第4話「青い栞」
告発ボックスが、本当に「箱」じゃなくなったのは、四日目の朝だった。
ステージの端に置かれた段ボールは、上ぶたがゆるく持ち上がり、切り込みからはみ出した紙片が何枚も顔を覗かせている。近づけば、紙同士が擦れ合うかすかな音と、インクと段ボールが混じった低い匂いがした。
「……入れすぎだろ」
矢代空が、半分笑いながら半分引いた顔で言う。
「昨日まで、こんなに入ってたっけ?」
「いや」
山城拓は、腕を組んだまま答えた。目の下にはくっきりとした隈。夜の見回りを倍にしてから、まともに眠れていない。
「昨夜の時点で、せいぜい半分くらいだった。今朝ここに来たら、こうなってた」
早乙女律が箱の側にしゃがみ込み、上に乗っている紙を一枚すくい上げる。
折り目もろくにつけず、慌てて放り込まれた紙。そこには、雑な字でこう書いてあった。
「二年の男子トイレで、誰かが名簿の話をして笑っていた。あいつら怪しい」
律は眉をひそめる。
「怪しいって、これだけ?」
「他にも似たようなのが多い。『夜中に廊下を歩いていた影を見た』『告白されたのを断ったら、相手の様子がおかしくなった』……」
山城は、ざっと中身を見たのだろう。うんざりしたように息を吐いた。
「はっきりした証拠が書いてある紙の方が少ない。ほとんどが感情のぶつけ先を探してるだけだ」
「それでも、何も情報がないよりマシだって言ったの、山城じゃん」
空が小声で突っ込む。
山城は反論しなかった。ただ、告発ボックスの上ぶたをそっと押さえた。
「……昨日、何枚入ったんだろうな」
その問いには、誰もすぐに答えられなかった。
◆
告発ボックスの前には、自然と小さな輪ができていた。誰も紙を入れようとはしないのに、誰も離れようともしない。
「なあ、これさ。誰が書いたか、だいたいわかるかもよ」
そう言って、紙束の一番上をひょいと取ったのは、クラスメイトの男子だった。彼はわざとらしく紙を透かすように掲げる。
「ほら、この“あ”の形、真帆っぽくない? 丸の下のところがちょっと尖ってる感じ」
「えー、真帆、こんな雑な字書かないよ。もっと丸くて可愛いもん」
「じゃあこれは? この“し”のとこ、やたら右に伸びててさ。律っぽくね? 黒板に数字書くとき、いつもこんな感じだし」
「ちょっと」
律が取り返そうとするのを、何人かが面白がって止める。
筆跡鑑定ごっこ。
その言葉が頭をよぎっただけで、澪は胃のあたりがきゅっと痛くなった。
「ねえ、澪ってさ、字で人のこと覚えてるんだろ」
誰かが言った。
その視線が、一斉に澪に向かってくる。
「一年のときさ、神野先輩の名前だけ、背の順じゃなくて字の順に覚えてるって言ってたじゃん。黒板の字見ただけで『数学の○○先生だ』って当てたこともあったし」
「そうそう。名簿の字、全部覚えてるとか言ってなかった?」
あの日。
地震の前。
まだこの体育館が、ただの体育館だった頃。
たしかに、澪はそう言った。
放送委員の仕事で、クラス名簿を何度も見直していくうちに、字の癖を覚えてしまった。名前だけではなく、書いた人の性格まで、少しだけ透けて見える気がしていた。
「……今は、前ほどじゃないよ」
澪は視線を逸らした。
「どういう意味だ?」
「なんか、輪郭がぼやけるっていうか。思い出そうとすると、字の端っこだけ水でふやけてるみたいに、細かいところが掴めないの」
澪は指先で空中に文字を書く真似をした。
「山」「田」「佐」「藤」。
書こうとした線が、途中で水に溶けてにじむように、記憶の中で形を失っていく。
「昨日まで覚えてたはずの字が、今日になるともう曖昧になってる。消えた行だけじゃなくて、残ってる行の字まで、輪郭が曖昧になってく感じがする」
「海水でふやけてるのは、紙だけじゃないってことか」
律がぽつりと呟く。
「脳みそごと潮に浸かってるみたいだな」
「澪」
声をかけてきたのは、久遠つぐみだった。
保健委員の腕章をつけ、包帯の補充用の箱を抱えている。その目は、告発ボックスと、そこに群がる生徒たちを静かに見ていた。
