八十四 泣き落としの母君
ある女房の母が、娘を有利な縁談に進ませようと泣き落としに来る。彰子は母の不安を聞きつつ、娘本人の意思を確認する。家のため、親のため、という言葉に押し潰されかけた娘は、自分の希望を初めて口にする。彰子は縁談を断る文を整える。家制度マウントへの静かな抵抗。
「あなたのためを思っているのよ」
この言葉ほど、便利で、重くて、そして時に逃げ道のないものもありません。
前世でもありました。親だから心配している。家族だから分かっている。将来を思えば、この方がいい。いまはつらくても、あとで感謝する日が来る。
もちろん、本当にそういうこともあります。家族の助言が人を救うことは、たしかにあります。
でも厄介なのは、その言葉が本人の意思を飛び越えるための橋にもなってしまうことでした。
「あなたのため」と言いながら、実際には親の不安を減らしたいだけだったり、家の体面を守りたいだけだったり、世間に説明しやすい形へ押し込みたいだけだったりします。
しかも、言う側に悪意がないことも多い。だからこそ、断りづらい。
平安の宮中では、それがしばしば縁談の形でやって来ます。
家のため。後見のため。先の頼みのため。年頃なのだから。よい相手なのだから。断るなど贅沢。そうやって何枚ものもっともらしい布で包まれると、最後には当の娘本人が、自分の気持ちをどこへ置いていいか分からなくなります。
その日の藤壺は、午前の光がやわらかでした。若菜は香炉の灰を静かにならし、有子は昨日の控えをまとめ、春枝は紙箱の前で「今日の湿りは少しよい」と一人うれしそうにしている。
小少将は新しく仕立て直した単の色を誰に気づかせるでもなく自分で満足し、澄子は灯の具を磨きながら、たぶん半分は部屋の空気を見ていた。
外から見れば、いつもの藤壺です。けれど、人の気配というのは面白いもので、何か重たいものが近づく時は、声が届くより先に空気が変わります。
「姫様」
赤染衛門が来た時点で、私はだいたい何か来たなと思いました。
「ある女房の母君が、ぜひにお目通りをと申しております」
「誰の」
「藤子の母君にございます」
ああ。藤子は、ここ半年ほどでずいぶん頼もしくなってきた若い女房です。筆が丁寧で、覚えが早く、まだ控えめではあるけれど、任せれば確かにやる。人前でぱっと華やぐ種類ではないが、仕事の筋がよい。
そして、そういう娘は往々にして、親から見ると「早く良い縁へ乗せたい」対象になります。なまじ才がある。なまじ見込みもある。だから「今ならまだ有利に出せる」と考えます。
嫌な言い方ですね。でも、だいたいそういう勘定が混じるのです。
「母君は、どのようなご用向きと」
「娘の将来のこと、とだけ」
赤染衛門は少しだけ眉を寄せた。
「だいぶお取り乱しのご様子で」
ああ、泣きに来ましたね。正面から理を言うより、涙で場を動かす。これもまた、古今東西よくあるやり方です。しかも親が娘のために泣くとなると、周りもむげにはできません。私は扇を持ったまま言いました。
「お通ししましょう」
常盤が少し目を見開いた。
「お会いになるのですね」
「ええ」
「てっきり、“本人でなく母が来る話は後に”と切られるかと」
「切って済む話なら簡単ですが」
「済みません」
「ええ。済まない顔をしているのでしょう」
赤染衛門が静かにうなずく。たぶん相当です。
やがて通された藤子の母君は、なるほど、見るからに「今日ここで何とかしたい」人の顔をしていました。身なりは整っている。けれど目元は赤く、袖口も少し乱れている。きちんとした家の女であることは分かるが、それでも平静を保てていないのが伝わります。
そして私の前に座るや否や、母君は深く頭を下げた。
「どうか……どうか、娘のことをお助けくださいませ」
はい、来ました。こういう始まり方をする話で、だいたい本当に助けが必要なのは、娘の方です。
私は静かに言いました。
「まず、お顔を上げてください」
母君は涙をこらえながら顔を上げた。
