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海に沈む学校―地震で孤立した孤島の学校。夜になると校内放送が告げる──「今日の欠席者は一名」。  作者: 妙原奇天


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第4話「青い栞」

 告発ボックスが、本当に「箱」じゃなくなったのは、四日目の朝だった。


 ステージの端に置かれた段ボールは、上ぶたがゆるく持ち上がり、切り込みからはみ出した紙片が何枚も顔を覗かせている。近づけば、紙同士が擦れ合うかすかな音と、インクと段ボールが混じった低い匂いがした。


 「……入れすぎだろ」


 矢代空が、半分笑いながら半分引いた顔で言う。

 「昨日まで、こんなに入ってたっけ?」


 「いや」


 山城拓は、腕を組んだまま答えた。目の下にはくっきりとした隈。夜の見回りを倍にしてから、まともに眠れていない。


 「昨夜の時点で、せいぜい半分くらいだった。今朝ここに来たら、こうなってた」


 早乙女律が箱の側にしゃがみ込み、上に乗っている紙を一枚すくい上げる。

 折り目もろくにつけず、慌てて放り込まれた紙。そこには、雑な字でこう書いてあった。


 「二年の男子トイレで、誰かが名簿の話をして笑っていた。あいつら怪しい」


 律は眉をひそめる。


 「怪しいって、これだけ?」


 「他にも似たようなのが多い。『夜中に廊下を歩いていた影を見た』『告白されたのを断ったら、相手の様子がおかしくなった』……」


 山城は、ざっと中身を見たのだろう。うんざりしたように息を吐いた。


 「はっきりした証拠が書いてある紙の方が少ない。ほとんどが感情のぶつけ先を探してるだけだ」


 「それでも、何も情報がないよりマシだって言ったの、山城じゃん」


 空が小声で突っ込む。

 山城は反論しなかった。ただ、告発ボックスの上ぶたをそっと押さえた。


 「……昨日、何枚入ったんだろうな」


 その問いには、誰もすぐに答えられなかった。


 


