八十二 登華殿からの引き抜き
定子方の女房が、彰子方の若手を引き抜こうとする。甘い言葉に揺れる若手に、彰子は無理に止めず、待遇・役割・将来性を比較させる。若手は自分で残ると決める。彰子は「忠誠は縛って得るものではありません」と語る。人材流出を恐怖でなく、組織魅力で防ぐ。
人は、お金だけで職場を選ぶわけではありません。
前世でもそうでした。給料が少し高いから移る人もいれば、肩書きが魅力で動く人もいる。逆に、条件は悪くなくても、「ここにいても先が見えない」と思った瞬間に、ふっと心が離れていく人もいる。
そしてもっと厄介なのは、引き抜きというものが、だいたい不満のある者ではなく、少し迷っている者のところへ来ることです。
今の場所が極端に嫌なわけではない。でも、このままでいいのだろうか、と心のどこかで思っている。そこへ外から、甘い言葉が差し出される。
「あなたならもっと評価される」
「こちらの方が華やかです」
「今のままではもったいない」
そう言われて、揺れない若手はあまりいません。平安の宮中でも、それは同じでした。
人が多く集まる場には、必ず出入りがあります。どの御殿に出仕するか。誰の近くに仕えるか。どこにいれば、自分の才が生きるか。そうした移り変わりは、宮中では珍しいことではありません。
ただし、珍しくないことと、穏やかでいられることは別です。
その日の藤壺は、一見するといつもどおりでした。
若菜が香炉の灰をならし、春枝は紙の箱を開けては閉じ、開けては閉じている。それは整理ではなく、ただ好きな紙を眺めているだけです。
有子は控えの整頓、小少将は衣の重なりを見ているふりをしながら、たぶん半分は周囲の顔色を観察しています。
澄子は灯の具合を見ている。赤染衛門は静かに文を読み、常盤は静かそうな顔で静かではない気配を撒いていました。
つまり、外から見れば平穏。中をよく見れば、少しだけ空気が引っかかっている。発端は、昼過ぎのことでした。
若い女房のひとり――葵、が、珍しくぼんやりしていました。もともと手際のよい子で、文箱の出し入れも早く、先回りして人の足りぬところを埋めるのが上手い。才のある子というより、仕事のできる若手です。
こういう子は、どこの組織でも放っておかれません。その葵が、今日は紙を持ったまま、二度も置き場を間違えた。
一度なら気のせい。二度なら考え事。三度目で、これは話を聞くべきですね、となる。
「葵」
私が呼ぶと、彼女ははっとして振り返った。
「はい、姫様」
「今日は、心ここにあらず、ですね」
葵は少し青くなった。真面目な子は、こういう時すぐ顔に出ます。
「申し訳ございません」
「謝らなくてよいです。何かありましたか」
すると、彼女は迷った。言うべきか、隠すべきか。その迷いが顔の上で行ったり来たりする。
常盤だったら一息で全部言います。若菜なら言う前に目が潤む。葵はその中間で、抱えて悪くするタイプです。
赤染衛門が、さりげなく人払いをした。春枝は気を利かせて紙箱を抱えて離れ、小少将は「わたくしは耳など大してよくございませんの」とつぶやきながら、よく聞こえる位置に下がった。その移動、だいぶ器用です。
「……定子様の御方より、お声がけがございました」
葵がようやく言いました。ああ、来ましたか。場の空気が、目に見えないくらい少しだけ変わりました。
誰も大きく反応はしない。でも、若菜の指先が止まり、有子が紙の上に視線を落としすぎた。春枝は紙箱の蓋を閉める手が、ひと呼吸遅れた。
引き抜き。しかも、定子方から。珍しくはありません。けれど軽くもない。
定子様の御方は、華やかさがある。人も歌も集まり、機知も洗練もある。そこに惹かれる若い女房がいるのは、何も不思議ではありません。問題は、その誘いがどういう形で来たかです。
「誰から」
「筑前の君にございます」