「何がございました」
すると、彼女は堰を切ったように話し始めた。
「ありがたいお話がございますのです」
「縁談でございますか」
「はい……しかも、これほどのご縁はもう二度とあるまいと思われるほどの」
やはりそうですか。
相手は五位の少将。年はやや上だが、家筋も悪くなく、今後の見込みもある。すでに一度、藤子を見かけて気に入り、仲立ちを通じて打診があったらしい。
「それは、たしかに世間から見ればよいご縁でしょうね」
私が言うと、母君は勢い込んだ。
「左様にございます! なのに、あの子は……あの子は、気が進まぬようなことを申すのでございます」
なるほど。
「気が進まぬ、と」
「はい。まだお勤めを覚えたいなどと……」
母君はそこで声を震わせた。
「そんなことを申しているうちに、年だけ過ぎてしまえばどうなります。女の身でございますもの、いつまでもこのようなところにいて、先がございますか」
「……」
「いま受ければ、家にも助けとなり、弟たちにも道がつきます」
「ええ」
「それに、わたくしも……」
そこで母君は、ついに袖で目元を押さえた。
「わたくしも、いつまで生きておれるか分かりませぬ。娘の行く末を見届けられずに死ぬかと思うと、不憫で、不安で……」
ああ。はい。本題が出ましたね。家のため。弟たちのため。母の安心のため。そしてもちろん「娘のため」。
全部、本物の感情でしょう。そこに嘘は少ない。だからこそ厄介なのです。
嘘なら切れます。でも本物の不安は、本人にも周囲にも正義の顔をして迫ってくる。母君はさらに続けました。
「娘はまだ若うございますから、目の前の勤めが面白く見えるのでございましょう。けれど、女の幸せとは何か、よう分かっておりませぬ」
「……」
「親が道を示してやらねば」
「……」
「どうか中宮様からも、あの子にお言い聞かせくださいませ。家のためにも、母のためにも、このお話を逃してはなりませぬと」
部屋の空気が静かに張った。
若菜は遠くで心配そうにしているし、有子はたぶん内心でいろいろ考えている。春枝は紙箱を抱えたまま固まっている。小少将は露骨に嫌そうな顔をしないよう努力しているが、半分くらい失敗している。
澄子だけが、変わらず灯のそばにいる。あの人は本当にこういう時ぶれません。
私は母君を見た。
「母君のお気持ちは、よく分かります」
まずはそこです。気持ちを否定されると、人はすぐ「分かってもらえない側」へ逃げます。すると、そのあとどれだけ正しいことを言っても届きません。
母君の顔が少しだけゆるんだ。味方を得たと思ったのでしょう。
でも私は続けました。
「ですが」
「……はい」
「その縁談を受けるかどうかは、藤子ご本人の意思を確かめねばなりません」
母君の顔が固まる。
「娘の……意思、にございますか」
「ええ」
「けれど、あの子はまだ若く、世を知りませぬ」
「そうでしょう」
「ならばこそ、親が」
「親が心配することと、親が決めることは同じではありません」
ぴたり、と空気が止まった。母君は傷ついたような顔をした。でも、ここはぼかしてはいけない。
「母君」
私は静かに言う。
「親が不安になるのは自然です」
「……」
「よい縁を逃したくないと思うのも、もっともです」
「……はい」
「ですが、“家のため”“母のため”という言葉は、娘にとってとても重い」
「それは……家に生まれた者ならば、負うべきことにございます」
「ええ、負うことはあるでしょう」
私はうなずく。
「けれど、負わせる前に、何を本人が望んでいるかを聞くべきです」
母君は口を開きかけ、閉じた。言い返したい。でも、真正面から否定もできない。そういう顔でした。
私は赤染衛門へ目を向けた。
「藤子を」
「はい」
しばらくして、藤子が呼ばれてやって来た。
入ってきた時の顔で、だいたい事情は分かっていたのでしょう。母がいる。話が重い。自分の進退についてだ。
藤子は母君を見て、一瞬だけ目を伏せた。そのわずかな動きの中に、困惑も、気後れも、申し訳なさも、全部入っていた。
