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海に沈む学校 ――夜の校内放送が告げる。「今日の欠席者は一名」  作者: 二条理|アコンプリス


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第六章 海も出席している

 名前を読むだけなら、誰にでもできる。

 紙に書かれた文字を目で追い、声にする。それだけの行為だ。授業の始まりに教師が出席を取る。式典で受賞者の名を呼ぶ。病院の待合室で患者が呼ばれる。役所の窓口で番号と名前が確認される。日常の中で、名前は何度も読み上げられている。

 けれどその時、五十嵐真帆が屋上で読もうとしていた名前は、ただの文字ではなかった。

 それは、二十一年前に消された子どもたちだった。

 死んだのではなく、死んだことさえ認められなかった子どもたち。学校に来ていたのに、欠席にされた子どもたち。出席簿に一度は記されたのに、大人たちの都合で別の記録に書き換えられた名前。

 真帆は古い出席簿を両手で持っていた。

 風がページをめくろうとする。指先に力を込める。紙は湿気を吸い、少し重くなっていた。海から吹き上げる風が塩を運び、インクの古い匂いと混ざる。

 屋上には、生徒と教師たちが身を寄せ合っていた。

 誰も動かない。誰も言葉を発しない。さっきまで泣いていた一年生も、怒鳴っていた教師も、疑いの目を向けていた生徒たちも、今はただ真帆を見ていた。

 拡声器からはノイズが流れている。

 ざざ、ざざ。

 海が砂を引く音に似ていた。あるいは、誰かが遠くで息を殺して泣いている音にも聞こえた。

「五十嵐真帆さん」

 拡声器の女の声が、もう一度呼んだ。

「あなたは、どちらの五十嵐真帆ですか」

 真帆は答えなかった。

 返事をしてはいけないと、母は言った。返事をすれば、照合対象になる。旧放送装置は、記録の矛盾を修正しようとしている。名簿と記憶と録音が食い違う名前を、欠席にしようとしている。

 けれど黙っているだけでは、何も変わらない。

 黙っていたから、二十一年前の子どもたちは欠席にされた。黙っていたから、百瀬海斗の祖父は救助を妨害した者にされた。黙っていたから、白石朱里は名簿からも机からも記憶からも消されようとしている。

