第一章 今日の欠席者は一名
海は、朝から白く濁っていた。
霧と呼ぶには重く、雨と呼ぶには乾いている。島の斜面に張りついたそれは、古い校舎の窓ガラスを内側から曇らせるように、ゆっくりと流れていた。水平線は見えない。港に停泊している漁船も、船体の半分から先は白い幕の中に溶けていた。
五十嵐真帆は、坂道の途中で一度足を止めた。
校門の向こうに、島唯一の中学校が見えた。鉄筋三階建ての本校舎。渡り廊下でつながった旧校舎。潮風で赤茶けた体育館。グラウンドの向こうには、低い防潮堤と、その先に灰色の海があった。
何度見ても、妙な場所だと思う。
学校は普通、町の中にある。住宅地や商店街や駅の近くにあって、子どもたちはそれぞれの家から集まってくる。けれど、この島の学校は海に向かって建っていた。教室の窓から海が見えるというより、海に見張られているようだった。
真帆がこの島へ来たのは、三か月前のことだった。
母の仕事の都合、という説明を受けた。母は看護師で、島の診療所に欠員が出たのだという。父は本土に残った。両親が別居したのか、単身赴任の変形なのか、真帆にはよくわからなかった。尋ねると、母はいつも少しだけ困った顔をした。
「しばらくの間だけだから」
その言葉の「しばらく」がどれほどの長さを指すのか、母は言わなかった。
校門をくぐると、潮の匂いに混じって、濡れた鉄のような匂いがした。真帆は靴箱の前で上履きに履き替えた。名札の差し込まれた小さな棚には、二年三組の生徒の名前が並んでいる。
十七人。
この学校に来て最初に驚いたのは、クラスの人数だった。本土の中学校では、一クラスに三十人以上いた。席替えのたびに騒ぎが起き、体育祭のリレーでは補欠が出た。けれど、ここでは違う。二年三組は十七人。男子九人、女子八人。全員の名前を、一日で覚えられる数だった。
それなのに真帆は、まだこのクラスの一員になりきれていない。
廊下を歩くと、教室から笑い声が聞こえた。朝のホームルーム前の、いつものざわめきだった。誰かがスマートフォンの画面を見せ、誰かが昨夜のテレビの話をし、誰かが先生の物真似をしている。
真帆が教室に入ると、そのざわめきがほんのわずかに弱まった。
沈黙ではない。拒絶でもない。けれど、会話の流れに細い段差ができる。新しく川へ落とされた石のまわりで、水が少しだけ向きを変えるように。
「おはよ、真帆」
白石朱里だけが、いつもと同じ調子で手を振った。
朱里は窓際の席に座っていた。肩までの髪を二つに結び、机の上に英単語帳を広げている。真面目なのか不真面目なのか、真帆にはまだ判断できない。単語帳の横には菓子パンの袋が置かれ、赤ペンのふたは開いたままだった。
「おはよう」
真帆が返すと、朱里は椅子を少し引いた。
「ねえ、昨日の宿題やった?」
「数学?」
「そう。最後の証明、意味わかんなくなかった?」
「図を書けば、たぶん」
「出た。図書委員の優等生発言」
「図書委員は関係ないと思う」
「関係あるよ。本読む人って、なんか線がきれいなんだよ。ノートの」
朱里はそう言って、真帆のノートを勝手に覗き込もうとした。真帆は反射的に鞄を閉じる。朱里は笑った。
「隠さなくていいじゃん。見せてよ」
「あとで」
「絶対だよ。真帆の『あとで』は、八割くらい来ないから」
真帆は返事の代わりに、軽く肩をすくめた。
朱里は、真帆が島に来てから最初に話しかけてくれた生徒だった。理由はわからない。席が近かったからかもしれないし、図書室で同じ本を手に取ったからかもしれない。朱里は人との距離の取り方が少し雑で、けれどその雑さに救われることがあった。
教室の前方では、黒瀬結衣が日直の黒板を整えていた。結衣はクラス委員長で、黒板の文字までまっすぐだった。父親は町議会議員だと聞いたことがある。島の大人たちは彼女を見ると、どこか誇らしげな顔をした。
後ろの席では、百瀬海斗が窓の外を見ていた。漁師の家の子で、海の匂いが服にしみついているような少年だった。目が合うと、海斗は小さく顎を上げた。挨拶のつもりらしい。真帆も軽く会釈した。