                ◆


 告発ボックスの前には、自然と小さな輪ができていた。誰も紙を入れようとはしないのに、誰も離れようともしない。


 「なあ、これさ。誰が書いたか、だいたいわかるかもよ」


 そう言って、紙束の一番上をひょいと取ったのは、クラスメイトの男子だった。彼はわざとらしく紙を透かすように掲げる。


 「ほら、この“あ”の形、真帆っぽくない? 丸の下のところがちょっと尖ってる感じ」


 「えー、真帆、こんな雑な字書かないよ。もっと丸くて可愛いもん」


 「じゃあこれは? この“し”のとこ、やたら右に伸びててさ。律っぽくね? 黒板に数字書くとき、いつもこんな感じだし」


 「ちょっと」


 律が取り返そうとするのを、何人かが面白がって止める。

 筆跡鑑定ごっこ。

 その言葉が頭をよぎっただけで、澪は胃のあたりがきゅっと痛くなった。


 「ねえ、澪ってさ、字で人のこと覚えてるんだろ」


 誰かが言った。

 その視線が、一斉に澪に向かってくる。


 「一年のときさ、神野先輩の名前だけ、背の順じゃなくて字の順に覚えてるって言ってたじゃん。黒板の字見ただけで『数学の○○先生だ』って当てたこともあったし」


 「そうそう。名簿の字、全部覚えてるとか言ってなかった?」


 あの日。

 地震の前。

 まだこの体育館が、ただの体育館だった頃。


 たしかに、澪はそう言った。

 放送委員の仕事で、クラス名簿を何度も見直していくうちに、字の癖を覚えてしまった。名前だけではなく、書いた人の性格まで、少しだけ透けて見える気がしていた。


 「……今は、前ほどじゃないよ」


 澪は視線を逸らした。


 「どういう意味だ?」


 「なんか、輪郭がぼやけるっていうか。思い出そうとすると、字の端っこだけ水でふやけてるみたいに、細かいところが掴めないの」


 澪は指先で空中に文字を書く真似をした。

 「山」「田」「佐」「藤」。

 書こうとした線が、途中で水に溶けてにじむように、記憶の中で形を失っていく。


 「昨日まで覚えてたはずの字が、今日になるともう曖昧になってる。消えた行だけじゃなくて、残ってる行の字まで、輪郭が曖昧になってく感じがする」


 「海水でふやけてるのは、紙だけじゃないってことか」


 律がぽつりと呟く。

 「脳みそごと潮に浸かってるみたいだな」


 「澪」


 声をかけてきたのは、久遠つぐみだった。

 保健委員の腕章をつけ、包帯の補充用の箱を抱えている。その目は、告発ボックスと、そこに群がる生徒たちを静かに見ていた。


 「筆跡を当てること自体が、誰かを追い詰めることになるかもしれない。ねえ……ちょっと、提案があるんだけど」


 彼女の声はいつも通り柔らかい。

 だがその内容は、柔らかさとは程遠かった。


 「“誰かを守るための嘘”をつく気はない?」


 「嘘?」


 「うん。告発を無効化するには、外側のルールを一つ壊すしかないんじゃないかなって」


 つぐみは言葉を選ぶように、ひと呼吸おいてから続けた。


 「今、この告発ボックスって、“紙に書いて箱に入れれば、それは真実として扱われる”っていうルールで動いてるよね。でも、そのルールを壊すなら、一番簡単なのは――『誰の字か、わからなくしてしまうこと』だと思う」


 「わざと?」


 「うん。あえて、偽の筆跡鑑定をする。あるいは、澪が『全部同じ人の字に見える』って言い張る。そうすれば、“告発”という形式そのものへの信頼を揺らせる」


 空が苦い顔をした。


 「それ、結局ごまかしじゃん。真面目に書いたやつもいるかもしれないのに」


 「真面目に誰かを沈めようとしてるかもしれない」


 つぐみの声は、やはり柔らかい。

 だが、その柔らかさに棘が隠れていた。


 「今のままだと、紙に書かれた言葉が、人一人の命より重く扱われそうで、私は怖いの。だったら、先に“紙の信用”の方を壊してしまった方が、まだ生き延びられるんじゃないかって」


