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転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜  作者: 条文小説


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八十 噂の出所を可視化する

挿絵(By みてみん)


 彰子を中傷する噂が複数流れる。彰子は噂の内容・聞いた人・時刻・場所を記録し、経路を図にする。すると発信源が特定の女房グループに偏っていると判明。直接処罰せず、そのグループに重要でない偽情報を流して反応を見る。噂ネットワークを逆利用する情報戦。

 噂というものは、姿がありません。


 声だけで動く。袖の影から、廊の端へ。廊の端から、水を運ぶ者へ。水を運ぶ者から、台所近くへ。台所近くから、別の御殿へ。気づいた時には、誰が最初に言ったのか分からなくなっている。しかも噂は、移動するたびに少しずつ姿を変えます。


「らしい」が「そうだ」になる。「聞いた」が「見た」になる。「誰かが言っていた」が「確かな筋から」になる。最後には、誰も見ていないものが、まるで皆が知っている事実のような顔をします。


 前世でもありました。社内の噂。ネットの炎上。匿名の投稿。「関係者によると」「内部では有名」「友達の友達が言っていた」そういう言葉がつく話ほど、だいたい出所が霞んでいます。


 けれど、人は霞んだものほど怖がります。正体の分からない声は、正体が分からないからこそ大きく聞こえます。


 宮中も同じです。いえ、宮中の方がもっと厄介かもしれません。


 顔を合わせて笑いながら、袖の中で言葉を刺す。歌に紛らせる。香に紛らせる。「心配しているだけ」と言いながら、人の評判を少しずつ削る。それができる人が、宮中にはたくさんいます。


 そしてその日、削られていたのは、私の評判でした。


 始まりは、常盤の顔でした。朝、藤壺へ戻ってきた常盤は、いつもの「噂を拾いました」という顔ではありませんでした。いつもなら少し目が輝いています。面白いものを見つけた猫のように。


 けれど、その朝の常盤は、口元が固く、目が笑っていません。


「姫様」


「どうしました」


「よくない噂が流れております」


 場が静かになりました。


 赤染衛門が筆を置き、紫式部が几帳の陰で顔を上げます。菅原の君は、物語の紙を抱えたまま固まりました。


「内容は?」


 私が尋ねると、常盤は一度息を整えました。


「姫様が、父君様の御力で他御殿へ心得を押しつけようとしている、と」


 赤染衛門の眉が動きました。


「また分かりやすい形で来ましたね」


「ほかにもございます」


 常盤は続けました。


「帝の問いに翌日答えるのは、実は姫様がご自分では何も答えられぬからだ、と」


 菅原の君がむっとしました。


「それは違います!」


「さらに」


 常盤は声を低くしました。


「藤壺では、女房の言葉をすべて記録し、少しでも失言すれば後で責める、と」


 有子が青ざめました。


「そんなことは」


「紫式部様の観察記録が、人を陥れるために使われている、とも」


 几帳の陰が、少し暗くなった気がしました。紫式部は表情を変えません。けれど、筆を持つ手が止まっています。若菜が香炉の灰を見つめました。


「灰に砂を混ぜるような話でございますね」


「かなり嫌な砂ですね」


 小少将が静かに言いました。春枝は紙箱を抱きしめています。


「記録用の紙が悪者に……」


 そう。今回の噂は、ただ私個人を貶すものではありません。藤壺の仕組みそのものを、疑わしいものに見せようとしています。


 記録。心得。帝の問い。女房たちの集合知。紫式部の観察。道長の支援。それらをまとめて、「中宮が父の力を使って人を管理している」という形へ歪めています。なかなか悪質です。


