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海に沈む学校―地震で孤立した孤島の学校。夜になると校内放送が告げる──「今日の欠席者は一名」。  作者: 妙原奇天


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第5話「漂流名簿」

 最初に浸かったのは、廊下の端に置きっぱなしだったスリッパだった。

 気づいたときには、二階の床はもう、薄い水の膜で覆われていた。階段の五段目だった水位は、いつの間にか十段目を越え、角を曲がって廊下へと流れ込みはじめている。

 「二階も、もうダメか……」

 氷見斎が潮位ノートを片手に、濡れた床を見下ろした。

 窓の向こうには、海面が、まるで校舎の高さに合わせてせり上がってきたみたいに広がっている。

 「保健室と図書室を、三階に上げるしかないな」

 山城拓が決断する声は、もう迷いを含んでいなかった。

 「机をつなげて、通路を作る。水に浸かったら終わりの物だけでも先に運ぶぞ」

 生徒たちは散っていく。二階の保健室から薬品やベッドを、図書室からは重要な書類と本を、何往復もして階段を上り下りした。廊下の水は、踏みしめた足の跡をすぐに消していく。

 「机、もうちょっとこっち寄せて!」

 「棚、重すぎ! 三人で持って!」

 教室から持ち出した机や棚を横倒しにして並べ、即席の橋を作っていく。足元の水面が、机の脚に当たってゆらりと揺れるたび、澪の心臓も同じように揺れた。

 「名簿、忘れんなよ」

 いつの間にかそれは、誰かが自然と口にする決まり文句になっていた。

 体育館から移したばかりのクラス名簿や学籍簿は、濡らすわけにはいかない。

 紙が沈めば、名前も沈む。

 「これ、持ってく」

 澪は、青い薄紙を挟んで補強した名簿を抱え、机の橋を慎重に進んだ。

 三階へ向かう階段の踊り場まで、あと少し。

 そのとき、誰かの足が机の脚を強く蹴った。

 「わっ!」

 ぐらり、と橋が揺れる。

 澪の腕から、名簿が一冊、離れた。

 時間がゆっくりになった気がした。

 薄茶色の表紙が宙に浮かび、そのまま斜めに落ちていく。

 下で待ち構えていたのは、廊下に広がる水だった。

 ぽちゃん。

 軽い音。

 水面に輪が広がる。

 名簿は、表紙を上にしたまま、じわじわと沈み始めた。

 「やだ……!」

 気づいたときには、澪は机の上から飛び降りていた。

 「澪!」

 誰かが叫ぶ。

 膝まで水に浸かった瞬間、冷たさが脚から腰へ一気に駆け上がった。ズボンの裾が水を吸い、重くまとわりつく。

 澪は手を伸ばし、水面に沈みかけた名簿を抱き上げた。

 表紙はすでに深く濡れ、紙の繊維が指先に貼りついてくる。めくったページは、薄い布のように柔らかくなり、少し力を込めれば、指の間で溶けてしまいそうだった。

 「澪、早く上がれ!」

 机の上から、空と律が腕を伸ばす。

 澪は名簿を胸に抱きしめたまま、ずぶ濡れの足で机の橋に登り直した。水が滴り落ちる。その一滴一滴が、紙から文字を洗い流してしまうような気がして、息が苦しくなる。

 「名簿は?」

 「……無事、とは言えないけど。まだ、読める」

 澪は震える手で表紙を撫でた。

 インクがにじみ始めている。

 だが、名前の形は、かろうじて残っていた。

 「三階へ急ぐぞ!」

 山城の号令に、皆が動き出す。

 濡れた名簿を抱えた澪は、机の橋の上を、戻ることなくただ前へ進んだ。

                ◆

 三階の空き教室が、仮設の保健室と図書室になった。

 教卓の上には包帯と消毒液。

 本棚代わりに組んだ机の列の上には、水から救われた本や名簿が並べられる。窓の外には、もう見慣れてしまった海の広がり。校庭は完全に水の底だ。

 「これ、どうにかならない?」