 声を出すことと、返事をすることは違う。

 真帆はそう思った。

 呼ばれた名に従うのではない。こちらから呼び返すのだ。

 真帆は古い出席簿の最初の名前を読んだ。

「相馬絵里さん」

 拡声器のノイズが大きくなった。

 誰の名前なのか、真帆は知らない。顔も知らない。どんな声だったのか、どんな席に座っていたのか、好きな食べ物も、苦手な科目も、何も知らない。

 それでも、その名前はそこにあった。

 二十一年前、学校に来ていた子どもの名前として。

「出席しています」

 真帆は続けた。

 自分で言ってから、その言葉の重さに胸が詰まった。

 出席しています。

 それは、教師が確認する言葉ではなかった。真帆がその人の存在を認めるための言葉だった。

 拡声器から、低いノイズが返ってきた。女教師の声は一瞬途切れ、遠くで水が落ちるような音がした。

 結衣が真帆の隣に立った。

 彼女は白石朱里について書いたノートを抱えている。顔は青ざめていたが、目は逸らさなかった。

「私も読みます」

 真帆は頷いた。

 二人で出席簿を支えた。

 次の名前を、結衣が読んだ。

「小野寺翔くん。出席しています」

 海斗が息を吸う音が聞こえた。

 彼は少し離れたところに立っていたが、その名前を聞くと前へ出た。

「その次、俺に読ませて」

 真帆は出席簿を海斗へ向けた。

 海斗の指が、紙の上で止まる。

 彼は文字を見たまま、しばらく声を出せなかった。読めないのではない。読もうとすると、そこに祖父の影が重なるのだろう。

 二十一年前、海斗の祖父はこの子どもたちを助けようとした。

 その行為は隠された。邪魔者にされた。けれど、子どもたちの名前を読むことは、同時に海斗の祖父が助けようとしたものを取り戻すことでもある。

 海斗は低く読んだ。

「川端悠斗くん」

 声が震えた。

 彼は一度唇を噛み、それからはっきりと言った。

「出席しています」

 風が屋上を吹き抜けた。

 拡声器のノイズが一瞬だけ弱まった。

 屋上にいる生徒たちは、まだ戸惑っていた。何が起きているのか理解できない者も多い。だが、名前を読むたびに空気が変わっていくことだけは、誰もが感じていた。

 ただ怖がるだけだった時間が、少しずつ別のものに変わっていく。

 抗う時間へ。

 蓮がカセットテープを握ったまま近づいた。

「録音します」

 有馬先生が彼を見る。

「今の声を?」

「はい。消えたら困るから」

 蓮は携帯音楽プレーヤーを操作した。録音ランプが小さく光る。

「紙も変わるかもしれない。記憶も変わるかもしれない。だったら、声を残すしかない」

「蓮」

 真帆が呼ぶと、彼は少しだけ肩をすくめた。

「俺も、欠席は嫌いなので」

 その言い方に、少しだけ彼らしさが戻っていた。

 有馬先生も出席簿に手を添えた。

「私にも読ませてくれ」

 海斗が鋭く先生を見た。