「筆跡を当てること自体が、誰かを追い詰めることになるかもしれない。ねえ……ちょっと、提案があるんだけど」
彼女の声はいつも通り柔らかい。
だがその内容は、柔らかさとは程遠かった。
「“誰かを守るための嘘”をつく気はない?」
「嘘?」
「うん。告発を無効化するには、外側のルールを一つ壊すしかないんじゃないかなって」
つぐみは言葉を選ぶように、ひと呼吸おいてから続けた。
「今、この告発ボックスって、“紙に書いて箱に入れれば、それは真実として扱われる”っていうルールで動いてるよね。でも、そのルールを壊すなら、一番簡単なのは――『誰の字か、わからなくしてしまうこと』だと思う」
「わざと?」
「うん。あえて、偽の筆跡鑑定をする。あるいは、澪が『全部同じ人の字に見える』って言い張る。そうすれば、“告発”という形式そのものへの信頼を揺らせる」
空が苦い顔をした。
「それ、結局ごまかしじゃん。真面目に書いたやつもいるかもしれないのに」
「真面目に誰かを沈めようとしてるかもしれない」
つぐみの声は、やはり柔らかい。
だが、その柔らかさに棘が隠れていた。
「今のままだと、紙に書かれた言葉が、人一人の命より重く扱われそうで、私は怖いの。だったら、先に“紙の信用”の方を壊してしまった方が、まだ生き延びられるんじゃないかって」
澪は息を呑んだ。
外側のルールを壊す――それは、つぐみらしい残酷さを含んだ提案だった。
「澪が、『私は誰の字か分からない』って言えばいい。たとえ本当は分かったとしても。それは、誰かを守るための嘘だから」
守るための嘘。
ただ、その嘘が本当に誰かを救うのかどうか、澪にはまだ分からなかった。
◆
午後、澪は放送室の前に立っていた。
封鎖された扉。南京錠。針金。ベニヤ板。
それらの上に、かすかに潮が吹いた白い粉が積もっている。
「一時的に、解くだけだから」
澪は自分に言い聞かせるように呟いた。ポーチから鍵束を取り出す。重たい金属の輪が指の間で鳴り、うっすらと手汗が滲む。
早乙女律と山城拓、それに久遠つぐみが立ち会っていた。
「完全封鎖を続けるより、基準点をもう一度確認すべきだ」という理屈で、放送室の封鎖を一時的に解くことが許されたのだ。
「中に入るのは、澪と俺と律だけだ。つぐみは廊下で様子を見ててくれ」
山城が言うと、つぐみは素直にうなずいた。
澪は南京錠の穴に鍵を差し込む。
カチリ。
金属の軽い音がして、錠前が開く。針金をほどき、板をずらし、扉のノブを回す。
中の空気は、ひんやりとしていた。
潮の匂いではなく、古い機械と埃の匂い。澪が何度も出入りした、馴染みの匂いだ。ミキサ卓、マイク、ヘッドフォン。どれも昨夜から触られた様子はない。
「栞は、どこだ?」
律が小声で尋ねる。
澪は窓際の棚に歩み寄り、古い放送台帳の束を手に取った。厚手の紙に日付と番組内容がびっしり書き込まれたノート。ページの間から、青いものが覗いている。
それは、あの青い栞だった。
手に取ると、前に見たときよりも紙がしっとりと重くなっている気がした。
表には濃い墨で「出席は救い」とある。
だが、今日は裏側を見たかった。
栞をそっとひっくり返す。
裏面には、薄い鉛筆で何かが書かれていた。消しゴムで消そうとして、消し切れなかった文字。筆圧の跡が紙に残っている。
「出席は救い、欠席は海。声は橋」
律が読み上げる。
山城が眉をひそめた。
「……橋?」
「たぶん、琴葉先輩のメモだと思う」
澪は、鉛筆の線の癖を見つめながら言う。
「授業のメモとかで、よくこういう書き方してた。“AはB”“BはC”みたいな、等式みたいに並べるの」
出席は救い。
欠席は海。
声は橋。
「橋って、どこへの?」
律の問いに、答えられる者はいなかった。
声が橋だというなら、それは何と何を繋ぐ橋なのか。
教室と体育館か。
人と人か。
この島と、海の底か。
「……いつからだと思う?」
澪は、ラジカセで聞いた古い放送を思い出す。
地震のずっと前から、琴葉の声の裏には、微弱な潮騒のノイズが混ざっていた。
「いつから、声は橋になってたんだろう」
