第2話 我が家に幼女が増えました
フィアナを抱いたまま店へ戻ったリゼットは、裏口を閉めると、ようやく大きく息を吐いた。
腕の中の少女は、すでに眠っている。
銀色の髪が頬にかかり、小さな手はリゼットの服をしっかり握ったままだ。よほど疲れていたのだろう。さっきまで自分を「お母さま」と呼んでいた少女は、今では寝息を立てながら、安心しきった顔をしている。
「……さて、どうしたものかな」
店内を見回す。
普段なら、焼き菓子の甘い香りとコーヒーの香りが漂う、リゼットにとって慣れ親しんだ空間だ。
けれど今日は、そこに突然、見知らぬ幼女が増えている。
しかも、その幼女は異世界から来たような格好をしていて、青空の下で雷を鳴らし、豪雨まで降らせた。
冷静に考えれば、かなり大変な状況だった。
「……私、どうしてこんなことになってるんだろう」
当然ながら、答えてくれる人はいない。
リゼットは苦笑しながら、フィアナを二階の自宅へ運んだ。
ベッドへ寝かせようとすると、少女の手にぎゅっと力が入る。
「……お母さま……」
「はいはい。ここにいるよ」
眠ったまま、フィアナは安心したように口元を緩めた。
リゼットはその表情を見つめ、しばらく動けなかった。
お母さま。
その呼び方が、胸の奥に引っかかっている。
もちろん、自分には子どもはいない。
そもそも結婚すらしていない。
ましてや、こんな銀髪の幼女を産んだ覚えなど、天地がひっくり返ってもあるはずがない。
「……なのに、なんでこんなに懐かしい感じがするんだろう」
フィアナの顔を見ていると、初めて会った気がしない。
どこか昔から知っているような、不思議な感覚があった。
けれど、それが何なのかは分からない。
考えても仕方がないと、リゼットは小さく首を振った。
「まずは、この子をどうするかよね」
一番の問題はそこだった。
身元の分からない子どもを、そのまま自宅に置いておくわけにはいかない。
本来なら、すぐに警察へ連絡するべきなのだろう。
けれど。
「お母さまと離れるのは嫌です」
先ほどのフィアナの顔が思い浮かぶ。
あんな小さな子が、一人で見知らぬ場所に放り出されていた。
しかも、家族のことを尋ねても分からないと言っていた。
もし今、目を覚まして誰もいなかったら。
そう考えるだけで、リゼットは胸が痛くなった。
「……今日は、ここにいてもらおう」
明日になったら、きちんと考えればいい。
そう決めると、少しだけ気持ちが楽になった。
リゼットはフィアナの濡れていない服を確認し、念のため身体が冷えていないか額に手を当てる。
熱はない。
ほっとして部屋を出ようとした、そのときだった。
「……ぐぅ」
小さな音がした。
リゼットは振り返る。
フィアナは眠ったままだ。
もう一度。
「ぐぅぅ……」
今度ははっきり聞こえた。
「……お腹、空いてるの?」
フィアナの眉が少し動く。
リゼットは思わず笑った。
「そういえば、何も食べてないのよね」
急に親心のようなものが湧いてくる。
リゼットは台所へ向かい、冷蔵庫を開けた。
パンがある。
卵もある。
野菜と鶏肉も少し残っている。
「子どもなら……やっぱり温かいものがいいかな」
鍋を取り出し、野菜を刻む。
鶏肉を小さく切って、コンソメを入れた鍋で煮込む。
その間にパンを温め、卵を焼く。
いつもなら一人分で済ませるところを、今日は二人分。
それだけの違いなのに、台所が妙に賑やかに感じられた。
しばらくすると、部屋の奥から小さな足音が聞こえてきた。
「……お母さま?」
「起きた?」
振り返ると、フィアナが眠そうな目をこすりながら立っていた。
「まだ寝てていいのよ?」
「……いい匂いがする」
その言葉に、リゼットは吹き出しそうになる。
「食べたい?」
こくん。
フィアナは小さく頷いた。
「じゃあ、手を洗っておいで」
「うん!」
フィアナは素直に洗面所へ向かった。
けれど、しばらくすると困ったような声が聞こえてくる。
「お母さま……」
「どうしたの?」
「これ、どうやって出すの?」
リゼットが見に行くと、フィアナは蛇口を前にして固まっていた。
「ああ、そうか。知らないよね」
水を出してやると、フィアナは目を丸くする。
「お水が出た!」
「蛇口をひねると出るの」
「すごい……!」
たったそれだけのことで目を輝かせる。
リゼットは、少しだけ違和感を覚えた。
水道を知らない。
この子が本当に異世界から来たのなら、それも当然なのかもしれない。
けれど、どうしても気になる。
「フィアナちゃん」
「なあに?」
「どこから来たの?」
フィアナは手を洗いながら、少し考えた。
「……遠いところ」
「どのくらい遠いの?」
「ずっと遠いところ」
「うーん……」
どうやら説明するのは難しいらしい。
「お父さんやお母さんは?」
その質問をした途端、フィアナの表情が曇った。
リゼットはすぐに後悔した。
「ごめんね。無理に答えなくていいから」
「お母さまは……」
フィアナは自分の胸元に手を置いた。
そこには、昨日から気になっていたペンダントがある。
透明な石の中に、淡い紫色の光が揺らめいていた。
「これをくれたの」
「お母さんが?」
「うん」
フィアナは大切そうにペンダントを握る。
「お母さまは、わたしをここへ送ってくれたの」
リゼットの手が止まった。
「ここへ……?」
「うん」
「どうして?」