 先生は目を逸らさなかった。

「私に資格があるとは思っていない。だが、読まなければならないと思う」

 真帆は海斗を見た。

 海斗はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「逃げるなよ」

「逃げない」

 有馬先生は出席簿の名前を見た。

「高科美月さん。出席しています」

 声は静かだった。

 けれど、その一言のあと、灰谷校長が給水タンクの横で呻いた。

 結衣が駆け寄る。

「校長先生」

 灰谷校長は薄く目を開けていた。呼吸は荒く、顔色は悪い。それでも彼は、真帆たちの方を見ていた。

「……続けなさい」

 かすれた声だった。

「最後まで……呼ぶんだ」

 海斗が校長を睨んだ。

「言われなくても呼ぶ」

 灰谷校長は目を閉じかけ、また開いた。

「百瀬くん」

 海斗の肩が動いた。

「君の祖父は……悪くなかった」

 屋上の空気が止まった。

 海斗は声を出せなかった。

 灰谷校長は苦しそうに息をしながら、言葉を続けた。

「彼は……地下へ行こうとした。私たちは止めた。危険だからと。だが本当は……もう誰も助けられないと、思いたかった。責任を取りたくなかった。彼だけが……まだ名前を呼んでいた」

「何て」

 海斗の声は掠れていた。

「生徒の名前を……ひとりずつ。まだいる、まだいると……」

 海斗は拳を握った。

 真帆は彼の横顔を見た。怒りもあった。悲しみもあった。けれど、それ以上に、ようやく祖父の姿に追いついた人間の顔をしていた。

「じいちゃんは、呼んでたんだな」

 海斗は呟いた。

「消すためじゃなくて、助けるために」

 灰谷校長の目元が歪んだ。

「すまなかった」

 海斗は何も言わなかった。

 代わりに、出席簿へ目を落とした。

「続けよう」

 真帆は頷いた。

 名前は続いた。

 真帆、結衣、海斗、蓮、有馬先生。時に灰谷校長もかすれた声で補った。二十一年前の子どもたちの名前が、屋上の風の中へ一つずつ解き放たれていく。

 誰かが途中から泣き出した。

 それは、二十一年前を知る教師ではなかった。白石朱里を覚えていなかったはずの女子生徒だった。

「なんか、わかんないけど」

 彼女は泣きながら言った。

「今の名前、聞いたことある気がする」

 その言葉をきっかけに、周囲がざわめいた。

「俺も」

「夢で聞いたような」

「体育館の古い賞状にあった名前かも」

「違う、掲示板……」

 記憶の底に沈められていたものが、水面へ浮かび上がるように、生徒たちが断片を口にし始めた。確かな記憶ではない。けれど、完全な無ではない。

 欠席にされた名前は、学校のどこかに残っていた。

 賞状の裏。古い机の落書き。卒業アルバムの空白。用務員室の名札。図書カードの貸出記録。誰も意識しなかった痕跡が、子どもたちの記憶の中で小さな欠片になって残っていたのだ。