「反論いたしましょう」


 菅原の君が言いました。


「すぐに、違うと」


「誰に?」


 私が尋ねると、菅原の君は詰まりました。


「それは……噂をしている者に」


「誰がしているの?」


 菅原の君は黙りました。


 そう。それが問題です。噂は姿がありません。見えない敵に向かって怒鳴れば、こちらだけが声を荒げたように見えます。


「怒ってもよいですか」


 常盤が尋ねました。


「だめです」


「少しだけ」


「だめです」


「夢の中で」


「それは自由です」


 常盤は少し悔しそうに唇を結びました。彼女は噂を扱う人です。だからこそ、噂の悪用には腹が立つのでしょう。


「姫様」


 赤染衛門が静かに言いました。


「どうなさいますか」


 私は少し考えました。前世なら、まず情報を整理します。いつ、どこで、誰が、何を聞いたのか。一次情報か、二次情報か。内容の変化はあるか。同じ言い回しが繰り返されているか。発信源らしきものはあるか。


 噂を相手にするとき、一番してはいけないのは、感情で追いかけることです。煙に向かって走れば、自分が煙を吸うだけ。まず、流れを見える形にする。


「噂を可視化します」


「かし……?」


 赤染衛門が眉をひそめました。


「見えるようにする、という意味です」


「どうやって」


「記録します」


 有子が筆を構えました。春枝が紙を出します。


「どの紙を」


「丈夫で、書き込みやすいもの。あと、線を引きます」


「線?」


「噂の経路図を作ります」


 常盤の目が、はっきり輝きました。


「経路図!」


「嬉しそうにしない」


「ですが、これは私の得意分野では」


「だから、あなたに手伝ってもらいます。ただし、絶対に外へ漏らさない」


「命に代えても」


「そこまで重くなくていいです。でも漏らさない」


「はい」


 私は有子に項目を伝えました。


 一、噂の内容。

 一、聞いた人。

 一、聞いた時刻。

 一、聞いた場所。

 一、誰から聞いたか。

 一、その人は実際に見たのか、聞いただけか。

 一、言い回しに特徴があるか。

 一、聞いた時の周囲の人数。

 一、聞いた後、誰へ話したか。


 赤染衛門がうなずきました。


「噂の取調べではなく、流れの記録ですね」


「はい。責めるためではなく、見るためです」


 紫式部が、几帳の陰で低く言いました。


「『論語』の教えのようですね」


「論語?」


 菅原の君が顔を上げます。


「孔子が説いた『浸潤しんじゅんそしり』という言葉です」


 紫式部は静かに続けました。


「水がじわじわと布に染み込むように、いつの間にか広がって人を洗脳していく悪口。それを感情で受け止めず、冷静に見極めて真に受けない者こそが明智(賢明)である、と」


「浸潤の譖……」


 菅原の君が、その言葉の響きを味わうように繰り返しました。


「世評は、ただ事実を伝えるだけではありません。語る者の立場と欲が、水のように染み込んでいます」


「それです」


 私は言いました。


「噂は、内容だけでなく、誰が、どういう意図で語り、染み込ませようとしているかを見るべきです」


 常盤が真剣に頷きました。


「世評の構造を読む……」


「難しい言葉にして走らない」


「はい」


 こうして、藤壺では噂の記録が始まりました。最初に集めたのは、藤壺の女房たちが直接聞いたものです。常盤だけに任せると、勢い余って深追いするので、澄子も同行させました。


 澄子は静かです。相手に警戒されにくい。必要なことだけ聞き、余計な波を立てずに戻ってくる。常盤と澄子。情報収集の火と水です。


 二人が戻るたび、有子が控え、赤染衛門が分類し、春枝が紙を並べました。私は、その紙に線を引いていきます。


「この噂を聞いたのは、廊の東側。時刻は朝。聞いた相手は、萩乃に近い女房」


「萩乃殿……」


 赤染衛門が言います。


「まだ断定しない」


「はい」


「こちらは、帝の問いについての噂。出所は、北の渡殿。言い回しが『翌日でなければ何も言えぬ中宮様』」


 菅原の君が怒りで震えました。


「失礼です」


「怒りは後で」


「はい……」


「この言い回し、別の場所でもありました」


 常盤が言いました。


「西の局でも、『翌日でなければ答えられぬ』と」


「同じ言い回しですね」


 赤染衛門が記しました。同じ言い回しは、重要です。自然発生の噂は、場所ごとに表現がばらけやすい。逆に、同じ言い回しが複数箇所に出るなら、どこかに元の文言がある可能性が高い。前世でいうテンプレートです。