その横の席は空いていた。
辻本蓮の席だった。蓮は不登校気味で、週に一、二度しか教室に来ない。来たとしても、ほとんど話さない。耳にかかる髪と、いつも持ち歩いている古い携帯音楽プレーヤーが印象に残っている。
チャイムが鳴った。
有馬先生が教室へ入ってきた。まだ三十歳前後の若い教師で、島外から赴任してきたばかりだという。生徒たちからはそれなりに慕われているが、島の古いしきたりにはまだ馴染めていないようだった。
「おはよう。席につけ」
生徒たちはゆるゆると自分の席へ戻った。
有馬先生は出席簿を開いた。
「今日は……辻本、来てるな」
教室の後ろで、低い声がした。
「います」
真帆は少し驚いて振り向いた。蓮がいた。いつの間に入ってきたのかわからなかった。白いイヤホンを片方だけ耳に差し、机に頬杖をついている。
「珍しいな」
海斗がからかうように言った。
「海がうるさくて寝られなかった」
蓮は窓の外を見たまま答えた。
「海は毎日うるさいだろ」
「今日は音が違う」
その言葉に、真帆は窓の外を見た。
霧の向こうで、波が低くうねっている。普段より白波が多い気がした。けれど、島に来て三か月の真帆には、それが異常なのかどうかわからなかった。
有馬先生は一瞬だけ窓の外へ視線を向けたが、すぐに出席簿へ戻した。
「授業は通常通りだ。放課後の部活については、天候を見て判断する。防災無線で何か連絡が入ったら、すぐ知らせる」
島では、天気と海の機嫌が学校生活を決める。
真帆はそのことに、まだ慣れていなかった。
午前中の授業は、奇妙なほど静かに進んだ。
一時間目の国語。二時間目の数学。三時間目の理科。教師の声も、生徒の返事も、いつもより少し遠く聞こえた。校舎のどこかで、風が鳴っている。窓ガラスが小刻みに震える。黒板のチョークの粉が、白く細い線を引いて落ちる。
昼休みになっても、霧は晴れなかった。
弁当を広げながら、朱里が言った。
「今日、なんか変じゃない?」
「天気?」
「うん。それもだけど」
朱里は箸で卵焼きをつついた。
「朝から、変な夢見たんだよね」
「どんな?」
「教室で出席取ってる夢。先生が名前を呼ぶんだけど、誰も返事しないの。みんな席にいるのに、返事しない。で、最後に先生が言うの。今日の欠席者は一名、って」
真帆は箸を止めた。
「怖い夢だね」
「でしょ。でも一番怖いのはさ」
朱里は声を落とした。
「その欠席者が誰なのか、夢の中の私だけが知ってる感じだった」
「誰だったの?」
「それが、起きたら忘れた」
朱里は笑った。笑い話にしようとしているのがわかった。けれどその笑顔は、いつもより少し硬い。
「夢だよ」
真帆は言った。
「そうなんだけどね」
朱里は窓の外へ目を向けた。
「なんか、今日の海、学校を見てるみたいじゃない?」
真帆も外を見た。
グラウンドの向こう、防潮堤の先に海があった。霧のせいで輪郭はぼやけている。けれど、波が寄せるたびに、防潮堤の下で白い泡がふくらんだ。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
その音が終わる直前、校舎が小さく軋んだ。
最初は、誰も反応しなかった。風だと思ったのだ。島の校舎は古い。風の強い日には、窓枠や天井裏がよく鳴る。
けれど次の瞬間、床が下から突き上げられた。
弁当箱が跳ねた。椅子が倒れた。誰かが短く悲鳴を上げた。黒板の横に吊るされた時計が壁に当たり、乾いた音を立てた。
「机の下!」
有馬先生の声が廊下から飛んできた。
真帆は反射的に机の下へ潜った。朱里も隣で身体を丸める。教室全体が左右に振られていた。窓ガラスが一枚、鋭い音を立てて割れた。ロッカーの上に積まれていた段ボール箱が落ち、プリントが雪のように散った。
揺れは長かった。
一度収まったと思った直後、さらに強い揺れが来た。今度は横ではなく、ねじれるような揺れだった。校舎の骨が悲鳴を上げているのがわかった。天井の蛍光灯が大きく振れ、一本が外れて床に落ちた。白い管が割れ、細かな破片が飛び散った。