 澪が差し出した濡れた名簿に、百瀬真帆は目を丸くした。

 「うわ……結構、いってるね」

 ページをそっとめくると、紙同士がぴたりと貼りつき、糊のような抵抗を覚える。無理に剥がせば、どちらか片方がちぎれてしまいそうだ。

 「アイロンあればなあ」

 「家庭科室、水没してるし」

 ため息が空気を重くする。

 「……アイロンの代わり、あるかも」

 百瀬が、机の上の古いノートPCを指さした。

 「これ、電源入れると結構熱くなるやつ。前に図書室で使ってたでしょ」

 律がケーブルを繋ぎ、ポータブルバッテリのスイッチを入れる。

 古いノートPCの画面がゆっくりと明るくなり、ファンが唸り始める。キーボードの上に手をかざすと、じんわりと熱が伝わってきた。

 「じゃあ、こうしよ」

 百瀬は、ノートPCを逆さまにして天板を上に向け、その上に濡れた名簿を広げた。キーの隙間から出る熱風が、天板をじわじわと温める。

 「直接当てると焦げちゃうから、間に青い薄紙挟んで」

 澪は、昨日図工室から持ってきた青い薄紙を、濡れたページの間にそっと差し込んだ。紙と紙の間に薄い膜を作る。海水を吸い込む受け皿みたいに。

 「アイロンのかわりに、パソコンで名簿乾かすって、なんか変な絵面だな」

 空が笑った。

 教室の隅では、さっきまで不安に泣いていた一年生たちが、その様子をじっと見つめている。

 水でふやけた紙が、少しずつ形を取り戻していく。

 青い薄紙がしっとりと濃い色に変わる。

 百瀬は、にじんだインクを壊さないように、指先でページの端を整えていく。

 「名簿ってさ」

 ふと、誰かが言った。

 「こうやって必死で守られてるの、初めて見たかも」

 「普段は、保健室の棚の上とか、職員室の片隅とかに置かれてるだけなのにね」

 「名前を書いた紙なんて、大して意味ないと思ってた」

 言葉は取り留めもないけれど、そこには共通した意識があった。

 紙を救うことは、名前を残すことだ。

 名前を残すことは、ここにいた証を残すことだ。

 全員の視線が、ノートPCの上で乾きかけた名簿に集まる。

 澪は、その視線の重さを肌で感じた。名簿が、今この瞬間だけは、誰よりも尊い命のように扱われていることに、胸が熱くなった。

                ◆

 夕方、早乙女律は体育館の片隅で電源系統の簡易図を紙に描き続けていた。

 「非常回線の“外側”に、変な電波が混ざってる気がする」

 氷見斎が、その書きかけの図を覗き込む。

 「外側?」

 「ああ。回線自体は校内で完結してるはずなんだけど、信号の形が、『どこかで拾ってきてる』波形になってる。搬送波っていうか……」

 律は、自分で説明しながら、余計に頭を抱えた。

 「防災無線とか、漁船の無線とか、そういう外側の電波を、非常回線がアンテナ代わりに拾っちゃってる可能性がある。誰がそうしたのかは分からないけど」

 「外の“声”が、中に流れ込んでる?」

 「極端に言えばな」

 体育館の窓から見える空は、薄い鉛色だった。

 空高く、丸い月がかすかに見える。その輪郭を見た氷見は、潮位ノートを開いた。

 「明日が大潮だよ」

 「大潮?」

 「月と太陽と地球が一直線に並ぶ日。潮の干満の差が最大になる。……今の島の状態でそれが来たら、たぶん、今夜と明日の夜は、これまで以上に海が暴れる」

 斎の声には、いつもの冗談めかしたトーンがなかった。

 「今夜こそ、放送の正体に迫るしかない。潮と一緒に、なにかも一緒に“満ちて”くる気がする」

 律は、図面の片隅に小さく「大潮」と書き込んだ。

                ◆

 山城拓は、黒板を二枚、体育館の壁に並べて立てた。

 「今日から、出席はこれで取る」

 チョークを一本、指先で転がしながら言う。

 「名簿は濡れてボロボロだ。紙に頼ると、また消える。だから、全員、自分の名前をここに書いてくれ」