赤染衛門が、ほんの少しだけ眉を動かした。知っている顔なのだろう。私も名前くらいは知っている。人当たりがよく、口も回り、若い女房にやさしく声をかけることを得意とする人だ。要するに、引き抜き役に向いています。
「何と」
葵はさらに言いにくそうな顔をした。
「……こちらでは、いつまでも若い者として埋もれるのではないかと」
「ほう」
「定子様の御前なら、もっと目に留まり、歌や文の才も早く生きるであろう、と」
「他には」
「藤壺は人が堅く、役目が細かく、息が詰まることもあろうと」
「なるほど」
「それに……」
そこで葵はついに耳まで赤くなった。
「“あなたのように手の早い子は、今の御方には惜しい”と」
常盤が、少し離れたところで口を押さえた。笑ったのではありません。たぶん「うわあ、それ言うんだ」という顔です。
私は葵を見ました。
「揺れましたか」
葵はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……はい」
よろしい。そこを隠さなくてよい。
「そうでしょうね」
私がそう言うと、葵は驚いたように顔を上げた。
「お怒りに、ならないのでございますか」
「なぜ」
「その……お誘いに、心が動いたことを」
私は少し首をかしげた。
「心が動くことと、裏切ることは違います」
葵の目が揺れる。周囲も静かでした。
これは大事なところです。ここで「そんな話に乗るなんて」と責めた瞬間、その子は本音を二度と持って来なくなります。そして、本音を持って来なくなった若手は、ある日突然いなくなります。
前世の職場でも散々見ました。辞める直前まで「特に問題ありません」と言っていた人ほど、実はもう別の場所を見ています。
止められないのは、最後に言われるからではありません。もっと前の、「少し揺れた」と言える時期に言えなかったからです。
私は扇を置きました。
「葵。あなたは、どうしたいの」
「それが……分からぬのでございます」
「では、分かるようにしましょう」
赤染衛門が、はい来ました、という顔をした。はい。こういう時こそ整理です。
「衛門。紙を」
「やはり比較なさいますのね」
「ええ。情で縛る前に、まず見えるようにします」
春枝が遠くから、ちょっとわくわくした顔で良い紙を持ってきた。こういう時は仕事が早い。助かります。
私は紙の上に、二つの欄を作りました。藤壺に残る場合。登華殿へ移る場合。葵が目を丸くする。
「そんなにはっきり……」
「はっきりさせた方がよいでしょう」
「でも、それは、あまりにも……」
「現実的ですか」
葵は答えなかった。でもその顔は、そうですと言っていた。確かに現実的です。でも、こういう時に一番役に立つのは、たいてい現実です。
「では書きます」
私は一つずつ比べる項目を出しました。
いま任されている役割。これから任されそうな役割。学べること。誰が教えてくれるか。失敗した時に守られるのか。目立つ機会。地味でも力がつく機会。人間関係のあたたかさ。その場の華やかさ。将来、どのような女房になりたいかとの相性。
常盤が小さく呟く。
「ずいぶん、細かな品定めめいてまいりました」
「その言い方はやめなさい。見極めです」
「はい」
でも、だいたい前世の人事面談です。私はまず、藤壺について書きました。
「あなたは今、何を任されていますか」
「控えの文の整えと、持ち出しの順、少しばかり取り次ぎも……」
「ええ。つまり、表に見えにくいけれど、場の流れを知る役ですね」
葵は頷いた。
「それは、地味です」
「そうですね」
「……はい」
「でも、地味な役は全体を覚えます」
私は一つ線を引くように言った。
「表に立つ前に、裏を知っている人は強いです」
「……」
「誰がどう動くか、どこで物が詰まるか、どの順で人が困るか」
「はい」
「それを知って前に出る人と、知らずに華やかな位置へ行く人では、長く見れば差が出ます」
小少将が、すっと口を挟んだ。
「それは本当にそうです。衣の見え方ひとつとっても、前だけ見ている方はすぐ崩れます」