 真帆は出席簿を読み進めた。

 最後に、あの名前があった。

 五十嵐真帆。

 ページの上で、自分と同じ名前が、二十一年前のインクで残っている。

 真帆の声は出なかった。

 目の前がかすんだ。母がこの名前を忘れられなかった理由が、少しわかった気がした。自分と同じ名前だからではない。救えなかった誰かの名前だからだ。その名前が欠席にされようとした時、母は抵抗した。旧放送室に声を残し、娘に同じ名前をつけ、それでも真実を語れなかった。

 母は弱かったのかもしれない。

 でも、弱さの中で名前だけは手放さなかった。

「真帆」

 海斗が小さく呼んだ。

 今の真帆を呼ぶ声だった。

 真帆は息を吸った。

「五十嵐真帆さん」

 自分の名前を呼んでいるようで、別の誰かを呼んでいる。

 その奇妙な感覚に耐えながら、真帆は言った。

「出席しています」

 拡声器のノイズが激しくなった。

 ざざ、ざざ。

 風が強くなり、屋上にいた生徒たちが身をかがめる。海が校舎の壁を叩く音が響く。水面が膨らみ、体育館の屋根を越えそうになった。

 拡声器から、女教師の声が流れた。

「記録に不一致があります」

 真帆は出席簿を抱きしめた。

「五十嵐真帆さんは、二名確認されています」

 屋上が静まり返る。

「一名を欠席処理します」

 真帆の足元が揺れた。

 海斗がすぐ横に立つ。

「させるかよ」

 拡声器は淡々と続ける。

「現在名簿の五十嵐真帆さん。二十一年前の五十嵐真帆さん。どちらを出席としますか」

 真帆は言葉を失った。

 その問いは、最初からそこにあった。

 自分が出席すれば、二十一年前の少女が欠席になる。二十一年前の少女を出席に戻せば、自分が名簿から外れる。放送は、そういう形で矛盾を処理しようとしている。

 誰か一人を選べ。

 選ばれなかった者を欠席にする。

 それは二十一年前に大人たちがしたことと、同じだった。

 助かる者と、助からない者。記録に残す者と、消す者。出席にする者と、欠席にする者。

 真帆の喉が乾いた。

 自分は生きている。ここにいる。母が名前をつけた。朱里が友達だと言ってくれた。海斗が覚えていると言ってくれた。

 けれど、二十一年前の五十嵐真帆も、ここにいた。旧校舎にいた。出席簿にいた。母が忘れられなかった。欠席にしないでと、誰かが声を残した。

 どちらかを選べと言われても、選べるはずがない。

「答えろってか」

 海斗が拡声器に向かって言った。

「馬鹿じゃねえの」

 真帆は彼を見た。

 海斗は怒っていた。純粋に怒っていた。難しい理屈ではなく、理不尽なものに対して怒っていた。

「どっちも五十嵐真帆だろ」

 その声は、屋上に響いた。

「一人が生きてて、一人が死んでる。だから何だよ。名前が同じなら、どっちか消さなきゃいけないのか。そんなわけないだろ」

 結衣が続いた。

「記録を分ければいいんです。二十一年前の五十嵐真帆さんと、現在の五十嵐真帆さん。二人は別人です。どちらかが誤記ではありません」

 蓮が録音機を掲げた。

「両方、記録する」

 有馬先生が言った。

「二十一年前の五十嵐真帆さん。現在の五十嵐真帆さん。どちらも出席です」

 拡声器のノイズがさらに強くなった。

「記録に不一致があります」

 女教師の声が揺れる。

「一名を欠席処理します」

「しない!」

 真帆は叫んだ。

 自分の声が、風とノイズを切った。

「私は、五十嵐真帆です」

 拡声器が震えた。

 真帆は続けた。

「二十一年前の五十嵐真帆さんも、出席しています」

 手の中の出席簿が熱を持ったように感じた。

「私たちは、どちらも欠席ではありません」

 その瞬間、音が消えた。

 風も、海も、ノイズも、すべてが一瞬だけ遠のいた。

 真帆は自分の鼓動だけを聞いていた。

 次に聞こえたのは、小さな返事だった。

「はい」

 誰の声だったのか、わからない。

 少女の声のようでもあり、朱里の声のようでもあり、真帆自身の声のようでもあった。

 それを合図にしたように、拡声器から別の音が流れた。

 カセットテープが巻き戻るような音。

 古い機械が長い仕事を終えるように、ぎりぎりと鳴った。ノイズが少しずつ弱まり、代わりにたくさんの声が重なり始める。

 はい。

 はい。

 はい。

 子どもたちの返事だった。

 ひとりではない。二人でもない。何人もの声が、出席を告げている。遠く、暗い場所から、ようやく教室へ戻ってきたような声。

 屋上にいた生徒たちは、誰も動かなかった。

 結衣が涙をこぼした。

 海斗は空を見上げていた。蓮は録音機を握ったまま、瞬きもせずに拡声器を見ている。有馬先生は膝をつき、顔を伏せた。灰谷校長は目を閉じ、声にならない謝罪を繰り返していた。

 真帆は出席簿を開いたまま、次の名前を探した。

 白石朱里。

 そこにはない名前だ。

 だが、真帆の中にはある。結衣のノートにもある。海斗も蓮も有馬先生も呼んだ。まだ足りない。もっと多くの人に呼んでもらわなければ、朱里は戻らない。戻らないとしても、消してはいけない。

