第3話「告発の昼」
配給の列は、午前中からずっとざわざわしていた。
体育館の入口からステージの横まで、青いビニールテープで蛇のように仕切られた通路。その中に生徒と先生たちが並んでいる。ペットボトルの水と乾パンを受け取るための列だ。本来なら、一人一本、ひと袋。けれど海は日ごとに近づき、救助の気配はなく、水は目に見えて減っていた。
「前に並ぶ資格があるのは、年少の子でしょ!」
女子の鋭い声が、体育館の天井に跳ね返る。
「いやいや、うちの親父、持病持ちなんだけど。先生たちだって歳だし、優先順位ってあるだろ」
「何それ、大人だから偉いの? 昨日だってあんた途中で割り込んできたじゃん!」
列のあちこちで、こんな言い争いが起きていた。
疲れと空腹と乾きが、全員の声を尖らせている。
「静かにしろ!」
山城拓の声が割って入る。
彼は名簿を片手に、列の先頭に立っていた。体育館の床にガムテープで印をつけ、「出席番号順」の札をいくつも貼っている。
「配給は、名簿の順番で行う。これ以上、押し合ったり割り込んだりしたやつには、後ろに回ってもらう」
「名簿って、その名簿?」
誰かが山城の手元を指差す。
ざらついた空気の中で、その一言が火花になる。
「毎朝、一行ずつ消えてる名簿がさ、なんでそんなに偉いんだよ」
「そうだよ。そこに名前が“ない”やつは、配給の順番すらなくなるってこと? おかしくない?」
ざわり、と列の後ろからも賛同の声が上がる。
名簿が正しい保証はどこにある――その問いは、誰の頭にも一度は浮かんでいたはずだ。
山城は一瞬、口をつぐんだ。
彼自身、名簿から消えた一行を目で見ている。記憶からも、誰かが丸ごと抜き取られる感覚を、昨夜から味わっていた。
「……今ある中で、一番“形”になってる秩序が、これなんだよ」
絞り出すように言う。
「名簿は、少なくとも昨日までは、確かにそこにいた人間の痕跡だ。完全じゃない。でも、これまでの出席の証だ。それすら捨てたら、何も残らない」
「でも、その名簿が消してるんじゃないの」
そう言ったのは、図書委員の百瀬真帆だった。
彼女は古い学籍簿を抱えたまま、静かに列の近くに立っている。
「今朝も、一年のページから一行、紙ごと剥がれてた。戦前の学籍簿と同じ傷。誰かが意図的に、あるいは、何かが」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
空気中の苛立ちが、一斉に百瀬に向きかけたそのとき、彼女は少しだけ顎を上げた。
「……青いインク、使おうかと思ってる」
「インク?」
「うん。古い学籍簿の中に、青いインクで書かれてる名前があったの。戦時中に書き足された人たち。剥がされた跡があるのは、黒いペンで書かれた行ばかりだった。紙とインクの相性かもしれないけど、“違う色”でもう一度、自分たちで名簿を書き直すことはできる」
百瀬は抱えていた古い冊子を開いた。
黄ばんだ紙の上で、青いインクの名前が、黒い名前よりも鮮やかに残っている。周りの罫線が少し薄れても、その青だけははっきり読める。
「名簿が曖昧で怖いのは、“誰がそこにいるのか”が見えなくなってるから。だったら、今ここにいる全員の名前を、もう一度書き直せばいい。消えた行も含めて。思い出せる限り」
体育館の空気が、少しだけ揺れた。
希望とも、違う。けれど完全な絶望でもない、重たい揺れ。
「……でもさ」
最前列で水の配給を待っていた男子が、小さく笑った。
「その青いインクで名前書くって、さ。もし、あの放送が、“名簿に載ってる名前”を一行ずつ沈めてるんだったら」
「ちょっと」
誰かが止めようとするが、彼は続けてしまう。