 澪は息を呑んだ。

 外側のルールを壊す――それは、つぐみらしい残酷さを含んだ提案だった。


 「澪が、『私は誰の字か分からない』って言えばいい。たとえ本当は分かったとしても。それは、誰かを守るための嘘だから」


 守るための嘘。

 ただ、その嘘が本当に誰かを救うのかどうか、澪にはまだ分からなかった。


                ◆


 午後、澪は放送室の前に立っていた。


 封鎖された扉。南京錠。針金。ベニヤ板。

 それらの上に、かすかに潮が吹いた白い粉が積もっている。


 「一時的に、解くだけだから」


 澪は自分に言い聞かせるように呟いた。ポーチから鍵束を取り出す。重たい金属の輪が指の間で鳴り、うっすらと手汗が滲む。


 早乙女律と山城拓、それに久遠つぐみが立ち会っていた。

 「完全封鎖を続けるより、基準点をもう一度確認すべきだ」という理屈で、放送室の封鎖を一時的に解くことが許されたのだ。


 「中に入るのは、澪と俺と律だけだ。つぐみは廊下で様子を見ててくれ」


 山城が言うと、つぐみは素直にうなずいた。


 澪は南京錠の穴に鍵を差し込む。

 カチリ。

 金属の軽い音がして、錠前が開く。針金をほどき、板をずらし、扉のノブを回す。


 中の空気は、ひんやりとしていた。

 潮の匂いではなく、古い機械と埃の匂い。澪が何度も出入りした、馴染みの匂いだ。ミキサ卓、マイク、ヘッドフォン。どれも昨夜から触られた様子はない。


 「栞は、どこだ?」


 律が小声で尋ねる。

 澪は窓際の棚に歩み寄り、古い放送台帳の束を手に取った。厚手の紙に日付と番組内容がびっしり書き込まれたノート。ページの間から、青いものが覗いている。


 それは、あの青い栞だった。


 手に取ると、前に見たときよりも紙がしっとりと重くなっている気がした。

 表には濃い墨で「出席は救い」とある。

 だが、今日は裏側を見たかった。


 栞をそっとひっくり返す。

 裏面には、薄い鉛筆で何かが書かれていた。消しゴムで消そうとして、消し切れなかった文字。筆圧の跡が紙に残っている。


 「出席は救い、欠席は海。声は橋」


 律が読み上げる。

 山城が眉をひそめた。


 「……橋?」


 「たぶん、琴葉先輩のメモだと思う」


 澪は、鉛筆の線の癖を見つめながら言う。

 「授業のメモとかで、よくこういう書き方してた。“AはB”“BはC”みたいな、等式みたいに並べるの」


 出席は救い。

 欠席は海。

 声は橋。


 「橋って、どこへの?」


 律の問いに、答えられる者はいなかった。


 声が橋だというなら、それは何と何を繋ぐ橋なのか。

 教室と体育館か。

 人と人か。

 この島と、海の底か。


 「……いつからだと思う?」


 澪は、ラジカセで聞いた古い放送を思い出す。

 地震のずっと前から、琴葉の声の裏には、微弱な潮騒のノイズが混ざっていた。


 「いつから、声は橋になってたんだろう」


 誰にともなく呟くと、放送室の静かな空気が、その言葉をじっと吸い込んだ。


 


                ◆


 一方その頃、律は電源系統の図面を書き起こしていた。


 体育館の隅にあるコンセントカバーを外し、そこから天井裏のダクトへと伸びるケーブルを見上げる。ノートのページには、放送室から各教室、体育館、理科室へ走る配線の仮想図が描かれていく。


 「ここがメイン電源。ここが非常用回線。で、問題はこの……」


 律は鉛筆の先で、一つの線を指した。


 「図面上、説明のつかない分岐がある。昔の改修工事のときに増設されたのか、それとも……」


 「海に繋がってたりして」


 空が軽口を叩く。

 律は苦笑しながらも否定しきれない表情をした。


 「冗談じゃなく、どこかでショートして海水に触れてる可能性はある。塩害のノイズが混ざってる以上、どこかに“濡れてる場所”がある」


 天井裏へ上がるための点検口は、理科準備室の隅にあった。

 ストッパーを外し、脚立を立て、律と氷見斎が交代で上に上がる。澪は一応止めようとしたが、情報が必要だという理由で押し切られた。


 「湿気、やばいな……」


 律が額の汗を拭う。

 天井裏の世界は、まるで呼吸する洞窟のようだった。配線用のダクトが入り組み、断熱材がところどころ剥き出しになっている。その隙間から、潮の匂いを含んだ風が流れていた。


 「滑るぞ。気をつけろよ」


 下から山城が声をかける。

 律は慎重に、ケーブルの束を辿っていく。


 「ここだ」


 やがて、彼は一つの分岐点を見つけた。

 古い黒い配線に、比較的新しい白い配線が無理やり繋がれている。素人仕事とまでは言わないが、学校の工事にしては雑な結び方だ。絶縁テープの隙間から、わずかに錆びた銅線が覗いている。


 「これ、非常放送ラインかもしれない」


 律はそう言うと、配線の先を目で追った。

 白いケーブルは天井裏を走り、体育館方向へ伸びている。途中、断熱材の隙間から外気が入り込んでいる場所に差し掛かると、ケーブルの表面に白い結晶がこびりついているのが見えた。


