第二章 消えた生徒は、最初からいなかった
名簿というものは、もっと頼りになるものだと思っていた。
そこに名前が書かれていれば、その人間は確かに所属している。逆に、書かれていなければ所属していない。学校という場所では、名前は存在の証明だった。出席番号、座席表、下駄箱、ロッカー、委員会名簿、テストの答案用紙。生徒はそこかしこに名前を残し、その名前によって管理される。
だからこそ、五十嵐真帆は職員室で見た名簿から目を離せなかった。
白石朱里の名前がない。
それは、単に一行が欠けているという話ではなかった。ページ全体が、最初から白石朱里などという生徒を受け入れていなかった。名前と名前のあいだに不自然な空白はない。消し跡もない。出席番号もずれていない。
二年三組は、十六人。
そういう形で、名簿は完成していた。
けれど真帆は知っている。朱里はいた。昨日の朝、英単語帳の横に菓子パンを置いていた。数学の証明問題を見せてくれと言った。昼休みに、出席を取る夢の話をした。夜、真帆の袖を握って、絶対に忘れないと言った。
その言葉を言った朱里が、忘れられようとしている。
「一度、視聴覚室へ戻る」
有馬先生は出席簿を閉じた。声は落ち着いているように聞こえたが、指先はわずかに震えていた。
「全員の安全確認が先だ。ここに長くいるのは危険だ」
「先生」
黒瀬結衣が言った。
「その名簿、持っていった方がいいと思います」
有馬先生は迷ったが、すぐに頷いた。古い名簿と、現在の出席簿を抱え、職員室の扉へ向かう。廊下に出た瞬間、潮の匂いが濃くなった。
階段の下には、濁った水が見えていた。朝よりも水位が上がっている。水面にはプリントや木片が浮かび、階段の手すりに波紋が反射していた。海が校舎の中を歩いているようだった。
「まだ上がってる」
百瀬海斗が言った。
「満潮は?」
有馬先生が尋ねる。
「夕方前です。けど、これ、潮だけじゃないと思います。地盤が下がってるなら、潮が引いても水が残る」
海斗は階段下を睨んでいた。漁師の家の子らしい冷静さがあった。けれど、その横顔には焦りも見えた。島の子にとって海は生活の一部であり、同時に逆らえないものなのだろう。
真帆はスマートフォンを確認した。圏外の表示は変わらない。朱里からのメッセージは、まだ残っていた。
白石朱里。
その名前だけが、画面の中でまだ生きている。
視聴覚室へ戻ると、生徒たちが一斉にこちらを見た。二年三組の生徒たちは、疲労と恐怖で顔色を失っていた。夜通し眠れなかった者も多い。床には非常用毛布と乾パンの袋が散らばり、窓際には結露が白くついていた。
有馬先生は全員を見渡した。
「出席を確認する」
「また?」
誰かが不満げに言った。
「必要なことだ。名前を呼ぶ。返事をしてくれ」
先生は出席簿を開いた。
その動作を見た瞬間、部屋の空気が変わった。
昨夜の放送が、全員の頭に蘇ったのだ。停電しているはずの校内に鳴ったチャイム。知らない女教師の声。名前を呼ばれ、返事をしてしまった感覚。そして最後の一言。
今日の欠席者は、一名。
「これは先生が確認するだけだ」
有馬先生はそう言った。
「放送ではない。怖がらなくていい」
誰も答えなかった。
「相沢優太」
「……はい」
「石倉菜々」
「はい」
先生は一人ずつ名前を呼んでいった。生徒たちは小さく返事をする。昨夜と同じ行為なのに、今はそれが救いのようにも思えた。名前を呼ばれ、返事をする。その単純な手続きだけが、ここにいることを証明してくれる。
だが、白石朱里の名前は呼ばれなかった。
真帆は待っていた。呼ばれるはずのない名前を待っていた。呼ばれれば、何かが戻る気がした。けれど有馬先生は、出席簿にない名前を呼ばなかった。
最後に自分の名前が呼ばれた。
「五十嵐真帆」
「はい」