「白石朱里さん」

 真帆は大きな声で言った。

 屋上の何人かが反応した。

「白石……」

「朱里?」

 真帆は結衣のノートを開いた。

「二年三組。白石朱里さん。髪は二つ結び。英語が苦手。菓子パンをよく食べる。真帆の友人。昨日、ここにいました」

 結衣が続けた。

「図書委員でした。本当は図書委員でした。私ではありません。白石朱里さんです」

 海斗が言った。

「窓際の席だった。俺の斜め前。よく真帆のノート覗いてた」

 蓮が言った。

「放送の前、真帆の袖を掴んでた」

 有馬先生が言った。

「白石朱里。二年三組。出席しています」

 その時、屋上の端にいた女子が小さく声を上げた。

「思い出した」

 彼女は泣きながら言った。

「朱里、昨日、私に消しゴム貸してくれた」

 別の男子が続く。

「俺、英語の小テストで答え見せろって言われた」

「昼に菓子パン食べてた」

「怖い夢見たって言ってた」

「いた」

「白石さん、いた」

 声が次々に上がった。

 名前は、一人で守るものではなかった。誰か一人の記憶では弱すぎる。けれど、いくつもの記憶が重なれば、消されかけた存在の輪郭が戻ってくる。

 真帆は泣きそうになった。

 朱里の姿が、さっきよりもはっきり浮かぶ。

 二つ結び。笑うと細くなる目。袖を握る手。

 ――絶対、忘れないから。

「朱里」

 真帆は空に向かって呼んだ。

「白石朱里」

 拡声器から、かすかなノイズが返った。

 そして、少女の声がした。

「遅いよ」

 真帆の目から涙が落ちた。

 朱里の声だった。

 間違いない。ほんの一瞬だった。空耳だったと言われれば否定できないほどの短さだった。それでも、真帆にはわかった。

「ごめん」

 真帆は言った。

「ごめん、朱里」

 返事はなかった。

 けれど、屋上の中央に置かれた結衣のノートのページが、風もないのに一枚めくれた。そこには、白石朱里の名前が書かれている。その文字は、さっきより濃く見えた。

「三年の先輩も」

 蓮が言った。

 真帆は顔を上げた。

「名前を探さないと」

 三年の担任が出席簿を持ってきた。手が震えている。

「さっき確認した時、人数は合っていたんだ。誰が消えたのかわからなかった。でも」

 彼はページを開いた。

 ひとつの名前の上に、薄い滲みがあった。インクが消えかけているように見える。

「ここだけ、読みにくい」

 真帆たちは覗き込んだ。

 文字はかすれている。だが、完全には消えていない。

 高森陸。

 三年生の何人かが声を上げた。

「高森!」

「そうだ、高森だ」

「海斗と港の話してた」

「放送室見に行くって走った」

 名前が戻った瞬間、その人物の輪郭が屋上に広がった。

 真帆は言った。

「高森陸くん。出席しています」

 三年生たちが声を合わせた。

「高森陸。出席しています」

 拡声器から、また返事が聞こえた気がした。

 はい。

 それは朱里の時より遠かった。けれど、確かにあった。

 その後、真帆たちは消えた名前をすべて呼び続けた。

 二十一年前の子どもたち。白石朱里。高森陸。百瀬海斗の祖父の名前。旧放送室に声を残した教育実習生、五十嵐沙和子。真帆の母の名前を有馬先生が口にした時、真帆は初めて母の過去を一人の人間として見た気がした。

 母もまた、あの日から欠席し続けていたのかもしれない。

 島を出ても、家庭を持っても、娘を産んでも、二十一年前の教室から出られなかった。救えなかった子どもたちの名前を背負い続け、その重さを真帆の名前にも少しだけ渡してしまった。

 許せるかどうかはわからない。

 けれど、理解することはできるかもしれない。

 すべての名前を読み終えた時、拡声器は長い沈黙に入った。

 屋上には、風と波の音だけがあった。

 やがて、女教師の声が流れた。

「本日の出席者」

 誰も息をしなかった。

「全員確認」

 その言葉のあと、スピーカーから小さな機械音がした。

 ぷつり。

 何かが切れた音だった。

 同時に、校舎の下から響いていた低い唸りが止まった。旧放送装置が停止したのだと、蓮が呟いた。

 海面が急に静かになった。

 満ち続けていた水が止まったように見えた。いや、実際には海がすぐに引いたわけではない。校舎はまだ水に囲まれている。体育館もグラウンドも沈んでいる。だが、さっきまで学校を飲み込もうとしていた執拗な気配が消えた。

 霧の向こうから、音が聞こえた。

 最初は風かと思った。

 だが違う。

 ヘリコプターの音だった。

 誰かが空を指さした。

 白い霧の奥に、光が揺れている。ひとつ。続いてもうひとつ。救助ヘリのライトが、雲の下で明滅していた。

「救助だ!」

 誰かが叫んだ。

 その声をきっかけに、屋上が一気に動き出した。泣き出す者。抱き合う者。座り込む者。教師たちは必死に生徒たちを落ち着かせようとしたが、自分たちも涙をこらえきれていなかった。

 真帆はその場に立ち尽くしていた。

 救助が来た。

 終わったのだろうか。

 そう思っても、素直に安堵できなかった。朱里は戻っていない。高森陸も戻っていない。二十一年前の子どもたちも戻らない。名前を取り戻すことと、命を取り戻すことは違う。

 けれど、名前がなければ悼むことすらできない。

 今、彼らはようやく死者になれたのだ。

 欠席者ではなく。

 救助は夜明けまでかかった。

 ヘリはすぐには着陸できず、まず救助隊員がワイヤーで降りてきた。負傷者、低学年、体力の落ちた生徒の順に引き上げられる。波はまだ高く、霧も完全には晴れない。だが、拡声器はもう鳴らなかった。

