第4話 雷鳴とともに現れた青年
フィアナとの生活が始まってから、三日が過ぎた。
リゼットにとっては、長い三日だったような、あっという間の三日だったような、不思議な感覚だった。
朝になればフィアナが起こしにくる。
「お母さま、朝だよ!」
「あと五分……」
「五分って、どれくらい?」
「……もうちょっと寝る時間」
「じゃあ、わたしも寝る!」
そう言って布団へ潜り込んでくるものだから、結局リゼットは目を覚ますしかない。
朝食を作れば、フィアナは隣で興味津々に眺めている。
パンを焼けば「今日は飛ばさないよ」と得意げに胸を張り、洗濯をすれば風を起こしてしまい、庭へ出れば花が増える。
そして、少しでもリゼットの姿が見えなくなると、すぐに探しにくる。
「お母さま、どこ?」
「厨房よ」
「いた!」
そんなやり取りを繰り返すうちに、リゼットの家にはフィアナの小さな靴や服が少しずつ増えていった。
最初は一時的に預かるつもりだった。
けれど、気づけば子ども用の食器を買い、寝具を整え、服まで用意している。
自分でも分かっていた。
もう、フィアナを「知らない子」だとは思えなくなっている。
「……困ったなぁ」
夕方、店を閉めながらリゼットは小さく呟いた。
フィアナは店の奥で絵を描いている。
紙いっぱいに描かれているのは、青い空と白い花、それから二人の人間だった。
一人は銀色の髪。
もう一人は茶色の髪。
「フィアナちゃん、それ誰?」
「わたしと、お母さま!」
「私、こんなに髪長くないけど」
「お母さまは長いほうがきれい」
「そういう問題?」
思わず笑ってしまう。
フィアナも嬉しそうに笑った。
その瞬間。
ゴロゴロ……。
二人の笑い声に重なるように、雷鳴が響いた。
リゼットは窓の外を見る。
夕方の空には、薄い雲が浮かんでいる。
「雨が降るのかな?」
「……違うよ」
フィアナが小さく呟いた。
「え?」
「誰かが来る」
リゼットはフィアナを見る。
「誰かって?」
フィアナは答えなかった。
ただ、窓の外をじっと見つめている。
その顔が、少しずつ強張っていく。
「フィアナちゃん?」
「……あの人」
「知ってる人なの?」
フィアナが小さく頷いた。
「わたしを探してる人」
その言葉に、リゼットの胸がざわついた。
「お父さんやお母さん?」
「違う」
フィアナは首を横に振る。
「でも、怖い人じゃない」
そう言った直後だった。
店の外から、低い声が聞こえた。
「フィアナ様!」
リゼットは思わず振り返った。
誰かが通りを走っている。
長い黒髪。
濃紺の外套。
腰には見慣れない剣が差されている。
青年は店の前まで来ると、周囲を確認してから、扉の前で足を止めた。
そして。
コンコン。
控えめなノックが響いた。
リゼットはフィアナを自分の後ろへ隠した。
「誰ですか?」
「突然の訪問をお許しください」
扉の向こうから、落ち着いた男の声がする。
「私はアルノー・レヴェルと申します」
「何の用でしょう?」
少し間があった。
「……フィアナ様を探しています」
リゼットはフィアナを見る。
少女はリゼットの服をぎゅっと握っていた。
震えている。
リゼットは扉越しに尋ねた。
「フィアナちゃんを、どうするつもりですか?」
「故郷へお連れします」
「……本人が帰りたくないと言ったら?」
「無理に連れて帰るつもりはありません」
意外な答えだった。
アルノーは続ける。
「私は、フィアナ様を傷つけるために来たのではありません。彼女が生きていることを確認し、守るために来ました」
リゼットはしばらく考えた。
そして扉を少しだけ開ける。
青年が立っていた。
二十代後半くらいだろう。
整った顔立ちをしているが、疲労がはっきりと浮かんでいる。
目の下には薄い隈があり、何日も眠っていないように見えた。
アルノーはリゼットを見ると、一瞬だけ目を見開いた。
「……あなたが」
「私が?」
「いえ……」
彼は言葉を飲み込んだ。
そのまま店の中へ視線を向ける。
フィアナの姿を見つけた瞬間。
アルノーの表情が崩れた。
「フィアナ様……!」
駆け寄ろうとした青年を、リゼットは反射的に手で制した。
「待ってください」
アルノーが足を止める。
その向こうで、フィアナはリゼットの背中から顔を出した。
「アルノー……」
「はい」
青年の声が震えた。
「ご無事で……本当に……」
その目に、涙が浮かんでいる。
フィアナは少し迷ったあと、ゆっくりとリゼットの後ろから出てきた。
「迎えに来たの?」
「はい」
「帰らなきゃいけない?」
アルノーは黙った。
やがて、静かに首を横に振る。
「今すぐでなくても構いません」
フィアナが驚いたように目を丸くする。
「どうして?」
「あなたが怖がっている状態で連れて帰るわけにはいきませんから」