フィアナは答えなかった。
ただ、少し寂しそうにペンダントを見つめている。
「……会いたい?」
「うん」
その一言だけで、リゼットには十分だった。
「そっか」
リゼットはしゃがみ込み、フィアナと目線を合わせた。
「じゃあ、いつか会えるように、一緒に探そうね」
「……ほんと?」
「うん」
根拠なんて何もない。
どうすれば会えるのかも分からない。
そもそも、本当にこの世界にフィアナの母親がいるのかさえ分からない。
それでも、約束した。
フィアナはしばらくリゼットを見つめていたが、やがて小さく笑った。
「お母さま、やさしい」
「だから、お母さんじゃないってば」
「お母さま」
「……まあ、今はいいか」
何度否定しても直らない。
それなら、とりあえず今は好きに呼ばせておこう。
そんな軽い気持ちだった。
このときのリゼットは、それがいつか本当に自分にとって大切な呼び名になるなど、考えてもいなかった。
二人で食卓につく。
「いただきます」
リゼットが手を合わせると、フィアナも真似をした。
「いただきます」
スープを一口飲む。
フィアナの目が大きく見開かれた。
「……おいしい」
「よかった」
「すごくおいしい!」
次の瞬間には、スプーンを持つ手が忙しく動き始める。
「そんなに急いで食べなくても大丈夫よ」
「だって、おいしいんだもん」
「ふふ。熱いから気をつけてね」
フィアナは嬉しそうに頷きながら、スープを飲み、パンを食べ、卵を口に運んだ。
リゼットはそんな姿を眺めながら、自分でも不思議なくらい穏やかな気持ちになっていた。
一人分だった食卓に、もう一人分の食器が並んでいる。
それだけのことなのに、部屋が明るくなったように感じる。
「お母さま」
「なあに?」
「毎日これ食べたい」
「毎日?」
「うん!」
「じゃあ、明日は別のものを作ろうか」
「ほんと?」
「うん。何が食べたい?」
フィアナは真剣な顔で考え始めた。
「……甘いもの」
「そこは即答なんだ」
リゼットが笑う。
すると。
ぽつ。
窓に水滴が落ちた。
「あれ?」
リゼットが窓を見る。
空は晴れている。
なのに、また一滴。
ぽつ。
ぽつぽつ。
「雨?」
フィアナが不安そうに窓を見る。
その表情が曇った途端、雨脚が強くなった。
「……え?」
リゼットが窓を開ける。
外は青空。
太陽も出ている。
なのに、店の庭だけに雨が降っていた。
「フィアナちゃん」
「……」
フィアナは俯いている。
「もしかして、あなたが降らせてるの?」
少女は小さく首を振った。
「分からない……」
その声が震えた。
すると突然、遠くで雷が鳴った。
ゴロゴロ……。
フィアナが怯えて、椅子から立ち上がる。
「ごめんなさい……」
「え?」
「また、怒られる……」
「誰に?」
「みんなに……」
フィアナの目に涙が浮かんだ。
その瞬間。
ゴロゴロゴロゴロッ!
雷鳴が大きく響いた。
リゼットは反射的にフィアナを抱きしめた。
「大丈夫」
「……でも」
「大丈夫だから」
フィアナの背中をゆっくり撫でる。
「雷が鳴ったって、雨が降ったって、誰も怒らないよ」
「……ほんと?」
「ほんと」
「お母さまも?」
「もちろん」
フィアナが顔を上げる。
その瞳から、涙が一粒こぼれた。
そして。
雨が止んだ。
まるで、誰かがスイッチを切ったかのように。
窓の外に広がるのは、先ほどと同じ青空だった。
リゼットはフィアナを抱いたまま、ゆっくり窓の外を見る。
庭の花が、雨に濡れてきらきらと輝いている。
その中で、一輪だけ。
さっきまで咲いていなかった白い花が、ゆっくりと花びらを開いていた。
フィアナもそれに気づいたらしい。
「……お花」
「さっきまで、あった?」
「なかったよ」
二人で窓の外を見つめる。
白い花は、太陽の光を受けて淡く輝いていた。
その瞬間、フィアナが小さく笑った。
すると、花がもう一輪咲いた。
「……え?」
リゼットは目を瞬かせる。
フィアナが笑う。
もう一輪。
また一輪。
庭いっぱいに、白い花が咲き始めた。
「フィアナちゃん……」
「きれい」
フィアナは嬉しそうに笑っている。
リゼットは、言葉を失った。
この子は一体、何者なのだろう。
どうして空を変えられるのだろう。
どうして花まで咲かせられるのだろう。
そして、なぜ自分を「お母さま」と呼ぶのだろう。
疑問は増えるばかりだった。
けれど、その日の夜。
フィアナが布団の中で眠りにつくまで手を握っていると、少女は安心したように微笑んだ。
「お母さまがいるから、もう怖くない」
「……そっか」
リゼットは小さな手を握り返す。
「じゃあ、今日はゆっくり寝なさい」
「うん……」
フィアナの瞳が閉じる。
しばらくすると、静かな寝息が聞こえてきた。
リゼットはその寝顔を見つめながら、ふと窓の外へ目を向ける。
夜空には星が浮かんでいる。
その中に、一つだけ見慣れない星があった。
紫色の光を放つ、小さな星。
それはフィアナのペンダントと同じ色だった。
そして遠い空の向こうで。
誰にも聞こえないほど小さな雷が、もう一度だけ鳴った。
ゴロ……。
リゼットは知らなかった。
フィアナがこちらの世界へ来たことで、二つの世界の境界が少しずつ揺らぎ始めていることを。
そしてフィアナが「お母さま」と呼ぶ相手は、偶然見つけた誰かではない。
ずっと昔から、二人の家族を結びつけていた存在なのだということを。