誰にともなく呟くと、放送室の静かな空気が、その言葉をじっと吸い込んだ。
◆
一方その頃、律は電源系統の図面を書き起こしていた。
体育館の隅にあるコンセントカバーを外し、そこから天井裏のダクトへと伸びるケーブルを見上げる。ノートのページには、放送室から各教室、体育館、理科室へ走る配線の仮想図が描かれていく。
「ここがメイン電源。ここが非常用回線。で、問題はこの……」
律は鉛筆の先で、一つの線を指した。
「図面上、説明のつかない分岐がある。昔の改修工事のときに増設されたのか、それとも……」
「海に繋がってたりして」
空が軽口を叩く。
律は苦笑しながらも否定しきれない表情をした。
「冗談じゃなく、どこかでショートして海水に触れてる可能性はある。塩害のノイズが混ざってる以上、どこかに“濡れてる場所”がある」
天井裏へ上がるための点検口は、理科準備室の隅にあった。
ストッパーを外し、脚立を立て、律と氷見斎が交代で上に上がる。澪は一応止めようとしたが、情報が必要だという理由で押し切られた。
「湿気、やばいな……」
律が額の汗を拭う。
天井裏の世界は、まるで呼吸する洞窟のようだった。配線用のダクトが入り組み、断熱材がところどころ剥き出しになっている。その隙間から、潮の匂いを含んだ風が流れていた。
「滑るぞ。気をつけろよ」
下から山城が声をかける。
律は慎重に、ケーブルの束を辿っていく。
「ここだ」
やがて、彼は一つの分岐点を見つけた。
古い黒い配線に、比較的新しい白い配線が無理やり繋がれている。素人仕事とまでは言わないが、学校の工事にしては雑な結び方だ。絶縁テープの隙間から、わずかに錆びた銅線が覗いている。
「これ、非常放送ラインかもしれない」
律はそう言うと、配線の先を目で追った。
白いケーブルは天井裏を走り、体育館方向へ伸びている。途中、断熱材の隙間から外気が入り込んでいる場所に差し掛かると、ケーブルの表面に白い結晶がこびりついているのが見えた。
塩だ。
「ここ、海風が直接当たってるんだな……。台風の時とかに海水飛沫が入ってきて、そのまま乾いて、また湿気て、を繰り返してる」
律は慎重にケーブルを触り、感電の危険がないか確かめる。
電気は、今は流れていない。だが、いつまた流れるとも限らない。非常回線の入り口を探す作業は、潮の湿気の中で危険だった。
「……生きてるわけだ。声の橋が」
律の独り言は、天井裏の暗闇に溶けていった。
◆
百瀬真帆は、図書室で別の“地図”を作っていた。
机の上に名簿のコピーを広げ、その隣に、図書室の本棚の背表紙の一覧をメモしていく。「あ」「い」「う」……。名前の順ではなく、ラベル番号、配置、棚の高さ。彼女はその間隔を細かく記録していた。
「消えた名前の間隔は、完全にランダムってわけじゃない」
澪にそう説明しながら、真帆はペン先で紙を叩く。
「ほら、見て。学年ごとの名簿の真ん中あたりから、優先的に一行ずつ剥がされてる。端じゃなくて、中心。クラスの表のちょうど真ん中あたり」
澪は、紙に描かれた簡易グラフを覗き込んだ。
横軸に学年、縦軸に出席番号。その真ん中付近に、印が多く打たれている。
「秩序の心臓から沈めてる感じ、しない?」
真帆の言葉は、妙に生々しかった。
「端っこから崩すんじゃなくて、真ん中から穴を開けると、構造全体が早く壊れるでしょ。建物も、船も、人間関係も。誰かが、あるいは何かが、そういうやり方で“沈めてる”」
「……嫌な例え、うまくないで」
澪は苦い笑いを浮かべる。
真帆は肩をすくめた。
「本棚も同じだよ。真ん中の棚が倒れたら、左右も一緒に崩れる。さっき、試しに真ん中の本を一列全部抜いてみたら、上の本が雪崩みたいに落ちてきた」
図書室の床には、まだそのときの本が散らばっていた。
社会の心臓から沈む。
秩序の中心に近い行ほど、最初に剥がれる。
「意図があるんだとしたら、かなりいやらしい意図だね」
澪はそう言いながら、自分の胸のあたりを無意識に押さえていた。
◆
夜。
海は、もう一階の廊下を支配していた。
