七十二 長門賦、媚薬より合意
恋を盛り上げる香薬が流行し、女房たちが面白半分に使おうとする。彰子は長門賦の陳皇后の悲恋を引き、本人の判断を奪う恋は美談ではなく事故だと止める。恋愛を遊び道具にする女房たちは気まずくなる。彰子は「相手の心を操作したい時点で、それは恋ではなく支配」と断じる。
恋は、時々、危険物になります。
いえ、恋そのものが悪いわけではありません。誰かを見て胸が高鳴るとか、文が届くたびに袖の中でそっと隠して読み返すとか、相手の足音だけで心が跳ねるとか。そういうものは、まあ、よろしいのです。
前世でもありました。
職場の給湯室で、誰と誰が付き合っているらしいとか、あの人の返信が早いとか遅いとか、既読がどうとか未読がどうとか、実に平和で、実に面倒な話題が。
問題は、その恋を、他人が面白半分に動かそうとした時です。恋を盛り上げる。背中を押す。少しだけ気持ちを近づける。言葉にすると、いかにも優しそうに聞こえます。
けれど、それが本人の意思を飛び越えて、香や薬や噂や罠で心を動かそうとするものなら。それはもう、恋ではありません。ただの操作です。
そして宮中という場所は、雅の顔をした操作が、とてもよく似合う場所でした。
その日、藤壺には妙な香りが漂っていました。
甘い。
ただ甘いだけではなく、どこか舌の奥に絡みつくような、重たい甘さ。梅、沈、丁子、麝香。
香のことは私より澄子や若菜の方が詳しいのですが、それでも分かります。
これは、ただ場を清める香ではありません。人の気分を浮かせるための香です。
「……澄子」
私が名を呼ぶと、几帳のそばに控えていた澄子が、すっと顔を上げました。
「はい。少し、強うございます」
「少し?」
「かなり、でございます」
澄子は静かに言いました。こういう時、澄子は大げさに騒がない。だからこそ、その「かなり」は信用できます。
若菜も、香炉の前で困ったように眉を下げていました。
「いつもの調合ではございません。灰も、香の乗り方が少し……熱を持ちすぎております」
「誰が持ち込んだの?」
私が尋ねると、常盤が待ってましたとばかりに膝を進めました。
「それが、姫様。近頃、女房たちの間で流行っているそうなのです」
「流行?」
「はい。恋を盛り上げる香薬とか。文を送る前に焚けば相手の心が柔らぐとか、衣に移しておけば相手が忘れられなくなるとか」
常盤の目が、好奇心できらきらしている。
だめです。
その目は、噂を拾った時の目ではなく、噂を育てようとしている時の目です。
「常盤」
「はい」
「広げない」
「まだ何も」
「流さない」
「夢にも」
「流さない」
「はい……」
常盤はしゅんとしました。赤染衛門が眉間を押さえました。
「また妙なものが流行ったものですね」
「恋の香薬、ですか」
春枝が紙箱を抱えながら首を傾げます。
「文に香を焚きしめるのは、普通のことでは?」
「普通です」
私はうなずきました。文に香を移す。衣に香を焚きしめる。相手に自分を思い出してもらう。それ自体は、この宮中では礼儀であり、趣味であり、文化です。
香は記憶に残る。
前世でも、ある香水を嗅ぐと昔の人を思い出す、なんて話は珍しくありませんでした。
問題は、その境界です。
「香で自分を思い出してもらうことと、香で相手の判断を曇らせようとすることは違います」
「判断を曇らせる……」
若菜が小さく呟きました。
その時です。御簾の向こうから、くすくすという笑い声が聞こえました。
「まあ、中宮様はお堅いこと」
「少し恋を助けるだけではありませんか」
「殿方も、女も、きっかけがなければ素直になれぬものですし」
入ってきたのは、他御殿から遊びに来ていた女房たちでした。名は控えます。ええ、記録には残しますけれど、ここでは控えます。
彼女たちは袖に香を移し、扇で口元を隠しながら、いかにも雅な顔で笑っていました。
「近頃、ある殿方がたいそう冷たいのですって」
「ですから、その方へ文を送る時に少し香を」
「そうしたら、翌日には返事があったとか」
「まあ、効き目があるのですね」
「効き目」
私はその言葉を繰り返しました。女房たちは楽しげにうなずきます。