「新しく名前を記すことって、“ここから沈めてください”って海に印つけるのと、同じじゃないの?」
その言葉は、誰も反論できなかった。
記すことは、救うためか。沈めるためか。
百瀬の指にある青いペンが、わずかに震えた。
「書き直そう」と言ってしまった以上、その責任を引き受けなければならない。でも、それが“誰かの沈没地点に印をつける”行為に見えてしまうのなら――。
「……青いインク、悪くないと思うよ」
澪は、押し殺した声で口を開いた。
「紙から消える名前が怖いなら、せめて、自分たちで“ここにいた”って証を残した方がいい。沈むか沈まないかは、あたしたちには決められないけど……何も書かないで消えるのは、もっと嫌だ」
名簿を前にして、立ち尽くしていた何人かが、澪の方を見た。
矢代空も、その一人だ。
「……澪は、そう思うんだ」
「うん」
「じゃあ、青いインクの担当、お前ね」
空は半分冗談めかして笑う。
だが、誰も「俺がやる」とは言わなかった。
名前を書くという行為の重さを、本能的に避けるように。
◆
昼休み、体育館の窓から差し込む光は白く濁っていた。
校庭はもう、校庭と呼べる状態ではない。砂の一部は泥になり、ところどころに海水の溜まりができている。グラウンドのラインは消え、サッカーゴールのポストの根元まで水が来ていた。
「ほら、見て」
氷見斎がノートを掲げる。表紙には「潮位ノート」とボールペンで書かれている。ページには時間と水位のメモ、簡単な図、外の景色のスケッチまで描かれていた。
「ここ。昨日の満潮は零時四十三分。階段五段目まで水が来てた。今朝の引き潮の位置がここ。で、さっき、水槽見に行ってきたんだけどさ」
「水槽?」
「理科室の。ほら、金魚がいたでしょ、前まで」
斎の話を聞きながら、澪と律、空は階段を上がっていく。
理科室のドアを開けた瞬間、潮の匂いが鼻を突いた。
教室の中央に置かれた大きな水槽。
ガラスの縁まで、どす黒い海水が満たされている。水槽の外側の床も濡れていて、その水たまりは教室の窓際から続く海水の筋と、薄く繋がっていた。
「……一体化、してる」
澪は呟いた。
水槽が、もう“室内の水”ではなく、外の海と同じ水になっている。境界はなく、ただレベルの違いだけがそこにある。
窓の外を見れば、校舎の真下まで海が迫っていた。
校庭の砂は粘土のように粘り、足跡はすぐに消える。
「満潮の時間が、毎日少しずつ早くなってる。上昇幅も大きくなってる。潮汐表なんてとっくに意味なくて、島ごと沈んでいってる可能性の方が高い」
氷見は冷静に言った。
ノートの端に、小さく「沈降?」と書き込む。
「だから、救助が来ないのか?」
空が窓の外を睨む。
「港も、もう使えないんじゃない? 道路も崩れてるし。……それでも、試さないわけにはいかないけど」
午後の時間、先生たちは拡声器を持って屋上に上がり、港方向に向かって何度も呼びかけた。「こちらミサキ島高校です! 応答願います!」。その声は確かに海の上に飛んでいったはずなのに、返ってくるのは風と波の音だけ。
双眼鏡で海を睨んでいた体育教師が、やがて首を振った。
「船影は、ない」
その一言で、屋上の空気は重たく沈んだ。
下から見上げていた生徒たちは、誰も声を出さなかった。
◆
午後、体育館の喧騒から逃げるようにして、澪は図書室に入った。
図書室は、薄暗く静かだった。
揺れで落ちた本が床に散らばり、棚は少し傾いている。窓は割れてはいないものの、外の湿気がじわじわと侵食してきていて、本の紙が重たく膨らんでいた。
奥の棚の下段。
放送委員の教材がしまってあるスペースに、小さなダンボール箱がいくつも積まれている。その一つに、「旧放送記録」とマジックで書かれていた。
「こんなの、あったんだ……」