 真帆が最後の方まで屋上に残ったのは、出席簿を手放したくなかったからだった。

 有馬先生は救助隊員に事情を説明し、古い出席簿とカセットテープ、結衣のノートを防水袋に入れるよう頼んだ。証拠として保全するためだ。

 海斗は、灰谷校長が搬送されるのを黙って見ていた。

 校長は一度だけ目を開け、海斗を探すように視線を動かした。海斗は近づかなかった。けれど目は逸らさなかった。

 謝罪は、簡単に受け取れるものではない。

 それでも、聞かなかったことにはしなかった。

 蓮は録音機を胸に抱えていた。電池はほとんど残っていなかったが、録音は最後まで残っているらしい。

「消えたら困るから、コピー取ります」

 彼は有馬先生にそう言った。

 有馬先生は頷いた。

「頼む」

 その短いやり取りだけで、蓮の顔が少し変わった。誰かに頼まれること。必要とされること。それもまた、出席の一種なのかもしれない。

 真帆がヘリに引き上げられる直前、海斗が近づいてきた。

「大丈夫か」

「わからない」

 正直に答えると、海斗は少し笑った。

「だよな」

「海斗は?」

「俺もわからない」

 彼は海を見た。

「じいちゃんのこと、家に帰ったら親父に聞く。逃がさない」

「うん」

「それから」

 海斗は真帆を見た。

「お前のことも忘れない」

 真帆は少しだけ目を見開いた。

「まだ心配してるだろ。自分が欠席になるんじゃないかって」

「少し」

「じゃあ言っとく。五十嵐真帆。二年三組。転校生。図書委員。怖い時も怖くない顔をする。けど本当は怖がり」

「最後のは余計」

「覚えやすいだろ」

 真帆は笑った。

 その笑いは、涙とほとんど同じだった。

 救助隊員が真帆の肩にハーネスをかけた。風が強く、ヘリの音が耳を塞ぐ。真帆は最後に屋上を見た。

 生徒たちがいる。教師たちがいる。有馬先生がいる。結衣がノートを抱えている。蓮が録音機を持っている。海斗がこちらを見ている。

 そして、そこには見えない名前もある。

 白石朱里。

 高森陸。

 二十一年前の子どもたち。

 真帆は心の中で、もう一度全員の名前を呼んだ。

 返事は聞こえなかった。

 けれど、海が少しだけ静かになった気がした。

 数日後、真帆は本土の病院で目を覚ました。

 最初に見えたのは白い天井だった。学校の天井ではない。水の匂いもしない。消毒液の匂いと、空調の乾いた音がある。

 ベッドの横に、母がいた。

 五十嵐沙和子。

 母は椅子に座ったまま眠っていた。顔色は悪く、髪は乱れている。真帆が少し動くと、すぐに目を覚ました。

「真帆」

 母の声は掠れていた。

 真帆は何を言えばいいかわからなかった。

 怒りたい。責めたい。泣きたい。抱きつきたい。全部が同時に胸に押し寄せて、言葉が出てこない。

 母は真帆の手を握った。

「ごめんなさい」

 最初の言葉は、それだった。

「本当に、ごめんなさい」

 真帆は母の手を見た。指先が荒れている。診療所で働き、救助の混乱の中で何度も無線を試したのだろう。母の留守番電話は、島内の非常通信を通じて断続的に届いていたと後で聞いた。

「どうして言ってくれなかったの」

 真帆の声は、自分でも驚くほど静かだった。

 母は目を伏せた。

「言えなかった」

「それ、みんな言うね」

 母の表情が痛みに歪む。

 真帆は続けた。

「有馬先生も、灰谷校長も。言えなかったって。危険だったから、証拠がなかったから、守りたかったから。そうやって誰も言わないから、朱里が消えた」

 母は何も言わなかった。

 真帆の目に涙が浮かぶ。

「私は、何も知らなかった。自分の名前のことも、お母さんがこの学校で何を見たのかも、何のために島に来たのかも」

「あなたを巻き込みたくなかった」

「巻き込まれたよ」

 その言葉は、刃のように出た。

 母の手が震えた。

「うん」

 母は頷いた。

「そうね。私は、あなたを守るつもりで何も話さなかった。でも、話さないことは守ることじゃなかった」

 真帆は涙を拭かなかった。

 母はゆっくり話し始めた。

 二十一年前、教育実習生として島の中学校にいたこと。地震の日、旧校舎地下に生徒が取り残されたこと。救助に向かおうとした漁師がいたこと。学校側が危険を理由に救助を止め、後に一部の生徒を欠席扱いにしたこと。母が録音を残したが、当時は証拠として扱われず、島を出るしかなかったこと。

