第1話 青空に雷が鳴った日
その日は、朝から雲ひとつない青空だった。
夏の太陽は容赦なく街を照らし、石畳の通りには白い光が跳ね返っている。日陰に入れば少しは涼しいものの、昼を過ぎればそれも気休めでしかなく、通りを歩く人々は皆、手にした扇子や日傘で暑さをしのいでいた。
リゼットも、店先の鉢植えに水をやりながら空を見上げていた。
「今日も暑いなぁ……」
思わずこぼした独り言に返事をしてくれる相手はいない。
両親を亡くしてから、リゼットはずっと一人で暮らしている。二十八歳になった今では、一人暮らしにもすっかり慣れていた。
街の片隅にある小さな喫茶店を両親から受け継ぎ、朝から焼きたてのパンや焼き菓子を並べ、昼には近所の人たちに料理を出す。それが彼女の日常だった。
忙しい日もあれば、客がほとんど来ない日もある。
けれど、それなりに穏やかで、それなりに幸せな毎日だった。
少なくとも、この日までは。
「……ん?」
リゼットが空を見上げたのは、妙な音が聞こえたからだった。
ゴロ……。
遠くで何かが唸ったような、低い音。
けれど、空は青い。
雲ひとつない。
リゼットは目を細め、空の端から端まで眺めた。
「雷……?」
気のせいだろうと思った。
夏なのだから、遠くで雷雨でも起きているのかもしれない。そう考えれば不思議ではない。
ところが。
ゴロゴロゴロゴロ……!
今度は、はっきり聞こえた。
しかも先ほどよりずっと近い。
店の中からも、食器が小さく震える音がした。
「ちょっと待って。嘘でしょ?」
思わず店の前に立ったまま、空を見上げる。
青空だった。
本当に、どこまでも青い。
それなのに雷だけが鳴っている。
その直後だった。
ぽつ。
リゼットの頬に、冷たいものが落ちた。
「雨?」
もう一粒、額に落ちる。
さらに一粒。
そして次の瞬間。
ザアアアアアッ!
まるで空が突然ひっくり返ったかのような豪雨が降り始めた。
「うそぉっ!?」
リゼットは慌てて店の中へ駆け込んだ。
ほんの数秒前まで青空だった通りが、一瞬で白く霞んでいる。大粒の雨が石畳を激しく叩き、軒先からは滝のように水が流れ落ちていた。
通りを歩いていた人たちも、驚いて近くの店へ逃げ込んでいる。
「なんなの、この雨……」
窓から外を眺めながら、リゼットは呆然と呟いた。
雨は激しかった。
けれど、不思議なことに長くは続かなかった。
ほんの数分。
それだけだった。
さっきまで世界を覆っていた雨が、何事もなかったように弱まり、最後の一滴が軒先から落ちたときには、再び夏の陽射しが街を照らしていた。
リゼットはしばらく窓の外を見つめていた。
「……なんだったの?」
通りには水たまりがいくつも残っている。
けれど、空は青い。
鳥の鳴き声まで聞こえてくる。
あまりにも唐突で、現実感がなかった。
「まあ……夏だし、そういうこともあるか」
そう自分に言い聞かせ、リゼットは店の片付けを始めた。
そのときだった。
店の裏手から、かすかな音が聞こえた。
「……?」
誰かいる。
そう思った。
最初は猫かと思った。
けれど、もう一度聞こえてきた声は、どう聞いても人間のものだった。
小さな子どもが泣いている。
「子ども……?」
リゼットは慌てて店の裏口を開けた。
裏手には小さな公園がある。古いベンチと数本の木があるだけの、近所の子どもたちが遊ぶ場所だ。
そこに――女の子が立っていた。
年齢は五歳くらいだろうか。
銀色の髪が背中まで流れている。
雨に濡れているはずなのに、不思議なことに髪にはほとんど水滴が残っていなかった。
白いワンピースのような服を着ていて、裸足だった。
そして何より目を引いたのは、その瞳だった。
紫色。
夕暮れの空を閉じ込めたような、不思議な色をしている。
少女は小さな手で胸元のペンダントを握りしめながら、じっと空を見上げていた。
「……ねえ」
リゼットが声をかける。
少女の肩が小さく震えた。
「大丈夫? お父さんやお母さんは一緒?」
少女は答えなかった。
ただ、ゆっくりとリゼットへ振り返った。
紫色の瞳が、まっすぐに彼女を見つめる。
その瞬間。
少女の顔が、ぱっと明るくなった。
「……お母さま!」
「え?」
リゼットは固まった。
少女はそのまま駆けてくる。
小さな足で水たまりを避けることもなく走り、リゼットの腰にぎゅっと抱きついた。
「お母さま!」