「この線をつなぎます」


 私は紙の上に点を置き、線を引きました。聞いた人。聞いた場所。中継した人。似た言い回し。


 噂の内容ごとに、線の色……と言いたいところですが、色を使うと春枝が紙や墨にこだわり始めるので、線の種類を変えます。一本線。二重線。点線。波線。


「姫様」


 春枝が真剣な顔で言いました。


「この図には、大きめの紙が必要です」


「分かっています」


「横に広がります」


「分かっています」


「ですから、箱を一つ」


「増やしません」


「まだ最後まで」


「増やしません」


 春枝は沈みました。しかし、紙は確かに必要です。父・道長からの支援で、記録用の紙が入っていてよかった。父上、後方支援が早速役に立っています。


 数日かけて記録を取ると、少しずつ形が見えてきました。噂は三種類。


 一つ目。彰子が道長の支援で他御殿を支配しようとしている。


 二つ目。帝の問いに即答できないのは、彰子に才がないからだ。


 三つ目。藤壺の記録や観察は、女房を監視するためのものだ。


 一見ばらばらです。けれど、根は同じ。藤壺の仕組みを「学び」や「保護」ではなく、「支配」や「監視」に見せること。そして、その噂が多く出ている場所は、三か所に偏っていました。


 北の渡殿。西の局。そして、ある女房グループがよく集まる控え。


「偏っていますね」


 赤染衛門が言いました。


「はい」


 私は線を指しました。


「この女房グループから、三方向へ流れています」


 常盤が目を細めました。


「中心にいるのは、萩乃殿と、火鉢女房……いえ、野心的な女房に近い方々です」


「呼び名」


「正式には申しておりません」


「心で言っていましたね」


「はい……」


 萩乃。貸し借りの件で、記録により逃げ道を失った女房。そして以前、兼頼を煽って出世工作をさせようとした女房に近い一派。


 どちらも、藤壺の心得や記録により、動きにくくなった人々です。動機はあります。ただし、証拠はまだ弱い。


「処罰しますか」


 小少将が静かに尋ねました。


「しません」


 私は言いました。


「直接処罰すれば、こちらが噂を恐れて弾圧したように見えます」


 赤染衛門が頷きました。


「噂の内容が『監視している』ですから、処罰すれば噂を補強してしまいますね」


「はい」


 菅原の君が悔しそうに言います。


「では、言われっぱなしですか」


「いいえ」


 私は扇を閉じました。


 ぱちり。


「噂ネットワークを逆に使います」


 常盤が、完全に目を輝かせました。


「情報戦ですね!」


「嬉しそうにしない」


「でも、情報戦ですね」


「そうです」


 赤染衛門が嫌な予感の顔をしました。


「姫様、危ういことは」


「危ういことはしません」


「本当ですか」


「重要でない偽情報を流します」


「それは危ういことでは?」


「重要でないものです」


 私は言いました。


「誰も傷つかず、政治的にも問題なく、しかし反応が分かりやすいもの」


「たとえば?」


 春枝が尋ねます。私は少し考えました。道長。帝。人事。贈答。病。恋。このあたりは危険です。触ってはいけません。では何がよいか。


「春枝」


「はい」


「あなたが新しく、藤壺の文箱を三つ増やす計画を立てている、という噂を流します」


「えっ」


 春枝の目が輝きました。


「本当に増やしてよろしいのですか」


「増やしません」


「偽情報ですか」


「偽情報です」


 春枝の肩が落ちました。


「少し期待しました」


「だめです」


 常盤が笑いを堪えました。


「しかし、それでは少し弱くありませんか」


「では、こうしましょう」


 私は言いました。


「『藤壺が、噂の出所を調べるために、春枝の文箱増設の話をわざと流している』という噂ではなく」


 赤染衛門が即座に止めました。


「それは複雑すぎます」


「そうね」


 情報戦で複雑にしすぎると、こちらも迷子になります。単純がいい。