返事をしたあと、真帆は先生を見た。
「白石朱里は?」
有馬先生は出席簿から顔を上げた。
視聴覚室の中で、何人かが困ったように顔を見合わせた。
「だから、白石って誰?」
男子の一人が言った。相沢優太だった。昨日、最初に放送で名前を呼ばれ、返事をしてしまった生徒だ。
「本気で言ってるの?」
真帆は思わず詰め寄りそうになった。
「本気っていうか、知らないものは知らないし」
「昨日、ここにいた。あなたの斜め前に座ってた」
「斜め前って、誰もいなかっただろ」
「いたよ」
海斗が言った。
相沢は眉をひそめた。
「百瀬まで何言ってんだよ」
「何言ってんのはそっちだろ。朱里はいた。白石朱里。二つ結びで、いつも菓子パン食ってて、英語の小テストで毎回ぎりぎりのやつ」
「そんな具体的に言われても知らねえよ」
室内がざわついた。
「私も覚えていません」
別の女子が言った。
「白石さんって、転校生ですか?」
「転校生は五十嵐さんだけでしょ」
「でも五十嵐さんも……」
その言葉は途中で止まった。
真帆はその女子を見た。彼女は気まずそうに目を伏せた。言いかけたことはわかっている。昨夜、結衣が言った言葉と同じだった。
五十嵐さんって、うちのクラスにいたっけ。
真帆は両手を握りしめた。
自分の存在まで揺らいでいる。朱里が消えたという事実だけでも耐えがたいのに、その朱里が最後に守ろうとした自分の存在さえ、周囲の記憶から薄れかけている。
「全員、静かに」
有馬先生が強く言った。
「白石朱里という生徒について、覚えている者は手を上げてくれ」
真帆はすぐに手を上げた。
海斗も上げた。結衣も、少し遅れて上げた。部屋の隅では、辻本蓮が手を上げるわけでもなく、下げるわけでもなく、ただ壁のスピーカーを見ていた。
「辻本」
有馬先生が声をかけた。
「覚えているのか」
「少し」
「少し?」
「名前は覚えてます。顔も、たぶん。でも、席が思い出せない」
蓮の声は低かった。
「昨日まで普通にいた人間の席が、思い出せない」
それは、真帆が一番聞きたくない言葉だった。
朱里を覚えている者ですら、記憶が削られている。名前、顔、声、席。存在を構成する部品が、少しずつ抜き取られている。
有馬先生は出席簿を閉じた。
「この件については、教師間で確認する。今は不用意に動かないこと。校舎の安全が確認できるまで、三階で待機する」
「確認って、何をですか」
真帆は言った。
「名簿に名前がないから、朱里はいませんでしたってことにするんですか」
「そうは言っていない」
「でも、呼ばなかった」
「出席簿にない名前を、確認の場で軽々しく呼べない」
「名前を呼ばなかったら、もっと消えるかもしれないじゃないですか」
有馬先生の表情が揺れた。
真帆は自分でも驚くほど強い声を出していた。普段なら、教師にこんな言い方はしない。けれど今は、黙っていたら朱里が本当に消える気がした。
結衣が静かに言った。
「先生。白石さんの持ち物を探せませんか」
「持ち物?」
「教室には机がありませんでした。でもロッカーや靴箱、委員会表、集合写真には何か残っているかもしれません」
その提案に、有馬先生はしばらく考えた。
「危険な場所には行かせられない」
「二階と三階だけなら」
海斗が言った。
「俺が水位見ながら行きます。危なかったら戻る」
「生徒だけでは駄目だ」
「じゃあ先生も一緒に」
有馬先生は反論しようとしたが、言葉を飲み込んだ。
結局、確認に行くのは有馬先生、真帆、海斗、結衣、蓮の五人になった。他の生徒たちは視聴覚室で待機する。何人かは不安そうにこちらを見ていたが、大半は朱里を知らないという顔をしていた。その表情を見るたびに、真帆の胸が冷たくなった。
最初に向かったのは二年三組の教室だった。