「恋には、多少の術も必要でございましょう?」
「そうですわ。何もしないで待っていては、他の女に取られてしまいますもの」
「香ひとつで心が動くなら、それもまた風流では?」
風流。
便利な言葉です。この宮中では、かなりの迷惑行為が「風流」で包めます。
強すぎる香も風流。曖昧な文も風流。相手を試すような贈り物も風流。噂で人を追い込むのも、時には風流めいた顔をします。
でも私は、前世を知っています。同意のない接触。判断力を奪う飲食物。相手の意思を無視した恋愛工作。それが、どれほど危険なものか。
「恋を助ける香薬、ですか」
私は扇を開いたまま、ゆっくりと言いました。
「皆様は、漢の武帝の后であった陳皇后の事件をご存じ?」
女房たちは顔を見合わせました。菅原の君の目が、一瞬で輝きました。
「『長門賦』の御方でございますね! 帝の心変わりを嘆き、愛を取り戻そうと怪しげな術や薬にまで手を出してしまったという……一途で哀しい恋の結末……!」
「哀しい恋」
私は菅原の君を見ました。菅原の君は、はっと口を押さえます。物語係として、彼女はすぐ物語に酔います。けれど、最近は少しずつ学んでいる。物語として美しいことと、現実で許されることは違うと。
「そう。まじないや薬によって、強引に相手の心を操ろうとした事件です」
私は女房たちに向き直りました。
「幼い頃は『黄金の館に住まわせる』とまで誓い合った二人。彼女は帝の心が離れたのを受け入れられず、術や薬を使ってでも心を取り戻そうとし、引き返せなくなる」
「まあ……情熱的ですわね」
他御殿の女房の一人が、うっとりと言いました。
「どんな手を使ってでも、かつての運命の恋を取り戻したかったのでしょう?」
「運命?」
私は微笑みました。赤染衛門が、あ、これはよくない、という顔をしました。私がこの微笑みをした時は、だいたい何かを斬ります。
「本人の判断を薬や術で奪っておいて、運命と呼ぶのですか」
空気が、すっと冷えました。甘い香が漂っているはずなのに、場の温度が下がる。私は続けます。
「陳皇后の物語は、たしかに哀切です。詩人が『長門賦』として語れば、涙を誘うでしょう。過ぎ去った愛、捨てきれぬ執着、孤独な宮殿。聞き手は胸を締めつけられるかもしれません」
菅原の君が小さくうなずきます。
「けれど、現実に置き換えなさい」
私は扇を少し伏せました。
「彼女は、帝が自分の心で選ぶのを待てなかった。薬や術によって判断を変えようとした。その結果、夫婦の関係は完全に壊れ、周囲の何百人もの命が巻き込まれて処刑され、本人も生涯幽閉されて破滅する」
言いながら、私は思いました。物語は怖い。悲劇として語られると、人は原因を忘れてしまう。涙の場面が美しければ、その前に起きた加害を、愛や運命と呼び替えてしまう。
「それは美談ではありません」
私は静かに言いました。
「事件です」
女房たちの笑みが消えました。
「で、ですが、中宮様。そこまで強いものではございませんわ。ただ、少し気分を」
「少しならよい?」
私は問い返しました。
「相手が知らないところで、相手の気分を操作しようとする。少しならよいのですか?」
「操作などと、そのような」
「では、何と呼びますか?」
私は畳みかけません。声は上げません。ただ一つずつ、逃げ道を塞ぎます。
「相手の心をこちらの望む方へ動かしたい。本人に知らせず、香や薬を使いたい。その目的は何ですか」
「それは……恋がうまくいくように」
「相手が、自分の意思では振り向かないかもしれないから?」
「……」
「相手が冷静なら断るかもしれないから?」
「……」
「ならば、それは恋ではなく、支配です」
沈黙。甘ったるい香りの中で、誰も笑わなくなりました。
赤染衛門が、そっと息を吐きました。小少将が衣の袖を直しながら、低い声で言います。
「衣に香を移すこと自体は、昔からございます。けれど、相手を惑わせるためとなれば……見え方が変わりますね」
「見え方ではありません」
澄子が珍しく、はっきりと言いました。
「効き方が変わります」
場の視線が澄子に集まります。澄子は少しだけ目を伏せましたが、言葉を続けました。
