呼んだのか。
それとも、今ここにいる真帆を呼んだのか。
真帆にはわからなかった。
有馬先生が旧放送室の扉を開けた。
「何をしている!」
その怒鳴り声と同時に、赤いランプが消えた。
部屋は急に静かになった。
ただ、機械の奥から聞こえるかすかな唸りだけが残っている。
有馬先生は真帆たちを見たあと、操作卓の上のカセットテープに目を留めた。顔色が変わった。
「それをどこで見つけた」
その声は、教師が生徒を叱る声ではなかった。
知っているものを見つけられた人間の声だった。
「先生」
真帆は言った。
「二十一年前、この学校で何があったんですか」
有馬先生は答えなかった。
だが、その沈黙が答えだった。
海斗が新聞記事と議事録のコピーを突きつけるように見せた。
「うちのじいちゃんは、本当に避難を邪魔したんですか」
有馬先生は海斗を見た。
その目に、はっきりと迷いが浮かんだ。
「俺のじいちゃんは、子どもを助けようとしたんじゃないんですか」
海斗の声が震えていた。
「それを学校が、邪魔者にしたんじゃないんですか」
旧放送室の空気が重くなる。
有馬先生は長い間黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「私が赴任した時、灰谷校長から言われたことがある」
「何を」
結衣が尋ねた。
「旧校舎の地下と旧放送室には、絶対に生徒を近づけるなと」
「理由は?」
「古いから危険だと説明された」
「本当の理由は?」
真帆が聞いた。
有馬先生は答えなかった。
代わりに、カセットテープを見つめた。
「その声は、たぶん教育実習生だった女性のものだ」
真帆の心臓が、嫌な音を立てた。
「名前は?」
「五十嵐、という姓だった」
真帆の指先が冷たくなる。
「下の名前は、覚えていない。二十一年前、この学校に短期間だけ来ていた。その後、島を出たと聞いている」
「私の母かもしれない」
声に出した瞬間、部屋の中の全員が真帆を見た。
有馬先生も。
「母は昔、この島にいたと言っていました。詳しいことは話してくれなかった。でも、今の録音の声……」
真帆は言葉を続けられなかった。
母の声を聞き間違えるはずがない、とは言えない。録音は古く、ノイズも多かった。若い頃の母の声など、真帆は知らない。
けれど、わかってしまった。
あの声には、母が時折見せる硬さがあった。言いたいことを飲み込み、それでも最後には言わずにいられなくなる時の響きがあった。
有馬先生がゆっくりと言った。
「ここを出よう。水位が上がっている。話は戻ってからだ」
「戻ってからじゃ遅いかもしれません」
真帆は言った。
「また夜になったら、放送が流れます」
「だからこそ戻るんだ」
有馬先生の声が強くなった。
「これ以上、勝手な行動は許さない。君たちは今、自分たちがどれほど危険な場所にいるかわかっていない」
「先生は、何を知ってるんですか」
結衣が静かに言った。
「知らないなら知らないと言ってください。でも、知っているなら隠さないでください。隠すことが、また誰かを欠席にするかもしれないんです」
有馬先生は結衣を見た。
若い教師の顔に、疲労と迷いと後悔が浮かんでいた。
しかし答えは返ってこなかった。
その代わり、遠くで大きな音がした。
渡り廊下の方角だった。
金属が歪み、何かが崩れる音。続いて、水しぶきのような音が響いた。
「まずい」
海斗が走り出した。
四人と有馬先生は旧放送室を飛び出した。廊下を戻る。資料室の前を通り、渡り廊下へ向かう。
だが、来た時に通った廊下の一部が崩れていた。
渡り廊下の中央部分が、さらに大きく傾いている。床板の一部が剥がれ、下には水面が見えた。完全に落ちたわけではない。だが、渡るには危険すぎる状態だった。
「戻れない?」
結衣が言った。
海斗は床を見て、壁の亀裂を見て、外の水面を見た。
「一人ずつなら、まだ行けるかもしれない。でも急がないと」
有馬先生が即座に指示を出した。
「私が先に渡る。向こうで受ける。次に黒瀬、五十嵐、辻本、百瀬の順だ」
「俺が先に行く」
海斗が言った。
「先生が先だ」
「向こうで支えるなら俺の方がいい」
「駄目だ」
有馬先生の声に、有無を言わせない響きがあった。
その時、旧校舎側のスピーカーからノイズが流れた。
全員が固まった。
ざざ、ざざ。
昼間の放送。
夜ではない。チャイムも鳴っていない。なのに、スピーカーが鳴っている。
女教師の声が聞こえた。
「臨時の出席確認を行います」
海斗が低く罵った。
有馬先生が叫んだ。
「走れ!」
渡り廊下を渡り始める。
金属の床がきしむ。有馬先生が先に渡った。続いて結衣。彼女は途中で足を滑らせたが、有馬先生が腕を掴んだ。次に真帆。
真帆は一歩ずつ進んだ。