澪はしゃがみ込み、箱を開けた。
中には、カセットテープがいくつも詰まっている。白いラベルに、ボールペンで走り書きされたタイトル。
「点呼」「昼の校歌」「三学期始業式」「避難訓練・案内」
いつかの放送委員たちの仕事の跡だ。その中に、見慣れた字が混ざっているのを見つけて、澪の心臓が跳ねた。
「……琴葉先輩」
「昼の校歌/神野」「点呼・日直」「生徒会選挙・開票速報」。
細くて、少し右上がりの字。澪が一年の時にさんざん見て、真似しようとしてできなかった筆跡。
古いラジカセを棚の上から引っ張り出し、電源コードをコンセントに差し込む。
体育館と違って、ここにはまだわずかな電気が通っていた。非常用回路が、図書室まで伸びているのだろう。
カセットをセットし、再生ボタンを押す。
少しの巻き戻し音のあと、柔らかな声がスピーカーの紙を震わせた。
『お昼の放送です。三年二組、放送委員の神野琴葉です』
声を聞いた瞬間、澪の喉が締めつけられた。
いつもの朗らかな調子。きれいな標準語のイントネーション。言葉を噛んだとき、照れくさそうに笑う癖まで、そのまま記録されている。
『今日は、点呼に関するお知らせです。最近、ホームルームの出欠記入が遅れがちだと、職員室から苦情が来てしまいました……』
琴葉の冗談交じりの文句に、遠くでクスクスと笑う生徒たちの気配が混ざる。マイクの前に立つ彼女の姿が、目に浮かぶようだった。
だが、その朗らかな声のずっと奥の方に、澪は別の音を聞き取った。
ザザ……ザァ……
ごく微かな、ざらついた音。
ただのノイズと言ってしまえばそれまでだ。けれど、澪の耳には、それがやけに馴染み深く感じられた。
再生を止め、巻き戻して、もう一度再生する。
今度は、ラジカセのボリュームを少し絞り、耳をスピーカーの近くに寄せる。
琴葉の声が、少し遠くなる。
その隙間から、ザザ……ザァ……という音が浮かび上がる。
「……潮の、音?」
理科室の窓から聞こえた海の音。その小さな断片が、テープの細い磁気の上に残っているかのようだった。
「地震の前から、混ざってたのか」
いつから、海は声に混じり込んでいたのだろう。
この島の放送は、ずっと前から、“どこか”に繋がっていたということなのか。
澪は別のカセットも再生した。「避難訓練・案内」。別の日、「昼の校歌」。琴葉の声の背後には、やはり同じように微弱なノイズが混じっていた。
ザザ……ザァ……
窓の外では、まだ昼だというのに、空が低く曇っている。
海のほうから吹き込んでくる風が、図書室のカーテンを膨らませた。
◆
夕方になると、体育館の空気はさらにざらついた。
放送が鳴る時間が近づくと、誰もが落ち着かなくなる。
夜の点呼が終わる前に、「本日の欠席者」がまた一人、名簿から消される。その“順番”がいつ自分に回ってくるのか、全員が心のどこかで怯えていた。
「今日、誰だと思う?」
その言葉が、誰かの口からぽろりとこぼれた。
冗談とも本気ともつかないトーン。けれど、その一言が引き金になった。
「やっぱ、体調崩してるやつじゃね。あの一年の子とかさ」
「いや、あの子まだ小さいし。だったら、三年の島外からの転校生とか。よそ者は優先順位低いだろ」
「うちのクラスのあいつ、昨日から様子おかしいよ。ずっとブツブツ独り言言ってるし」
人々は、自発的に“欠席者”の予想を始めていた。
病人、弱い者、よそ者、目立たないやつ、逆に目立ちすぎるやつ。言葉はどんどん鋭くなり、矢じりのように誰かの背中を探す。
「やめろよ、そういうの」
矢代空が立ち上がった。
いつもみたいな軽い笑いを浮かべず、真っ直ぐに周りを見る。
