2話 おかえり、ワンちゃん
扉の前で、俺は動けなかった。
少女の姿も、声も、俺の知る魔王様とは違う。
それでも、魂に染みついた匂いだけは同じだった。
「久しぶりだね、ワンちゃん」
少女は首を傾げ、昔と変わらない笑みを浮かべた。
その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥へ押し込めていた記憶が一斉に蘇る。
魔王城の広い庭。
膝の上で眠った夜。
失敗して落ち込むたび、頭を撫でてくれた手。
「本当に、魔王様なんですか?」
問いかけながら、自分でも答えは分かっていた。
俺の鼻が、この少女を魔王様だと告げている。
疑う余地など、最初から一つもなかった。
「酷いなあ。
ワンちゃんの鼻なら、私が誰かくらい分かるでしょ?」
少し頬を膨らませる仕草まで同じだった。
目の前の少女からは、喜びと安堵、それから長い間ひとりで耐えてきた寂しさが漂っている。
気づけば、俺はその場へ膝をついていた。
「魔王様……」
少女の手が伸び、俺の頭へ触れた。
人間の少女の手は、記憶よりもずっと小さい。
それなのに、髪を梳く指の動きは何も変わっていなかった。
「よい子だね」
その一言で、耐え続けていたものが崩れた。
守れなかった。
助けられなかった。
最後まで傍にいることさえできず、俺だけが地球へ戻ってきた。
魔王様の手のひらが、何度も俺の髪を撫でる。
責める匂いは少しもない。
あるのは、再会を喜ぶ温かな匂いだけだった。
俺は目を閉じた。
犬だった頃と同じように、その手へ頭を押しつける。
喉の奥から、小さな音が漏れた。
自分で気づいたときには遅かった。
少女は驚いたあと、堪えきれないように笑った。
「今、喉を鳴らした?」
「鳴らしていません」
「鳴らしたよ。
昔と同じだった」
否定したかったが、頭を撫でる手から離れることはできなかった。
少女の手が止まりそうになるたび、無意識に頭で追ってしまう。
そんな俺を見て、魔王様はますます楽しそうに笑った。
「やっぱり、私のワンちゃんだね」
胸の奥へ押し込めていたものが、もう耐えられなかった。
俺は少女の小さな身体を抱き締める。
力を入れれば壊してしまいそうで、腕にはほとんど力を込められない。
それでも、魔王様はすぐに俺の首へ腕を回した。
頬が肩へ触れ、確かな体温が伝わってくる。
「会いたかったです」
「うん。
私も会いたかったよ」
耳元で聞こえた声に、胸が痛むほど満たされた。
夢ではない。
温かさも、鼓動も、匂いも、すべてがここにある。
どれほどそうしていたのか分からない。
階段を上ってきた住人が、俺たちを避けるように壁際を通った。
そこでようやく、玄関先に座り込んでいることへ気づく。
「立ち話もなんだし、中に入れてくれる?」
俺は慌てて立ち上がり、扉を大きく開けた。
「もちろんです。
どうぞ」
魔王様は靴を脱ぐと、遠慮なく部屋へ入った。
靴下は玄関に脱ぎっぱなしにして、六畳一間の室内を見回す。
冷蔵庫、小さな机、敷いたままの布団を順番に眺めた。
「ずいぶん小さなお城だね」
「城ではありません。
地球へ戻ってから借りた部屋です」
「でも、ワンちゃんの匂いがいっぱいする。
私は好きだよ」
魔王様は満足そうに頷き、布団へ勢いよく飛び込んだ。
枕へ顔を埋め、ごろごろと転がる。
魔王城にいた頃も、俺の寝床を見つけると勝手に占領していた。
「魔王様。
靴下を片づけてください」
「あとで」
「布団の上で転がらないでください」
「ワンちゃんもおいで」
布団の端を叩かれた。
少し心が動いたが、首を横へ振る。
「先に食事にします」
「お肉がいい」
