「見るなかれ、語るなかれ、そんなものとずっと対峙しても狂うなかれ」というのも無理な話だと思うの
おおよその極々限られた場所で祀られている神様というものは肉眼で見てしまうと、視力を失ったりだとか命を失ったりだとか、何かと不幸な目に遭うものというイメージがある。ただし幸いなことに、天井の窓から現れた神様はそういった厄介事を振りまくタイプではなかった。まあ、見た目は正気が吹き飛んだ人間からしてもそこそこ衝撃的ではあったのだけれども。
全体的な印象は、窓から粘度の高い何かが垂れ下がってきている、というものだった。しかし、その何かが何なのかという説明はそれなりに難しかった。
垂れ下がってきているのだから液体……というか流動体というのだろうか? ともかく「なんだか流れるものなんだろ」という声も聞こえてくる気がするし、そう言われるのももっともだと思う。そうは言っても、神様が固体だったという可能性も捨てきれない気がする。例によって例のごとくな有様なのは記憶の曖昧さよりも、それが何なのか理解することができなかったからというのが原因だろう。
無数の小魚と節足動物を粗みじんにしてよく混ぜたもののようにも、絶世の美男美女たちを煮こごりにして二三週間炎天下に放置したもののようにも、廊下の隅に忘れ去られたファンシーグッズたちの地縛霊のようにも、或いは単に美しい光を束ねたもののようにも見えるもの。
そんなものが天窓から丸井戸に向かって顔を伸ば……あれは顔だったのだろうか? いや、そこにこだわっていても仕方がないから顔のような部分だったということで話を進めよう。ともかく、顔のような部分はびちゃびちゃとあるいはカサカサと井戸の底へ向かって伸びていった。当然できることなどあるはずもなく、二、三歩……いや多分もっとだったか、ともかく後ずさってひたすらその様子を見ていた。オノマトペの選択に苦しむ音が響くなか「痛い」だとか、「助けて」だとか、そんなか細い声が聞こえていた気もする。それこそ自分の手で止めを刺したという重責から逃れるために、曖昧な記憶が作った幻の可能性も高いかもしれないけれども。
「ふふふ。やはり奥様を召し上がるときは喜びが満ちあふれていらっしゃる。坂口様もそう思いませんか?」
かろうじて聞こえた湯浅さんからの問いかけにも、曖昧な返事をするのが精一杯だった。
それからどのくらいたったかまでは覚えていない。一つたしかなのはそれなりに長く続いた形容しがたい音が止み、またびちゃびちゃあるいはカサカサと顔のような部分が縮んでいった。
丸井戸から完全に抜け出したそれは、たしかに笑っているように感じられた。
「後#縺。縺昴≧縺輔∪縺ァ縺励◆縲」
たしかそんな言葉を発していた気がする。それが声だったのかどうかは今でも定かではないけれども、発していたのは、たしかに、その、神様だった。
「後♀縺・@縺・#縺ッ繧薙r縺上l縺ヲ縺ゅj縺後→縺・」
自ずと頭は深々と下がっていった。
「後〒繧ゅ%繧薙←縺九i縺薙l縺ッ繧医¢縺ヲ縺翫>縺ヲ縺ュ縲」
床を見つめる視界の中に、ガラガラと音を立てて、いや、そんな音を立てるにしては実に湿り気を帯びた、おそらく、食事のなかでの、お話しのなかで、何度か聞いた、食べ残し、というものだった、のだろう、そんな蜈蚣を煮詰め、猩々の顔の皮で包み、姥鮫の腹の中で消化させた、そんな、有様の、残骸が、吐き出され、転がった。
「後〒繧ゅ%繧薙°縺・・縺翫↑縺九>縺」縺ア縺・↓縺ェ縺」縺溘°繧峨√♀繧後>縺ッ縺。繧・s縺ィ縺励↑縺・→縺縺ュ縲ゅ↑縺ォ縺九@縺ヲ縺サ縺励>縺薙→縺ッ縺ゅk・溘」
視界の外で、悪意を、伴わない、笑みが、実に、深まっていく、気配がした。
……神様とのやり取りを思い出そうとすると毎回、脳髄のいずれかの部分が詰まったような感覚に陥る。やはり命だとかに別状はなくても、それなりに某かの影響は受けていたのだろう。
「坂口様。あの方もああおっしゃっていることです。何かご希望がございましたら私のほうでお伝えいたしますが、いかがなさいますか?」
幸いなことに、湯浅さんの声は滑らかに聞こえた。顔を上げ振り返ると、その姿は人間のようにしか見えないままだった。
「坂口様には色々とお手数をおかけしてしまいましたので、例外中の例外ではございますが」
そう言われても、咄嗟に願いを思いつけるような状況ではない。ただ曖昧なうめき声ようなものしか出せなかった。そんななか。
「シオン!」
おそらく、この場で一番願いをかなえてもらう権利があるだろう人物がこちらへ駆け寄ってきた。
床に吐き出された食べ残しを踏み潰しながら。
「本当に、ありがとう」
体を抱きしめる腕の感触も、触れる体の温かさも、覚えのあるものだったのはたしかだ。
「母さんを殺してくれて」
ただ、耳元で囁く声はいつもよりずっと幼いもののように聞こえた。
丸焼き用のブロイラーにされる事態は免れたことはたしかだ。
ただ、どこも壊れなかったのかと問われれば、それは。
「湯浅さん」
いつの間にか恵叶は私から離れ湯浅さんに向かって微笑んでいた。
「はい。なんでしょうか?」
「今回、僕の内臓は要らないんだよね?」
「はい。満足してくださったとのことですので」
「じゃあ、お供え物の役じゃなくて、お願いを聞いてもらう役をやってもいい?」
「ふむ、そうですね。坂口様はまだ混乱していらっしゃるようですし、契約上は恵叶さんの願いを叶えるという形でも問題はございませんね。まあ、奥様がご存命でしたら色々とおっしゃったかもしれませんが……今となっては、ですからね」
「やった! じゃあね」
今朝から何度も見てきたキラキラした表情が、それまでキラキラした表情を浮かべていた残骸に向けられた。
「あれ、僕とシオンに関係なく、勝手に死んだことにして!」
それから、表情に違わない無邪気な声が高らかにそう告げた。
「ええ、御意に」
湯浅さんも特に咎めることもなく、どこか楽しげに首を縦に振った。
人殺し、と罵られ突き放される。
或いは刑を受ける間にもっと相応しい誰かのもとへ去っていく。
そんな結末だけを思い浮かべて「覚悟を決めた」と考えていた。
多分……いや、確実に私の頭も相当なお花畑だったのだろう。