満潮の時間がさらに早まったことを、氷見のノートは告げていた。零時の前にすでに、校舎の足元は海に浸かり始める。玄関ホールの靴箱の列の中ほどまで、水が侵入していた。
体育館で寝る準備をしていたとき、突然、女子生徒の悲鳴が響いた。
「弟がいない!」
叫んだのは二年の女子だった。顔を真っ青にして、毛布をひっくり返し、周囲の生徒の布団をめくっている。
「さっきまでここにいたの! 一緒に寝ようって言ってたのに、目を離したら……!」
「落ち着け。一緒に探す」
山城が立ち上がるより早く、矢代空が駆け出していた。
「名前は! 弟の名前!」
「三崎 光! 一年の……!」
「光ね! 了解!」
空は体育館の扉を蹴るように開け、廊下に飛び出した。
澪も百瀬も、条件反射のようにそのあとを追う。
「ちょっと、勝手に出るな!」
山城の制止の声が背中に飛んできたが、もう遅かった。
廊下の床は冷たく湿っていた。足を踏み出すたびに、靴の裏からぬるりと水の感触が伝わる。体育館から一階へ下りる階段の途中で、空は立ち止まった。
「マジかよ……」
階段の踊り場まで、水が来ていた。
下のろうかは、ほとんど“浅いプール”になっている。机や椅子が流され、教室から漂ってきたプリントやノートの切れ端が水面に浮かんでいた。
「光くん! 返事して!」
百瀬が叫ぶ。声が廊下に反響し、波に吸い込まれていく。
「ダメだって、危ない!」
一人の三年の男子が慌てて階段を駆け下りてきた。体育教師から渡されたロープを持っている。
「降りるなら、これ結んでから!」
「お前が持ってろ。俺が行く」
空が言う。
男子はロープの片端を階段の手すりに結び、もう片方を空の腰に巻きつけた。百瀬も自分の腰にロープを巻きつける。
「私も行く」
「真帆、お前まで――」
「字を守るのも仕事だけど、人を守るのも仕事だから」
彼女の目は意外なほど強かった。
ロープを腰に巻いた二人は、階段を下りていった。
水面に足を踏み入れた瞬間、澪は見ているだけなのに、足首まで冷たい水に浸かったような錯覚を覚えた。
「光! どこだ!」
空の声が、暗い廊下に響く。
「ここ……!」
小さな声が、水音の向こうから返ってきた。
体育館とは反対側の、昇降口の方角。そこには、膝まで水に浸かりながら、靴箱の陰にしがみついている小さな影があった。
「光!」
空が水を蹴って走る。
床に散らばったスリッパやシャベルを踏み、バランスを崩しかけながらも、なんとか光のそばまで辿り着いた。
「動くなよ! 今行くから!」
ロープがぴんと張る。
百瀬が後ろから必死に支える。二人の腰に巻かれたロープは、階段の手すりに結ばれた反対側で、三年生たちが全力で握っていた。
「こわい……海、こわい……」
光は震えながら泣いていた。
昇降口のガラス扉の向こう側には、真っ黒な水がうねっている。その水が、今にも扉を破って中に押し寄せてきそうな圧力を持っていた。
「大丈夫、大丈夫。ほら、空兄ちゃん来たぞ」
空はそう言いながら、自分の上着を脱いで光にかぶせた。
「もう少しだけ、目をつぶってろ。終わったら、体育館でチョコもらおうな」
「……ほんと?」
「ほんと。俺が百瀬に頼んでやる」
百瀬が「どうして私限定なの」と小さく突っ込み、少しだけ笑いが漏れた。その笑いが、張り詰めた空気をわずかに緩める。
廊下の水かさは、じわじわと増していた。
遠くで、波が校舎の壁に打ちつける鈍い音がする。
「戻るぞ!」
山城の声が、階段の上から落ちてきた。
ロープが引かれ、空と百瀬と光は、水をかき分けながら階段へ戻っていく。
何とか踊り場まで引き上げられたとき、澪は気づいた。
体育館の中から、薄く聞き覚えのある声が漏れてきている。
「……本日の欠席者は、一名」
放送だ。
「ちょっと待って!」
澪は叫んだ。
階段を駆け上がり、体育館の扉を開ける。
だが、放送はもう終わっていた。ざらついたノイズだけが、スピーカーの紙を震わせている。
「また……」
体育館の中では、すでに名簿が開かれていた。
誰かが、ページを震える手でめくっている。
紙は、湿っていた。