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて少女を引き離そうとしたものの、小さな身体は思いのほか強い力でしがみついてくる。
「お母さま……! やっと会えた……!」
「いや、あの……私はあなたのお母さんじゃないよ?」
優しく言い聞かせる。
けれど少女は首を横に振った。
「お母さまです」
「違うと思うなぁ……」
「お母さまです」
「……ええと」
どう返せばいいのか分からない。
迷子なのだろうか。
それとも、この子を探している親が近くにいるのだろうか。
リゼットは少女の頭を撫でながら、できるだけ穏やかな声で尋ねた。
「名前は?」
「フィアナ」
「フィアナちゃんね。お父さんかお母さんは?」
「……わかりません」
「分からない?」
「気がついたら、ここにいました」
フィアナはそう答えたあと、再びリゼットの服を握った。
その手が、かすかに震えている。
「ひとりだったの?」
フィアナが小さく頷く。
その姿を見た瞬間、リゼットの胸が締めつけられた。
自分でも不思議だった。
会ったばかりなのに、この子を一人にしてはいけないと思った。
きっと、幼い頃に両親を亡くした自分と重ねてしまったのだろう。
「……とりあえず、お店においで」
「いいの?」
「こんなところに一人でいるわけにはいかないでしょう。温かいものを食べよう」
「……お母さまと?」
「だから、私はお母さんじゃないってば」
そう言いながらも、リゼットはフィアナの手を取った。
その瞬間。
空が光った。
「え?」
次の瞬間、雷鳴が轟いた。
ゴロゴロゴロ……!
フィアナがびくっと身体を震わせる。
けれど、リゼットが反射的にその身体を抱き寄せた瞬間、雷鳴は嘘のように止まった。
静寂が訪れる。
リゼットはフィアナを抱いたまま、空を見上げた。
青空だった。
それどころか、先ほどまで濡れていた街を照らす陽射しが、さらに明るくなっている。
「……何これ」
フィアナはリゼットの胸に顔を埋めたまま、ほっとしたように息を吐いた。
「お母さまがいるから、大丈夫」
「だから私は……」
否定しようとした。
けれど、その言葉は最後まで続かなかった。
リゼットの目の前で、何かがきらりと光ったからだ。
空。
青空の真ん中に、淡い光が広がっている。
最初は雲かと思った。
けれど違う。
青い空に、一本の虹が浮かび始めていた。
雨が止んだばかりなのだから、虹が出ても不思議ではない。
そう思おうとした。
しかし、その虹は普通の虹ではなかった。
七色の光が、まるで空から地上へ降りてくる道のように、まっすぐ伸びている。
そしてフィアナのペンダントもまた、同じ色に輝いていた。
リゼットは息を呑んだ。
「フィアナちゃん……そのペンダント、どこで?」
少女は顔を上げた。
紫色の瞳が、まっすぐリゼットを見つめる。
「お母さまからもらったの」
「……あなたのお母さんから?」
「うん」
フィアナは嬉しそうに微笑んだ。
「だから、ちゃんと分かってたよ」
「何が?」
「お母さまが、ここにいるって」
リゼットは言葉を失った。
意味が分からない。
この子は何を言っているのだろう。
そもそも、なぜ自分なのだろう。
どうして初対面の幼女が、自分を母親だと思っているのだろう。
聞きたいことは山ほどあった。
けれど、腕の中にいる小さな身体があまりにも温かくて、リゼットはすぐには問いただせなかった。
フィアナは安心したように目を閉じる。
「……眠い」
「そりゃそうでしょう。こんなところで一人でいたんだから」
「お母さま……」
「はいはい」
「一緒にいてね」
その言葉に、リゼットは一瞬だけ黙った。
それから、小さく息を吐いて笑う。
「うん。とりあえず、あなたのご家族が見つかるまでね」
そう言って、フィアナを抱き上げた。
少女は安心したようにリゼットの肩へ頬を寄せる。
その直後、遠くの空で小さく雷が鳴った。
ゴロ……。
リゼットが空を見上げる。
けれど、そこには雲ひとつない。
青空の下で、雷だけが静かに響いていた。
そしてリゼットはまだ知らなかった。
この日から始まる奇妙な共同生活が、自分の人生だけではなく、二つの世界の運命さえも大きく変えていくことを。
彼女が抱き上げた小さな少女が、ただの迷子ではなかったことも。
そして――。
この「お母さま」という呼び方には、リゼット自身も知らない、遠い過去からの約束が隠されていることも。