「香は、場を整えるために使います。落ち着かせるため、季節を知らせるため、衣や文の印象を残すため。けれど強すぎる香は、人を疲れさせます。頭を重くし、気分を浮かせ、時に具合を悪くさせます」
若菜が頷きました。
「香炉の灰も、強い香を急に焚くと荒れます。人も、同じかもしれません」
若菜らしい言い方でした。灰の静かな女房は、人の心も灰にたとえる。
帝に「灰が静かだな」と評された若菜は、香炉の前で小さく背筋を伸ばしていました。他御殿の女房たちは、ますます気まずそうになります。
「でも……恋のきっかけを作ることまで、いけないのでしょうか」
一人が、か細い声で言いました。
「私たちはただ、友の恋を応援したかっただけで」
「応援は悪くありません」
私は言いました。
「けれど応援とは、本人が望む方向へ力を貸すことです。本人の意思を確認せず、勝手に舞台を作り、勝手に相手を動かすことではありません」
「本人の意思……」
「はい」
私は赤染衛門に視線を向けました。
「衛門。紙を」
「やはり作るのですね」
赤染衛門は諦めた顔で文台を用意しました。春枝が、なぜか少し嬉しそうに紙を選びます。
「これは重い話ですので、少し落ち着いた色の紙がよろしいかと。真白すぎますと、責め立てるように見えます」
「ありがとう、春枝」
「紙箱を一つ増やしても」
「増やしません」
「はい……」
有子が筆を整え、赤染衛門が題を待ちました。私は言いました。
「恋愛介入リスク管理表」
赤染衛門が目を閉じました。
「姫様」
「だめ?」
「だめでございます」
「では、恋の取り持ち心得」
「それなら、まだ雅でございます」
赤染衛門は筆を取り、さらさらと題を書きました。
――恋の取り持ち心得。
私は項目を挙げます。
一、本人の望みを確かめること。
一、相手の判断を奪う香薬・酒・食べ物を用いぬこと。
一、文を勝手に代筆せぬこと。
一、噂で相手を追い込まぬこと。
一、断る余地を残すこと。
一、失敗しても本人を笑いものにせぬこと。
一、恋を遊びの駒にせぬこと。
有子が一字一字、丁寧に控えていきます。常盤が小声で呟きました。
「恋愛介入リスク管理表……強そうですのに」
「常盤」
「流しません」
「夢にも」
「流しません」
よろしい。
他御殿の女房たちは、すっかり居心地悪そうにしています。けれど、私は彼女たちを叩き潰すつもりはありません。逃げ道は残します。
「皆様が、恋を面白がる気持ちは分かります」
私は少し声を和らげました。
「宮中では、恋文一つで一日が動きます。歌一首で噂が生まれ、香一つで記憶が残る。誰かの恋は、退屈な日々の物語にもなるでしょう」
菅原の君が目を逸らしました。あなたもですよ、菅原の君。
「けれど、その物語の中にいる本人は、生身の人です」
私は言いました。
「読む者にとっては悲恋でも、当人にとっては傷です。聞く者にとっては情熱でも、当人にとっては逃げ場のない事故かもしれない」
前世でもそうでした。周囲が盛り上がる恋愛ほど、当人の意思が置き去りにされることがある。
「お似合いだから」
「絶対うまくいくから」
「少し押せば落ちるから」
「嫌よ嫌よも好きのうち」
ああ、思い出すだけで頭が痛い。嫌は嫌です。現代でも平安でも、そこは変えてはいけません。
「恋は、本人が選ぶものです」
私は扇を閉じました。
ぱちり。
「相手の心を操作したい時点で、それは恋ではなく支配です」
誰も、何も言いませんでした。香炉の煙だけが、細く揺れていました。やがて、若菜が静かに香炉の蓋を取りました。
澄子が窓辺の御簾を少し上げ、風の通り道を作ります。甘すぎる香が、少しずつ薄れていきました。
「この香薬は、どういたしましょう」
若菜が尋ねます。
「成分を確認して、危険なものなら廃棄。害がなくても、恋に使うことは禁止します。場を整える香として使えるなら、澄子と若菜の管理下で」
「承知いたしました」
「常盤」
「はい」
「この香薬を誰が売っているか、調べて。ただし」
「広げない。流さない。夢にも流さない」
「よろしい」