下を見ない。そう思っても、視線が勝手に落ちる。床の隙間から水面が見える。白い霧の中、学校全体が海に浮かんでいるようだった。
「五十嵐、真帆さん」
スピーカーが名前を呼んだ。
真帆の足が止まりかけた。
「止まるな!」
海斗が後ろから叫んだ。
真帆は進んだ。手すりを掴む。濡れた金属が滑る。結衣が向こう側から手を伸ばしている。
「五十嵐、真帆さん」
また呼ばれる。
返事をしてはいけない。
だが、声が頭の中に入ってくる。
あなたは誰の名前ですか。
そんな問いが、言葉にならない形で胸の奥を叩いた。
真帆は結衣の手を掴んだ。向こう側へ引き上げられる。膝が床についた。息が切れていた。
次に蓮が渡る。
蓮は思ったよりも身軽だった。途中で大きく揺れたが、何とか渡りきる。最後に海斗が来た。
その時、渡り廊下が大きく沈んだ。
「海斗!」
真帆が叫ぶ。
海斗は手すりに掴まった。足元の床板が一枚外れ、水面へ落ちる。白いしぶきが上がった。
有馬先生が身を乗り出す。
「百瀬、手を伸ばせ!」
海斗は片手を伸ばした。
スピーカーの声が重なる。
「百瀬海斗くんは、出席ではありません」
「うるせえ!」
海斗が叫んだ。
「俺はここにいる!」
その声が廊下に響いた。
有馬先生が海斗の腕を掴み、結衣と蓮も加わった。真帆も必死で手を伸ばす。四人がかりで、海斗を引き上げた。
直後、渡り廊下の中央が崩れた。
金属の床が折れ、水面へ落ちた。霧の中で、白い水しぶきが上がる。旧校舎へ続く道は断たれた。
海斗は床に倒れ、荒く息をしていた。
「返事、した」
蓮が呟いた。
海斗は彼を睨んだ。
「何だよ」
「今、自分で言った。俺はここにいるって」
「それが悪いのか」
「わからない」
蓮の声は本当にわからないという響きだった。
「でも、放送に対して返した」
真帆の胸がざわついた。
海斗は起き上がり、濡れた手で顔を拭った。
「俺は消えてない」
「今は」
蓮が言った。
有馬先生が間に入った。
「やめろ。全員、上に戻る。今すぐだ」
誰も反論しなかった。
旧校舎への道は失われた。手元には、二十一年前の出席簿のコピー、新聞記事、議事録のメモ、そしてカセットテープがある。真帆はそれらを抱えて階段を上った。
三階へ戻る途中、壁に掲示された古い避難経路図が目に入った。
現在地。本校舎。旧校舎。体育館。屋上。海へ向かう矢印。
その図の隅に、小さく手書きされた文字があった。
点呼は屋上で行うこと。
真帆は立ち止まった。
「どうした」
海斗が聞く。
「点呼」
真帆は呟いた。
「二十一年前も、屋上で点呼したのかもしれない」
有馬先生が振り向いた。
その顔には、何かを思い出したような表情があった。
「先生」
真帆が言った。
「灰谷校長は、どこにいますか」
有馬先生はすぐに答えなかった。
灰谷校長。二十一年前、この学校にいたという現在の校長。若手教師として事故現場にいたかもしれない人物。
昨夜から、真帆は校長の姿をほとんど見ていない。地震直後は職員室にいたはずだ。その後、生徒たちの前に出てきた記憶がない。
「校長室だ」
有馬先生は言った。
「今朝から、災害対策本部と連絡を取ろうとしている」
「本当に?」
海斗の声は疑いを隠していなかった。
有馬先生は返事をしなかった。
三階に戻ると、生徒たちは屋上へ移動する準備をしていた。教師たちは水や毛布を運び、負傷した生徒を支えている。誰もが疲れ果てていた。だが、真帆たちが旧校舎から戻ったことに気づいた者は少なかった。
結衣はノートを開き、二十一年前の資料からわかったことを書き足した。
白石朱里。
消えた三年生、氏名不明。
二十一年前、旧校舎地下に未確認生徒あり。
欠席扱いで統一。
百瀬家の漁師は、避難妨害ではなく救助を試みた可能性。
教育実習生、五十嵐姓。
同姓同名の生徒、五十嵐真帆。
その文字を見て、真帆は目を閉じた。
自分の名前が二つある。
今ここにいる五十嵐真帆。
二十一年前の出席簿にいる五十嵐真帆。
自分は偶然その名を持っているだけなのか。それとも、母が意図してつけたのか。母はなぜ島に戻ったのか。なぜ真帆をこの学校に転校させたのか。
問いは増えるばかりだった。
その時、有馬先生が戻ってきた。
顔色が悪い。
「校長室に行く」
先生は短く言った。
「私も行きます」
真帆が立ち上がる。
「駄目だ」
「灰谷校長は、二十一年前のことを知ってるんですよね」
「だからこそ、私が話を聞く」
「また隠されたら?」
有馬先生は言葉に詰まった。
結衣が静かに立ち上がった。
「私たちも行きます。ここまで知ってしまった以上、聞く権利があります」
海斗も立った。
「俺は、じいちゃんのことを聞く」
蓮も無言で立ち上がった。
有馬先生は四人を見た。叱るべきか、止めるべきか、迷っている顔だった。
結局、先生は小さく言った。