 黒板の上部に、学年ごとの欄を仕切る線を引く。

 「三年」「二年」「一年」。その下に、横一列の空白が広がる。

 「チョークの字なんて、消せば終わりじゃん」

 誰かが言った。

 山城はうなずく。

 「消せる。雨がかかれば流れる。でも、“書いた”っていう行為は残る。見ていたやつがいる。ここで一緒に名前を書いたやつがいる。それが、今の俺たちにとっての出席だ」

 矢代空が真っ先に動いた。

 白いチョークを受け取り、「二年」の欄の一番端に、大きく「矢代 空」と書く。

 「ほら」

 空は振り返る。

 「これで、俺は今日もここにいるってことでしょ」

 次に、澪がチョークを手に取る。

 少しだけ迷ってから、「二年 三崎 澪」と、くっきり書いた。

 文字が黒板のざらつきに引っかかり、粉が小さく舞う。

 次々に、生徒たちが列を作って名前を書いていく。

 ガタガタとした字、妙に達筆な字、途中で誤字に気づいて上から書き直した字。黒板はたちまち、白い線の群れで埋め尽くされた。

 「先生たちも、書いてください」

 誰かが言った。

 年配の教師が、照れくさそうに「長良」と書く。掠れたチョークの線が、なぜか頼もしく見えた。

 体育館の壁一面に広がった白い名前たち。

 その光景は、どこか儀式のようでもあった。

                ◆

 夜。

 体育館の照明は落ち、非常灯だけが緑色の輪郭を浮かび上がらせている。窓の外の海は見えないが、時折、遠くで波が砕ける鈍い音が聞こえた。

 「また、あの時間か」

 空が仰向けになりながら天井をにらむ。

 「大潮の前夜だ。何かあってもおかしくない」

 律が、懐中電灯を握ったまま呟く。

 澪は、黒板の方を見ていた。

 自分の名前が白く浮かんでいる。

 その隣には空、その下にはつぐみ、真帆、斎、律……見知った名前が並ぶ。

 零時が近づく。

 氷見のノートによれば、今日の満潮は零時二十分前後だ。

 そのときだった。

 ふっと、非常灯が一瞬だけ強く光った。

 「……え?」

 緑色の光が、一瞬だけ真っ白になり、すぐに元の色に戻る。

 体育館全体が息を飲む。

 澪は、その瞬間、視界の端で“何か”を見た。

 放送室へ続く廊下の方角。

 封鎖された扉のシルエットが、一瞬だけ軋んだように見えたのだ。

 金属の錠前が揺れ、扉の枠と板の間に、ごくわずかな隙間が生まれた気がした。

 「今、扉……」

 澪が身を起こそうとしたとき。

  本日の欠席者は、一名。

 声が、落ちてきた。

 今までのどの夜よりも、鮮明で、近い。

 体育館の天井スピーカーだけでなく、壁のどこかからも響いているような、立体的な声。

 「やめろって言ってんだろ……!」

 空が低く呟く。

 誰かがすすり泣く。

 誰かが布団の中で耳を塞ぐ。

 そのとき、黒板の前に立っていた一年の女子が、かすれた声で叫んだ。

 「名前が……!」

 澪は思わずそちらを向いた。

 黒板の一角。

 「一年」の欄の真ん中あたりに書かれた、小さな名前の上を、粉雪のような白い粒子がふわふわと降り始めていた。

 チョークの粉だ。

 黒板の上部から、まるでそこだけを狙うように白い粉が舞い、その名前の字画をなぞるようにボロボロと削り取っていく。

 「○○ 光」の文字が、輪郭だけを残して薄くなっていく。

 「やだ、やだ……!」

 光の姉が悲鳴を上げる。

 皆が凍り付いたようにその光景を見ている。

 誰も体を動かせない。 

 チョークの粉は、やがて黒板の下へと落ちていった。

 その粉は、空気中の水分を吸って、じっとりと濡れはじめる。

 黒い壁を伝い、白い筋になって垂れていく。

 「……線になってる」

 真帆が震える声で言った。

 白い筋は、黒板の端から床へ、そこから体育館の出入口の方へと細く伸びていた。床に落ちた粉も同じように湿っていて、小さな流れとなっている。