「ええ」
私は頷く。
「支える側を知っている人は、崩れにくい」
葵は黙って聞いていた。甘い慰めではなく、ちゃんと意味があることを知りたいのでしょう。この子はそういう子です。
「では、定子方へ移れば何があると思いますか」
「……華やかさ、でしょうか」
「はい」
「目に留まりやすさ」
「ええ」
「歌や文のやりとりの機会も、多いかもしれませぬ」
「それもあるでしょう」
私は認めた。ここで「向こうに良いところは何もない」と言ったら嘘になる。華やかな場には華やかな学びがある。人の集まるところには、人の集まる分だけ機会もある。
「では次。失敗した時はどうでしょう」
葵は少し考えた。
「……分かりません」
「分からない、は大事です」
私はそこに印をつけた。
「知らない場へ移る時は、良いところだけでなく、失敗した時の扱われ方も見るべきです」
「扱われ方」
「ええ。うまくできた時は、だいたいどこでも褒めます」
「……はい」
「でも、間違えた時、遅れた時、気後れした時、誰が支え、誰が教え、誰が切り捨てるかで、その場の本性が見えます」
赤染衛門が静かに頷いた。有子も、小さく目を上げる。皆、それぞれに思い当たることがあるのだろう。
「葵」
「はい」
「あなたは、どんな女房になりたいの」
これはたぶん、一番難しい問いです。でもここを避けると、結局「誘ってくれた方へ行く」だけになってしまう。
葵はすぐには答えませんでした。唇を少し結んで、それから、ぽつりと言った。
「……信頼される女房に、なりとうございます」
ああ、よかった。そこが見えているなら、話はできます。
「誰に」
「御前に、女房方に、任せてよいと思っていただけるような」
「ええ」
「それで……ゆくゆくは、ただ使われる若い者ではなく、教える側にもなれたならと」
いい目標です。だいぶいい。私は紙の上の「将来性」の欄を指した。
「では、それに近いのはどちらですか」
葵の目が、紙の上をゆっくり動く。華やかさ。目に留まりやすさ。機会。役割。信頼。教える人。失敗した時の支え。
どれも嘘ではない。どれも一面の真実です。そして、だからこそ、自分で選ばなければ意味がありません。
しばらくして、葵は小さく息を吐いた。
「……藤壺、かと」
その答えに、誰もすぐには口を挟まなかった。大事なのは、周りが拍手して決めたようにしないことです。
私は静かに聞く。
「どうして」
「こちらでは、地味でございます」
「ええ」
「でも、何をしているかは、分かっております」
「うん」
「誰が何を見てくださっているかも、少しずつではございますが、分かるようになってまいりました」
「ええ」
「登華殿の華やかさは、たしかに眩しゅうございます」
「うん」
「けれど、わたくしは……眩しいだけでは、たぶん長くは持ちませぬ」
若いのに、よく分かっています。常盤が、思わずという顔で言った。
「葵、えらいですねえ」
「そういう言い方をすると、急に軽くなります」
「申し訳ございません」
でも、空気は少し和らいだ。葵はさらに言った。
「それに……こちらの方々は、厳しゅうございますけれど」
「けれど?」
「厳しいことを、分かるように言ってくださいます」
赤染衛門が、ほんの少しだけ目を細めた。褒められて照れている顔です。
「叱られても、どう直せばよいかが分かるのでございます」
葵は続けます。
「けれど、甘い言葉は……その時はうれしゅうございますが、その先を教えてはくださらぬ気がいたしました」
私は内心で深く頷いた。そうなのです。引き抜きの言葉は、多くの場合、今の不満には触れる。でも、その人が先で何者になるかまでは、案外見ていない。
もちろん、すべてではありません。本当に育てるつもりで声をかけることもあるでしょう。でも、少なくとも今回の言葉は、「あなたは惜しい」「もっと目に留まる」という、見え方に偏っていた。悪くない。でも、長い目の育成としては、少し薄い。