昨夜よりも、もっと深く。
乾かそうと軽く広げるだけで、層が剥離しそうになる。表面と裏面の間に、薄い空気の膜が入り込む。
「もう、これ以上触ったら破れる……」
百瀬が顔を歪める。
「じゃあ、どうすれば」
「紙を守るために、紙を重ねるしかない」
澪は、とっさにそう言った。
頭の片隅に、青い栞の手触りが蘇る。
「薄い紙を、一枚挟む。海水を吸うのは、その紙に引き受けさせる。……神野先輩の栞みたいに」
「青い薄紙なら、図工室にあったはずだ」
誰かが言う。
澪はうなずき、数人と一緒に図工室へ走った。棚の中から、半透明の青い薄紙を束ごと持ち帰る。名簿のページの上に、一行ごとにそっとかぶせていく。
青い膜が、名簿の上に重なっていった。
水を吸ってふやける前に、受け皿を用意するように。
「これで、どれだけ意味があるかは分かんないけど……何もしないよりはマシだよな」
空が肩で息をしながら笑う。
「神野先輩の栞も、青かったし」
澪は小さく呟く。
出席は救い。
欠席は海。
声は橋。
青い紙は、その橋の上にかけられた薄い板みたいに見えた。
◆
翌朝。
名簿から消えた一行の位置を見たとき、澪は背筋に寒気が走った。
「……これ、昨日より中心に近くなってる」
学年の真ん中。クラスの真ん中。
真帆が作ったグラフに、新しい印を追加すると、点はさらに内側へ食い込んでいた。
「告発、昨日が一番多かったよね」
氷見が言う。
体育館の片隅に置かれた告発ボックスは、昨夜遅く山城に中身を取り出され、新しい箱に交換されていた。それでもまた、今朝には何枚かの紙が入っている。
「……もしかしてだけど」
澪は、自分の考えを言うのをためらった。
しかし、誰かが口に出さないと、何も変わらない。
「消える行の“中心からの距離”と、前夜の告発の枚数、相関してるかもしれない」
「相関?」
律が目を細める。
真帆は既に、そういう仮説を立てていたのだろう。ノートをめくり、日付ごとの告発枚数と、消えた行の位置を示した表を見せてくる。
「告発が少ない日は、端っこに近い行が消えてる。多い日は、真ん中に近いところが剥がされてる。……まだ試行回数が少ないけど、傾向は見える」
「つまり」
律がゆっくり言葉を選ぶ。
「俺たちがたくさん“告発”すればするほど、社会の心臓に近い名前が、優先的に海に沈められていくってことか」
「社会の圧は、海より速い」
真帆が書類の端に書き込んだメモを、氷見が読み上げる。
澪は、喉の奥がひりつくのを感じた。
告発枚数が増える。
そのたびに、名簿の中心が削れていく。
「だったら、告発を止めるほかない」
久遠つぐみが静かに言った。
彼女の目は、告発ボックスを真っ直ぐ見ている。
「この箱がある限り、みんな書くよ。“誰かを欠席させたい誰か”の祈りを、紙に乗せる。だったら箱ごと、なくしてしまうしかない」
つぐみは、ステージの端に置かれた告発ボックスに歩み寄った。
ひょいと持ち上げる。
意外と軽い。中身は昨夜山城が回収しているからだ。
「ちょ、ちょっと待て」
空が慌てて立ち上がる。
「つぐみ、その箱どこ持っていく気?」
「海」
「おまえ、マジで言ってんのか」
「うん。海に投げる。もともと、ここにない方がいいものだった」
その言葉は、あまりにもあっさりしていた。
「待て」
山城が前に出た。
眠れていない顔に、はっきりと怒りの色が浮かぶ。
「それは俺の責任だ。俺が始めた仕組みだ。勝手に壊すな」
「責任って言葉、便利だね」
つぐみは、珍しくきつい口調になった。
「山城くんが“責任を取る”って言ったから、みんな告発という形で不安を箱に押し込めた。でも、その箱が逆に“誰かを沈める重し”になってるなら、壊す責任も誰かが取らなきゃいけない」
「その“誰か”を、自分にしてるわけか」
「そう」
山城とつぐみの視線がぶつかる。
体育館の空気が、じわじわと熱を帯びていく。
「俺だって、壊したくないわけじゃない」
山城は低い声で言った。
「でも、箱を壊しても、告発したい気持ちは消えない。箱がなくなれば、今度は別の形で噴き出す。密告や陰口や暴力で。それをどうやって抑えるつもりだ」