ああ。この子は、だいぶ押されてきましたね。
「藤子」
私が呼ぶと、彼女はすぐに居ずまいを正した。
「はい、姫様」
「あなたの母君から、縁談のお話を聞きました」
「……はい」
「あなたは、気が進まぬと申したそうですね」
「……はい」
母君が、そこでこらえきれぬように言った。
「藤子、何が不満なのです」
「母上……」
「相手は申し分ないではありませんか。家のためにも、どれほどありがたいことか」
「……」
「お前のためでもあるのですよ」
藤子の肩が、ぴくりと震えた。
だめです。この「お前のため」が、いまは刃になっています。
「母君」
私が名を呼ぶと、母君ははっとして口をつぐんだ。
「ここでは、藤子に話してもらいます」
それだけ言うと、部屋は静かになった。母君は苦しそうな顔をしていたが、それでも黙った。よろしい。
私は藤子を見る。
「あなたは、どうしたいの」
藤子はすぐには答えられなかった。視線が膝の上へ落ちる。指先が袖をつまむ。唇がかすかに震える。
こういう時、人は「本音を言ってよい」と頭で分かっても、身体が先に止まるものです。
言ったら親を傷つける。言ったら恩知らずに見える。言ったら自分がわがままになる。そう思わされてきた時間が長いほど、声は出にくい。
「急がなくてよいです」
私はできるだけ穏やかに言った。
「正しい答えを言う場ではありません」
「……」
「あなたの気持ちを言う場です」
藤子は、ゆっくり息を吸った。そして、やっと、小さく言った。
「……わたくしは」
「はい」
「いまは、まだ、嫁ぎとうございませぬ」
母君が息を呑んだ。部屋の空気が、かすかに揺れる。でも私は何も言わず、藤子の続きを待った。
「なぜ」
私が尋ねると、彼女は最初こそためらったが、いったん口が開くと、少しずつ言葉が出てきた。
「ここへ参ってから、まだ日も浅うございます」
「ええ」
「覚えることが多く、苦しいこともございますけれど……」
「はい」
「それでも、自分が少しずつ何かできるようになるのが、うれしゅうございます」
「……」
「文の控えも、持ち出しの順も、まだ十分ではございませぬ」
「ええ」
「けれど、分からなかったことが分かるようになり、任せていただけることが少しずつ増えて……」
そこで彼女は一度、ぎゅっと袖を握った。
「それを、まだ手放したくないのでございます」
母君の目に、今度は別の意味で涙が溜まった。理解できない、ではなく、思っていたより娘が遠くまで考えていたことに、少し打たれた顔です。
藤子は続けた。
「それに……」
「ええ」
「その少将様が悪い方とは思いませぬ」
「はい」
「けれど、わたくしは、誰それの妻となる前に、まず自分が何者であるかを、もう少し知りとうございます」
おや。私は少しだけ目を見張った。この子、ちゃんと言うではありませんか。
常盤が遠くで、感動した時の変な顔をしています。やめなさい、集中が切れます。
母君は、かすれた声で言った。
「何者、とは……」
「母上」
藤子は初めて、母をまっすぐ見た。
「わたくしは、ただ嫁ぎ先で都合よく使われるためだけに、生きとうございませぬ」
「……!」
「家のために尽くすことも、親を思うことも、忘れてはおりませぬ」
「……」
「けれど、それだけで決めてしまえば、きっと後で、わたくしは自分で選ばなかったことを、どこかで人のせいにしてしまいます」
「……」
「それは、いやなのでございます」
ああ。よく言えました。本当に、よく言えました。
前世でも、ここまで言えない人は多かった。親が泣くと、人は思っている以上に弱くなる。まして平安の娘です。
家と後見の中で生きるのが当たり前の時代に、「それでも自分で選びたい」と言うのは、簡単なことではありません。
ふと視線をやると、少し離れた柱の陰で、紫式部が手元の草子にすらすらと何かを書きつけているのが見えました。