「葵」
「はい」
「残ると決めるなら、それは“誘われなかったから”ではありません」
「……はい」
「“自分で比べて、こちらを選んだ”ということです」
「はい」
彼女はまっすぐ頷いた。その頷きは、最初に迷っていた時よりずっと強い。小少将が袖の端を整えながら、ふっと笑った。
「定子方の華やかさに目が行くのは、若い方なら当然でございますものね」
「ええ」
私は言った。
「よその灯は明るく見えるものです」
すると澄子が、珍しく少しだけ口元を緩めた。
「灯は、近いほど眩しく見えますもの」
「澄子は本当にそこなのですね」
「はい」
場にやわらかな笑いが広がる。でも、話はそれで終わりではありませんでした。翌日、今度は別の若い女房が、こそこそと葵に尋ねていたのです。
「ほんとうに、お断りなさるの」
「……まだ返してはおりませぬけれど」
「惜しゅうない?」
「惜しいと思わぬことも、ございませぬ」
「では、なぜ」
私は少し離れたところから、そのやりとりを聞いていた。葵は、昨日よりずっと落ち着いた顔で言った。
「甘い言葉だけでは、先の勤めは見えませぬもの」
「先の勤め」
「ええ。わたくし、どなたかのお気に入りになるより、何かを任せてよい者になりとうございます」
一日でだいぶ言えるようになりました。
若い女房の方は、ぽかんとしていた。たぶん、「声をかけられる事は、上がる事」と単純に思っていたのでしょう。でも、そうではないと目の前で言われた。
人は、誰かが言語化すると、自分の中のもやもやにも名前がつくことがあります。その日の夕方、私は皆を前に言った。
「今回のこと、隠す必要はありません」
ざわ、と小さく空気が揺れる。
「ただし、騒ぐこともありません」
「はい」
「人が動くこと自体は、悪ではありません。宮中には出入りがあります」
「はい」
「でも、誰かを引き留めるために、恐れを使ってはいけません」
常盤が首をかしげる。
「恐れ、と申しますと」
「移れば薄情者だとか、残らねば恩知らずだとか、そういうことです」
「ああ」
「そんなものでつなぎ留めても、心は残りません」
私は皆を見回した。
「忠誠は、縛って得るものではありません」
静かに言う。
「ここにいたい、ここで育ちたい、ここで役に立ちたい――そう思ってもらって初めて残ります」
赤染衛門が、深く頷いた。大輔の君も、弁の君も、静かに聞いている。年長の女房たちは皆、その重さが分かるのでしょう。
前世でも同じでした。辞めるなと圧をかける組織ほど、人は黙って去る。残ったように見えても、心が離れていく。逆に、「選んでよい」と言われた場所の方が、自分で選んだ分だけ人は強く残る。
だから私は、無理に止めない。止めるなら、情ではなく、魅力で止める。
「では、どうするのでございますか」
有子が静かに尋ねた。
「こちらの魅力を、ちゃんと育てます」
「魅力」
「ええ。役割が見えること。学びがあること。働きが正しく見られること。困った時に相談できること。そういうものです」
春枝が、こくこくと頷いた。
「紙も、でございますね」
「紙は少し違います」
「ええっ」
「でも、大事です」
「よろしゅうございました」
その日のうちに、藤壺ではまた一つ小さな覚が作られた。
――出仕のえらびを見まもる覚
一、声をかけられた者を、ただちに薄情と見なさない
一、残るか移るかは、感情だけでなく役割・学び・将来性で比べる
一、若い者が迷いを口にできる空気を保つ
一、引き留めは恐れでなく、場の魅力で行う
一、残ると決めた者には、その選択に見合う育ちの道を示す
「題がずいぶんやさしゅうございますね」
小少将が言うと赤染衛門は少しだけ笑った。
「縛る話ではありません。見まもる、でよいのです」
「なるほど」
数日後、葵は筑前の君へ、丁寧に辞退の意を伝えた。
藤壺にて、なお学ぶべきこと多く候。今しばらくは、こちらで勤めを深めたく候。