朝に見た通り、朱里の机はなかった。だが真帆は諦めきれず、窓際の床を調べた。机があったなら、床に傷やほこりの跡が残っているはずだった。けれどそこには何もない。掃除の行き届いた床があるだけだった。
ロッカーには、名前のシールが貼られている。
相沢、石倉、大沢、黒瀬。順番に見ていく。白石朱里の名前はない。途中で一つ空きがあるわけでもない。人数分のロッカーが整然と使われている。
「下駄箱は?」
海斗が言った。
「一階だ。今は無理だ」
有馬先生が即座に答える。
「水、膝上まで来てました。下りたら戻れなくなるかもしれない」
海斗は舌打ちした。けれど反論はしなかった。
次に図書室へ向かった。
真帆と朱里は図書委員だった。少なくとも真帆はそう記憶している。朱里は本を読むのが特別好きというわけではなかったが、委員会の仕事は嫌がらずにやっていた。貸出カードに朱里の字が残っているかもしれない。
図書室は三階の端にあった。棚から落ちた本が床に散らばっていた。真帆はカウンターの中へ入り、委員会ノートを探した。引き出しの奥に、水色の表紙のノートがある。
ページをめくる。
四月。五月。六月。
貸出当番表には、真帆の名前があった。
その隣に、別の名前があるはずだった。
だが、そこには黒瀬結衣の名前が書かれていた。
「違う」
真帆は呟いた。
結衣が覗き込む。
「私?」
「朱里だった。私と朱里で図書委員だった」
「私は生活委員です」
結衣は言った。
「今も、そのはずです」
真帆は委員会一覧を探した。壁の掲示板に、各委員の名簿が貼られている。図書委員の欄には、五十嵐真帆と黒瀬結衣。生活委員の欄には、別の女子の名前があった。
「おかしい」
結衣の声が震えた。
「私、図書委員じゃありません。図書室の鍵の場所も知らない」
「でも名簿ではそうなってる」
蓮が言った。
「記録が変わってる。記憶と合わない」
真帆は貸出カードの箱をひっくり返すように探した。白石朱里の名前。朱里の字。朱里が借りた本。何でもいい。けれど、見つからなかった。
代わりに、一冊の本が床に落ちているのを見つけた。
『島の災害史』。
古い郷土資料だった。表紙は湿気で波打ち、背表紙には図書室の分類ラベルが貼られている。真帆はなぜそれを手に取ったのかわからなかった。落ちた本など、図書室にはいくらでもある。
開くと、しおりが挟まっていた。
二十一年前の災害記録。
島を襲った地震と、津波による被害について数ページが割かれている。小さな新聞記事の切り抜きが貼られていた。真帆はそこに目を通した。
島内で負傷者多数。学校施設に一部損壊。避難誘導に混乱。
死者についての記述は曖昧だった。数字が書かれていない。代わりに、行方不明者という言葉が何度か出てくる。
「これ」
真帆が見せると、有馬先生の顔色が変わった。
「先生、知ってるんですか」
「いや」
否定は早かった。
早すぎた。
「二十一年前に、この島で何があったんですか」
「今はその話をしている場合じゃない」
「でも、昨日の放送と関係あるかもしれません」
真帆が言うと、蓮が口を開いた。
「関係あると思う」
全員が蓮を見た。
「旧放送室の話を聞いたのも、その災害の資料を探してる時だった」
「探してた?」
有馬先生の声が険しくなった。
蓮は視線を逸らした。
「暇だったから」
「辻本」
「本当です。学校来ても教室に居場所ないし、旧校舎の方が静かだった。そこで古い資料を見つけただけです」
「旧校舎には入るなと言われているはずだ」
「じゃあ、何で入っちゃ駄目なんですか」
蓮が初めて先生をまっすぐ見た。
「古いから危ない。それだけですか」
有馬先生は答えなかった。
図書室の窓の外で、白い霧が流れている。海は見えない。けれど水音は確実に大きくなっていた。
その時、廊下の向こうから悲鳴が聞こえた。