彼女はこういう時、決して前へ出て口を挟むことはありません。ただ、親の情と家の重圧、それに抗おうとする娘の震える声、そして部屋を満たすひりつくような空気を、一滴もこぼさずに掬い取ってしまう。
今もきっと、自分の意思を持とうともがく姫君の姿として、密かに物語の糧にしているのでしょう。
母君はしばらく何も言えなかった。ただ、袖の中で手を握りしめている。私はそこで、少しだけ言葉を差し入れた。
「母君。いまの藤子の言葉を、どうお聞きになりましたか」
いきなり諭さない。まず本人に整理させる。これも前世の会議でよく使ったやり方です。人は自分で言葉にすると、少しだけ感情から離れられる。
母君は、苦しそうに息をついた。
「……強く、なったと思いました」
「ええ」
「いつのまに、このようなことを申すように」
「それは、悪いことでしょうか」
「……分かりませぬ」
正直でよろしい。
「恐ろしゅうございます」
母君はぽつりと言った。
「娘が、自分で決めようとするのが」
「……」
「もし誤った道を選べばと」
「ええ」
「もしこの縁を逃して、後で泣くことになればと」
「はい」
「そうなった時、わたくしは何をしていたのかと、自分を責めるやもしれませぬ」
そこです。やはり、娘のためだけではない。自分が後で後悔したくない不安も、ちゃんと混じっています。
悪いことではありません。親とはそういうものでもあります。でも、だからといって娘に全部背負わせてよいわけではありません。
「母君」
私は静かに言った。
「ご不安は、もっともです」
「……」
「ですが、その不安を消すために、娘の人生を急いで形にするのは、少し違います」
「……」
「親が安心する縁談と、娘が納得する縁談は、同じこともあれば、違うこともあります」
「はい……」
「そして違う時は、その違いを見ないふりにしてはいけません」
母君は、今度こそはっきりと涙をこぼした。若菜が心配そうにこちらを見ている。春枝は、やわらかい紙を用意すべきか迷っている顔ですね。
気が早い。私は続けます。
「家のため、という言葉は立派です」
「……」
「親のため、という言葉も、尊いでしょう」
「……はい」
「でも、それは本人の意思を聞かなくてよい免状にはなりません」
藤子が、小さく息をついた。たぶん、ずっと誰かに言ってほしかった言葉です。母君は、しばらく泣いたあと、ようやく言った。
「では……どうすればよいのでございましょう」
「まずは」
私は答える。
「この縁談は、急ぎ受けぬことです」
「断る、と」
「ええ」
「そのようなことをすれば」
「相手の面子は守ります」
赤染衛門が、はい、その役ですね、という顔をしました。ええ、ここからは文面です。
「母君」
私は言う。
「断ることと、無礼にすることは違います」
「……」
「いまは娘がまだ未熟にて、家内の事情も整わず、しばらくは勤めを深めさせたい――そうした形で、先方のご厚意を損ねぬよう返せばよい」
母君は、少しだけ呆然としていた。
たぶん、「娘の本音を通すなら、真正面から家に逆らうしかない」と思っていたのでしょう。でも実際には、世の中の大半は断り方の技術でだいぶ変わります。
前世でもそうでした。「できません」とだけ言うと角が立つ。でも、「現時点ではこういう事情があり、今回は見送ります」と整えれば、不要な戦を減らせます。
藤子本人の意思を守るために、文面は柔らかく、構造は堅く。こういう時の言葉は、楯です。
「衛門」
「はい」
「紙を」
春枝が、待ってましたとばかりに一番よい紙を差し出した。
「これは少し勝ちすぎでは」
「こういう時こそ、相手に敬意が見える紙がよろしゅうございます」
「……その判断は正しいので腹が立ちません」
「光栄にございます」
私は文の骨子を整えた。
返答の趣旨
このたびのお心寄せはありがたく、家としても深く感じ入っているされど娘いまだ若く、家内にも整えねばならぬことが多い当面は御前近くの勤めを深めさせたく、軽々に進めるべき折ではないご厚意を無にするものではなく、むしろ慎んで時をみたいまずは御礼申し上げ、今回のところは見送る