そんな趣旨の、角の立たぬ文でした。筑前の君からは、意外にもあっさりした返事が来ました。少し残念そうではあったが、しつこくはありません。たぶん、押せば来るかどうかを見ていた程度なのでしょう。人材を本気で口説く者は、もう一段深く来る。今回はそこまでではなかった。
それでも葵は、文を出した後、ほっとしたようでいて、少しだけ心細そうでもあった。
「これで、よろしかったのでございましょうか」
夜、控えめにそう尋ねてきた時、私はすぐには答えませんでした。
「葵」
「はい」
「良かったかどうかは、これからあなたが作るのです」
彼女は目を瞬いた。
「自分で選んだのでしょう」
「……はい」
「なら、その選択を良いものにする働きを、ここでするのです」
「はい」
「誰かに残されたのではなく、自分で残ったのだから」
葵はしばらく黙り、それから深く頭を下げた。
「努めます」
その声は、もう迷っていませんでした。それから少しして、藤壺では小さな変化が起きた。葵に、これまでより一段だけ先の役を任せるようにしたのです。いきなり大役ではありません。でも、「残ると決めた若手」に、ちゃんと先が見える程度の変化。
有子の補助として、控えの文の順だけでなく、簡単な差し替え判断も任せる。小少将のもとで、衣の取り合わせの記録も少し学ばせる。若菜とは香の場での人の落ち着かせ方を覚えさせる。
つまり、残ることを消極策にしない。藤壺にいることで、前へ進んでいると実感できるようにする。
これも大事です。「残ってくれてありがとう」だけでは、人は育ちません。残った先に、ちゃんと道が見えなければ。
ある夕暮れ、葵が若菜と並んで座っていた。二人で香炉のそばにいて、若菜が何かを教え、葵が真面目に頷いている。
「灰は、急いでならしてはいけないのですね」
「ええ。急げば形は整っても、気が立ちます」
「気が」
「はい。香は、人の心に少し似ております」
若菜がそんなことを言うようになった。少し前まで、自分の価値を小さく見積もっていたのに。今はちゃんと、自分の持つものを次へ渡している。
いいことです。その様子を見ていた常盤が、しみじみ言った。
「藤壺、少しずつ、居残りたくなる御殿になっております」
「その言い方は、少し雑です」
私が言うと、
「では、なんと」
と常盤。小少将が横から涼しい顔で答えた。
「いてよかった、育ってよかったと思える御殿、ですわ」
「おお、きれい」
「わたくしは、そういうところがございますので」
「そこは否定できませんね」
また、笑いが起きる。その笑いを聞きながら、私は思います。人は、引き留められて残るより、選んで残った方が強い。そして、選んで残ってくれる場所を作るには、ただ情が深いだけでは足りない。
役割があること。学びがあること。見てもらえていること。迷いを言っても、即座に裏切り者にされないこと。そして、自分の先が少し見えること。
御殿の魅力とは、たぶんそういう地味なものの積み重ねです。華やかな誘いは、いつでも外からやって来ます。それを完全に防ぐことはできない。でも、内側がちゃんと育っていれば、人は眩しさだけでは動かなくなる。
夜更け、赤染衛門がぽつりと言った。
「姫様は、本当に引き留めるのがお上手ではございませんね」
「褒めていませんね、それは」
「ええ。力ずくでは、という意味にございます」
私は少し笑った。
「力ずくで残した人は、力が切れたら去ります」
「……名言めいております」
「気にしないでください」
赤染衛門はくすっと笑った。
「けれど、今日の葵の顔を見ておりますと、たしかにそうかもしれません。残された顔ではなく、残ると決めた顔をしておりました」
「ええ」
それがいちばん大きいのです。私は扇を閉じた。
人をつなぎ留めるのに、恐れは手っ取り早い。恩も、義理も、ときに効く。でも、それだけでは長く続きません。忠誠は、縛って得るものではありません。ここにいたいと、自分で選んでもらって初めて根づくものです。