「真帆」
朱里が手を伸ばしてきた。
真帆はその手を掴んだ。冷たかった。朱里の手なのか、自分の手なのか、わからなかった。
やがて、揺れが弱まった。
教室には、しばらく誰の声もなかった。全員が息を殺していた。まだ何かが壊れ続けているような音が、校舎のどこかから聞こえていた。
「けがをした者はいないか」
有馬先生が教室へ入ってきた。額に小さな切り傷があり、血が眉のあたりに滲んでいた。
「慌てるな。順番に廊下へ出る。上履きのままでいい。ガラスを踏むな」
結衣がすぐに立ち上がった。
「窓側、危ないです。廊下側から出てください」
その声に、生徒たちはようやく動き始めた。
廊下には、他の学年の生徒たちも出ていた。泣いている一年生。スマートフォンを握りしめる三年生。教師たちが大声で指示を出している。けれど、いつもの避難訓練とは違った。誰もが訓練ではないことを知っていた。
外へ出ようとしたところで、別の教師が叫んだ。
「体育館は駄目です! 天井材が落ちています!」
「グラウンドは?」
「海側に亀裂が入っています。防潮堤の下、かなり崩れています」
有馬先生の顔が変わった。
「三階へ上げる。全員、三階へ。屋上の鍵を確認して」
真帆たちは階段を上った。途中、何度か余震が来た。そのたびに壁に手をつき、身を低くした。階段の踊り場の窓から、港の方角が見えた。
連絡橋が、途中で落ちていた。
島と本土をつなぐ細い橋。その中央部分が海へ沈み、両端だけが虚しく残っている。港の岸壁にも亀裂が走り、傾いた漁船が一隻、防波堤にぶつかっていた。
「嘘だろ」
海斗が呟いた。
その声は、いつもの軽さを失っていた。
「橋、落ちてる」
誰かが言った。
「じゃあ、帰れないの?」
誰も答えなかった。
三階の廊下に生徒たちは集められた。二年三組だけではなく、一年と三年の数名、教職員、給食調理員、用務員もいた。学校全体で五十人ほどだった。けれど、校舎の損傷が激しいため、全員が同じ場所にいることはできない。教師たちは安全そうな教室を選び、学年ごとに分けて待機させた。
二年三組は、三階の視聴覚室に入った。
窓からグラウンドが見えた。亀裂が何本も走っていた。防潮堤の外の海は、霧の中で不気味に膨らんでいる。波が一段高くなっているように見えた。
携帯電話はつながらなかった。
画面には圏外の文字が出ている。何度再起動しても同じだった。朱里は母親にメッセージを送ろうとしていたが、送信中の表示が消えない。
「防災無線は?」
結衣が有馬先生に尋ねた。
「職員室で確認している。だが、雑音がひどいらしい」
「津波は?」
「今のところ、正式な情報は入っていない」
その言い方で、正式ではない情報ならあるのだとわかった。
余震は何度も続いた。
そのたびに、誰かが息を呑む。泣き出す者もいた。朱里は真帆の隣に座り、ずっとスマートフォンを握っていた。海斗は何度も窓の外を見ている。蓮は部屋の隅に座り、イヤホンを外していた。珍しいことだった。
「音、消えた」
蓮が言った。
「何の?」
真帆が尋ねると、蓮は少しだけ目を上げた。
「防災無線。いつもなら、島のスピーカーが風で鳴ってる。でも今、何も聞こえない」
それが良いことなのか悪いことなのか、真帆にはわからなかった。
夕方に近づくにつれ、校舎の中は冷え始めた。
非常用の水と乾パンが配られた。教師たちは一階と職員室を行き来していたが、次第に顔色が悪くなっていった。職員室の床に水が入り始めたという話が、生徒の間に広まった。
グラウンドを見ると、亀裂の低い部分に水が溜まっていた。
雨は降っていない。
海水だった。
防潮堤の下から染み込むように、海が学校の敷地へ入ってきていた。最初は水たまり程度だったものが、やがてグラウンドの白線を覆い、サッカーゴールの足元まで広がった。
「潮が上がってる」
海斗が言った。
有馬先生が振り返った。
「津波か」
「違うと思います。津波ならもっと一気に来る。これは、地盤が下がったんです。港の方も沈んでた。たぶん、学校の周りだけ低くなってる」
「つまり?」