 「海霧の水分を吸ってる。チョークって炭酸カルシウムだからさ、水分と空気を食べるみたいに溶けるんだよ」

 律が、いつもの調子で理屈を口にする。

 だが、その声には動揺が隠せていなかった。

 澪は、その白い線をじっと見つめた。

 黒板の下から伸びる線は、体育館の出口まで続き、廊下に滲み出る。そこから曲がり、放送室の方へ……ではなく、その少し手前で右に折れていた。

 「どこに繋がってる……?」

 氷見が懐中電灯で線をなぞる。

 白い粉と水が混ざった細い道は、廊下を進み、段差を越え、ある一点で止まっていた。

 床下点検口の鉄製の蓋の前だ。

 「ここ……」

 澪は、硬くなった喉を動かして言った。

 「この下、何かある」

 放送室の真下ではない。

 だが、放送室へ繋がる配線が通っているであろう場所。

 白い線は、そこを指さして止まっていた。

                ◆

 翌朝。

 名簿は、また一行を失っていた。

 今度は、三年のページ。

 真ん中より、ほんの少し上。

 昨日の告発枚数と照らし合わせれば、「中心」に近い位置だと真帆は言った。

 「ここに、誰の名前があった?」

 山城が問う。

 だが、誰の口からも答えは出ない。

 もう、名前を思い出そうとする前に、脳が諦めてしまう。

 「最初から空白だった」と、錯覚する方が楽だから。

 「もう、上からだけ見てても埒があかない」

 澪は、床下点検口の前に立っていた。

 昨夜、チョークの線が導いた場所。

 そこには、四角い鉄の蓋がはめられている。錆びた持ち手がついているが、今まで誰も触ろうとしなかった。

 「ここを開けて、下を見たい。放送室の配線も、非常回線も、この下を通ってるはずだし」

 「危険だ」

 山城は即座に言った。

 「床下は海と繋がってる可能性がある。水が一気に噴き出したら……」

 「だったら、なおさら、どこまで浸食されてるのか確かめたい」

 澪は言葉を重ねる。

 「名簿を守るために、紙に青い薄紙を挟いだみたいに、私たちにも、まだ防げることが残ってるかもしれない。何も見ないで怖がってるだけじゃ、もっと速く沈む」

 「行くなら、俺も行く」

 律が手を挙げた。

 「配線の状況は、俺が見る。感電しない保証はできないけど、何も知らないままよりマシだ」

 「私も」

 百瀬真帆が続く。

 「こういうとき、地図役が必要でしょ。上にいる人に、どこがどう繋がってるか説明する役」

 「俺も行かせろよ」

 矢代空が当然のように言った。

 「お前だけ危ないとこ行かせて、“出席は救い”とか、カッコつけさせねえからな」

 山城は、しばらく黙って皆の顔を見比べていた。

 やがて、小さく息を吐いた。

 「……わかった。四人までだ。それ以上は危ない。ロープをつけて、必ず誰かが上から見ていること。危険だと判断したら、すぐに戻れ」

 「了解」

 空がうなずく。

 「何かあったら、出席番号順に引き上げてくれよな」

 「そういうときだけ名簿頼るな」

 律が苦笑した。

                ◆

 床下点検口の蓋は、思った以上に重かった。

 鉄の持ち手にロープを結びつけ、四人がかりで引き上げる。

 ぎぎ、と鈍い音を立てて蓋が持ち上がり、その隙間から、むっとした塩気の蒸気が噴き出した。

 「うっ……」

 顔をしかめた空が、鼻を押さえる。

 海水と錆と、古い埃が混ざった匂い。

 濃い湿気が頬に貼りつく。

 「懐中電灯、先に落とすぞ」

 山城が言い、ライトの一つをロープで結んで穴の中へ垂らした。

 白い光の輪が、暗闇の底にぽっかり浮かぶ。

 そこには、ケーブルの束があった。

 黒や灰色の太い線、細い線が、天井から垂れ下がり、床下のスペースを横断している。湿った蛇の群れのように、光を反射して鈍く光っていた。