「“娘が嫌がっているから”とは書かぬのですね」
小少将が言う。
「ええ。そこを正面に出すと、先方は説得の余地ありと思います」
「なるほど」
「家内の事情と時期の問題に寄せた方が、追撃されにくい」
常盤が感心した顔になる。
「追撃されにくい、という言い方が実に」
「現実的でしょう」
「はい」
母君は、その文の趣旨を聞きながら、少しずつ表情を変えていった。最初の強張りがほどけ、次に戸惑いになり、最後には、どこか疲れたような、でも少しだけ安堵したような顔になりました。
「……娘の望みを通しても、家の顔は潰さずに済むのでございましょうか」
「ええ」
私は答える。
「すべては潰れません。少なくとも、不要には」
「……」
「ただし、母君」
私はそこで少しだけ声を和らげた。
「今回、一番大事なのは、藤子が初めて自分の希望を言えたことです」
「……」
「それを、あとで“あの場で母に恥をかかせた”という形に変えないでください」
「……」
母君の目が揺れた。
そこまで言われると思っていなかったのでしょう。でも、ここも大事です。場では黙って引いて、帰ってから罪悪感で締め上げる。そういうことが一番よくあります。
「本人の意思を聞いたのに、後で“親不孝だ”で潰しては、聞いた意味がありません」
母君は、長く息を吐いた。
「……耳が痛うございます」
「聞こえるように申し上げています」
赤染衛門が小さく咳払いをして、笑いをこらえた。
やめなさい。
しばらくして、母君は藤子へ向き直った。
「お前は……本当に、いまはまだ行きとうないのですね」
「はい」
「後で悔いても」
藤子は少しだけ迷い、それでも言った。
「悔いることがあっても、自分で選びとうございます」
「……」
母君は目を閉じた。そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
その声には、完全な納得まではなかった。でも、押し切るのをやめるだけの覚悟はあった。十分です。こういう話は、一度で全部きれいには解けません。でも、ねじ切らないだけでも大きい。
母君が下がったあと、藤子はしばらくその場に座ったまま動けなかった。たぶん緊張がいっぺんにほどけたのだ。
若菜がそっと湯を持ってくる。
「お飲みになりますか」
「……ありがとう」
有子は何も言わず、ただ藤子の近くに文箱を置いた。居場所を消さないためのしぐさです。ああいうところが有子は本当にうまい。
春枝は、案の定やわらかい紙を差し出した。
「泣く時はこちらが」
「春枝」
「はい」
「今は言わなくてよいです」
「申し訳ございません」
小少将が、くすっと笑う。
「でも、よく言えましたわね、藤子」
「……足がまだ震えております」
「震えていても言えたのです。立派です」
「はい」
常盤が身を乗り出す。
「それに“誰かの妻になる前に、自分が何者かを知りたい”は、かなり格好よろしゅうございました」
藤子が真っ赤になる。
「そ、そのまま言わないでくださいませ」
「では少しだけ言い換えて…」
「広めない」
私が先に切ると、
「はい」
と常盤がすぐ引っ込んだ。よろしい。しばらくして、藤子が私の方を見た。
「姫様」
「はい」
「わたくし……あのようなことを申して、よろしかったのでございましょうか」
この問いは、たぶん今日いちばん大事です。私は少し考えてから答えた。
「よろしかったですよ」
「……」
「ただし、“自分の望みを言えた”だけで終わらせてはいけません」
「はい」
「その望みを、これから自分で育てるのです」
「育てる」
「ええ。勤めを覚えたいと言ったなら、覚える」
「はい」
「ここで何者かになりたいと思ったなら、なる」
「……はい」
「言葉にした願いは、あとから働きで支えると強くなります」
藤子は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。そして、今度は迷いなく頷いた。