 塩だ。


 「ここ、海風が直接当たってるんだな……。台風の時とかに海水飛沫が入ってきて、そのまま乾いて、また湿気て、を繰り返してる」


 律は慎重にケーブルを触り、感電の危険がないか確かめる。

 電気は、今は流れていない。だが、いつまた流れるとも限らない。非常回線の入り口を探す作業は、潮の湿気の中で危険だった。


 「……生きてるわけだ。声の橋が」


 律の独り言は、天井裏の暗闇に溶けていった。


                ◆


 百瀬真帆は、図書室で別の“地図”を作っていた。


 机の上に名簿のコピーを広げ、その隣に、図書室の本棚の背表紙の一覧をメモしていく。「あ」「い」「う」……。名前の順ではなく、ラベル番号、配置、棚の高さ。彼女はその間隔を細かく記録していた。


 「消えた名前の間隔は、完全にランダムってわけじゃない」


 澪にそう説明しながら、真帆はペン先で紙を叩く。


 「ほら、見て。学年ごとの名簿の真ん中あたりから、優先的に一行ずつ剥がされてる。端じゃなくて、中心。クラスの表のちょうど真ん中あたり」


 澪は、紙に描かれた簡易グラフを覗き込んだ。

 横軸に学年、縦軸に出席番号。その真ん中付近に、印が多く打たれている。


 「秩序の心臓から沈めてる感じ、しない?」


 真帆の言葉は、妙に生々しかった。


 「端っこから崩すんじゃなくて、真ん中から穴を開けると、構造全体が早く壊れるでしょ。建物も、船も、人間関係も。誰かが、あるいは何かが、そういうやり方で“沈めてる”」


