「それは、まあそうなるでしょうね。分かっていたけれど」ということの次第
面会室のような病室のような部屋を出てからは特筆することはなかったと思う。例によって例のごとく記憶が曖昧だから、というよりも諸々を気にしている余裕がなかったからというのが正解だろう。
愛する人のためといっても人の命を奪うことに変わりはない。
それも、対象は愛する人の母親だ。
まだ説得という手があるんじゃないか?
覚悟を決めたとはいえ、そんな逡巡はずっと消えなかった。
そんなこんなで、やたらキラキラした表情やら人のように見えるようになった表情を受け流しているうちに、夕食のようなものが済み祭事が行われる時間を迎え部屋に湯浅さんと会長がやってきた。たしか、二人とも白い浴衣に着替え頭には三角巾のようなものを巻いていたと思う。もちろん、私も着替えるように言われ同じ格好をすることになった。
離れに向かう途中に、件の面会室のような病室のような部屋に立ち寄り恵叶と内臓の模造品と合流した。
まあ、合流というよりは連行と言ったほうが正しいかもしれないけれども。
一方は後ろ手にやたら生々しい手錠のようなものをつけられていたし、もう一方はガラスの蓋がついたケーキスタンドに入れられ会長に抱えられていたから。
なんというか生々しい手錠はともかく、神様への供物というならもっと仰々しい札の貼られた筺とかのほうがそれっぽいんじゃないんだろうか?
そんな疑問が浮かぶのも今となってはなのだろう。それはともかく。
そんな一同で離れまでやたらと長く感じる廊下を進んでいたわけだけれど、後ろ手に手錠のようなものをつけたまま歩くのはそこそこ難しいのだろう。恵叶は途中で何度かバランスを崩して躓いた。その際に多少なりとも気遣いの言葉が出ていればよかったのかもしれない。
「つまらない時間稼ぎなんてして」
実際に聞こえたのは、いっぱいいっぱいの状態でもはっきりと耳に届くくらい心底忌々しそうな声だった。
ああ、説得という選択肢は完全にあり得ないものなんだ。そう痛感しながら更に歩き続け件の離れにたどりついた。中庭のような所を歩いているとき鬱蒼とした木々の隙間から星空のようなものが見えたから、多分それなりに夜は更けていたのだと思う。離れの中は相変わらず照明が一切ないのに隅々まで明るく照らされ、丸井戸がやけに際立ったって見えていた。
「シオンさん。手が塞がってるから蓋を開けるのをお願いしてもいい?」
「はい。お義母さま」
「ありがとう。ああそうだ! 貴女はもう家族なんだから底を見てしまって大丈夫だけど、落ちないように気をつけてちょうだいね!」
「ありがとうございます」
実に都合のいい話に微笑んでから丸井戸に近づき蓋を外した。その途端、顔を殴られたような衝撃に襲われた。それが底から立ち上る臭気のせいだと気づくのにはしばらく時間がかかった。なんというか、練り物を液状化するまで放置したものに諸々の不衛生なものを溶かし込んだらあの臭いになるかもしれない。そんな場所からはすぐにでも引き返したかったのは事実だ。
ただ、お菓子の家に迷い込んだ女の子がすべきことはそんなことではない。
いわゆる生理的な涙を流しながら中をのぞき込むと遙か下に泥濘んだ底が見えた……ような気がした。落ちたときの衝撃がどのくらいかは分からないけれど、落ちて這い上がるのは到底無理だということは分かった。
「……お義母さま! 大変です!!」
臭気をこらえて叫ぶと、会長は実に不思議そうに首をかしげた。
「どうしたのかしら?」
「井戸の底に何か落ちているみたいなんです!」
「ええ? そんなことあるわけないじゃない」
さすがに童話のように簡単に信じてはもらえなかった。もう少しマシな言い訳を考えようとしたところ、湯浅さんが笑みを深めながら口元に指を当てた。
「ああ、そういえば。昼にお清めをしていただいたときに、蓋が少しだけずれていたかもしれません」
「あら、そうなの?」
「ええ。虫などが紛れ込んでいてはことですし、奥様にも確認していただいたほうがよろしいかと。私はあの方のお食事処を覗くわけにはいきませんから」
「そう……。湯浅がそう言うなら」
表情は訝しげなまままだったけれど、会長はケーキスタンドを置いてこちらにむかってきた。やけに姿勢の良い姿が一歩一歩近づいてくるにつれて、鼓動が早まっていくのをかんじた。
「それで、どこに落ちているの?」
「ほら、あの辺りです」
「ふーん?」
疑わしそうな声とともに白装束が指さしたほうへ身を乗り出した。
私はなるべく静かにその背後へ回り込んだ。
できれば、後ろを向いたまま背中を押したかったところだけれど。
「やっぱり何もないじゃない」
運悪く、というか、当然、というか。
振り向いた会長としっかり目が合ってしまった。
「……え?」
やたらとはっきり覚えているのは、やけにゆっくりと遠ざかっていく不思議そうな顔と手の平に感じた体温。ひょっとしたら、悲鳴も上がっていたのかもしれない。
ドドドドドドドド
ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァァァァ
ただ、そんなものが聞こえないくらいの轟音が天井から降り注ぎ、部屋は激しく前後左右上下に揺れだした。
「せっかくの機会ですので、坂口様もご覧ください。あの方の御姿を」
かすかに聞こえた湯浅さんの声に従い顔を上げると、丸井戸の上にある窓はたしかに開いていた。