「五十嵐真帆さんは」

 真帆は尋ねた。

「どんな子だったの」

 母は目を閉じた。

「静かな子だった。でも、強い子だった。図書室が好きで、出席番号を呼ばれる時、いつも少し遅れて返事をした。考え事をしていることが多かったから」

「私に似てる?」

 母は涙をこぼした。

「少し」

「だから、私に同じ名前をつけたの?」

「忘れたくなかった。でも、それは私の弱さだった。あなたに背負わせてはいけなかった」

 真帆は天井を見た。

 怒りはまだ消えない。

 けれど、母の中に二十一年間沈んでいたものの深さも、少しだけわかった。

「この名前」

 真帆は言った。

 母が息を止める。

「嫌いじゃないよ」

 母は顔を覆った。

 真帆は母の手を握り返した。

「でも、私の名前だから」

 母は何度も頷いた。

「うん」

「二十一年前の五十嵐真帆さんの名前でもある。でも、私の名前でもある」

「うん」

「どっちも欠席じゃない」

 母は声を出して泣いた。

 真帆はその手を握っていた。

 事件は、その後大きく報道された。

 地震による孤立事故として始まったニュースは、やがて二十一年前の学校事故隠蔽へと焦点を移した。旧出席簿、録音テープ、結衣のノート、蓮の録音、複数の生徒と教師の証言。灰谷校長は入院先で過去の記録改竄を認めた。町教育委員会と当時の関係者への調査も始まった。

 有馬先生は処分を受けた。

 旧放送装置を無断で起動させた責任は免れなかった。だが同時に、二十一年前の隠蔽を明るみに出す重要な証言者にもなった。彼がしたことは許されない。けれど、彼が何もしなければ名前が戻らなかったかもしれない。その矛盾は、簡単には裁けないものとして残った。

 蓮は、録音データのコピーをいくつも作った。

 学校、警察、報道機関、真帆、結衣、海斗。彼は必要以上に無口だったが、誰よりも記録にこだわった。

「消えると困るから」

 それが口癖のようになった。

 結衣は、父親と長い話をしたらしい。

 町議である父がどこまで知っていたのか、何を見て見ぬふりをしたのか、真帆には詳しくわからない。ただ、結衣は以前より少しだけ表情が変わった。優等生らしい整った顔の奥に、もう黙らないという硬さが生まれていた。

 海斗の家では、祖父の話が初めてきちんと語られた。

 海斗はそれを全部聞き、泣いたのか怒ったのか、しばらく学校関係者には会いたくないと言っていた。だが真帆には短いメッセージが来た。

 ――じいちゃんの名前、仏壇の横に書いて貼った。

 その次に、もう一通。

 ――欠席じゃないからな。

 真帆はその文面を何度も読み返した。

 白石朱里と高森陸は戻らなかった。

 彼らの失踪について、公式には「災害時の行方不明」とされた。けれど、同じ屋上にいた者たちは知っている。二人はただ水に流されたのではない。名前を奪われかけ、最後に呼び戻されたのだ。

 遺体は見つからなかった。

 それでも、名簿には名前が戻った。

 二年三組の出席簿には白石朱里の名前が復元された。三年の出席簿には高森陸の名前が戻った。二十一年前に欠席扱いにされた子どもたちも、正式な調査資料の中で「当日登校確認あり」と訂正された。

 時間は戻らない。

 けれど、記録は訂正できる。

 それは小さな救いであり、あまりにも遅い救いでもあった。

 数週間後、真帆は島へ戻った。

 学校はもう使われていなかった。地盤沈下と浸水の被害が大きく、解体が決まっていた。校舎の一部はすでに取り壊され、旧校舎へ続く渡り廊下は跡形もない。グラウンドにはまだ泥が残り、白線の代わりに重機の跡が走っていた。

 海は、何事もなかったように静かだった。

 防潮堤の近くに、小さな慰霊碑が建てられていた。仮設のものだったが、そこには二十一年前の生徒たちの名前と、今回行方不明となった白石朱里、高森陸の名前が刻まれている。