「誰がいなくなるか、予想してどうするんだよ。名前が消えたやつを指さして“やっぱりね”って言うため? そんなの、ゲームかよ」
「現実だろ」
誰かがぶっきらぼうに返した。
「現実だからこそ、考えとかないと。心の準備しないと、自分の番が来たときに……」
「誰の番とか言うな」
空は遮る。
「“番”なんか、決めさせるなよ。あの放送に。あいつが”一名”って言うたびに、俺らが誰かの顔を思い浮かべて“しょうがない”って納得してたら、それこそ、あいつの思うつぼじゃん」
空の声は、思った以上に強く響いた。
何人かが押し黙る。
「俺は、誰も欠席させない。名簿からも、記憶からも。……そう思ってるやつ、俺以外にもいるだろ」
澪はその言葉に、静かにうなずいた。
けれど、空気は完全には変わらない。
誰も「うん」と声に出しては言わなかった。目を伏せて、ただ体を縮こまらせるだけ。
夜になって、体育館の照明が完全に落ちる。
非常灯の緑だけが、壁の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
◆
その夜、澪は天井を見上げていた。
体育館の天井スピーカーは、四隅に一つずつと中央に一つ。黒い丸い格子が、暗闇の中で、目玉のようにこちらを見下ろしている。
放送の声が「どこから来ているのか」を確かめたかった。
放送委員をやっていたからわかる。
普通、放送室のマイクから出た音は、ミキサを通り、アンプを通り、配線で体育館や教室のスピーカーに流れていく。そのとき、音には微妙な遅れや、機械を通るときのくぐもりが混じる。
昨夜までの放送には、それがあった。
“校舎のどこかにある放送室から届いた音”だった。
だが、今夜はどうか。
零時が近づく。
氷見のノートによれば、満潮の時刻は昨日よりさらに早まり、零時三十五分前後になるはずだ。
澪は、布団代わりの毛布の上に仰向けになったまま、息を殺した。
周りのざわめきも次第に消え、静寂が体育館を覆っていく。
ザザ……ザァ……
遠くで、海の音がした気がした。
ほんの一瞬、スピーカーの格子が震えたように見えた。
そして。
本日の欠席者は──一名。
声が落ちてきた。
今までと違う、と澪は直感した。
音が、近い。
まるで、天井の板の向こう側、すぐそこから喋っているみたいな直線の響き。ミキサのくぐもりも、アンプの低い唸りも、間に挟まっていない。
直接、スピーカーにだけ音を流し込んでいる感じ。
「今の音、何か違っただろ」
隣で起き上がっていた律が、小声で言う。
「うん。放送室を通ってない」
澪は天井を指差す。
「これ、体育館のスピーカーに直結された音だと思う。非常用の……あれ、ほら。避難訓練のときに使ってた簡易マイク、覚えてる?」
「……非常放送ラインか」
かつて、地震訓練の際に先生が手にしていた簡易マイク。
放送室を経由せず、職員室から直接体育館にだけ音を飛ばすための回路があると、放送委員の勉強のときに聞いたことがあった。
「それなら、放送室の鍵がどうとか、封鎖がどうとか、関係ないってことになるな」
律は唇を噛む。
「誰かが、非常用の直結ラインを、どこかでこじ開けた。あるいは……誰か、じゃない“何か”が」
体育館のどこかで、誰かが小さく泣き出した。
「名前、言えよ……」というすすり泣きが漏れ聞こえる。
放送は、相変わらず名を告げない。
ただ「一名」とだけ言い残し、切れた。
その余韻の中でも、天井スピーカーはじっと沈黙している。
その沈黙こそが、何より重たく感じられた。
◆
翌朝。
一年の机の列に、ひとつだけ不自然な空白があった。
誰も、その机の持ち主を思い出せないまま、その空白を“元からそうだった”と受け入れようとする自分に気づいて、顔をしかめる。
山城は無言で名簿をめくった。
