第3話 お母さまのごはんと、空飛ぶパン
翌朝、リゼットはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外から聞こえてくる鳥の声に混じって、どこか落ち着かない物音がする。何かが床を擦るような音と、小さな足音が交互に聞こえてきて、リゼットは眠い目をこすりながらベッドを出た。
「……何の音?」
寝室の扉を開ける。
すると廊下の先に、昨日拾った銀髪の少女が立っていた。
フィアナはリゼットの姿を見つけると、ぱっと顔を輝かせた。
「お母さま!」
「おはよう、フィアナちゃん」
「おはようございます!」
元気いっぱいの挨拶が返ってくる。
昨日の不安そうな表情が嘘のようだった。
リゼットは思わず笑った。
「よく眠れた?」
「うん!」
「怖い夢は見なかった?」
「見なかったよ。お母さまが一緒だったから」
「……そっか」
また、その呼び方だ。
けれど昨日ほど否定したい気持ちにはならなかった。
むしろ、フィアナが安心して笑っていることのほうが嬉しい。
「じゃあ、朝ごはんにしようか」
「ごはん!」
フィアナの顔がさらに明るくなる。
その反応がおかしくて、リゼットは笑いながら階段を下りた。
店はまだ開店前だ。
厨房に入ると、昨日のうちに仕込んでおいたパン生地がちょうどいい具合に膨らんでいる。
「今日はパンを焼こうかな」
「パン?」
「うん。焼きたてはおいしいよ」
「わたしもやりたい!」
「本当に?」
フィアナは勢いよく頷いた。
「お母さまのお手伝いする!」
「じゃあ、一緒に作ろうか」
「うん!」
リゼットは小さな踏み台を用意し、フィアナを作業台の前に立たせた。
粉を量り、ボウルへ入れる。
そこへ水と酵母を加え、少しずつ混ぜていく。
「こうやって、こねるの」
「こう?」
「そうそう。上手よ」
フィアナは真剣な顔で生地を押している。
白い粉が頬についていることにも気づかず、一生懸命こねていた。
「フィアナちゃん、鼻に粉がついてるよ」
「え?」
「ふふ」
リゼットが指で粉を拭ってやる。
フィアナは少し照れたように笑った。
「お母さまも、ついてる」
「え?」
フィアナの小さな指が、リゼットの頬に触れる。
「ここ」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、お互い様ね」
二人で顔を見合わせる。
どちらからともなく笑った。
その瞬間。
ふわり、と風が吹いた。
「……?」
窓は閉まっている。
それなのに、厨房の中を柔らかな風が通り抜けた。
そして作業台の上にあった小麦粉が、ふわっと舞い上がる。
「わっ!」
フィアナが驚いて手を伸ばす。
すると風はさらに強くなった。
小麦粉が宙を舞い、厨房中が真っ白になる。
「フィアナちゃん!」
「ご、ごめんなさい!」
フィアナが慌てる。
すると今度は風が逆方向へ吹き、作業台の上に置いてあったパン生地まで浮き上がった。
「ちょっと待って!」
リゼットが手を伸ばす。
しかしパン生地は彼女の手をすり抜け、ふわふわと宙を漂った。
まるで見えない何かに持ち上げられているようだった。
「……パンが飛んでる」
「飛んでるね……」
二人で見上げる。
パン生地は天井近くまで浮かんだかと思うと、くるくる回りながら厨房の中を飛び回り始めた。
「フィアナちゃん、止められる?」
「やってみる!」
フィアナが両手を広げる。
「止まって!」
パン生地がぴたりと止まった。
「おお……」
リゼットが目を丸くする。
しかし次の瞬間。
パン生地が勢いよく飛んできた。
「きゃっ!」
リゼットの顔面に直撃する。
べちゃっ。
「…………」
フィアナが固まった。
リゼットの顔には、パン生地が見事に張りついている。
「……お母さま」
「…………」
「ごめんなさい」
リゼットは黙ってパン生地を剥がした。
そして、まっすぐフィアナを見る。
「フィアナちゃん」
「はい……」
「パンは飛ばすものじゃありません」
「はい……」
「食べるものです」
「はい……」
フィアナはしゅんと俯いた。
その姿があまりにも申し訳なさそうで、リゼットは吹き出してしまった。
「あはは……もう、そんな顔しないで」
「怒ってない?」
「怒ってないよ」
リゼットはフィアナの頭を撫でる。
「失敗しただけでしょう?」
「……うん」
「だったら大丈夫。一緒に片付けよう」
フィアナの顔が少しずつ明るくなる。
「うん!」
二人で厨房を掃除する。
その途中、リゼットは何度も笑った。
昨日までは一人だった厨房に、子どもの笑い声が響いている。
それが妙に心地よかった。
「……こういうのも、悪くないかも」
リゼットは小さく呟いた。
フィアナは聞こえなかったらしく、床に落ちた小麦粉を一生懸命拭いている。