五人は同時に走り出した。視聴覚室へ戻ると、生徒たちが窓際に集まっていた。誰かが泣いている。相沢優太が顔を引きつらせ、窓の外を指さしていた。
「グラウンド」
真帆は窓へ駆け寄った。
グラウンドは、もうグラウンドではなかった。
水が一面に広がっている。白線も、朝礼台も、花壇も、水の下に沈んでいた。サッカーゴールの横棒だけが、水面から突き出ている。校門も半分以上が沈み、外へ続く道は見えない。
校舎は、海の中に立っていた。
「これ、津波じゃないの?」
女子の一人が泣きながら言った。
「津波なら、もう終わってるはずじゃ」
「じゃあ何なの」
誰も答えられなかった。
有馬先生は他の教師と短く話し合い、全員を三階の教室と廊下に分散させることにした。視聴覚室だけでは人が多すぎる。余震で天井が落ちる危険もある。二年三組は元の視聴覚室に戻されたが、扉は開け放たれ、教師が廊下で見張ることになった。
真帆は窓際に座った。
朱里のことを覚えている者は、四人。真帆、海斗、結衣、蓮。有馬先生も覚えている。だが、他の生徒たちの記憶からは消えている。完全に消えたわけではないのかもしれない。名前を出すと、誰かが引っかかるような顔をすることがある。けれど、すぐに首を振る。
記憶の底に沈んだものは、簡単には掬い上げられない。
昼過ぎ、有馬先生が集合写真を持ってきた。
入学式の日に撮られた二年三組の集合写真だった。校舎前の階段に、生徒たちが並んでいる。真帆は転校生なので、そこには写っていない。朱里は写っているはずだった。
写真を見た瞬間、真帆は息を呑んだ。
中央列の右端に、不自然な空白があった。
人一人分の幅が、そこだけ開いている。周囲の生徒の肩や腕の位置から見て、本来誰かが立っていたのは明らかだった。けれど、そこには誰もいない。背景の校舎の壁だけが、妙に滑らかに写っている。
「ここ」
真帆は指さした。
「朱里はここにいたんですよね」
海斗が頷いた。
「いた。俺の隣の隣だった」
結衣も写真を見つめた。
「この空白、変です。写真を撮る時、こんな並び方しません」
有馬先生は押し黙っていた。
他の生徒たちにも写真を見せた。だが、反応は薄かった。
「一人分空いてるな」
「誰か休みだったんじゃない?」
「いや、入学式で全員いたよな」
「でも覚えてない」
誰も、そこに朱里がいたとは言わなかった。
真帆は写真を抱えたまま、床に座り込んだ。
存在が消えるというのは、死よりも静かなことなのかもしれない。
死ねば、誰かが泣く。葬儀がある。遺影が残る。墓が作られる。けれど最初からいなかったことにされれば、泣く人間もいない。机も、靴箱も、写真も、名簿も、すべてが辻褄を合わせてしまう。世界そのものが、ひとりの人間を忘れる側に回る。
朱里はどこに行ったのだろう。
死んだのか。消えたのか。校舎のどこかにいるのか。それとも、本当に最初からいなかったことになってしまったのか。
「忘れない」
真帆は小さく呟いた。
海斗が隣に座った。
「俺も覚えてる」
「でも、少しずつ消えてる」
「消させなきゃいい」
「どうやって」
「名前を呼ぶ」
海斗は簡単に言った。
「白石朱里。何回でも呼べばいい。忘れそうになったら、また呼べばいい」
真帆は海斗を見た。
「そんなことで?」
「他にできることあるか」
それは乱暴な答えだった。けれど、真帆には少しだけ救いに聞こえた。
結衣も近くへ来た。
「記録を作りましょう」
「記録?」
「白石さんについて、覚えていることを全部書くんです。名前、席、話したこと、持ち物。消えるなら、消える前に残すしかありません」
結衣はノートを開いた。表紙には生活委員会と書かれていた。本人の記憶では生活委員だった。その証拠だけは、まだ彼女の手元に残っていたらしい。
真帆たちは朱里のことを書き出した。