「では、『藤壺では近く、紙の貸し借りにも一枚ずつ記録紙をつけるらしい』」


 春枝が青ざめました。


「紙が減ります」


「だから偽情報です」


「でも、ありそうです」


 赤染衛門が言いました。


「ありそうで、しかし実際にはやらない。反発も出やすい。よい餌かもしれません」


「餌」


 若菜が香炉の灰を見ました。


「灰に少しだけ香を落として、煙の流れを見るようなものですね」


「そうです」


 澄子が静かに言いました。


「ただし、煙を強くしすぎないように」


 その通り。偽情報は、強すぎると被害が出る。弱すぎると流れない。


「流す相手は?」


 赤染衛門が尋ねます。


「常盤」


「はい!」


「直接、そのグループに言ってはだめです。別の無害な経路から、ひとりだけへ。しかも、『まだ決まっていないらしい』程度に」


「承知しました」


「澄子も一緒に」


「はい」


「常盤単独だと、つい表情が語るので」


「私の顔、そんなに」


「語ります」


 全員が頷きました。常盤はしょんぼりしました。その日の夕刻、偽情報は流されました。内容はこうです。


 ――藤壺では、紙の貸し借りにも一枚ずつ控えをつける案が出ているらしい。ただし、紙がもったいないので未定らしい。


 本当にどうでもいい。いや、春枝にとってはどうでもよくないかもしれませんが、政治的には軽い。でも、藤壺の「記録しすぎ」という噂と相性がよい。これに誰がどう反応するかを見ます。


 翌日。早速、戻ってきました。


「姫様」


 常盤が、報告書を抱えてやって来ました。


「速いですね」


「速いです」


 赤染衛門が警戒します。


「どのように戻ってきましたか」


 常盤は控えを広げました。


「最初は、紙の貸し借りにも控えをつけるらしい、でした」


「はい」


「それが、西の局では、『藤壺では筆一本借りるにも記録を取るらしい』になりました」


「盛りましたね」


「さらに北の渡殿では、『記録しない女房は信用なしと見なされるらしい』に」


「かなり盛りましたね」


「そして例の女房グループの近くでは」


 常盤は少し声を低くしました。


「『中宮様は、女房同士の小さな貸し借りまで監視し、逆らう者を遠ざけるつもり』になっておりました」


 場が静かになりました。赤染衛門が紙の線を見つめます。


「経路が、昨日の中傷と同じですね」


「はい」


 私は言いました。


「しかも、内容の変化の方向も同じです」


 単なる記録が、監視になる。確認が、疑いになる。運用が、支配になる。これは偶然ではありません。噂を受け取り、特定の方向へ加工している人たちがいる。


「発信源というより、加工所ですね」


 紫式部が几帳の陰から言いました。


「噂をそのまま作るだけでなく、流れてきたものに毒を混ぜる場所」


 さすが、表現が鋭い。菅原の君が震えました。


「式部様、それは」


「記録に残してよいです」


 赤染衛門は書きました。噂の加工所。非常に分かりやすい。


「では、どうするのですか」


 小少将が尋ねました。


「直接責めません」


 私は答えました。


「でも、こちらから正式な説明を出します」


「説明?」


「はい。藤壺の記録は監視ではなく、女房を守るためのものだと。貸し借り心得も、必要な場合に限る。筆一本まで記録することはない。噂には出所確認をする」


 赤染衛門が頷きました。


「反論ではなく、運用説明ですね」


「そうです」


「相手を名指ししない」


「しません」


「しかし、噂を加工している者には、自分たちが見られていると伝わる」


「はい」


 常盤がにやりとしました。


「経路図は出しますか」


「出しません」


「残念です」


「出したら監視の証拠にされます」


「なるほど」


 見えているからといって、すべて見せてはいけない。情報戦は、持っている情報をどう出すかが大事です。全部出せば勝てるわけではありません。出しすぎると、こちらの手の内も見える。そこで、赤染衛門が文を整えました。