 「……嫌な例え、うまくないで」


 澪は苦い笑いを浮かべる。

 真帆は肩をすくめた。


 「本棚も同じだよ。真ん中の棚が倒れたら、左右も一緒に崩れる。さっき、試しに真ん中の本を一列全部抜いてみたら、上の本が雪崩みたいに落ちてきた」


 図書室の床には、まだそのときの本が散らばっていた。


 社会の心臓から沈む。

 秩序の中心に近い行ほど、最初に剥がれる。


 「意図があるんだとしたら、かなりいやらしい意図だね」


 澪はそう言いながら、自分の胸のあたりを無意識に押さえていた。


                ◆


 夜。


 海は、もう一階の廊下を支配していた。


 満潮の時間がさらに早まったことを、氷見のノートは告げていた。零時の前にすでに、校舎の足元は海に浸かり始める。玄関ホールの靴箱の列の中ほどまで、水が侵入していた。


 体育館で寝る準備をしていたとき、突然、女子生徒の悲鳴が響いた。


 「弟がいない!」


 叫んだのは二年の女子だった。顔を真っ青にして、毛布をひっくり返し、周囲の生徒の布団をめくっている。


 「さっきまでここにいたの! 一緒に寝ようって言ってたのに、目を離したら……!」


 「落ち着け。一緒に探す」


 山城が立ち上がるより早く、矢代空が駆け出していた。


 「名前は! 弟の名前!」


 「三崎 光! 一年の……!」


 「光ね! 了解!」


 空は体育館の扉を蹴るように開け、廊下に飛び出した。

 澪も百瀬も、条件反射のようにそのあとを追う。


 「ちょっと、勝手に出るな!」


 山城の制止の声が背中に飛んできたが、もう遅かった。


 廊下の床は冷たく湿っていた。足を踏み出すたびに、靴の裏からぬるりと水の感触が伝わる。体育館から一階へ下りる階段の途中で、空は立ち止まった。


 「マジかよ……」


 階段の踊り場まで、水が来ていた。

 下のろうかは、ほとんど“浅いプール”になっている。机や椅子が流され、教室から漂ってきたプリントやノートの切れ端が水面に浮かんでいた。


 「光くん! 返事して!」


 百瀬が叫ぶ。声が廊下に反響し、波に吸い込まれていく。


 「ダメだって、危ない!」


 一人の三年の男子が慌てて階段を駆け下りてきた。体育教師から渡されたロープを持っている。


 「降りるなら、これ結んでから!」


 「お前が持ってろ。俺が行く」


 空が言う。

 男子はロープの片端を階段の手すりに結び、もう片方を空の腰に巻きつけた。百瀬も自分の腰にロープを巻きつける。


 「私も行く」


 「真帆、お前まで――」


 「字を守るのも仕事だけど、人を守るのも仕事だから」


 彼女の目は意外なほど強かった。


 ロープを腰に巻いた二人は、階段を下りていった。

 水面に足を踏み入れた瞬間、澪は見ているだけなのに、足首まで冷たい水に浸かったような錯覚を覚えた。


 「光! どこだ!」


 空の声が、暗い廊下に響く。


 「ここ……!」


 小さな声が、水音の向こうから返ってきた。

 体育館とは反対側の、昇降口の方角。そこには、膝まで水に浸かりながら、靴箱の陰にしがみついている小さな影があった。


 「光!」


 空が水を蹴って走る。

 床に散らばったスリッパやシャベルを踏み、バランスを崩しかけながらも、なんとか光のそばまで辿り着いた。


 「動くなよ! 今行くから!」


 ロープがぴんと張る。

 百瀬が後ろから必死に支える。二人の腰に巻かれたロープは、階段の手すりに結ばれた反対側で、三年生たちが全力で握っていた。


 「こわい……海、こわい……」


 光は震えながら泣いていた。

 昇降口のガラス扉の向こう側には、真っ黒な水がうねっている。その水が、今にも扉を破って中に押し寄せてきそうな圧力を持っていた。


 「大丈夫、大丈夫。ほら、空兄ちゃん来たぞ」


 空はそう言いながら、自分の上着を脱いで光にかぶせた。

 「もう少しだけ、目をつぶってろ。終わったら、体育館でチョコもらおうな」


 「……ほんと?」


 「ほんと。俺が百瀬に頼んでやる」


 百瀬が「どうして私限定なの」と小さく突っ込み、少しだけ笑いが漏れた。その笑いが、張り詰めた空気をわずかに緩める。


 廊下の水かさは、じわじわと増していた。

 遠くで、波が校舎の壁に打ちつける鈍い音がする。


 「戻るぞ!」


 山城の声が、階段の上から落ちてきた。

 ロープが引かれ、空と百瀬と光は、水をかき分けながら階段へ戻っていく。


 何とか踊り場まで引き上げられたとき、澪は気づいた。