「箱がある限り、“紙に書けば許される”って思う人もいる」
つぐみは一歩も引かない。
「だからこそ、外側のルールを壊すんだよ。紙に書いても、それは絶対じゃないって。告発は救いじゃないって、見せつけるしかない」
「やめろって」
空が間に入ろうとする。
しかし山城はもう、一歩前に出ていた。
「勝手なこと言うな!」
怒鳴り声と同時に、山城の手が伸びた。
つぐみの手から箱を奪おうとした、その動き。その手が、横から無理やり割り込んできた空の頬をかすった。
バチン、と乾いた音がした。
空の身体が少しよろめく。
告発ボックスが宙に浮き、そのままステージの床に落ちた。空いた切り込みから、白い紙片が何枚か舞い上がる。
「いたっ……なにすんだよ」
空は頬を押さえた。
指の間から、赤いものが滲み出てくる。
澪は、反射的に駆け寄った。
「空!」
空の頬には、うっすらと赤い線のような傷がついていた。
山城の指輪の角が当たったのかもしれない。そこから、一滴の血がつうっと流れる。
その血が、舞い落ちた紙片の一枚にぽたりと落ちた。
……青い栞の上に。
昨日、封鎖を解いたときに澪が持ち出し、名簿のそばの机の上に置いていた青い栞。その端に、赤い点がひとつだけ、はっきりと刻まれた。
「……」
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
赤い点は、青い紙の上で異様に鮮やかだった。
濡れた血が紙に吸い込まれていく。
その様子を、全員が呑まれるように見つめていた。
「ご、ごめん……」
山城が最初に声を出した。
「空、悪かった。お前を殴るつもりじゃなかった」
「俺も割り込んだから。……大丈夫だって。ほら、たいした傷じゃないし」
空は無理に笑ってみせる。
つぐみが保健ポーチから消毒と絆創膏を取り出し、手早く処置を始めた。
体育館の熱が、少しずつ冷めていく。
告発ボックスの中身も、舞い上がった紙も、今は誰も拾おうとしない。
赤い点がついた青い栞だけが、机の上で静かに横たわっていた。
◆
夜。
放送が鳴る少し前。
澪は放送室の扉に耳を当てていた。
封鎖は、また元通りにされた。南京錠。針金。板。
だが鍵を持つ澪なら、扉の向こうの気配くらいは感じ取れる気がした。
廊下は静かだ。
遠くから聞こえるのは、体育館のかすかなざわめきと、海の低い唸りだけ。
耳を押しつけていると、最初は自分の心臓の音しか聞こえない。
ドク、ドク、と、鼓動が耳の内側を叩く。
やがて、その奥に――もうひとつのリズムが混ざった。
『……本日の、欠席者は――』
澪は、息を止めた。
聞こえたのは、神野琴葉の声ではなかった。
もっと、聞き慣れた声。
自分の声だった。
緊張しているときの、少し早口になる癖。
語尾がわずかに上がる話し方。
放送委員として練習していたときに、何度も注意されたイントネーション。
あのときと同じ響きが、扉の向こうから微かに漏れてくる。
『出席は救い、欠席は海……』
自分の声が、誰かに向かって読み上げている。
ここではないどこかにいる誰かに、届けるように。
「嘘……」
澪は、扉のノブを掴みかけた。
だが、その手をすぐには動かせなかった。南京錠がぶらさがる金属音が、やけに大きく聞こえる。
もし扉を開けたら。
そこにいるのは、本当に自分なのか。
それとも、青い栞の裏にメモを残した、先輩の影なのか。
廊下に、体育館からの放送が流れ始める。
本日の欠席者は――一名。
澄んだ女性の声が、天井スピーカーから落ちてきた。
体育館の方からは、押し殺した悲鳴のようなざわめきが広がる。
扉の向こうの“自分の声”は、その放送に重なるように、かすかに続いていた。
練習するように。
復唱するように。
橋を渡る声のように。
澪は、扉に額を押し当てた。
鍵束が、ポーチの中でひどく重く感じられた。
出席は救い。
欠席は海。
声は橋。
その橋を渡るのが、次は自分の番なのかもしれないという予感だけが、夜の廊下に、長い影を落としていた。