「海が引かない」
視聴覚室の中が静まり返った。
海斗は窓の外から目を離さなかった。
「満潮になったら、一階は使えないかもしれません」
有馬先生は何かを言おうとして、やめた。教師として否定したかったのだろう。けれど、海斗の家は代々漁師だった。海のことに関しては、教師よりも彼の方が信用できた。
夜が来た。
島の夜は、暗い。
本土のように隣町の明かりが空を照らすことはない。まして停電した校舎の中では、窓の外も廊下の奥も同じ黒だった。懐中電灯の光だけが、床と壁を細く切り取っている。
生徒たちは視聴覚室の床に座っていた。机を寄せ、カーテンを外して身体にかける者もいた。水と乾パンは少しずつしか配られない。救助は朝になるだろう、と有馬先生は言った。けれど、それが確かな情報ではないことを、全員が感じていた。
真帆は眠れなかった。
朱里は隣でうとうとしている。真帆の袖をつかんだままだった。いつもはよく喋る朱里が、地震の後からほとんど黙っていた。
「大丈夫?」
真帆が小声で尋ねると、朱里は目を開けた。
「うん。たぶん」
「怖い?」
「怖いよ。真帆は?」
「怖い」
「だよね」
朱里は少し笑った。
「真帆が怖いって言うと、ちょっと安心する」
「どうして」
「なんか、真帆って怖くても平気そうな顔するから」
「平気じゃないよ」
「知ってる」
朱里は袖を握る力を少し強めた。
「だから安心する」
真帆は返す言葉を探した。けれど、見つからなかった。
その時、廊下の奥で音がした。
小さな電子音だった。
誰かのスマートフォンかと思った。けれど違う。もっと古い音。学校のチャイムだ。
キンコンカンコン。
視聴覚室にいた全員が顔を上げた。
停電している。非常電源も、職員室の一部を除いて落ちていると聞いていた。チャイムが鳴るはずはなかった。
キンコンカンコン。
二度目のチャイムが、校舎の中に響いた。
「何?」
誰かが震えた声で言った。
有馬先生が懐中電灯を持って立ち上がった。
「確認してくる。全員、ここを動くな」
「先生、一人は危ないです」
結衣が言った。
「職員室まで見るだけだ」
有馬先生が扉へ向かった、その直後だった。
天井のスピーカーから、ぶつ、と小さな音がした。
生徒たちは一斉に見上げた。
ざざ、という砂を擦るようなノイズ。遠くの海鳴りのようにも聞こえる。古いラジオの周波数が合わない時の音にも似ていた。
そして、女の声が流れた。
「これより、帰りの会を始めます」
誰も動かなかった。
真帆は、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。声は若い女の声だった。落ち着いていて、少しだけ硬い。録音のようでもあり、すぐ隣の教室で誰かが喋っているようでもあった。
有馬先生ではない。学校にいる他の教師の声でもない。
「二年三組、出席を取ります」
朱里が真帆の腕を掴んだ。
「ねえ」
真帆は答えられなかった。
スピーカーのノイズが、少し弱くなった。
「相沢、優太くん」
視聴覚室の隅で、男子が小さく手を上げた。
「……はい」
返事をしてから、彼は自分で口を押さえた。返事をしてしまったことに気づいたのだ。
「石倉、菜々さん」
「はい」
今度は反射的だった。名前を呼ばれた者は、学校生活で染みついた習慣として返事をしてしまう。異常な状況でも、出席確認の声には従ってしまう。
「大沢、拓海くん」
「はい」
「黒瀬、結衣さん」
結衣は唇を噛んだ。返事をするべきではないと判断したのだろう。けれど一拍遅れて、声が出た。
「はい」
有馬先生が叫んだ。
「返事をするな!」
しかし、その声はスピーカーには届かなかったようだった。
女の声は淡々と続いた。二年三組の生徒の名前が、一人ずつ呼ばれていく。返事をする者。口を押さえる者。泣き出す者。自分の名前が近づくにつれ、室内の空気が硬くなっていった。
「白石、朱里さん」
朱里の肩が跳ねた。
「はい」
声はかすれていた。
真帆は朱里の手を握り返した。大丈夫、と言いたかった。けれど何が大丈夫なのかわからなかった。
