第5話 私が「お母さま」になった理由
アルノーが店に現れてから、二日が経った。
リゼットの店には、以前にはなかった妙な緊張感が漂っている。
とはいえ、フィアナ本人はというと、そんな大人たちの事情などどこ吹く風だった。
朝から厨房に立ち、リゼットの隣でパン生地をこねている。
「今日は飛ばさないからね!」
「それ、昨日も聞いた気がするんだけど?」
「今日は絶対!」
フィアナが胸を張る。
その向かいでは、アルノーがコーヒーを飲みながら二人を眺めていた。
「……ずいぶん仲良くなりましたね」
「誰のせいでこんな状況になってると思ってるの?」
「私ですか?」
「あなたが異世界から来るからでしょう」
「それは、まあ……否定できません」
アルノーは苦笑した。
最初に会ったときの険しい表情は、少しずつ消えている。
フィアナがこちらの世界で安心して暮らしているのを見て、アルノーも少しずつ肩の力を抜いているようだった。
ただし、一つだけ変わらないことがある。
彼はフィアナのペンダントを見るたび、何かを考え込む。
そして、その視線は時々リゼットにも向けられていた。
「アルノーさん」
「はい」
「昨日から気になってるんだけど」
「何でしょう?」
「私のこと、何か知ってるでしょう?」
アルノーの手が止まった。
リゼットはじっと彼を見る。
「私がフィアナちゃんのお母さんと関係があるんじゃないかって、そう思ってるんじゃない?」
「……」
沈黙。
それが答えだった。
リゼットはため息をついた。
「やっぱり」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいから、教えてください」
アルノーはしばらく黙っていた。
やがて、ポケットから一枚の紙を取り出した。
古びた紙だった。
そこには、見慣れない文字が書かれている。
「これは、フィアナ様の母君が残した記録の写しです」
「フィアナちゃんのお母さんが?」
「はい」
リゼットは紙を受け取った。
読めない。
異世界の文字なのだから当然だ。
「何て書いてあるの?」
アルノーが静かに読み上げる。
「『境界が再び揺らぐとき、娘を西の空へ送りなさい。そこには、かつて私が出会った女性の血を引く者がいる』」
リゼットの胸がざわついた。
「……かつて出会った女性って?」
「あなたのご母堂です」
「お母さん……?」
アルノーは頷く。
「あなたのお母様は、若い頃に一度、我々の世界へ来ています」
リゼットは何も言えなかった。
母親のことを思い出す。
いつも穏やかで、料理が好きだった。
そして、時々空を見ていた。
子どもの頃、何度か聞いたことがある。
『お母さん、何を見てるの?』
そう尋ねると、母はいつも笑っていた。
『昔のお友達を思い出してるの』
それ以上は教えてくれなかった。
「……知らなかった」
リゼットは紙を握る。
「そんなこと、一度も聞いたことがない」
「あなたのご両親は、あなたを守るために黙っていたのだと思います」
「私を?」
「はい」
アルノーは静かに頷いた。
「異世界との境界に関わる人間は、こちらの世界でも向こうの世界でも、狙われることがあります」
その言葉に、リゼットは顔を上げた。
「フィアナちゃんも?」
「だからこそ、彼女はここへ送られました」
フィアナがパン生地をこねる手を止めた。
「お母さまが、わたしを守るために?」
「はい」
「……じゃあ、お母さまは?」
フィアナの声が震える。
アルノーは答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
フィアナの目に涙が浮かぶ。
リゼットはすぐに少女を抱き寄せた。
「フィアナちゃん」
「……お母さま、もういないの?」
「……」
「会えないの?」
リゼットは答えられなかった。
まだ何も分かっていない。
死んだとも、生きているとも言えない。
けれど、フィアナにとっては、その曖昧さこそが一番つらいのだろう。
「会いたいよね」
フィアナが頷く。
「うん……」
「じゃあ、探そう」
フィアナが顔を上げる。
「一緒に?」
「うん。一緒に」
「お母さまも?」
「もちろん」
アルノーが二人を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「だから、フィアナ様はあなたを母親だと思っているのかもしれません」
「……どういうこと?」
「先代の巫女は、フィアナ様に何度もあなたのお母様の話をしていたそうです」
「私の母の?」
「はい。とても大切な友人だったと」