 体育館の中から、薄く聞き覚えのある声が漏れてきている。


 「……本日の欠席者は、一名」


 放送だ。


 「ちょっと待って!」


 澪は叫んだ。

 階段を駆け上がり、体育館の扉を開ける。

 だが、放送はもう終わっていた。ざらついたノイズだけが、スピーカーの紙を震わせている。


 「また……」


 体育館の中では、すでに名簿が開かれていた。

 誰かが、ページを震える手でめくっている。


 紙は、湿っていた。

 昨夜よりも、もっと深く。

 乾かそうと軽く広げるだけで、層が剥離しそうになる。表面と裏面の間に、薄い空気の膜が入り込む。


 「もう、これ以上触ったら破れる……」


 百瀬が顔を歪める。


 「じゃあ、どうすれば」


 「紙を守るために、紙を重ねるしかない」


 澪は、とっさにそう言った。

 頭の片隅に、青い栞の手触りが蘇る。


 「薄い紙を、一枚挟む。海水を吸うのは、その紙に引き受けさせる。……神野先輩の栞みたいに」


 「青い薄紙なら、図工室にあったはずだ」


 誰かが言う。

 澪はうなずき、数人と一緒に図工室へ走った。棚の中から、半透明の青い薄紙を束ごと持ち帰る。名簿のページの上に、一行ごとにそっとかぶせていく。


 青い膜が、名簿の上に重なっていった。

 水を吸ってふやける前に、受け皿を用意するように。


 「これで、どれだけ意味があるかは分かんないけど……何もしないよりはマシだよな」


 空が肩で息をしながら笑う。


 「神野先輩の栞も、青かったし」


 澪は小さく呟く。


 出席は救い。

 欠席は海。

 声は橋。


 青い紙は、その橋の上にかけられた薄い板みたいに見えた。


                ◆


 翌朝。


 名簿から消えた一行の位置を見たとき、澪は背筋に寒気が走った。


 「……これ、昨日より中心に近くなってる」


 学年の真ん中。クラスの真ん中。

 真帆が作ったグラフに、新しい印を追加すると、点はさらに内側へ食い込んでいた。


 「告発、昨日が一番多かったよね」


 氷見が言う。

 体育館の片隅に置かれた告発ボックスは、昨夜遅く山城に中身を取り出され、新しい箱に交換されていた。それでもまた、今朝には何枚かの紙が入っている。


 「……もしかしてだけど」


 澪は、自分の考えを言うのをためらった。

 しかし、誰かが口に出さないと、何も変わらない。


 「消える行の“中心からの距離”と、前夜の告発の枚数、相関してるかもしれない」


 「相関?」


 律が目を細める。

 真帆は既に、そういう仮説を立てていたのだろう。ノートをめくり、日付ごとの告発枚数と、消えた行の位置を示した表を見せてくる。


 「告発が少ない日は、端っこに近い行が消えてる。多い日は、真ん中に近いところが剥がされてる。……まだ試行回数が少ないけど、傾向は見える」


 「つまり」


 律がゆっくり言葉を選ぶ。


 「俺たちがたくさん“告発”すればするほど、社会の心臓に近い名前が、優先的に海に沈められていくってことか」


 「社会の圧は、海より速い」


 真帆が書類の端に書き込んだメモを、氷見が読み上げる。


 澪は、喉の奥がひりつくのを感じた。

 告発枚数が増える。

 そのたびに、名簿の中心が削れていく。


 「だったら、告発を止めるほかない」


 久遠つぐみが静かに言った。

 彼女の目は、告発ボックスを真っ直ぐ見ている。


 「この箱がある限り、みんな書くよ。“誰かを欠席させたい誰か”の祈りを、紙に乗せる。だったら箱ごと、なくしてしまうしかない」


 つぐみは、ステージの端に置かれた告発ボックスに歩み寄った。

 ひょいと持ち上げる。

 意外と軽い。中身は昨夜山城が回収しているからだ。


 「ちょ、ちょっと待て」


 空が慌てて立ち上がる。


 「つぐみ、その箱どこ持っていく気?」


 「海」


 「おまえ、マジで言ってんのか」


 「うん。海に投げる。もともと、ここにない方がいいものだった」


 その言葉は、あまりにもあっさりしていた。


 「待て」


 山城が前に出た。

 眠れていない顔に、はっきりと怒りの色が浮かぶ。


 「それは俺の責任だ。俺が始めた仕組みだ。勝手に壊すな」


 「責任って言葉、便利だね」


 つぐみは、珍しくきつい口調になった。


 「山城くんが“責任を取る”って言ったから、みんな告発という形で不安を箱に押し込めた。でも、その箱が逆に“誰かを沈める重し”になってるなら、壊す責任も誰かが取らなきゃいけない」