「危険なことはしない。校長室までだ」
校長室は本校舎三階の端にあった。
廊下を進む途中、窓の外に海が見えた。いや、海とグラウンドの区別がつかなかった。学校は完全に水に囲まれている。港の方角には霧が濃くかかり、橋の残骸すら見えない。
校長室の前に着く。
有馬先生がノックした。
「灰谷校長。有馬です」
返事はない。
もう一度ノックする。
「校長」
やはり返事はない。
有馬先生はドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。
校長室の中は薄暗かった。
机の上には書類が散らばり、古いラジオが雑音を吐いている。窓は閉まっているのに、カーテンがわずかに揺れていた。部屋の中央に、灰谷校長が立っていた。
いや、立っているように見えた。
校長は本棚の前で動かず、何かを見つめていた。白髪混じりの頭。背中の丸い姿。真帆たちが入ってきても、振り返らない。
「校長」
有馬先生が近づいた。
その瞬間、校長の身体が傾いた。
有馬先生が支えようとしたが、間に合わなかった。灰谷校長は床に崩れ落ちた。
「校長!」
有馬先生が膝をつく。
灰谷校長は意識を失っていた。呼吸はある。額に汗が浮かび、手には一冊の古い出席簿が握られている。
真帆はその出席簿を見た。
表紙には、二十一年前の年度が書かれていた。
二年三組。
有馬先生が校長の手から出席簿を外そうとすると、校長の指が強く握りしめられていた。まるで最後までそれを手放したくないように。
海斗が低く言った。
「それが本物か」
結衣が震える手で出席簿を開いた。
ページの端は湿気で波打ち、インクはところどころ滲んでいる。だが、名前は読めた。
二十一年前の生徒たちの名前。
その中に、五十嵐真帆の名前がある。
そして、黒く塗り潰されていたはずの名前が、ここには残っていた。
欠席扱いにされた生徒たちの、本当の名前。
結衣が息を呑む。
「これ、コピーと違います」
「何が」
真帆が覗き込む。
「欠席にされた生徒の名前が、消されていません。出席の印もあります」
海斗がページを奪うように見た。
「つまり、いたんだな」
結衣は頷いた。
「この本物の出席簿では、来ていたことになっています」
海斗の目が赤くなった。
「なのに、外には欠席って出した」
有馬先生は校長の脈を確認しながら、苦しげに言った。
「医療班を呼ぶ。校長を運ばないと」
「先生」
真帆は出席簿の最後のページを見ていた。
そこに、別の紙が挟まっていた。
現在の二年三組の名簿。
地震の前に使われていたものだろう。生徒十七名の名前が並んでいる。白石朱里の名前もある。真帆の名前もある。
真帆は胸を撫で下ろしかけた。
だが、すぐに違和感に気づいた。
自分の名前だけ、筆跡が違う。
それは職員室で見た名簿と同じだった。後から書き足された文字。だが、こちらの方がはっきりしている。罫線から少しだけはみ出した「帆」の字。右払いの癖。真帆はその字を知っていた。
母の字だった。
小学校の連絡帳に書かれていた字。冷蔵庫に貼られたメモの字。誕生日カードの最後に添えられていた、自分の名前の字。
間違いない。
五十嵐真帆。
それは、母の字で書かれていた。
真帆は名簿を持つ手に力を込めた。
なぜ母が、現在の二年三組の名簿に自分の名前を書き足したのか。
いや、そもそも母はこの名簿に触れたのか。
島に来てから、母は学校の話を避けていた。真帆が中学校の様子を話しても、曖昧に頷くだけだった。旧校舎のことを尋ねた時は、珍しく強い口調で「近づかないで」と言った。
母は知っていた。
この学校に何かがあることを。
五十嵐真帆という名前が、二十一年前の出席簿に残っていることを。
真帆が言葉を失っていると、突然スマートフォンが震えた。
圏外のはずだった。
画面を見る。
留守番電話の通知が一件。
発信者は、母だった。
真帆は震える指で再生した。
雑音が混じっていた。海鳴りのような音の奥から、母の声が聞こえる。
「真帆」
母の声は切迫していた。
「もし学校で放送が流れたら、絶対に返事をしないで」
真帆は息を止めた。
母は続けた。
「あなたは、その名簿に載ってはいけない子なの」
そこで音声は途切れた。
校長室の中に、沈黙が落ちた。
誰も何も言わなかった。
真帆はスマートフォンを握りしめたまま、古い出席簿と現在の名簿を見下ろした。
二十一年前の五十嵐真帆。
現在の五十嵐真帆。
母の声。
母の字。
そして、放送の声。
海の匂いが、校長室の中にまで入り込んでいた。窓の外では、水面が校舎の壁を叩いている。学校全体が、巨大な名簿のように、ひとりずつ名前を確認している。
真帆は思った。
自分は、この学校に転校してきたのではない。
何かに、呼び戻されたのだ。