アルノーは続けた。
「そして、その娘であるあなたの存在を、フィアナ様はずっと前から知っていた可能性があります」
リゼットはフィアナを見る。
「でも、私とは会ったことがないでしょう?」
「ありません」
「じゃあ、どうして……」
「巫女の力です」
アルノーはペンダントを指差した。
「フィアナ様は、人と人との縁を感じ取ることができます」
「縁?」
「血のつながりだけではありません。強い約束や、長い時間を越えた絆も」
フィアナが小さく頷いた。
「お母さまのこと、ずっと感じてたの」
「私を?」
「うん」
「どうやって?」
フィアナは胸元のペンダントを握った。
「ここから、声がするの」
リゼットはペンダントを見つめる。
「声?」
「うん。『大丈夫。あなたは一人じゃない』って」
その言葉に、リゼットの胸が痛くなった。
フィアナの母親は、最後まで娘を守ろうとしていたのだろう。
たとえ自分がそばにいられなくても。
たとえ異世界へ送り出すことになっても。
娘が一人にならないように、誰かとの縁を残した。
「だから……」
フィアナがリゼットの服を握る。
「お母さまを見つけたとき、分かったの」
「何が?」
「この人だって」
リゼットの目が潤んだ。
「私を見て、そう思ったの?」
「うん」
フィアナは頷く。
「お母さまの匂いがした」
「……匂い?」
「うん。あったかい匂い」
リゼットは思わず笑った。
「それ、昨日焼いたパンの匂いじゃない?」
「違うよ」
フィアナは真剣だった。
「お母さまと同じ匂い」
その言葉に、リゼットは何も言えなくなった。
母親と自分。
会ったことのない異世界の少女。
その間に、本当に何かがつながっている。
そう思わずにはいられなかった。
その日の夕方。
リゼットは実家から持ってきた古い箱を開けていた。
両親が亡くなってから、ほとんど触れていなかった箱だ。
中には古い写真や手紙、母親が大切にしていた小物が入っている。
「何か残ってないかな……」
一つずつ取り出していく。
そして、一番底に見覚えのない小さな布袋を見つけた。
「こんなの、あった?」
袋を開ける。
中から出てきたのは、一枚の古い紙だった。
紙には、見慣れない紋章が描かれている。
紫色の石を中心に、二つの世界を表すような円が重なっていた。
リゼットの指先が震える。
「……これ」
同じ紋章を、見たことがある。
フィアナのペンダントだ。
「アルノーさん!」
リゼットが呼ぶ。
青年がすぐにやってくる。
「どうしました?」
「これを見て!」
アルノーは紙を見る。
その瞬間、表情が凍った。
「……間違いありません」
「何が?」
「境界の紋章です」
「境界?」
「異世界とこちらの世界をつなぐ者だけが持つ紋章です」
リゼットは紙を見つめた。
そこには、母親の名前が書かれていた。
そして、その下にもう一つの名前がある。
知らない女性の名前。
アルノーはその名前を見た瞬間、息を呑んだ。
「……先代の巫女です」
「え?」
「フィアナ様のお母君の名前です」
リゼットの手から、紙が滑り落ちそうになった。
母とフィアナの母親。
二人は本当に、知り合いだった。
そして、その証拠が今、自分の手の中にある。
フィアナが駆け寄ってくる。
「お母さま?」
「フィアナちゃん……」
リゼットは紙を握りしめた。
「あなたのお母さんと、私のお母さんは友達だったみたい」
「ほんと?」
「うん」
フィアナの顔が少し明るくなる。
「じゃあ、わたしのお母さまは、きっとまだどこかにいるよね?」
リゼットは答えに迷った。
それでも、フィアナの瞳を見つめる。
「うん。探そう」
「絶対?」
「絶対」
フィアナが笑った。
その瞬間。
窓の外で、雷が鳴った。
ゴロゴロ……。
空は晴れている。
それなのに。
また雷だ。
アルノーが窓の外を見つめる。
「……まずい」
「どうしたの?」
「この雷は、ただの雷ではありません」
アルノーの声が低くなる。
「異世界との境界が、さらに薄くなっています」
リゼットは窓の外を見る。
青空の一部が、ほんの少しだけ紫色に染まっていた。
そして、その紫色の光はゆっくりと広がり始めている。
フィアナのペンダントが、強く輝いた。
「お母さま……」
フィアナがリゼットの手を握る。
「向こうから、誰かが呼んでる」
「誰?」
フィアナは空を見上げた。
その瞳に、初めてはっきりとした希望が浮かぶ。
「……お母さまかもしれない」
青空に雷が鳴る。
その音は、昨日までよりずっと近かった。
二つの世界が、今まさに再びつながろうとしていた。