 「……行ってくる」

 澪が一番に穴へ足をかける。

 ロープを腰に巻きつけ、鉄の梯子を慎重に下りていく。

 すぐ後ろから、律と空と百瀬が続いた。

 上では、山城と斎がロープを押さえ、つぐみが応急処置の用意をして待機している。

 床下の空間は、思ったより広かった。

 天井の梁と梁の間に、配線用のダクトや空調のパイプが走り、その下に大人がかがんで移動できる程度のスペースがある。足元には、薄く水が溜まっていた。

 「すべるから気をつけろよ」

 律が声をかける。

 懐中電灯の光がケーブルの束を照らすたび、そこにこびりついた塩の結晶がきらりと光った。

 「こっちが体育館方面。で、あっちが放送室の下……」

 百瀬が、上の図面と照らし合わせながら方向を確認する。

 「チョークの線が指してたのは、この辺りだと思う」

 澪は胸の鼓動を抑えながら、光の輪を奥へ向けた。

 ケーブルの束の向こう側。

 そこに、小さな“箱”があった。

 「……あれは」

 空が息を飲む。

 木目調のプラスチックでできた、小さな直方体。

 昔のラジカセよりもさらに小さく、持ち運び用の取っ手がついている。前面には小さなスピーカーの網と、二つのテープホール。上部には、再生・停止・巻き戻しのボタン。横には、乾電池を入れるスペース。

 古い、テープレコーダだった。

 「……電池タイプか」

 律が近づき、そっと触れる。

 ケースの隙間から、かすかに錆びた金属の色が見える。

 「まだ動くかどうかは分からない。でも、ここに置かれてるってことは」

 「誰かが、ここに置いた」

 百瀬が言った。

 澪は、言葉を継げなかった。

 誰かが、意図的に。

 それとも、何かが、漂着したように。

 テープレコーダの下には、防水シートのようなものが敷かれていた。海水が直接触れないように、ぎりぎりの高さに置かれている。

 「裏、見てみる」

 澪は、恐る恐るその箱を持ち上げた。

 思ったより軽い。

 底面には、薄くテープが貼られている。そのテープに、紙切れが一枚、くっついていた。

 鉛筆で書かれた文字。

 薄くなっているが、まだ読める。

 「出席は救い。欠席は海。声は橋──神野」

 澪の声が、床下の狭い空間に溶けた。

 「神野……ってことは」

 空が顔を上げる。

 懐中電灯の光が、天井裏の梁を白く照らした。

 「琴葉先輩が、ここにこれを?」

 「いつ? どうやって? 何のために?」

 百瀬の問いは、誰にも答えられない。

 テープレコーダの中に、何が録音されているのか。

 今まで聞いてきた放送の“元”が、ここにあるのか。

 律は、テープレコーダのボタンに指を伸ばしかけて、止めた。

 「上で、山城たちにも見せよう。勝手に再生して、いきなり何か起きても困る」

 「そうだな」

 澪は、箱を胸に抱きしめた。

 青い栞を拾ったときと同じように、紙切れの一文が、手のひら越しに心臓へ染み込んでくる。

 出席は救い。

 欠席は海。

 声は橋。

 橋は、どこへ繋がっているのか。

 海の底か。名簿の向こう側か。

 それとも、テープの中に閉じ込められた誰かの声のもとへか。

 床下の湿った空気の中で、澪は、自分の喉が乾いていることに気づいた。

 ここで息をするたびに、名前のにおいまで吸い込んでしまいそうで。

 テープレコーダの中で、誰かの声が、今も静かに漂流している気がして。

 「戻ろう」

 空が言う。

 「俺たちが見つけたってことは、ちゃんと“記録”になる。名簿と同じで。……だから、もう一度、みんなで聞こうぜ」

 澪はうなずいた。

 箱の底に貼られた紙切れが、かすかに指先に触れる。

 そこに残された「神野」の文字は、まだ、海には剥がされていなかった。

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