 真帆は花を置いた。

 隣に海斗が立っていた。少し離れて結衣と蓮もいる。有馬先生は来ていない。来られなかったのか、来なかったのかはわからない。母は診療所の仕事で遅れて来ると言っていた。

 真帆は慰霊碑の名前を一つずつ読んだ。

 声には出さなかった。

 心の中で、丁寧に。

 最後に、白石朱里の名前を読んだ。

 風が吹いた。

 海の匂いがした。学校の屋上で嗅いだ、あの重い匂いとは違う。よく晴れた日の、少しだけ塩辛い匂いだった。

「真帆」

 海斗が言った。

「聞こえたか」

「何が?」

「いや」

 海斗は海を見た。

「チャイムみたいな音」

 真帆は耳を澄ませた。

 何も聞こえない。

 波の音だけだった。

 けれど、少しして、遠くで確かに音がした。

 キンコンカンコン。

 壊れているはずの、学校のチャイム。

 結衣が顔を上げた。蓮も録音機を取り出しかけて、途中でやめた。

 もう記録しなくてもいい。

 そう思ったのかもしれない。

 チャイムは一度だけ鳴り、すぐに消えた。

 真帆は海を見た。

 波が防潮堤の下で白く崩れている。水面は光を反射し、眩しいほどだった。その向こうには本土が見える。連絡橋は落ちたままだが、仮設船が行き来している。

 学校は沈んだ。

 けれど、すべてが沈んだわけではない。

 真帆は鞄から一冊のノートを取り出した。結衣が新しく作った名簿の写しだった。二十一年前の生徒たち。白石朱里。高森陸。関係者の証言。母の録音の文字起こし。蓮の録音データの保管先。海斗の祖父の名前。

 その最後に、真帆は自分の名前を書いた。

 五十嵐真帆。

 少し考えて、その下にもう一行書いた。

 二十一年前の五十嵐真帆さんも、出席。

 海斗がそれを覗き込んだ。

「いいんじゃないか」

「うん」

「お前も出席な」

 真帆は頷いた。

 結衣が静かに言った。

「白石さんも」

 蓮が続けた。

「高森先輩も」

 海斗が海に向かって言った。

「じいちゃんも」

 真帆はノートを閉じた。

 その時、海の方から風が吹いた。

 慰霊碑に置いた花が揺れる。誰かが返事をしたように、白い花びらが一枚だけ空へ舞った。

 本日の出席者、全員確認。

 そんな声が聞こえた気がした。

 真帆は海に向かって、小さく返事をした。

「はい」

 それは放送への返事ではなかった。

 誰かに命じられた声でもなかった。

 自分がここにいることを、自分で認めるための声だった。

 波は穏やかに寄せ、穏やかに引いていく。

 もう誰も、欠席にはしない。

 了



 ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。


 本作は、地震で孤立した学校を舞台にした物語ですが、中心に置きたかったのは「怖い放送」や「沈んでいく校舎」だけではありません。


 誰かの名前が、記録から消える。

 誰かが確かにそこにいたのに、「いなかったこと」にされる。

 それは、死そのものとは別の怖さがあると思っています。


 出席と欠席という、学校では当たり前の言葉。

 でもその一行が、誰かの存在を認めるものにも、誰かを消してしまうものにもなる。

 そんな感覚から、この物語は生まれました。


 真帆、朱里、海斗、結衣、蓮。

 それぞれが抱えていたものは違いますが、最後に彼らがしたのは、とても単純なことでした。


 名前を呼ぶこと。

 忘れないこと。

 そこにいたと認めること。


 たったそれだけのことが、誰かを救うこともあるのだと思います。


 もし少しでも心に残る場面がありましたら、評価、ブックマーク、感想などで応援していただけると、とても励みになります。

 特に「この人物が好き」「この場面が怖かった」「ここで泣いた」など、一言でもいただけたら嬉しいです。


 最後まで読んでくださったあなたも、この物語の出席者です。


 本当にありがとうございました。

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