白石朱里。二年三組。女子。髪は二つ結び。窓際の席。英語が苦手。菓子パンをよく食べる。笑うと目元が細くなる。怖がりだけれど、人を一人にしない。昨日の昼、出席を取る夢の話をした。夜、真帆の袖を握っていた。
書けば書くほど、朱里が戻ってくるような気がした。
だが同時に、書かなければ消えてしまうのだという恐怖も強くなった。
夕方に近づく頃、校内はさらに暗くなった。
雲が厚くなったのか、霧が窓に張りついたのか、廊下の先が白くぼやけている。水位は階段の中ほどまで来ており、二階の一部にも水が入り始めた。教師たちは何度も防災無線を試したが、聞こえるのは雑音だけだった。
救助は来ない。
誰も口には出さなかったが、全員がそう感じ始めていた。
夕食代わりに乾パンと水が配られた。食欲のある者は少なかった。真帆は乾パンを一枚かじったが、口の中で砂のように崩れた。
蓮は部屋の隅で、古い携帯音楽プレーヤーをいじっていた。イヤホンはしていない。
「何してるの」
真帆が聞くと、蓮は画面を見たまま答えた。
「録音」
「録音?」
「昨日の放送、録っておけばよかったと思って」
「また流れると思ってるの?」
蓮は少しだけ黙った。
「流れると思う」
真帆の背筋が冷えた。
「どうして」
「終わってないから」
蓮はスピーカーを見上げた。
「昨日のは、出席確認だった。欠席者が出た。なら、今日も確認する」
「そんなの」
「学校って、そういう場所だろ。毎日、出席を取る」
その言い方は淡々としていた。だが、淡々としているからこそ不気味だった。
海斗が横から言った。
「だったら今日は返事しなきゃいい」
「返事しなくても呼ばれる」
「昨日、お前は返事しなかった」
「だから、まだいる」
蓮は静かに言った。
「でも、次も同じとは限らない」
夜が来た。
有馬先生は、今夜は全員で一か所に集まると決めた。二年三組だけでなく、他学年の生徒や教職員も三階廊下と視聴覚室周辺に集められた。校舎全体が水に囲まれている以上、ばらばらにいる方が危険だった。
真帆たちは視聴覚室の中央に座った。
結衣のノートには、朱里の記録が三ページ分書かれている。真帆は何度もそれを読み返した。読むたびに、朱里の顔が少し鮮明になる。読まないと、輪郭がぼやけるような気がした。
廊下では、教師たちが懐中電灯を持って見張っている。風はないはずなのに、窓ガラスが時折震えた。下の階から水音がする。階段に当たる水。机や椅子が浮いて壁にぶつかる音。学校がゆっくりと船になっていくようだった。
午後八時を過ぎた頃、誰かが言った。
「昨日の放送、何時だった?」
答えは誰にもわからなかった。時計を見る余裕などなかったからだ。
真帆はスマートフォンの画面を見た。電池は三十四パーセント。圏外。時刻は二十時十七分。
その時、蓮が顔を上げた。
「来る」
「何が」
海斗が言い終える前に、チャイムが鳴った。
キンコンカンコン。
視聴覚室の空気が凍った。
廊下の教師たちも一斉に動きを止めた。誰かが懐中電灯を落とし、光が床の上を転がった。
キンコンカンコン。
二度目のチャイム。
昨日と同じだった。
天井のスピーカーから、ざざ、というノイズが流れた。真帆は無意識に結衣のノートを抱きしめていた。朱里の名前が書かれたページが、胸に当たる。
女の声が流れた。
「これより、帰りの会を始めます」
泣き出す生徒がいた。教師が静かにしろと言ったが、その声も震えていた。
「二年三組、出席を取ります」
有馬先生が叫んだ。
「返事をするな! 誰も返事をするな!」
昨夜とは違い、生徒たちは全員、口を閉じた。両手で口を押さえる者もいた。名前を呼ばれても、絶対に返事をしない。そう決めていた。
「相沢、優太くん」
沈黙。
女の声は数秒待った。
「相沢、優太くん」