 ――近頃、藤壺にて諸事を過分に記録するとの風聞あり。実際には、貸し借りや贈答など後に食い違いの生じやすき事のみ、双方を守るために控えを残すものなり。日常の小物まで煩わしく記す意図はなし。また、記録は人を責めるためでなく、互いの記憶を助け、関係を保つために用いるものと心得ています。


 よい文です。柔らかい。けれど芯がある。


「さらに一文」


 私は言いました。


「風聞を聞いた者は、誰から、いつ、どこで聞いたかを確かめてから扱うこと」


 赤染衛門が筆を止めました。


「少し強いですね」


「強いですか」


「強いです。ですが、必要です」


 その文は、女房たちの間で静かに共有されました。掲げるのではなく、説明として。同時に、藤壺の内部では噂記録の心得を作りました。


――噂取扱心得。


 一、噂は内容だけでなく、出所を見ること。

 一、聞いた人、時刻、場所を記録すること。

 一、同じ言い回しが複数の場所に出たら注意すること。

 一、噂は移動するたび変形すると心得ること。

 一、怒って追いかけず、まず経路を見ること。

 一、出所を特定しても、すぐ処罰に走らぬこと。

 一、情報の流れは、守るためにも使えること。


 有子が清書しながら言いました。


「噂にも地図があるのですね」


「あります」


 私は答えました。


「見えないだけで」


 若菜が香炉の煙を見ました。


「煙と同じです。風を見れば、流れが分かります」


「そうね」


 噂は煙です。どこから出たか。どこへ流れたか。どこで匂いが変わったか。それを見れば、火元も加工所も見えてきます。


 数日後、例の女房グループの動きは少し鈍りました。直接処罰されたわけではありません。名指しされたわけでもありません。けれど、自分たちの流した噂が戻され、内容の変化が読まれていると気づいたのでしょう。


 廊での囁きは減りました。西の局での言い回しも弱まりました。北の渡殿では、逆にこんな声が出始めたそうです。


「藤壺は、噂の出所を確かめるらしい」


「うかつなことは言えぬ」


「でも、貸し借りの記録は確かに助かるらしい」


 常盤が報告しながら、少し複雑そうな顔をしました。


「噂で、噂の危険が広がっています」


「よいことです」


「何だか、狐が自分の尾を踏んだような」


「常盤、あなたの狐はよく尾を燃やしますね」


「反省しております」


 本当にしているのでしょうか。でも、常盤も成長しています。以前なら、噂の発信源を見つけた途端、名前を流したがったでしょう。今は、経路を見ることを覚えました。


 その夜、藤壺では噂の経路図が文箱とは別の場所に保管されました。誰でも見られるものではありません。赤染衛門、私、必要に応じて紫式部と有子。常盤は見たがりましたが、赤染衛門に止められました。


「あなたは作成者ですが、見ることは別です」


「私が集めたのに」


「だからこそ、流したくなるでしょう」


「……否定できません」


 よろしい。


 紫式部は、経路図を見て静かに言いました。


「これは、世評の骨ですね」


「骨?」


 菅原の君が尋ねます。


「人は噂の肉を食べます。面白い言葉、怖い言葉、誰かを貶す味。けれど、その下には骨があります。誰が、どこで、何のために語り、染み込ませようとしたか」


「骨を見る……」


 菅原の君は感動しています。


「物語にも必要ですね」


「必要です」


 紫式部は淡々と答えました。


「語り手を疑わぬ物語は、弱い」


 また名言が出ました。赤染衛門が書き留めました。噂は、ただの雑音ではありません。世の中の見方を映します。誰が力を持ち、誰が不満を持ち、誰が得をし、誰が恐れているか。