「辻本、蓮くん」
蓮は返事をしなかった。
部屋の隅で、スピーカーを見つめている。
女の声は数秒だけ沈黙した。
ノイズが強くなった。ざざ、ざざ、と波が砂利を引きずるような音がした。
「辻本、蓮くん」
もう一度、同じ名前が呼ばれた。
蓮はそれでも返事をしなかった。
「蓮」
海斗が小声で言った。
蓮は首を横に振った。
女の声は、何事もなかったかのように次の名前へ移った。
「百瀬、海斗くん」
海斗は一瞬、迷った。
「……はい」
その声には苛立ちが混じっていた。恐怖をごまかすための苛立ちだった。
名前はさらに続いた。
真帆は、自分の番を待っていた。出席番号でいえば、もうすぐのはずだった。けれど、どれだけ待っても呼ばれない。
おかしい。
自分は二年三組の生徒だ。転校してきて三か月。出席簿にも、靴箱にも、机にも名前がある。図書委員の当番表にも、朱里と並んで名前が書かれている。
なのに、呼ばれない。
最後の男子の名前が呼ばれたあと、スピーカーは沈黙した。
全員がその沈黙を見上げていた。
終わったのかと思った。
その時、女の声が戻ってきた。
「五十嵐、真帆さん」
真帆は息を吸った。
呼ばれた。
それだけのことなのに、胸の奥が急に冷たくなった。まるで自分の名前が、見知らぬ誰かの持ち物のように聞こえた。
「五十嵐、真帆さん」
二度目だった。
真帆は答えなければいけないと思った。答えなければ、何か取り返しのつかないことが起きる。そんな気がした。
「はい」
声は、自分のものではないように聞こえた。
次の瞬間、結衣が言った。
「待って」
全員の視線が結衣へ向いた。
結衣は青ざめた顔で、真帆を見ていた。
「五十嵐さんって、うちのクラスにいたっけ」
時間が止まった。
最初に笑おうとしたのは海斗だった。
「何言ってんだよ。いるだろ」
けれど、その笑いは最後まで続かなかった。何人かの生徒が、真帆を見ている。その目に、戸惑いがあった。知らない人間が突然教室に紛れ込んでいたような、怯えに近い戸惑いだった。
「いや、いるよ」
朱里がすぐに言った。
「真帆はいる。私の友達だよ」
「でも」
結衣は額に手を当てた。
「席、どこだった?」
「そこじゃん」
朱里が真帆の席を指さそうとして、動きを止めた。
視聴覚室には席などない。全員が床に座っている。けれど朱里が指そうとしたのは、普段の教室の真帆の席だったはずだ。真帆は窓際から二列目、前から三番目に座っている。
そのはずだった。
「真帆の席、どこだっけ」
朱里の声が震えた。
「何言ってるの」
真帆は言った。
けれど、自分の声にも確信がなかった。
女の声が、再び流れた。
「本日の出席確認を終了します」
ノイズが混じった。
遠くで水が跳ねる音がした。校舎の外なのか、スピーカーの中なのか、わからなかった。
「今日の欠席者は、一名」
その言葉を最後に、放送は切れた。
室内には誰も声を出せない時間が残った。
有馬先生が最初に動いた。スピーカーを睨み、扉を開けようとした。
「放送室を確認する」
「先生」
結衣が止めた。
「今、廊下に出るのは危険です」
「だが、誰かが放送を流している」
「誰がですか」
その問いに、有馬先生は答えられなかった。
放送室は二階にある。そこへ行くには、暗い階段を下りなければならない。一階にはすでに海水が入っている。余震も続いている。誰かが放送室に行き、あんな悪趣味な出席確認をしたとは考えにくかった。
「昔の放送じゃない」
蓮が言った。
全員が振り向いた。
「今のスピーカーの鳴り方、二階の放送室じゃない。もっと古い回線を通ってる」
「古い回線?」
有馬先生が聞き返した。
蓮は答えなかった。何かを考え込んでいる。
その後、眠れる者はいなかった。
誰もが小声で話し続けた。あの声は誰なのか。なぜ停電しているのに放送が流れたのか。なぜ真帆の名前で結衣があんなことを言ったのか。そして、「欠席者」とは誰のことなのか。
朱里はずっと真帆の隣にいた。
「ごめん」
朱里が言った。
「何が」