「冷蔵庫を確認します」
俺が振り向くより早く、魔王様は布団から飛び降りた。
冷蔵庫を開け、中へ顔を近づけている。
「お肉がある。
卵もある。
甘いものはないね」
「勝手に開けないでください」
「ここは今日から私のお城でもあるんでしょ?」
「まだ何も決まっていません」
魔王様は聞こえなかったふりをして、肉の包みへ手を伸ばした。
生のまま口へ入れそうになったため、慌てて取り上げる。
「焼くまで待ってください」
「少しくらい平気だよ」
「平気でも駄目です」
「ワンちゃんが怒った」
口では残念そうに言いながら、匂いは楽しんでいる。
昔も厨房から肉を持ち出そうとして、料理長に叱られていた。
魔王なのに、食べ物の前では威厳が消えるところまで変わっていなかった。
フライパンを火にかけ、肉を焼く。
脂が弾け、香ばしい匂いが狭い部屋いっぱいに広がった。
背後から、じりじりと近づく気配がする。
振り返ると、魔王様が俺のすぐ後ろからフライパンを覗き込んでいた。
「まだ?」
「もう少しです」
「一枚だけ味見してもいい?」
「駄目です」
「小さいのなら?」
「大きさの問題ではありません」
魔王様は頬を膨らませたまま、今度は俺の服へ鼻を近づけた。
小さな鼻が何度か動く。
「ワンちゃん、帰りにお肉を食べたでしょ?」
「なぜ分かったんですか?」
「匂い」
自分の言葉を返され、何も言えなくなった。
魔王様の笑い声が部屋に響く。
殺風景だった場所へ、その声が染み込んでいく。
皿へ肉を盛り、机に並べた。
魔王様は待ちきれない様子で正座し、両手を合わせる。
「いただきます」
肉を一口食べると、魔王様の表情が明るくなった。
「おいしい。
ワンちゃん、料理が上手になったね」
「焼いただけです」
「私のために焼いてくれたから、おいしいんだよ」
たったそれだけの言葉が嬉しかった。
俺も向かいへ座り、残った肉を食べる。
同じ机で食事をしているだけなのに、魔王城へ帰ってきたような気がした。
魔王様は俺の皿へ視線を向けた。
まだ一切れ残っている。
「それ、食べないの?」
「食べます」
「半分くれたら、もう一度撫でてあげる」
「全部差し上げます」
肉を皿ごと差し出すと、魔王様は声を上げて笑った。
自分でも単純だと思う。
それでも、頭を撫でてもらえるなら肉の一枚くらい惜しくなかった。
約束どおり、魔王様の手が頭へ伸びる。
人間の姿で撫でられるのは少し恥ずかしい。
避けようと思ったのに、身体は勝手に頭を差し出していた。
「やっぱり、よい子だね」
目を細めた瞬間、魔王様の手が耳の後ろを掻くように動いた。
犬の姿だった頃から、一番好きな場所だった。
身体から力が抜け、また喉の奥で音が鳴る。
「ほら。
やっぱり鳴らしてる」
「これは……違います」
「何が違うの?」
「分かりません」
言い訳を諦めると、魔王様は満足するまで俺の頭を撫でた。
その間、俺は一度も手から離れられなかった。
食事を終えると、魔王様は再び布団へ飛び込んだ。
玄関に置いていた小さな鞄を持ってきて、中身を机の上へ広げる。
着替え。
歯ブラシ。
髪を梳かす櫛。
小さな枕まで入っていた。
「魔王様。
その荷物は何ですか?」
「お引っ越しの荷物」
「引っ越し?」
「うん。
今日からまた一緒に暮らそう」
俺が言葉を失っている間に、魔王様は自分の枕を布団へ並べた。
一人分しかない寝床の中央へ置き、そこから半分を俺へ譲るように端へ寄せる。
「ここが私の場所ね。
ワンちゃんはこっち」
「本当に住むつもりですか?」
「住むんじゃないよ」
魔王様は枕を抱え、昔と同じ笑顔を浮かべた。
「帰ってきたの。
だって、ワンちゃんだもん」