 「その“誰か”を、自分にしてるわけか」


 「そう」


 山城とつぐみの視線がぶつかる。

 体育館の空気が、じわじわと熱を帯びていく。


 「俺だって、壊したくないわけじゃない」


 山城は低い声で言った。


 「でも、箱を壊しても、告発したい気持ちは消えない。箱がなくなれば、今度は別の形で噴き出す。密告や陰口や暴力で。それをどうやって抑えるつもりだ」


 「箱がある限り、“紙に書けば許される”って思う人もいる」


 つぐみは一歩も引かない。


 「だからこそ、外側のルールを壊すんだよ。紙に書いても、それは絶対じゃないって。告発は救いじゃないって、見せつけるしかない」


 「やめろって」


 空が間に入ろうとする。

 しかし山城はもう、一歩前に出ていた。


 「勝手なこと言うな!」


 怒鳴り声と同時に、山城の手が伸びた。

 つぐみの手から箱を奪おうとした、その動き。その手が、横から無理やり割り込んできた空の頬をかすった。


 バチン、と乾いた音がした。


 空の身体が少しよろめく。

 告発ボックスが宙に浮き、そのままステージの床に落ちた。空いた切り込みから、白い紙片が何枚か舞い上がる。


 「いたっ……なにすんだよ」


 空は頬を押さえた。

 指の間から、赤いものが滲み出てくる。


 澪は、反射的に駆け寄った。

 「空!」


 空の頬には、うっすらと赤い線のような傷がついていた。

 山城の指輪の角が当たったのかもしれない。そこから、一滴の血がつうっと流れる。


 その血が、舞い落ちた紙片の一枚にぽたりと落ちた。


 ……青い栞の上に。


 昨日、封鎖を解いたときに澪が持ち出し、名簿のそばの机の上に置いていた青い栞。その端に、赤い点がひとつだけ、はっきりと刻まれた。


 「……」


 誰も、すぐには言葉を発せなかった。


 赤い点は、青い紙の上で異様に鮮やかだった。

 濡れた血が紙に吸い込まれていく。

 その様子を、全員が呑まれるように見つめていた。


 「ご、ごめん……」


 山城が最初に声を出した。


 「空、悪かった。お前を殴るつもりじゃなかった」


 「俺も割り込んだから。……大丈夫だって。ほら、たいした傷じゃないし」


 空は無理に笑ってみせる。

 つぐみが保健ポーチから消毒と絆創膏を取り出し、手早く処置を始めた。


 体育館の熱が、少しずつ冷めていく。

 告発ボックスの中身も、舞い上がった紙も、今は誰も拾おうとしない。


 赤い点がついた青い栞だけが、机の上で静かに横たわっていた。


                ◆


 夜。

 放送が鳴る少し前。


 澪は放送室の扉に耳を当てていた。


 封鎖は、また元通りにされた。南京錠。針金。板。

 だが鍵を持つ澪なら、扉の向こうの気配くらいは感じ取れる気がした。


 廊下は静かだ。

 遠くから聞こえるのは、体育館のかすかなざわめきと、海の低い唸りだけ。


 耳を押しつけていると、最初は自分の心臓の音しか聞こえない。

 ドク、ドク、と、鼓動が耳の内側を叩く。


 やがて、その奥に――もうひとつのリズムが混ざった。


 『……本日の、欠席者は――』


 澪は、息を止めた。


 聞こえたのは、神野琴葉の声ではなかった。

 もっと、聞き慣れた声。


 自分の声だった。


 緊張しているときの、少し早口になる癖。

 語尾がわずかに上がる話し方。

 放送委員として練習していたときに、何度も注意されたイントネーション。


 あのときと同じ響きが、扉の向こうから微かに漏れてくる。


 『出席は救い、欠席は海……』


 自分の声が、誰かに向かって読み上げている。

 ここではないどこかにいる誰かに、届けるように。


 「嘘……」


 澪は、扉のノブを掴みかけた。

 だが、その手をすぐには動かせなかった。南京錠がぶらさがる金属音が、やけに大きく聞こえる。


 もし扉を開けたら。

 そこにいるのは、本当に自分なのか。

 それとも、青い栞の裏にメモを残した、先輩の影なのか。


 廊下に、体育館からの放送が流れ始める。


  本日の欠席者は――一名。


 澄んだ女性の声が、天井スピーカーから落ちてきた。

 体育館の方からは、押し殺した悲鳴のようなざわめきが広がる。


 扉の向こうの“自分の声”は、その放送に重なるように、かすかに続いていた。

 練習するように。

 復唱するように。


 橋を渡る声のように。


 澪は、扉に額を押し当てた。

 鍵束が、ポーチの中でひどく重く感じられた。


 出席は救い。

 欠席は海。

 声は橋。


 その橋を渡るのが、次は自分の番なのかもしれないという予感だけが、夜の廊下に、長い影を落としていた。

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