「一瞬、わかんなくなった。真帆の席。ちゃんと覚えてるはずなのに」
「疲れてるんだよ」
「うん」
朱里は頷いた。けれど顔を上げなかった。
「でも私、真帆のことは覚えてるから」
「うん」
「絶対、忘れないから」
その言い方があまりに真剣だったので、真帆は少しだけ笑った。
「大げさだよ」
「大げさじゃない」
朱里は真帆の袖を握った。
「さっきの放送、夢と同じだった」
真帆は何も言えなかった。
「昼に話したでしょ。出席を取る夢。今日の欠席者は一名って」
「偶然だよ」
「偶然かな」
「偶然だよ」
真帆は強く言った。朱里に言ったのか、自分に言ったのかはわからなかった。
夜明け前、霧はさらに濃くなった。
窓の外は白と黒の境目がなくなっていた。海は見えない。けれど、水の音だけが近づいていた。校舎の下で、何かが満ちている。波ではない。もっと静かで、執拗な音だった。
真帆は、いつの間にか浅く眠っていたらしい。
目を覚ました時、視聴覚室には薄い朝の光が差していた。灰色の光だった。夜が終わったというより、暗闇が少し薄まっただけのようだった。
最初に違和感を覚えたのは、手だった。
朱里が握っていたはずの袖が、軽くなっている。
真帆は隣を見た。
朱里がいなかった。
身体を起こした。周囲を見回す。床に座っている生徒たち。壁にもたれて眠る男子。窓際で外を見る海斗。出席簿を抱えたまま座っている有馬先生。結衣は入口近くで目を開けていた。
朱里だけがいない。
「朱里?」
真帆は声を出した。
誰も反応しなかった。
「朱里がいない」
今度は大きな声で言った。
数人が顔を上げた。
「誰?」
近くにいた女子が言った。
真帆はその子を見た。喉が詰まった。
「白石朱里。昨日、ここにいたでしょ」
女子は眉を寄せた。
「白石って、誰」
「ふざけないで」
真帆は立ち上がった。
「朱里だよ。二つ結びで、窓際の席で、英語の単語帳いつも持ってて」
「そんな子、うちのクラスにいた?」
別の男子が言った。
真帆は視線を巡らせた。
海斗が立ち上がっていた。顔が強張っている。蓮も目を開け、こちらを見ていた。結衣は唇を押さえている。
「いた」
海斗が言った。
「白石朱里はいた」
結衣が小さく頷いた。
「私も覚えてる」
蓮は何も言わなかったが、否定もしなかった。
有馬先生が出席簿を開いた。
「落ち着け。確認する」
ページをめくる音がした。
先生の指が、名簿の上を滑る。相沢、石倉、大沢、黒瀬。そこから先も、二年三組の名前が並んでいる。
けれど、白石朱里の名前はなかった。
「そんな」
真帆は出席簿を奪うように覗き込んだ。
ない。
昨日まであったはずの名前がない。消しゴムで消された跡も、修正液の跡もない。最初から存在しなかったかのように、名簿は整っていた。
「先生、昨日の出席確認では呼ばれましたよね」
結衣が言った。
「白石朱里さんって」
有馬先生は出席簿を握ったまま、何も言わなかった。
「先生」
「覚えている」
ようやく先生は言った。
「たしかに、いた」
その声は教師のものではなく、信じていた床が抜けた人間のものだった。
真帆は視聴覚室を飛び出した。
「待て、五十嵐!」
有馬先生の声が追いかけてきたが、止まれなかった。
廊下は薄暗く、床には細かなガラス片が散っていた。階段を下りようとして、真帆は足を止めた。一階へ続く階段の下が、水に沈んでいた。濁った水が、踊り場のすぐ下まで来ている。海の匂いがした。
二階はまだ無事だった。
真帆は教室へ向かった。二年三組の教室。扉は半分開いていた。中は地震のままだった。倒れた椅子。散らばったプリント。割れた窓。床に落ちた時計。
真帆は朱里の席へ向かった。
窓際の、前から二番目。
そこには、机がなかった。
隣の机との間隔が、自然に詰まっている。椅子もない。床に跡すらない。そこに誰かの机があったという事実だけが、きれいに抜き取られていた。
真帆は立ち尽くした。
「朱里」
名前を呼んでも、返事はなかった。
机がない。名簿にもない。クラスメイトの記憶からも消えかけている。