常盤は少しだけ嬉しそうに頷きました。調べる仕事は好きなのです、この人は。ただ、口に蓋をする訓練が必要なだけで。
他御殿の女房たちは、深く頭を下げました。
「軽々しく考えておりました」
「友の恋を助けるつもりが、相手の心を軽んじるところでした」
「……香は、返します」
私はうなずきました。
「恋を助けたいなら、香薬ではなく、退き際を教えてあげなさい」
「退き際、でございますか」
「はい。恋で一番大切なのは、押し方ではありません」
私は少しだけ笑いました。
「断られた時に、相手を恨まず、自分を壊さず、周囲を巻き込まずに戻ってくる道です」
赤染衛門が、そこで静かに筆を加えました。
一、恋には戻り道を用意すること。
よい一文です。雅です。現代語で言えば、撤退条件です。恋愛にも撤退条件が必要。
これをそのまま言うと、また赤染衛門に眉をひそめられるので黙っておきます。
菅原の君が、ぽつりと言いました。
「陳皇后には、戻り道がなかったのですね」
「そうね」
私は答えました。
「だから哀しい物語として残った。でも私たちは、目の前の女房を悲劇の登場人物にして遊ぶためにいるのではありません」
紫式部が、几帳の陰で筆を止めていました。いつから聞いていたのでしょう。彼女は低く言います。
「人は、思い通りにならない恋ほど、運命という言葉で縛りたがります」
さすが、言葉が重い。菅原の君が震えました。
「式部様、それ、物語に……」
「しない」
私と紫式部の声が重なりました。菅原の君はしょんぼりしました。でも、目はまだ輝いていました。
その日の夕刻、藤壺から強すぎる甘い香は消えました。代わりに、若菜が整えた淡い梅の香が、ほんの少しだけ漂っていました。
人を惑わせるほどではない。ただ、ここに来た人が、少し息をしやすくなる程度の香。
澄子が灯を調整し、小少将が衣の色を見直し、春枝が心得の控えを薄生成りの紙に写し、有子が文箱へ納める。
常盤は香薬の出所を探りに行きたそうにそわそわしていましたが、赤染衛門に袖を掴まれていました。
「まずは、口を閉じる練習からです」
「衛門様、私は信用が」
「あります。だからこそ危険なのです」
よい教育です。私はその様子を見ながら、心の中で小さく息を吐きました。
宮中は、恋を物語にしたがります。悲恋。忍ぶ恋。許されぬ恋。燃える恋。たしかに美しい。
けれど、美しさのために本人の意思を削ってはいけない。媚薬で始まる恋は、本人の心を置き去りにする。香で残すべきは、支配ではなく記憶。文で届けるべきは、罠ではなく意思。
恋に必要なのは、燃え上がる仕掛けではなく、相手が「はい」と言える自由と、「いいえ」と言える余白です。
その日、藤壺には新しい心得が加わりました。
恋の取り持ち心得。
それは、華やかな恋物語の棚ではなく、誰かが傷つきそうになった時にそっと開く、小さな薬箱のようなものでした。
藤壺の灯は、また少し静かに強くなりました。
〜 出典 〜
『長門賦』陳皇后の巫蠱
孝武皇帝陳皇后時得幸、頗妬。別在長門宮、愁悶悲思。聞蜀郡成都司馬相如天下工為文、奉黄金百斤為相如文君取酒、因于解悲愁之辞。而相如為文以悟主上、陳皇后復得親幸…
(訳)前漢の武帝の陳皇后は、かつて帝から深い寵愛を受けていたが、たいそう嫉妬深かった。そのため遠ざけられて長門宮に住まわされ、思い悩み悲しみに沈んでいた。ある時、蜀郡成都の司馬相如が、天下で最も見事な文章を作ると聞き、黄金百斤を差し出して相如とその妻・卓文君の酒代にしてもらい、それによって自分の悲しみと愁いを解きほぐすための文章(賦)を書いてくれるよう依頼した。相如がその文章を作って主上(武帝)の心を悟らせたところ、陳皇后は再び寵愛を受けることができたという。…
〜 舞台背景 〜
『長門賦』は、前漢の武帝に疎んじられて長門宮に退けられた陳皇后(陳阿嬌)の悲しみと怨恨を、文学者・司馬相如が代作したと伝えられる、古代中国を代表する「賦」の作品である。漢賦のなかでも叙情性が非常に高く、のちの「閨情・宮怨」をテーマにした詩歌や琴曲(『長門怨』など)に多大な影響を与えた。出典:維基百科(中国版wikipedia)