「努めます」
その声は小さいけれど、芯がありました。
夕暮れ、母君への返書の清書が終わる頃には、藤壺の空気もだいぶやわらいでいた。若菜が香を整え、有子が控えをしまい、春枝は「今日は緊張に耐えた紙」とわけの分からない感想を言っている。
澄子は灯をひとつ見て、「泣いたあとの部屋は、火を少しおとなしくした方が落ち着きます」と言った。
小少将は藤子の顔色を見て、「今夜は薄い色の方がよろしいですわ。強い色は疲れますもの」と助言している。
こういう、少しずつ違うやさしさが集まるところが、藤壺のよいところです。私は赤染衛門と文の控えを見返しながら、私はぽつりと言った。
「家、というものは強いですね」
赤染衛門が答えました。
「強いからこそ、人を守ることもあれば、押し潰すこともございます」
「ええ」
私は扇を指先で回した。
「母君も、娘を害したいわけではないのです」
「分かっております」
「でも、不安が強くなると、“守る”と“支配する”の境目が見えなくなる」
「それでも今日、藤子があれだけ申せたのは、姫様が“家のため”を正面から立派ごとにせず、ほどいてお見せになったからでしょう」
「……そうかもしれません」
「家のため、親のため、それ自体は悪くありません」
「ええ」
「けれど、それで本人の口を塞いではならぬ、と」
私は扇を閉じた。
ぱちり。
家のため、という言葉は強い。親のため、という言葉はもっと強い。だからこそ、その前で本人の意思は、簡単に小さくされます。でも、人生を引き受けるのは、最後には本人です。
誰かの安心のために選ぶのではなく、自分で選んだ道の不安まで、自分で抱えて進むこと。たぶんそれが、大人になるということなのでしょう。
藤壺にはその日、また一つ新しいものが増えました。
家の声が大きい時でも、本人の小さな声を消さずに拾い上げるための、静かな返事が一つ。
〜 出典 〜
『源氏物語』第12帖 須磨
「高き人は、我を何の数にも思さじ。ほどにつけたる世をばさらに見じ。命長くて、思ふ人びとに後れなば、尼にもなりなむ、海の底にも入りなむ」
(訳)「身分の高い方は、私なんかを一人前の人間として扱ってくださらないだろう。かといって、(親の期待があるから)身分相応の相手との結婚など絶対に考えられない。もし長生きして、私の後見である両親に先立たれてしまったなら、尼になるか、海の底に身を投げてしまおう」
※この場面は、父親(明石の入道)が「娘を絶対に高貴な人(光源氏)と結婚させる。女は気位高く育てるべきだ」と息巻いているのに対し、当の娘(明石の君)がその重圧に押し潰されそうになっているシーンです。
〜 舞台背景 〜
「須磨」は、『源氏物語』五十四帖の巻名の一つ。第12帖。朧月夜との仲が発覚し、追いつめられた光源氏は後見する東宮に累が及ばないよう、自ら須磨への退去を決意する。左大臣家を始めとする親しい人々や藤壺に暇乞いをし、東宮や女君たちには別れの文を送り、一人残してゆく紫の上には領地や財産をすべて託した。 須磨へ発つ直前、桐壺帝の御陵に参拝したところ、生前の父帝の幻がはっきり目の前に現れ、源氏は悲しみを新たにする。須磨の侘び住まいで、源氏は都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりしつつ、淋しい日々を送る。つれづれの物語に明石の君の噂を聞き、また都から頭中将がはるばる訪ねてきて、一時の再会を喜び合った。やがて三月上巳の日、海辺で祓えを執り行った矢先に恐ろしい嵐が須磨一帯を襲い、源氏一行は皆恐怖におののいた。
長編で複雑な内容を有する『源氏物語』を読む際、往々にして全体の約4分の1弱に位置する「須磨」の巻あたりで挫折してしまうことがあり、ここから『源氏物語』を途中で読むのをやめてしまう人を揶揄する「須磨返り」という言葉が生まれている。出典:wikipedia