藤壺にはその日、また一つ新しいものが増えました。
去る自由があってもなお、人が自分の足で戻ってきたくなるための、静かな居場所が一つ。
〜 出典 〜
『無名草子』一 いとぐち
「人なみなみのことには侍らざりしかども、數ならずながら十六七に侍りしより、皇嘉門院と申し侍りしが御母の北の政所に侍ひて、讃岐院・近衛院などの位の御時、百敷のうちも時々見侍りき。さて失せさせ給ひしかば、女院にこそ侍ひぬべく侍りしかども、猶九重の霞にまよひに花を弄び、雲の上にて月をも眺めまほしき心あながちに侍り。後白河院位におはしまし、二條院春宮と申し侍りし頃、その人數に侍らざりしかど、自ら立ち慣れ侍りし程に、さる方に人にも許されたるなれ者になりて、六條院・高倉院などの御代まで時々仕うまつりしかども、つくも髪〔見〕苦しき程になり侍りしかば、頭剃して山里に籠りゐ侍りて、一部讀み奉ること怠り侍らず。今朝とく出で侍りて、とかくまどひ侍りつる程に、今まで懈怠し侍りにける。」
(訳)「誇れることではございませんが、未熟ながらも十六七の頃より、皇嘉門院(藤原聖子・崇徳天皇の中宮=妻)の母君、北の政所(藤原宗子)にお仕えし、讃岐院(75代崇徳天皇・在位1123−1142。1156年保元の乱で後白河天皇側と争い敗北した。)や近衛院(76代近衛天皇・在位1142−1155)が位にあらせられた御代には、宮中にも時々参りました。そうして(北の政所が)逝去されて、女院(皇嘉門院)にお仕えすべきだったのでしょうけれど、何もせぬままに混乱のさなか(保元の乱が起こり皇嘉門院が出家した)で花に慰めを求め、宮中で月を眺めていたいような気持ちが強うございました。後白河院が(天皇の)位にあらせられて、二條院春宮と御名乗りあそばされていた頃、まだまだ一人前とは言いがたい有様ではありましたけれども、自然と振る舞いも身につけていたものですから、とある方に認められ親しくしていただいて、六條院(79代天皇・在位1165−1168)や高倉院(80代天皇・在位1168−1180)の御世まで時々お仕えいたしましたけれども、白髪も見苦しくなってまいりましたので、剃髪して山里に籠もり、一部(法華経の一部、二十八巻)を読み奉ることを怠らぬようにしてまいりました。今朝は早く出てきて、あちらこちらと道に迷っているうちに、今まで怠けておりました。」
※無名草子の作者である83歳になった出家した老尼が、主人を替え、複数の宮家・貴族家に奉公した自分のこれまでの転職人生を振り返る場面です。
〜 舞台背景 〜
『無名草子』(むみょうぞうし)は、鎌倉時代初期の評論。女性の立場から述べる王朝物語に対する論評で、日本の散文作品に対する文芸評論書としては最古のものである。書名『無名草子』は後代の命名で、原本の表題は不明。『無名物語』、『建久物語』などの異名がある。また、『八雲御抄』が言及する『尼の草子』や、伴直方『物藷書目備考』に見える『最勝光院通夜物語』も、本書を指している可能性がある。作者は、通説では藤原俊成女(越部禅尼)とされ、1196年(建久7年)から1202年(建仁2年)頃の成立であると推定されている。作者に擬せられたことのある人物は、この他に、藤原俊成、式子内親王らがある。また、俊成女が後年出家して嵯峨に隠棲してからの作とする見方もある。若くして皇嘉門院の母北政所に仕えた八十三歳の老尼と、東山の麓に住む若い女房たち。の対話形式をとり、「序」「物語批評」「歌集批評」「女性批評」の四部からなる。序は、作品全体の1割を占める長大な導入部で、老尼が東山の閑居を発って長い道のりをあてもなく歩き、途中で寺院に参拝し、やがて檜皮屋を見つけてそこに居た女房達と言葉を交わす。この「序」の構造を作品世界の象徴とする見方もある。出典:wikipedia