相沢は目を固く閉じていた。返事はしない。
ノイズが強くなった。
けれど放送は次へ進んだ。
「石倉、菜々さん」
沈黙。
「大沢、拓海くん」
沈黙。
名前は次々と呼ばれていった。返事をしないことで何かを防げているのか、それとも別の何かを招いているのか、わからなかった。真帆は自分の名前が呼ばれるのを待った。昨夜と同じように、胸の奥が冷たくなる。
「黒瀬、結衣さん」
結衣は口を押さえていた。目に涙が浮かんでいる。
沈黙。
「辻本、蓮くん」
蓮はスピーカーを見つめていた。手元のプレーヤーが録音状態になっている。返事はしない。
女の声は、少し長く沈黙した。
「辻本、蓮くん」
蓮は動かなかった。
次の瞬間、スピーカーの奥で、水が流れ込むような音がした。ざあ、と大量の水がマイクを覆うような音。その中に、かすかな子どもの声が混じった気がした。
放送は続いた。
「百瀬、海斗くん」
海斗は唇を結んだ。
沈黙。
ところが、今度は女の声が次へ進まなかった。
「百瀬、海斗くん」
もう一度。
「百瀬、海斗くん」
三度目。
海斗の顔から血の気が引いていく。
「返事するな」
有馬先生が小声で言った。
海斗は頷いた。けれど手が震えていた。
スピーカーのノイズがひどくなった。女の声が遠ざかり、別の音が重なる。低い男の声。泣き叫ぶ子どもの声。波。金属が歪む音。
そして、女の声がゆっくりと言った。
「百瀬海斗くんは、出席ではありません」
海斗が息を止めた。
真帆は彼を見た。海斗は確かにそこにいる。目の前に座り、拳を握りしめ、スピーカーを睨んでいる。
「なんでだよ」
海斗が呟いた。
放送はさらに続いた。
「本日の欠席確認を行います」
「やめろ」
有馬先生がスピーカーに向かって叫んだ。
返事はなかった。
「欠席者は――」
そこで突然、廊下から音がした。
誰かが走り出す音だった。
「おい!」
教師の声が響く。
真帆が扉の方を見ると、男子生徒が一人、廊下へ飛び出していた。三年生の男子だった。名前は思い出せない。昨夜、海斗と一緒に窓から港を見ていた生徒だ。
「海斗のせいじゃない!」
男子は叫んだ。
「俺が見てくる! 放送室、止めればいいんだろ!」
「戻れ!」
有馬先生と海斗が同時に立ち上がった。
男子は階段の方へ走った。懐中電灯の光が揺れる。教師が追いかける。海斗も飛び出そうとしたが、真帆が腕を掴んだ。
「駄目」
「放せ!」
「海斗が行ったら、放送の言う通りになる」
その言葉で、海斗の動きが止まった。
廊下の先で、悲鳴が聞こえた。
続いて、水音。
何か重いものが階段を転がり落ちる音がした。教師たちが叫んでいる。懐中電灯の光が廊下を激しく揺らした。
放送は、何事もなかったように続いた。
「今日の欠席者は、一名」
ノイズが途切れた。
チャイムは鳴らなかった。
真帆たちは廊下へ駆け出した。階段の前に教師たちが集まっている。水は二階の踊り場近くまで上がっていた。階段には濡れた足跡が残っている。だが、男子生徒の姿はなかった。
「どこに行った」
有馬先生が叫んだ。
「落ちたんです、階段を」
別の教師が震えた声で言った。
「でも、下には……」
下には水がある。
懐中電灯の光が水面を照らした。濁った水が揺れている。制服の切れ端も、靴も、何も浮かんでいない。ただ水だけがあった。
「名前」
蓮が言った。
真帆は振り向いた。
「今の先輩の名前、誰か覚えてますか」
廊下にいた全員が黙った。
教師の一人が口を開きかけて、閉じた。
海斗が顔を歪めた。
「待てよ。さっきまで、わかってた。三年の……俺と港の話してた……」
「名前は?」
蓮が問う。
海斗は答えられなかった。
真帆も思い出そうとした。背が高い。髪が短い。海斗と話していた。三年生。顔は浮かぶ。けれど名前が出てこない。
名前だけが、抜け落ちている。
