「ふぅきるどくっくろびん」よりも気になること
私が内臓の模造品と暮らしていた辺りにはコンビニとドラッグストアが有ったくらいで、カフェやファストフード店のような場所はなかったと思う。まあ、駅前にまで出ればそういう店もあった気はする。
それでも。
「……では、坂口さんは本日付で三ヶ月間の休職ということになります」
「分かりました」
「何か質問はありますか?」
「えーと、休職については説明してもらった内容で大丈夫なんですが、その、昨日電話で教えていただいた課長の件は……?」
「……そう、ですね」
あまり不特定多数の人がいる場所でする話でもなかったから、人事担当者には自宅まで来てもらうことになった。
憔悴した表情が教えてくれた内容は大体以下のとおりだった。
私が倒れた日に同期からもセクハラの通報があった。
上司に事情を聞いたけれど怒鳴り返されて話にならなかった。
同期にも事情を聞きにいったけれど感情的になりすぎて話にならなかった。
ただし、場合によっては刑事告訴も辞さない、という意思だけは伝わった。
ひとまずことを荒立たせないために、「面談」というていで同期を「説得」することになった。
会社としては上司含めて三人しか居ない部署で一人が倒れたのだから、諸々を穏便に済ませてさっさと業務に戻ってほしかったのだろう。とは言っても「説得」をしないといけない相手が、本当に同期のほうだったかは不明だけれども。
そんなことを思っている間も話は続いた。
取り急ぎ、「面談」は同期と上司と人事担当者の三人で行うことになった。
当日、同期は弁護士や付き添いを伴うことなく出社した。
ひとまずほっとしなが会議室に向かった。
全員そろったところで緊急の電話があり、人事担当者は席を外した。
電話対応中、地鳴りのような音と、女性の悲鳴のような音が会議室のほうから鳴り響いた。
その後、何かが叩きつけられるような音、ガラスが割れる音、再び何かが叩きつけられるような音がした。
地鳴りのような音と女性の悲鳴。ヒーリングミュージックを止めた夜のことが自然と思い出された。その後に続いた音については聞き覚えがなかったけれど、正体はすぐに人事担当者の口から明かされた。
慌てて会議室に戻ると、同期が床にへたり込んでいた。
上司の姿はどこにもなかった。
壁には赤黒い液体がべったりとついていた。
どうやら音は、壁に身体を強く打ったときに発生したものだったらしい。
再び同期に目をやると、怯えた顔で一点を見つめていた。
視線の先は窓だった。
ガラスは人が飛び出せる程度の大きさに割れていた。
窓を覗くと、真下の駐車場にひしゃげた上司が横たわっていた。
亡くなったという話を聞いてはいたけれど、ずいぶんと悲惨な最後だ。他人事のようにそう感じていたことを覚えている。
一通り話し終えると人事担当者は深いため息をついた。
「……日々のストレスで錯乱して方々の壁と窓に頭を打ち付けたあと飛び降りて自ら命を絶った。そういう形で話が進んでまとまっていくかんじになるみたいですね」
「まあ、そう、なんでしょうね」
そうまとめてしまうには些かどころではなく不可解なところがありすぎるけれども、そうまとめるしかなかったのだろう。
「それで──さんですが……、なんというか、その、錯乱? というのでしょうか」
「錯乱?」
「ええ。話を聞いてみても悲鳴をあげて首をふるばかりで」
目の前で悲惨なことが起きたのだからそうなるのも仕方ないか。相変わらず他人事のような感想を抱いていると、人事担当者は何度目かわからない深いため息を吐いた。その途端。
「あとは、『ないぞう、が』なんて繰り返すばかりで」
「……内臓?」
他人事が一気に自分事に変わった。
「はい。おそらく、窓の外を見てしまったんでしょうね。酷い有様でしたから」
「……」
多分、そう推測するのが一番自然だろう。ただし「奇妙な同居人とずっと暮らしていた人間以外は」という前置きがつくのだけれど。
「ともかく話を聞けるような状態ではなかったので、早急に産業医との面談を手配しまして、彼女もしばらくの間休職という形になりました」
「……そうですか」
「ええ。事実上そちらの部署の人員がゼロになってしまったので、技術者派遣サービスのほうで案件待ちをしてる方々を緊急でアサインすることになりまして……」
その後「人員を補充したから今は回復に専念してください」的な話や、「復帰後は部署の体制が大きく変わっているかもしれない」的な話や、「あの上司には会社としても思うところがあったけれど事情があって注意ができなかった」的な話が続いていたのだと思う。それでも、内容は詳しく覚えていない。
ずっと内臓の模造品のことを考えていたから。
一通り諸々の説明を済ませると人事担当者は帰っていき、居間兼寝室には私だけが残された。
一人きりになると、色々な思いがより勢いを増して押し寄せてきた。
まさか内臓の模造品が上司に危害を加えた?
いや、色々と器用だったけれど成人男性を壁に叩きつける力はなかったはず。
それに、窓から投げ捨てたりもできないはずだ。
それでも、その場に居たのはたしかだろう。
巻き込まれて怪我とかはしていないだろうか?
私が「あいつさえいなければ」なんて口に出したから。
ひょっとしたら、本当にもう二度と帰ってこないかも。
それは、すごく、嫌だ。
なんとかしてもう一度……ああ、そうだ。
渦を頭のなかに、あの蒸し暑い夜のことが浮かび上がった。
「これをかけていれば、きっと、また……」
そんなことをブツブツ呟きながら、私はCDプレイヤーで件のヒーリングミュージックをかけた。しばらく雑音にしか聞こえなかった音は、また穏やかな旋律に戻っていた。これならしばらく流したままにしていても問題ないだろう。そう考えながらベランダに続くガラス戸の鍵も開けておいた。
それから、二・三日くらいヒーリングミュージックをかけたまま生活をしていた。それでも、あの奇妙な同居人が戻ってくることはなかった。
やっぱり、もう二度と会えないのかもしれない。
そう諦めかけた夜のこと。
寝苦しいほどの蒸し暑さ、それと、心地よいはずの音楽が神経を削りとるような不快さに襲われた。
「……!」
飛び起きて明かりをつけると、部屋の隅でなにかが蠢いているのが見えた。
その姿は間違いなく内臓の模造品だった。
「内臓の模造品! おかえ……?」
ただ。
「内臓の模造品……?」
「……」
微かに震える臓物の量は、どう見たって以前の半分もなかった。