やがて厨房が元通りになると、今度こそパンを焼くことにした。
「今度は飛ばさないようにね」
「うん!」
焼き上がったパンから、香ばしい匂いが漂う。
フィアナは待ちきれない様子で、オーブンを見つめていた。
「まだ?」
「もう少し」
「まだ?」
「もう少し」
「まだ?」
「……フィアナちゃん」
「はい」
「そんなに見ても、焼ける時間は早くならないよ」
「そっかぁ」
残念そうな顔に、リゼットは笑った。
ようやく焼き上がったパンを取り出す。
こんがりとした表面。
割れ目からは湯気が立ち上っている。
リゼットが小さくちぎって渡すと、フィアナは両手で受け取った。
「いただきます!」
一口。
フィアナの紫色の瞳が大きくなる。
「……おいしい!」
「本当?」
「おいしい! すっごくおいしい!」
嬉しそうにパンを頬張る。
その姿を見ていると、リゼットまで嬉しくなってくる。
「そんなに喜んでもらえるなら、また作ろうかな」
「毎日作って!」
「毎日は大変だなぁ」
「じゃあ、三日に一回!」
「ずいぶん具体的になったね」
二人で笑う。
そのときだった。
厨房の窓から、光が差し込んだ。
さっきまで普通の朝だったはずなのに、庭のほうから淡い光が漏れている。
「……何?」
リゼットが窓を開ける。
庭を見る。
そこには、昨日までなかったものがあった。
白い花。
一輪、また一輪と、地面から次々に花が咲いている。
「わぁ……!」
フィアナが窓へ駆け寄る。
花は、フィアナが笑うたびに開いていった。
「これ、昨日も咲いたよね?」
「うん」
「フィアナちゃんが嬉しいと、花が咲くのかな?」
「分からない」
フィアナは首を傾げた。
けれど、花を見ているうちに嬉しくなったらしい。
さらに花が咲く。
庭いっぱいに白い花が広がっていく。
「すごい……」
リゼットは思わず息を呑んだ。
まるで、この子の感情そのものが世界に伝わっているようだった。
その日の昼過ぎ。
店を開ける準備をしていると、フィアナが厨房の入り口から顔を覗かせた。
「お母さま」
「どうしたの?」
「今日はお客さん、いっぱい来る?」
「どうかな。いつも通りなら、お昼は少し忙しくなると思うよ」
「わたしもお手伝いする!」
「フィアナちゃんにはまだ早いよ」
「でも……」
フィアナの顔が少し曇る。
リゼットは慌てて言葉を付け足した。
「ごめんね。お手伝いしたくないって意味じゃないの。まだ小さいから、危ないことがあるでしょう?」
「……うん」
「だから、今日は私のそばにいてくれる?」
「いいの?」
「もちろん」
フィアナの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ、ずっと一緒!」
「うん」
その笑顔を見て、リゼットも笑った。
その日の営業が始まってからも、フィアナはずっとリゼットのそばにいた。
皿を運ぼうとして落としそうになったり、椅子を拭こうとして布巾を水浸しにしたりと、小さな騒動はいくつも起きた。
けれど、店を訪れた客たちは誰も怒らなかった。
「新しい看板娘かい?」
「かわいいねぇ」
「名前はなんていうの?」
そう尋ねられるたび、フィアナは嬉しそうに答える。
「フィアナです!」
そして決まって最後にこう言う。
「お母さまのお店です!」
「だから、まだお母さんじゃないんだけどなぁ」
リゼットは苦笑する。
けれど、訂正する声は昨日よりずっと小さかった。
夕方。
店を閉める頃には、フィアナは椅子に座ったまま眠っていた。
リゼットはそっと抱き上げる。
軽い。
あまりにも軽い身体に、胸が少し痛くなった。
「ちゃんと食べさせてあげないとね」
フィアナの髪を撫でる。
少女は眠ったまま、リゼットの胸元に頬を寄せた。
「……お母さま」
「うん。ここにいるよ」
それだけ言うと、フィアナは安心したように眠り続けた。
リゼットはそのまま二階へ向かう。
窓の外には、夕暮れの空が広がっている。
赤く染まった空の向こうで、小さな雲が一つだけ光っていた。
そして、その雲の奥から。
ゴロ……。
また雷が鳴った。
リゼットは足を止める。
「……また?」
けれど、フィアナは眠っている。
雷が鳴っても起きる様子はない。
そのことに少し安心しながら、リゼットはフィアナをベッドへ寝かせた。
その夜。
フィアナの胸元のペンダントが、淡い紫色に光っていた。
その光はしばらく消えることなく、まるで遠く離れた誰かへ向けて、静かに信号を送るように明滅を繰り返していた。
そして――。
遠い異世界の空でも、同じ色の光が瞬いたことを、リゼットはまだ知らない。
フィアナを探している誰かが、すでにこちらの世界へ向かい始めていることも。
そして、その人物がリゼットの前に現れるまで、もうそれほど時間が残されていないことも。