朱里の時と同じだった。
いや、もっと早い。
「名簿を」
結衣が言った。
「三年生の名簿を確認してください」
教師が走った。三年の担任が持っていた出席簿を開く。階段の前で、懐中電灯の光の中、ページがめくられる。
人数は合っている。
しかし、誰が消えたのかわからない。
三年生の生徒たちは泣きながら互いの顔を見ていた。全員いるようにも見える。けれど、誰かがいないようにも見える。集合写真を見なければわからない。いや、写真もすでに変わっているかもしれない。
海斗が壁を殴った。
「ふざけんな」
誰も止めなかった。
水面が、階段の下で静かに揺れている。
真帆はその水を見て、ようやく理解した。
放送が告げる欠席者は、名前を呼ばれた者とは限らない。返事をした者とも限らない。海斗は「出席ではない」と言われた。けれど消えたのは、海斗を助けようとした誰かだった。
では何が基準なのか。
なぜ朱里が消えたのか。なぜ今の男子が消えたのか。
朱里は、真帆を忘れないと言った。
今の男子は、海斗を助けようとした。
誰かを覚えている者。誰かの存在を守ろうとした者が、先に消されているのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間、真帆は吐き気を覚えた。
守ろうとした人間から消えるなら、朱里は真帆のせいで消えたことになる。
「違う」
真帆は小さく言った。
誰に向けた言葉でもなかった。
海斗が振り向いた。
「何が」
「わからない。でも、違う。そんなの、違う」
言葉にならなかった。
その時、蓮が階段の手すりに手をかけた。
「下りる気か」
有馬先生が止める。
「違います」
蓮は階段ではなく、壁を見ていた。踊り場の壁。水面の少し上。古い掲示物が剥がれかけている。その下に、何か傷のようなものがあった。
懐中電灯を向ける。
木製の腰壁に、細い線が刻まれていた。
文字だった。
真帆は息を止めた。
わたしを忘れないで。
その下に、さらに小さく刻まれている。
欠席にしないで。
文字は古かった。昨日や今日つけられたものではない。木の表面は黒ずみ、傷の中にも汚れが入り込んでいる。
さらに下には、日付があった。
二十一年前。
真帆は、図書室で見た災害記録を思い出した。
島を襲った地震。学校施設の損壊。避難誘導の混乱。曖昧に処理された行方不明者。
白石朱里が消えた床。
海に沈んでいく学校。
そして、二十一年前に刻まれた「欠席にしないで」という言葉。
有馬先生が掠れた声で言った。
「ここは、昔の避難経路だ」
「昔?」
真帆が尋ねる。
「旧校舎につながっている。今は使われていない」
蓮が壁の先を見た。
「旧放送室も、そっちです」
全員が沈黙した。
階段の下では、海水がゆっくりと上がり続けている。水の中に、校舎の壁と懐中電灯の光が歪んで映っていた。
真帆はもう一度、刻まれた文字を見た。
わたしを忘れないで。
欠席にしないで。
それは朱里の言葉ではなかった。けれど、朱里の声で聞こえた。
真帆は結衣のノートを抱きしめた。
白石朱里の名前を、心の中で何度も呼んだ。消えた三年生の名前は、もう思い出せない。けれど、誰かがいたことだけは忘れてはいけないと思った。
その時、遠くのスピーカーから、切れかけたノイズが一瞬だけ漏れた。
ざざ、と波が砂を洗う音。
そして、ごく小さな女の声。
「まだ、います」
真帆は顔を上げた。
誰も何も言わなかった。
聞こえたのが自分だけなのか、全員なのかもわからない。けれど、階段の下の水面が、まるで返事をするように一度だけ揺れた。
学校は、沈んでいる。
けれど沈んでいるのは、建物だけではなかった。
名前も、記憶も、誰かが確かにいたという事実も、ゆっくりと海の下へ引きずり込まれていた。