 孔子が「浸潤のそしり」と呼んで警戒したように。宮中の噂もまた、語る者の欲と立場を水のように染み込ませて広がります。


 だから、噂を消そうとするだけでは足りない。読まなければなりません。ただし、飲み込んではいけない読む。分ける。線でつなぐ。どこで毒が混ざったかを見る。そして、必要ならその流れを逆に使う。


 情報戦というと、少し怖い響きです。けれど、本質は身を守ることです。見えない声に怯えず、見える形にする。それだけで、人は少し強くなれます。


 私は、文箱の隣に置かれた経路図を見ました。紙の上には、点と線が広がっています。誰かの悪意。誰かの不満。誰かの軽口。誰かの恐れ。それらが、一本一本の線になっている。


 見えれば、対処できます。見えなければ、ただ怖いだけです。


「姫様」


 赤染衛門が言いました。


「今回、直接処罰しなかったのは正解かもしれません」


「どうして?」


「相手は、自分たちが完全に捕まったわけではない。ですが、見られていることは分かった。今後、軽く動けなくなります」


「はい」


 その後、藤壺では噂に対する姿勢が少し変わりました。誰かが「聞いたのですが」と言うと、すぐに常盤が尋ねます。


「誰から?」


「いつ?」


「どこで?」


「その方は見たのですか、聞いたのですか?」


「同じ言い回しを他でも聞きましたか?」


 最初は皆、ぎょっとしました。けれど、だんだん慣れました。噂を話す側も、自分の言葉に少し責任を持つようになったのです。


 もちろん、噂は消えません。宮中から噂を消すなど、香炉から煙を消せと言うようなものです。


 無理です。でも、煙の流れを見ることはできます。強すぎる煙を薄めることも。火元に近づきすぎないことも。そして時には、小さな煙で風向きを測ることも。


 藤壺の灯は、その夜も静かに揺れていました。


 噂の煙に隠れず。その流れを、紙の上に映しながら。

〜 出典 〜

『論語』顔淵がんえん第十二 浸潤之譖しんじゅんのそしり


 子張問明しちょうめいをとう子曰しいわく浸潤之譖しんじゅんのそしり膚受之愬ふじゅのうったえ不行焉おこなわれざるは可謂明也已矣めいというべきのみ浸潤之譖しんじゅんのそしり膚受之愬ふじゅのうったえ不行焉おこなわれざるは可謂遠也已矣とおしというべきのみ


(訳)子張しちょうが「明(道理をはっきりと見極める賢明さ)」について尋ねた。孔子はこう答えた。「水がじわじわと染み込むように広がる悪口や、肌に直接感じるような切実な訴え(あるいは、肌身に迫るような泣き落とし)を聞いても、それに惑わされて真に受けることがないならば、明智(賢明)であると言えるだろう。そのような悪口や訴えを真に受けないならば、はるか先まで見通す力がある(明智の極みである)と言えるだろう。」


〜 2020年度 第3回 日本漢字能力検定【1級】試験問題 〜

(一) 次の傍線部分の読みをひらがなで記せ。

 20. 浸潤の譖、膚受の愬行われず


 ※漢検1級(日本漢字能力検定1級)の配当(対象)漢字だそうです。なので、この故事をご存知の方は、かなりのヲタクだと(公財)日本漢字能力検定協会(後援、文科省)が認定してますw


〜 舞台背景 〜

 『論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ)は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物である。儒教の経典である経書の一つで、朱子学における「四書」の一つに数えられる。その内容の簡潔さから儒教入門書として広く普及し、中国の歴史を通じて最もよく読まれた本の一つである。古くからその読者層は知識人に留まらず、一般の市民や農民の教科書としても用いられていた。出典:wikipedia

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