それなのに、真帆の中には朱里がいた。昨日の昼、卵焼きをつつきながら夢の話をした朱里。夜、真帆の袖を握って「絶対、忘れないから」と言った朱里。
忘れるわけがない。
真帆は自分の席へ向かった。
窓際から二列目、前から三番目。
そこに自分の机はあった。教科書も、ノートも、筆箱もある。けれど、机の上に置いていたはずの図書委員の当番表がなくなっていた。
鞄を開ける。スマートフォンを取り出す。圏外の表示は変わらない。けれど、メッセージアプリには、昨夜の未読が一件残っていた。
白石朱里。
真帆は震える指で開いた。
送信時刻は、夜の放送が流れる少し前だった。本文は短い。
「名簿、変だよ。真帆の名前だけ、インクが新しい」
真帆は画面を見つめた。
その時、廊下で足音がした。
海斗と結衣、蓮が教室へ入ってきた。少し遅れて有馬先生も来る。先生は真帆を叱ろうとしたようだったが、教室を見て言葉を失った。
「机がない」
海斗が言った。
「朱里の机、ここにあったよな」
「ありました」
結衣の声は小さかった。
蓮は教室の入口で立ち止まったまま、壁のスピーカーを見ていた。
「持っていかれたんじゃない」
蓮が言った。
海斗が振り返る。
「どういう意味だよ」
「最初からなかったことにされてる」
その言葉に、誰も反論できなかった。
真帆はスマートフォンの画面を有馬先生に見せた。先生は朱里の名前とメッセージを確認し、顔色を変えた。
「職員室へ行く」
「一階は水が」
「二階の渡り廊下から行ける。古い名簿が残っているかもしれない」
有馬先生はすぐに動き出した。真帆たちも後を追った。
職員室は本校舎の二階にあった。扉の前には棚が倒れており、海斗がそれを押しのけた。中はひどい有様だった。書類は床に散らばり、戸棚のガラスは割れている。コピー機は斜めにずれ、壁の時計は止まっていた。
有馬先生は鍵のついた戸棚を開けようとしたが、地震で歪んだのか、なかなか開かなかった。海斗が力を貸し、ようやく扉が開く。中には出席簿の予備、入学時の名簿、古い学校要覧が並んでいた。
「二年三組」
先生がファイルを取り出す。
結衣が横から覗き込む。海斗も、蓮も、真帆も、息を止めて見守った。
入学時の名簿。
二年三組。
名前は十六人分しかなかった。
白石朱里の名前はない。
そして、五十嵐真帆の名前も、本来の並びにはなかった。
最後の行に、別のペンで書き足されていた。
五十嵐真帆。
インクの色が、わずかに違う。筆圧も違う。定規で引かれた罫線から、名前の下半分が少しはみ出している。
真帆はその文字を見つめた。
自分の名前なのに、自分のものではないように見えた。
「先生」
結衣が言った。
「二年三組は、十七人ですよね」
有馬先生は答えなかった。
「昨日までは」
海斗が低く言った。
「十七人だった」
蓮が、職員室の壁を見た。そこには古い放送設備の点検表が貼られていた。端が湿気で丸まり、日付は何年も前で止まっている。
「この学校、まだ何か残ってる」
蓮が呟いた。
「何が」
真帆が尋ねる。
「今の放送室じゃない。もっと古い場所。昨日の声は、そこから来た」
有馬先生が蓮を見た。
「辻本、お前は何か知っているのか」
蓮は目を逸らした。
「知らない。でも、聞いたことがある」
「何を」
蓮は少し黙ってから言った。
「旧校舎に、使われてない放送室があるって」
窓の外で、何かが崩れる音がした。
全員が振り向いた。
グラウンドの水位が上がっていた。校門の下半分が水に浸かっている。防潮堤の向こうの海と、学校の敷地の境目はもうわからなくなっていた。
真帆は手の中のスマートフォンを握りしめた。
朱里からの最後のメッセージが、画面に残っている。
名簿、変だよ。
真帆の名前だけ、インクが新しい。
真帆はもう一度、ファイルの中の自分の名前を見た。
五十嵐真帆。
それは確かに、そこにあった。
けれどその名前は、まるで誰かが慌てて真帆をこのクラスに紛れ込ませた証拠のようだった。
遠くで、またチャイムが鳴った気がした。
今度は誰も、聞き間違いだとは言わなかった。