アルノーは膝をつき、フィアナと目線を合わせた。
「まず、あなたがここへ来た理由を調べます。そして、帰る方法を探します」
「……お母さまと一緒に?」
フィアナがリゼットを見る。
アルノーの視線もこちらへ向いた。
その瞬間だった。
青年の顔から血の気が引いた。
「……まさか」
「どうしました?」
アルノーはリゼットをじっと見つめている。
「その髪……」
「私の髪ですけど」
「瞳は……」
「普通の茶色です」
「そういうことではなく……」
アルノーは何かを確かめるように、リゼットの顔を見つめた。
そしてフィアナの胸元へ視線を移す。
ペンダントが淡く光っている。
「……ありえない」
「何がですか?」
アルノーは答えなかった。
代わりに、深く息を吸う。
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
「リゼット・アーデンです」
その名前を聞いた瞬間。
アルノーの表情が変わった。
驚き。
困惑。
そして、わずかな恐怖。
「アーデン……」
「ご存じなんですか?」
「……いえ」
明らかに何かを隠している。
リゼットは警戒した。
「フィアナちゃんをどうして探しているんです?」
「私は、フィアナ様を守る役目を負っています」
「それは分かりました。でも、どこから来たんですか?」
アルノーは少し迷った。
やがて。
「別の世界です」
リゼットは瞬きをした。
「……はい?」
「この世界ではない場所から来ました」
店内が静まり返る。
フィアナは当たり前のような顔をしている。
「お母さま、アルノーは向こうの人だよ」
「……そうなの?」
「うん」
リゼットは頭を抱えたくなった。
やっぱり。
フィアナは本当に異世界から来たらしい。
それなら、あの雷も。
突然の豪雨も。
空に浮かんだ虹も。
全部、普通ではなかったということになる。
「じゃあ、フィアナちゃんは……」
「異世界の子です」
アルノーが静かに答えた。
「そして、ただの子どもではありません」
その言葉に、リゼットはフィアナを見る。
フィアナは不安そうにリゼットを見上げていた。
「……何者なの?」
アルノーはしばらく黙っていた。
やがて、低い声で告げる。
「フィアナ様は、我々の世界を支える『天候の巫女』です」
「天候の……巫女?」
「はい」
アルノーが説明しようとした、そのとき。
窓の外で、雷が轟いた。
ゴロゴロゴロゴロッ!
フィアナがびくっと身体を震わせる。
「ごめんなさい……」
「謝らなくていい!」
リゼットはすぐにフィアナを抱きしめた。
「雷が鳴ったくらいで謝らなくていいの」
「でも……」
「大丈夫」
リゼットが背中を撫でる。
すると。
雷が止まった。
アルノーは目を見開いた。
「……やはり」
「何が?」
「フィアナ様は、あなたのそばにいると力が安定する」
「私が?」
「はい」
アルノーは、今度こそはっきりとリゼットを見つめた。
「だから、フィアナ様はあなたを母親だと思っているのでしょう」
「でも、私は本当に何も……」
言いかけたリゼットの言葉を、アルノーが遮った。
「そのペンダントを、もう一度見せていただけますか?」
フィアナの胸元で、紫色の石が淡く輝いている。
アルノーがそれを見た瞬間。
顔色が変わった。
「これは……」
「何か知ってるんですか?」
「はい」
アルノーは震える手でペンダントを指差した。
「これは、先代の天候の巫女が持っていたものです」
リゼットは息を呑む。
「……フィアナちゃんのお母さん?」
アルノーは頷いた。
「そして、彼女が最後に残した言葉は――」
そこで青年は一度、目を伏せた。
「『この子が迷ったら、必ずアーデンの血を探して』でした」
リゼットの胸が、大きく跳ねた。
アーデン。
自分の姓。
偶然だと思いたかった。
けれど、そう思うには出来すぎている。
そのとき。
フィアナがリゼットの手を握った。
「だから、お母さまなの」
「……フィアナちゃん」
「お母さまが、わたしを見つけてくれるって、お母さまが言ってたから」
リゼットは言葉を失った。
アルノーもまた、驚いたようにフィアナを見ている。
そして窓の外。
青空だった。
雲ひとつない、きれいな青空。
なのに。
ゴロゴロ……。
また雷が鳴った。
リゼットは空を見上げる。
その青空の中央に、一瞬だけ紫色の光が走った。
まるで、遠く離れた誰かがこちらを見つけたかのように。
リゼットは知らなかった。
自分の家族が残した秘密が、フィアナの母親とつながっていることを。
そして今夜、この世界ではない場所で、フィアナを失った王国の人々が、ようやく一つの答えに辿り着こうとしていることを。
「フィアナは、まだ生きている」
誰かが異世界の空の下で、そう呟いた。
その声に応えるように、青空の向こうで雷が鳴った。