一年のページ。そこには、また一行分の空白。紙の繊維が、きれいに剥がされている。その両隣にある名前の行の縁が、うっすらと濡れていた。
「なんだ、これ……」
インクの乗った部分だけ、色が少し滲んでいる。
触ると、ひんやりとしていて、指先に塩のざらつきが残った。
「濡れてる。海水だ」
律が言う。
「でも、どうやって? 名簿、ずっと体育館の中にあるのに」
百瀬真帆が、ハンカチを取り出し、空白部分の周りをそっと押さえた。擦らないように、紙を傷つけないように。
「紙は、海の地図みたいなものだから」
彼女はぽつりと言う。
「誰がどこで沈んだのか、本当は紙が一番よく知ってる。皺とか、濡れ方とか、破れ方とか。本当のことは、いつも紙の方に残るのに、私たちの方が先に忘れちゃう」
澪は、乾きかけたインクの縁を見つめた。
そこには確かに、何かがあった。
誰かの名前があった。その重みが、水になって滲み出てきたように。
◆
その日の昼過ぎ、山城拓は体育館のステージの上に段ボール箱を置いた。
箱の上部には、細長い切り込みが入っている。
「告発ボックス」と、大きくマジックで書かれていた。
「……何それ」
空が眉をひそめる。
「みんなに、伝えておくことがある」
山城は、体育館にいる生徒たちの前に立った。
名簿を片手に持ちながら、もう片方の手で段ボールの天板を叩く。
「夜の放送の後に、名簿から一行が消える。これは、もう偶然ではない。誰かが名簿を改ざんしているか、あるいは……何かがおかしな動きをしている。それは、みんなも分かってるはずだ」
ざわめきが広がる。
山城は続けた。
「でも、ここで俺が一人で決めつけて犯人探しをしても、余計に疑心暗鬼が広がるだけだ。だから、こういう形をとる」
彼は段ボール箱を指さす。
「この中に、匿名でいい。怪しいと思ったこと、人の行動、聞いた噂、何でも書いて入れてくれ。どんな些細なことでもいい。それをもとに、俺と先生たちで状況を整理する。責任は俺が取る」
「それ……」
矢代空が立ち上がる。
「それって、結局“密告箱”じゃないの? なんか嫌な感じしかしないんだけど」
「違う。俺は、誰かを吊し上げたいわけじゃない」
山城は真っ直ぐ空を見る。
「まともに声を上げられないやつもいる。疑わしきは罰せず、でも、疑わしい動きを全部見えないところで放置しておくのも危ない。紙に書いてもらえば、少なくとも“見える形”になる」
「見える形になったら、余計に誰かを指さしやすくなるんじゃない?」
空の言葉には、苛立ちと恐怖が混ざっている。
「……信じてくれとは言わない。ただ、俺はこのまま毎晩誰かが消えていくのを、何もせず見てるのが嫌なんだ」
沈黙。
その沈黙の中で、山城は段ボール箱をステージの端に置いた。
「入れるか入れないかは自由だ。強制はしない」
そう言い残し、彼はステージを降りた。
告発ボックスは、そこにぽつんと置かれたまま。
誰も近づかない。何枚かの紙と、一本のペンだけが横に置かれている。
やがて、ぽつりと足音がした。
澪が目をやると、一人の影が箱へ歩いていく。
長い足。少し猫背。癖のある前髪。
早乙女律だった。
彼は無言で紙を一枚取り、何かをさっと書きつける。
その横顔は、いつもどおり冷静で、感情をあまり表に出さない。
紙を折りたたみ、箱の切れ込みに差し込む。
すっと、飲み込まれるように中へ消えた。
「律……?」
澪は思わず小さく名前を呼びかけたが、声にはならなかった。
律は振り返らず、そのまま体育館の出口の方へ歩いていく。
告発ボックスの中で、紙が擦れ合うかすかな音がした。
それはまるで、海図の上に、新しい沈没地点の印がひとつ増えたみたいな、そんな音に聞こえた。




